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嘘でもいいから(4)

 ゆっくりと階段を上っているのが、海波のような軽い揺れでわかった。
 せっかく寝入っているから起こすまいと思っているのか、クラリッサを運ぶ彼の足取りは慎重で、足音すら立てない。靴が古い木の板を踏む軋んだ音と、特に乱れてもいない呼吸だけが聞こえてくる。
 目を閉じているのではっきりとはわからないものの、どうやらクラリッサは両腕で抱き上げられているようだった。右腕で背を、左腕で膝の後ろを支えるように抱えられていた。ほろ酔いの火照りが残る頬には彼が着ているシャツのさらりとした感触があり、その布地越しに思ったよりも硬い胸板とぬるま湯のような体温が感じ取れた。
 クラリッサはもう目を開けたくなかった。このままどこまでも運ばれていたかった。このまま、抱えられていたかった。テーブルに突っ伏した時以上に心地よく、いい気分なのは、酔いのせいばかりではないだろう。人肌の温かさにいつまでも触れていたかった。
「……温かい」
 呟いた声はほとんど吐息だけだった。
 それでもバートラムには聞こえたようだ。頭上から声がした。
「クラリッサ、起きたのか?」
 起きているのかいないのか、自分でもわからない。
 クラリッサが黙っていると微かな笑い声が零れた。
「もうすぐ部屋に着く。あと少しだ」
 彼がそう言った直後、階段を全て上り終えたようだ。揺れが止まり、クラリッサは尚もどこかへ運ばれていく。バートラムは身を屈めてドアを開け、真っ暗な部屋にクラリッサとランタンの明かりを連れ込んだ。
 壊れ物を扱うように優しく、寝台の上に下ろされたのがわかった。
 クラリッサはようやく目を開き、まだ傍にいて、自分の顔をじっくりと眺めているバートラムを見つけた。ランタンから溢れる橙黄色の光が低い天井や壁を明々と照らしていたが、その光を背負うバートラムの顔には静かな影が差していた。表情は慈しむように柔らかい。
 彼の顔立ちは端整だ。しかし八年も見てきた今となっては、美しさに見とれるよりも見慣れた顔にほっとするような、安堵感めいた印象を持っていた。
「ほら、着いた」
 彼はクラリッサの背を手で支えたまま、もう片方の手で熱を持った頬を撫でてきた。
「起こしてしまって悪かったな。さあ、おやすみ」
 それから立ち去ろうとしたのだろう。手を離そうとしたのがわかったから、クラリッサは思わず頬に添えられた彼の手を掴んだ。
 縋りつくように握ると、バートラムは驚いた様子で笑みを消した。
「どうした? 怖い夢でも見たのかな」
 そうではなかった。夢を見るほど長くは眠っていないはずだ。
 むしろ今こそが夢の中であるような気分だった。素直な欲求が頭をもたげて、もっと心地よくなりたいと望んでいた。
 クラリッサは小さくかぶりを振り、口を開く。
「もう少しだけ……」
 声がかすれて囁きのような言葉になった。
「ここに、傍にいてください」
 それでも必死になって訴えると、バートラムはあくまでも優しく微笑んだ。
「君が望むなら。寝つくまで傍にいよう」
 しかしクラリッサはもう一度首を振って、
「いいえ、さっきみたいに」
 告げながら、子供みたいだと自分で思った。言葉足らずな物言いも、わがままなそぶりも、そうして彼に求めていることも全部、子供のすることみたいだ。
 こちらを見る彼の瞳がすうっと眇められる。確かめるように尋ね返してきた。
「……どうして欲しい?」
「もっと近くに来て欲しいんです」
 クラリッサはそうとしか言わなかった。
 だが彼はそれで全てを理解したようだ。寝台に膝をつくとクラリッサの上体を少しだけ起こし、そのまま両腕で包むようにして抱き締めてくれた。
 よくわからない、とクラリッサは抱き締められながら思う。
 なぜこんなにも心が落ち着くのだろう。
 いつまでも離れないで、離さないで欲しいと思っているのだろう。
 彼の体温は、飲酒をしたクラリッサの体温よりもいくらか低いはずだった。しかし着衣越しにも彼の温かさがわかり、クラリッサは急速に心が満たされていくように感じていた。
