Tiny garden

星の嫁入り

 その日はあいにくの雨だった。
 静かな部屋は、さあさあと鳴る水音に満たされている。室内の空気もやや湿っぽい。午前十時を過ぎても空は薄暗く、室内には照明が欠かせなかった。
 蛍光灯の明かりの下、早良は落胆に肩を落とす。
 ベランダから覗く雨の景色が憂鬱だった。時の流れすら水分を吸い、しっとりと重くなっているようだ。悪天候の午後、眠気にも似た気だるさだけが部屋に漂っている。
「何を見てるんですか?」
 背後で、あかりの声がした。
 早良が振り向くよりも先に、彼女は早良の隣、ベランダの傍までやってきた。肩を並べるようにしてガラス戸の前に立つ。ほとんど距離を置かずに隣に立たれ、早良は何とはなしの面映さを覚えた。
 あかりがほんの少し笑んで、こちらを見上げてくる。
「今日はずっと雨みたいですね」
 その物言いは不思議とうれしそうでもあった。早良は怪訝な思いで妻を注視し、それから応じた。
「空の色を見るに、しばらく止みそうにはないな。せっかくの日曜なのに」
「のんびりするにはいいですよ、きっと」
「君はそれでいいのか」
 取り成すように言われ、思わず問いを返したくなる。
 早良は雨の日が好きではなかった。道が混むから外出するのが億劫だ。かと言って、歩いて出かける気にもなれない。人混みも好きではないし、雨の降り頻る中であかりを連れ歩いて、彼女に寒い思いをさせるのは論外だった。
 しかし、自ら口にしたように、今日はせっかくの日曜日だ。それもただの日曜日ではない。二人が夫婦として迎える、初めての『何の予定もない』日曜日だった。
 八月、流星群の頃に結婚式を挙げた二人は、しばらくの間お互いに多忙な日々を過ごしていた。早良はもちろん、あかりも既に仕事を持っていて、満足な休日を取れないことも多々あった。開いた休日には互いの両親を招いたり、友人の訪問を受けたりもして、なかなか二人きりの時間を取れずにいた。そしてその当の友人、志筑史子が言ったのだ。――早良くん、結婚したからってデートに手を抜くようじゃ駄目よ。今まで以上にあかりさんを大切にしてあげないと。
 早良もそこまで案じられるほど晩熟ではない。既に三十の齢を数え、あかりと出会った頃の不器用さ、至らなさは克服した気分でいる。あくまで自己評価では、だが。
 ともあれ無事結婚したからと言って手を抜くつもりも、気を抜くつもりだって当然なかった。史子に言われるまでもなく、妻となったあかりを大切にしていこうと改めて思っている。
 そうして迎えた九月の半ば。結婚後初めての、お互いに予定もない休日がやってきた。早良は張り切っていたし、にもかかわらずの悪天候に落胆もしていた。
 一方のあかりは、雨だからと言って残念がるそぶりもなかった。
「今日は特に、出かけたいところもないですから。私は構いません」
 にっこり笑顔で告げられて、早良は戸惑う。せっかくの休日を漫然と過ごすだけでいいのだろうか。
「克明さんは行きたいところでもありましたか?」
「俺も特には。ただ、君を家に閉じ込めておくのも悪いかと思って」
「気にしないでください。そんな風には思いませんから」
 彼女が、今度は声を立てて笑う。朗らかな表情が見上げてくる。
「それに、克明さんには少しのんびりする時間が必要です。いつも頑張り過ぎなくらい、お仕事を頑張っているんですから」
 そういう言い方も面映い。彼女の形容ではまるで早良が努力家か何かのように聞こえるが、実際のところはそんなに立派なものでもなかった。のんびりするのに未だ慣れていない。
「君が退屈じゃないか?」
 未練がましく尋ねても、あかりはあっさりと首を横に振る。
「退屈じゃないですよ」
「……それなら」
 ためらう間を置き、遂には早良も諦めた。その意思表示を受け取って、あかりの方は迅速に次の行動へと移った。
「じゃあ決まりですね。私、お茶を入れてきます」
「いや、別に気を遣わなくても――」
「克明さんは何がいいですか?」
「――煎茶がいい」
 半ば彼女の勢いに乗せられるように答える。それで彼女もわかりましたと頷き、風のようなスピードでキッチンへと向かう。
 後ろ姿を見送ろうとして視線を転じた早良は、途端、蛍光灯の眩しさに目を細めた。外が雨だろうと薄暗かろうと、この部屋の中は明るい。慣れない目には眩過ぎるくらいだった。

