Tiny garden

変わりゆく夏

 姉が進学の為に上郷を出てから、何度目かの夏が訪れた。
 いつものようにお盆前に帰省した姉は、やはりいつものように年上の恋人を連れていた。

「克明さん、おにぎり握るの上手になりましたね!」
「ありがとう。あかりの教え方がいいからだろうな」
 外から帰ってきた雄輝の耳に、あかりと早良の楽しげな会話が聞こえてきた。
 足音を忍ばせて声のした方へ近づけば、二人は宮下家の台所でおにぎりを作っているところだった。初めて出会った頃の早良は外車を乗り回しスーツを着込んだ都会の男で、自分でおにぎりを握るような人間にはとても見えなかったのだが、姉に感化されたのだろうかと雄輝はこっそり顔を顰めた。
 今年もペルセウス座流星群の季節がやってきて、旅館も書き入れ時を迎えている。二人が作っているおにぎりも今夜の賄いになるもののはずで、本当なら雄輝も手伝わなければいけないはずだった。
 だが、何となく出ていきにくい。
 雄輝は大きな冷蔵庫の陰に隠れ、二人の様子を窺う。
「今年もずっとお天気いいみたいで、よかったですよね」
「ああ。夜になったら俺達も山へ行こう」
「いっぱい見られるといいですね、流れ星」
「そうだな、楽しみだ」
 二人の会話は他愛ないものだったが、なぜか聞いているだけでくすぐったい。いつの間にか姉は恋人を名前で呼ぶようになっていて、中学生の雄輝にもその微細な変化が感じ取れた。
 日の長い夏の夕暮れ時、熟したオレンジのような夕日が台所の小さな窓から差し込んでいる。ステンレスの流し台も古いタイル張りの床も夕日に輝いていて少し眩しい。そんな台所の奥で寄り添う二人の足元からは、同じようにぴったり寄り添う二つの長い影が伸びている。時々顔を見合わせてはくすくす笑っている。幸せそうに、穏やかに、ドラマか何かの恋人達みたいに――。
 雄輝はそんな二人を物陰から覗きつつ、何となく、もやもやしていた。
 率直に言えば、姉が心配だった。
 都会へ行って早速作った恋人が早良であることに不満があるわけではない。雄輝は早良を『珍しく話のわかる大人』だと思っていたし、その印象は自分の訴えを聞き入れてくれたあの日以来、ずっと変わっていなかった。だから姉が早良を好きになった理由は子供なりにわかっているし、あの早良がいつか自分の兄になるのかと思うと誇らしいくらいだった。
 だが姉の方は微妙なところだ。弟である雄輝の知る『宮下あかり』は気が強くおてんばで口うるさい姉だった。旅館経営で多忙な親の代わりを務めようとしていたところもあったのだろう、雄輝の学業の成績から生活態度に至るまで事細かく注意をしてきた。姉の言うことが正しくないとは思っていないが煩わしいと思うこともあったし、せめてもう少し優しい物言いはできないかと思ったことも一度や二度ではない。
 そんな姉が早良の前ではこの通りだ。
「毎年慌ただしくてすみません。もっとのんびりしてってもらいたいんですけど……」
 しおらしく詫びながらおにぎりを握るあかりは、およそ弟には見せないであろう顔をしている。声だって別人のように優しい。
「十分楽しいから気にしなくていい。俺にはこういうのも新鮮だからな」
 早良がかぶりを振ると、あかりは胸を撫で下ろしてみせた。
「よかった。いつも来てもらってるから、克明さんがどう思ってるか気になってて」
 そしてはにかみながら言い添える。
「嫌じゃないなら、来てもらえて嬉しいです……すごく」
 何だ、その台詞。雄輝は心の中でツッコミを入れた。
 姉の恋人に対するしおらしさと言ったら、まさに『借りてきた猫』という表現がふさわしい。いつかぼろが出るぞと思い続けて早三年、意外にも早良はまだ姉の本性を知らないようだった。
 もちろん恋愛沙汰に疎い雄輝であっても、好きな相手に幻滅されまいとふるまう気持ちがわからないわけではない。まして早良はあかりよりも年上の、大人の男だ。雄輝の母をはじめとする上郷の女性陣からは『いい男だ、美男子だ』と口々に誉めそやされているのもあり、姉も同じように思っているならますます嫌われたくない相手だろう。
 だが自分に見せるものとはあまりにも違いすぎる姉の態度に、その猫被りがいつまで持つか、雄輝は気を揉んでいたのだった。
「……何してるの、雄輝」
 あかりが急に低い声で、冷蔵庫の陰に隠れた雄輝を呼んだ。
 雄輝はへらへらしながら顔を出し、
「お邪魔かなと思って引っ込んでた」
 と言うと、たちまち姉から睨まれた。
「馬鹿っ! 生意気言ってないで早く手伝いなさい!」
 夕日に染まり赤い顔をしている姉を、早良は怪訝そうに見つめている。早良にとってはこうして怒っている姉の方が珍しいのかもしれない。
 果たしていつまで猫被りを続けられるのだろう。そう思うとやはり、もやもやするのだった。