 恐らく自分はずっとこうしたかったのだ――ずっと前から。もしかするとこの世に生を受けた、その瞬間から。
「迎えに来てくれるのを、待っていたこともあったのです」
 かすれた声でクラリッサは言った。
「誰を?」
 抱き締めたままの姿勢で、耳元に唇を近づけ、バートラムが聞き返す。
 息がかかるくすぐったさに笑いながら答えた。
「わたくしに名前をつけてくれた人たちを、です」
 クラリッサはそれを、自らの両親だと思っていた。
 彼らがどんな事情で自分を捨てていったのかはわからない。だが名前をつけ、産着に縫いつけておいてくれたことを愛情の表れだと考えていた。そしていつか両親が名前を呼びながら、置いていってすまなかった、これからは家族で一緒に暮らそうと抱き締めながら言ってくれるのではないかと思っていた。いつか必ず迎えに来てくれると心から信じていた。
 だがそんな希望を支えるのに、名前をつけてくれたというだけの縁はあまりにも儚く、脆いものだった。
 陰鬱な少女時代が十六年目を迎えた頃にはクラリッサも悟っていた。彼らが迎えに来ることは決してない。自分は要らない子供だったのだ。抱き締めてもらうことはおろか名前を呼んで笑いかけてくれることもなく、それどころか彼らが生きているかどうかすら怪しい。恐らくはもう会うこともないのだろう。
「結局一度も会えはしませんでしたし、迎えに来てくれることもありませんでしたけど」
 今となっては誰が自分の名前をつけたのかさえわからない。産着が自分の為に誂えられたものかどうかさえ怪しい。それでもクラリッサはこの名と共に人生を歩んできた。
「いつかはこうして抱き締めてくれるのではないかと……小さな頃は思っておりました」
 希望は潰え、絶望を当たり前のように背負い込み、クラリッサは生きてきた。
 そこに新しい希望をくれたのが、今、こうして抱き締めてくれている人だ。
 あのじめじめとした薄暗い場所から救い上げ、結果として平穏で幸せな日々をくれた。今日まで何度も助けてくれた。恩知らずな自分を見捨てることなく、温かく見守ってくれた。
「あなたが、代わりに来てくれた。わたくしを迎えに来てくれました」
 彼の胸に頬を押しつける。そうすることがなぜか、不思議なくらいに心地よかった。
「そしていつも名前を呼んでくれて、笑いかけてくれて、抱き締めてくれて……それが今はとても嬉しいのです」
 嬉しい。口に出してみるとこれほどしっくりと馴染む気持ちは他になかった。酔いが回った頭に染み通るようだった。
 自分が欲しかったものは何か、やっとわかったように思えた。
 ねだるように手を伸ばし、彼の胸に押し当てる。熱い手のひらが鼓動を捉えて同じように脈打ち、震えた。
 この人は生きている。すぐ傍にいる。実感する為に触れていたかった。
「……クラリッサ」
 バートラムが名前を呼び、わずかにだけ身を引いて顔を覗き込んできた。青い瞳は鋭い光を湛え、何かの感情をその奥底に潜ませている。口元にはとろけるような笑みを浮かべていた。
「まだ顔が赤い。酔いが醒めてないのだろう」
 言われてクラリッサも微笑んだ。夢を見ているような覚束ない気分だったが、幸せなことだけは間違いなかった。
「いつもこうだと、先程も申し上げました」
「目も赤いよ。酒を飲んだからだ」
「それはわたくしには見えません。そんなに赤いでしょうか」
「ああ。まるで泣いた後みたいに見える」
 すっと、彼の顔が近づいてきた。ほんの少し首を動かすだけで唇が触れそうなほど近い。
 これだけの距離から見ると、彼の端整な顔立ちにもいくらかの変化が窺えた。彼の頬も少しばかり赤らんでいるように見えたし、瞳は水面のように微かに揺れている。微笑む唇の奥で何かを呑み込んだのか、尖った喉仏が緩やかに上下した。
「あなたはお酒を飲んでいないのに、お顔が赤くなっていますね」
 クラリッサが尋ねると、バートラムは面映さを隠すように笑った。
「仕方がないだろう。こういう状況で、感情をひとかけらも面に出さないようにするのは至難の業だ」
 それから顔を見せまいとするようにクラリッサの頭を胸へ抱き込んだ。クラリッサも特に抗わず、彼に身体ごと預けてしまった。