 二人での生活にすら、未だ慣れたとは言いがたい。
 実家にいた頃の早良は、自宅を主に、就寝の場所としてしか捉えていなかった。食事は外で済ませることが多く、両親との会話も少なかった。仕事が終わって家路に着く時、浮かべるのは安堵よりも物憂さだった。帰宅してもいいことなど一つもなかった。そのくらいならまだ、仕事をしている方が余程気楽だった。他の趣味は体面の辻褄合わせ程度としてのみ存在していて、実質は仕事が何よりの生き甲斐だった。
 あかりはそんな早良を『頑張っている』と評したが、決してそうではなかった。今まで他に打ち込むことがなかっただけだ。現に彼女と出会ってからの六年間で、仕事への意識は大分変わった。他にすることがないから働くのではなく、彼女の為に働こうと思うようになった。二人での生活を維持する為に、あるいは彼女と過ごす余暇を作り出す為に――そういう自分が彼女の言うような立派な人間であるはずもない。今だって仕事が大部分を占める生活をしているのは変わりないのだから。
 だからこそ、彼女のいる日々の貴さがわかるようになった、とも言える。

 お茶が入り、リビングの床の上に二人、並んで座る。
 早良もあかりも湯飲みを持つ時の姿勢は行儀よく、それがまた不慣れな、いかにも新婚夫婦らしいぎこちなさだと早良自身が思ってしまう。あかりとはもう六年の付き合いになるのに、彼女との暮らしにぎこちなさを覚えるのも奇妙な話だ。恋人同士としても決して器用ではなかった二人だが、夫婦となってもそういう関係が劇的に改善される訳ではなかった。
 二人の暮らす部屋もまだまっさらなままだった。結婚直前に買い揃えた家具は、ついこの間までビニールが掛けられていたことを誇らしげに主張している。ぴかぴかの家具に囲まれた部屋は、それでもどことなく殺風景に映った。生活感が滲み出るにはいましばらくの時間が必要なようだ。
 そこへ温かいお茶が入ると、何ともほっとする。慣れない生活をどうにか滑らかに動かしているのは、他でもないあかりの気配りだと早良は思う。
「静かですね」
 伏し目がちのあかりは、雨音に耳を傾けているようだった。テレビもオーディオも点けていない部屋は、二人が揃って黙るとたちまち無音になる。外で降る雨の音だけがさあさあと聞こえてくる。ベランダのガラス戸を隔てて、この部屋の中は静かだ。
 そして陽の射さない雨天でも、この部屋は明るい。
 白っぽい光の下では彼女の肌も白く、透けるように映る。前髪の影が落ちた横顔と、鼻先から顎、そして首筋から鎖骨へと連なる稜線とを、彼女に気づかれぬようにそっと眺めている。出会った頃のあどけなさはもうどこにもなく、ただ無防備さだけを残したままの彼女。そういう隙さえあかりの意図する気配りであるようにも思えて、早良は内心どぎまぎしていた。あかりがそこまで計算ずくで出来るような女ではないことも、六年の付き合いで大体わかっているのだが。
「克明さんは退屈じゃないですか?」
 ふと、彼女が面を上げ、そんなことを尋ねてきた。
 我に返った早良は大急ぎでかぶりを振る。
「まさか。君といるのに退屈だと思うはずがない」
 正確には、退屈だと思えるほどの余裕がまだない。六年の年月を経てもその点だけはいかんともしがたい。この先何年一緒にいようが、生涯彼女にはどぎまぎさせられていそうな気がする。
「ただ、君を退屈させるようではいけないとも思う」
「私も退屈じゃないです、克明さんと一緒なら」
 ――思った端から、また心臓が跳ねた。
「……でも、ここのところ君をどこかへ連れて行くということもなかったし、君を疎かにしているようで申し訳ないんだ。何かもう少し、夫らしいことをしなければと思うと、出不精なのもよくないじゃないだろうか。もちろん天気の悪い日に無理をする必要はないが」
 うろたえると口数が多くなるのが早良の癖だ。
 まくしたてるように告げれば、こちらを見上げる顔が瞬きをする。ぱちぱちと数回繰り返した後で、ようやく理解したようにはにかむ。
「こういう時間も立派なデートですよ、克明さん」
 今度は、早良が目を瞬かせる番だった。あかりがくすぐったそうに首を竦め、続ける。
「二人でのんびり、お茶を飲むデートです。そういう解釈じゃ駄目でしょうか」
 駄目なはずがない。結婚前からそういうデートを繰り返してきた二人だ。どんな些細な逢瀬でも否定したくはなかった。大切にしてきた。お互いに不慣れで不器用だったからこそ、ほんの僅かな時間でも生真面目に積み重ねて、一つ残らず繋ぎ合わせて、今日まで共にいられた。結婚したからと言って、恋人ではなく夫婦になったからと言って、何かが劇的に変わる訳でもなかった。
 それでも早良は、確認せずにはいられない。
「あんまり安上がりと言うか、手抜きじゃないだろうか。君は本当にそれでいいのか」
 妻がどう答えるかは知っているくせに、尋ねた。
 返ってきたのは予想通りの頷きだ。
「はい」
「……君は俺に、気を遣っていたりはしないか」
「克明さんの方こそ、私には気を遣わないでください」
 あかりは軽く笑んで続ける。
「お休みの日にはゆっくり休んで欲しいんです。もし、どこかへ出かけた方が疲れが取れると言うのなら、そうしてください。出かけたい訳ではないのなら、無理せずのんびりしていてください。私は克明さんが元気でいてくれるのが、一番幸せです」
 彼女の口にする幸せは、何とも健気で可愛らしい。もっと多くを望んでくれてもいいのにと思う。しかし彼女らしいと言えば、非常にらしくもあった。
 結局、早良は白旗を揚げた。
「君がそう言うなら、今日はのんびりすることにしよう」
「はい。是非、そうしてください」
 うれしそうな声を立てるあかりに、早良はこっそりと思う。――彼女にはきっと生涯敵わない。笑い声一つでもどぎまぎするくらいだから。