「そういうのは、猫を被ってるとは言わないと思う……」
 翌日、山で出会った幼なじみの少女は言った。
「猫被りじゃないなら何だよ」
 訝しく思った雄輝が睨むと、たちまち萎縮して俯いてしまったが。
「えっと……何て言うか」
 八月の真昼の山はそこかしこで蝉が鳴いていた。散歩がてら山に来た雄輝は、同じようにたまたま山を登ろうとしていた彼女と出会い、何となく一緒に歩き始めた。木陰に入ると適度に風が吹き、真夏でも涼しくて心地よかった。
 上郷の子供達は人数が少ない分だけ結束が固く、雄輝も小学生の頃は歳の近い子供達と集まり大勢で遊んでいたものだった。
 だが中学に上がるとその大集団も自然とばらけ、進学の為に村を離れる子などもいて、以前のように大人数で集まる機会はせいぜい祭りの時くらいだ。この時期になると髪を切るのにも町まで出かけたり、お金を貯めて服を買いに遠出をする者が現れ始める。
 雄輝は幼なじみ達のそういう変化にまだ戸惑うばかりで、同じように色気づくまでには至らず、中学生になった今も山遊びが好きだった。だが誰を誘うこともなくなり、今ではこうしてたった一人、同い年の少女がついてくるだけだった。
 だから自然と、もやもやを吐き出す相手も彼女一人になってしまう。
「俺は何か、姉ちゃんがしおらしくしてるようにしか見えなくてさ」
 幼なじみの少女が黙ってしまったので、雄輝は話を続けた。
「姉ちゃんが好きでやってんならいいんだけど、無理した挙句振られたらかわいそうじゃん」
 話しながら、拾った木の枝でぼうぼうの草むらをかき分けて進む。時々後ろを振り返ると、華奢な少女は覚束ない足取りでついてくる。距離が開くと慌てて駆けてくるので、見ていても危なっかしい。
「だから姉ちゃんと早良さん見てると何か、もやもやするっつうかさ」
「そっか……」
 少し走った後だからか、相槌を打つ声が吐息まじりに聞こえた。
「あかりお姉ちゃんは、雄輝くんが言うほど怖い人じゃないと思うな」
「はあ? うちの姉ちゃん普通に怖いだろ」
「私には優しいよ。いつも雄輝くんのこと頼んでくるし、『よろしくね』って」
 何だそりゃ、と雄輝は思う。たまにしか帰ってこないくせに、ご近所にはちゃっかり挨拶回りなんてしているのが何とも解せない。
「だから、早良さんに対しても猫を被ってるのとは違うんじゃないかな」
「何がどう違うんだよ」
「えっと、上手く言えないんだけど……」
 少女は細い手で額の汗を拭った。それから語を継いだ。
「好きな人がいたら、その人に追いつきたい、釣り合う自分になりたいって思うんじゃないかな」
 雄輝が立ち止ると、彼女も五歩ほど遅れて足を止めた。
「その人の為に変わりたい、置いてかれないように頑張りたいって……」
 大した距離を歩いていないのに、少女は肩で息をしていた。昔より少しだけ大人びた顔に汗が伝い、真っ赤に上気していた。
「そういうのは猫を被ってるって言わない、変わりたくて変わっただけだよ」
 雄輝はその言葉に、思いのほか愕然とした。
 これまでは考えつきもしなかった。姉は恋人の前で猫を被っているのではなく、彼の為に変わったのだということを。だが言われてみれば、姉は変わった。いつからか化粧をするようになり、まとう雰囲気も穏やかになった。顔を合わせる度に幸せそうにしていた。そして早良が傍にいる時、いつも彼に温かく慈しむ眼差しを送るようになっていた。
 そういう変化は確かに、猫を被っているとは言わないのかもしれなかった。
 今の姉に、まだ子供の弟からの心配なんて、必要ないのかもしれなかった。
「だから……雄輝くんが心配しなくても、大丈夫じゃないかな」
 少女はぼんやりする雄輝に言葉をかけた。
 それで雄輝は我に返り、目の前の少女が息を弾ませているのに気づいてふと思う。
 どうしてこいつは、俺の後をこんなにも必死になってついてくるんだろう。昔から足が遅くて皆からも遅れがちで、一番後ろからあたふたついてくるような奴だったけど――。
「そうかもな」
 雄輝は頷くと、ずっと握っていた木の枝を山林の向こうへ放り投げた。
 そして手のひらをTシャツで一度拭った後、
「そんな急がなくていいから、ゆっくり行こうぜ。夏休みだし」
 少女に向かって、拭いたばかりの手を差し出した。
 真っ赤な顔の少女は目を白黒させた後、ぎこちなく頷いた。
「う、うん」
 手がしっかりと繋がれる。
 八月の山は涼しい風が吹いていて、頭上で蝉が鳴いていた。