 ただ、これだけは思う。
 史子がくれた助言も決して無意味ではない。むしろこういう時間にこそ肝要なのかもしれない。今が二人にとってデートの時間だとするなら、早良は手を抜く訳にも、気を抜く訳にもいかないだろう。
 湯飲みをテーブルに置き、空いた手をあかりの肩に伸ばしたのはそういう理由からだった。彼女がびくりとするのが手のひらに伝わってきた直後、ぎこちなく目が合う。
 こういう時に何か一言掛けるべきなのかもしれないが、あいにくと気の利いた言葉までは浮かばないのが早良の限界だった。むしろ、狼狽が表に出ないようふるまうだけで精一杯だった。六年の歳月を掛けても身につけたのはこのくらいだ、史子に案じられるのも仕方ない。
 むしろ成長したのは、あかりの方なのかもしれない。肩を抱かれて気恥ずかしげな微笑を浮かべた後、自らも湯飲みをテーブルに置いた。早良が軽い力で抱き寄せると、彼女はさしたる抵抗もなく寄りかかってくる。肩に頭を預けてくる。
 それから、ちらと視線を向けられた。上目遣いの眼差しは、六年で身につけた彼女なりの、ささやかではあるが意図的な気配りらしい。もうとっくに少女ではないあかりの精一杯はいとおしくもあるし、悩ましくもある。目が眩んで、早良は次の行動に迷う。
 やがてぽつりと言った。
「……静かだな」
 肩の上、彼女が笑うのがわかった。
「そうですね」
 外では雨が降り続いている。さあさあという水音が響き、空はまだ雲が立ち込めていて薄暗い。それでもこの部屋の中には、冴え冴えとした眩しい光が満ちていた。
 まるで星が落ちてきたようだと、早良は思う。
▲top