 山歩きを終えた雄輝が家へ戻ると、今日は台所に早良しかいなかった。
「早良さん、姉ちゃんは?」
 声をかけると、一人おにぎりを握っていた早良は振り向いて答える。
「駅までお客様を迎えに。初めての方で案内が欲しいとのことだった」
「はあ……そんで、早良さんが留守番?」
 事情はわかるが、今のところは早良だって一応客だ。留守番をさせた挙句、賄いまで作らせているというのはどうなのか。
 もっとも雄輝も遊びに出かけていた身、姉に言えば『それならもっと早く帰ってきて手伝いなさい』と返されるに決まっている。なので黙っておくことにした。
「俺も手伝うよ」
 雄輝は洗面所でしっかり手を洗った後、台所に舞い戻った。
 すると早良は、きれいな三角に握られたおにぎりが並ぶ皿を指差し、
「じゃあ君は海苔を巻いてくれないか」
「了解。つか早良さん、おにぎり作んのめっちゃ上手くなってんね」
「ありがとう。俺もなかなかの出来だと思っている」
「でも手伝わして悪いね。俺ももっと早く帰ってくりゃよかった」
 雄輝が言うと、早良は優しく微笑んだ。
「俺も繁忙期にお邪魔してるんだから、このくらいはしないとな」
 夕日差し込む台所で、その顔はいつになく柔らかく見えた。初めて話をした時、仕立てのいいスーツに身を固めた早良には理知的かつ冷静な印象があり、それゆえにどこか作り物めいた完璧さにも映ったのだが、今の早良は普段着ということもあってか、肩の力が抜けてより親しみやすい存在に思えた。
 それで雄輝は山で聞いた、幼なじみの少女の言葉を思い出す――そういうのは猫を被ってるって言わない、変わりたくて変わっただけだよ。
「早良さんってさあ……」
 おにぎりに海苔を巻きながら話を振ってみた。
「自分が変わった、って思う?」
 口にしてしまってから、随分漠然とした問いかけだと自分で思う。
 だが聡明な早良は雄輝の言わんとするところを察したようだ。しばらくしてから答えてくれた。
「思う。昔の俺が今の俺を見たら、きっと驚くくらいに」
「そっか。それってやっぱ、姉ちゃんがいるから?」
「……ああ」
 照れながら、それでもしっかりと顎を引いてみせる。
 雄輝には早良のどこが変わったのか、わかるようでわからなかった。雰囲気や笑い方、話し方は確かに変わったと思う。だがもっと何かが変わったような気もするし、それが何かを上手く言い当てられないのがもどかしい。知っているのは姉だけなのかもしれなかった。
 ただ、昔の早良がこんなふうにおにぎりを握っていたら、雄輝だって驚いたことだろう。
「あのさ」
 胸のもやもやが少し晴れた気がして、明るい気分で雄輝は言った。
「うちの姉ちゃんも結構変わったと思う。だから姉ちゃんのこと、よろしく」
 前にも似たようなことを言った覚えがある。あの時、早良は何と答えただろうか。
 今の早良は穏やかに笑んで、でも真剣な声で、
「任せてくれ。必ず幸せにする」
 と答えた。
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