「君が求めるならいつでも抱き締めてあげよう」
 耳元でバートラムが囁く。
「それが私の喜びでもある」
 吐息混じりの言葉が胸を打ち、クラリッサは思わず目を閉じた。
 お互いにそれを嬉しく思うのなら、他に理由は要らないだろう。好きなだけ抱き合えばいい。つまらない意地を張る必要もこれからはない。望む通りに振る舞うだけで、ずっと欲しかった物が手に入るのだ。
 満ち足りた気分に浸りながら、彼の胸に寄りかかり心地よさを噛み締めながら、クラリッサはずっと目を閉じていた。

 その目が再び開かれた時、部屋には明るい光に満ちていた。
 ランタンの灯とは違う朝の光が差し込み、部屋中を眩く照らしている。クラリッサは目を細めながら天井を見上げて、ふと息をつく。長い夢を見ていたような気分だった。
 昨夜は一体いつ眠ってしまったのだろう。まだとろとろと微睡みながら記憶を手繰り寄せようとした時だ。
「――目が覚めたかな」
 早朝の寝室にそぐわない、重々しい声がした。
 まだ寝惚けているクラリッサは何気なく声のした方を向き、直後、はっと凍りついた。
 すぐ隣にバートラムがいた。片肘をついて横たわる彼はいつものように微笑んでいたが、明らかに寝不足の顔をしていた。
 驚いたのは彼が、狭い寝台を分け合うようにしてクラリッサに寄り添い、横になっていたことだ。一気に眠気が吹き飛んで、クラリッサは声を上げかけた。
「どっ、どうしてあなたがここに――」
「しいっ」
 バートラムは人差し指をクラリッサの唇に置き、叫ぶのを止めさせた。
 そして悟ったような笑い顔を見せた。
「先に弁明しておこうか。君が離してくれなかったんだ」
 言われてみればクラリッサは片手でしかと何かを掴んでおり、手の先へ視線を辿ると確かに、バートラムのシャツを握り締めているところだった。慌てて離したものの、もう何もかもが遅すぎた。
「あ、あの、ごめんなさい。もしかしてずっと……?」
 クラリッサの問いに彼は深く頷く。
「ああ、ずっとだ。一晩中、君の隣で君の寝顔を眺めていた」
「何てこと! 申し訳ございません。いっそ叩き起こしてくださってもよかったのに」
「君が気持ちよさそうに寝ていたからな、起こせなかった」
 彼はあまり寝ていないのだろう。乾いた目を瞬かせながら続けた。
「しかし君に添い寝をするという得がたい経験ができたことには感謝しているよ」
「そんな、本当に、眠るわたくしの傍に?」
 予想外の目覚めを迎えてクラリッサは狼狽した。
 だがそこへ昨晩の記憶が次第に蘇ってきて、更なる混乱をきたした。つまり、酔いに任せて余計なことを言ってしまったり、行儀悪く振る舞ったり、彼に甘えてしまったりといった一連の行動をだ。彼に縋りつくようにして眠ってしまったのもそういう経緯があってのことだったと思い出した時、クラリッサは顔から火が出るかと思うほどだった。
「あ……ええと、ど、どうしたらいいのか……」
 思わず目の前のバートラムから視線を逸らす。酔いが醒めてしまえばこの状況がいかに異常かわかる。未婚の婦人が男性と同じ寝台で眠るなどあってはならないことであり、生真面目なクラリッサは動揺のあまり口をぱくぱくさせたまま言葉も継げない有様だった。
 一方、眠そうな顔のバートラムはそれでも落ち着き払っており、クラリッサを宥めるように抱き寄せた。
「慌てることはない。私は無防備な君の前でも紳士的に振る舞ったし、眠る君はとても美しかった」
 自然と抱きすくめられてしまったクラリッサだったが、なまじ昨夜の記憶が残っているだけに、それはかえって平常心を失う結果となった。彼の胸で心地よい安らぎを覚えていた数時間前が嘘のように、かっと頭に熱が上り、呼吸は乱れ、心臓が早鐘を打つ。
「あ、あの、離してください。わたくしはもう駄目です。恥ずかしさで失神しそうです」
「もう少しだけ」
 昨夜のクラリッサと同じ台詞で、バートラムは微笑みせがむ。
「私は一晩中、君からの誘惑に耐えたのだ。このくらいのご褒美はいただかなくては」
「わたくしは誘惑なんてしておりません!」
「己を省みたまえ。私は昨夜、紳士であることを何度止めようと思ったかわからないよ」
 悩ましげに言ったバートラムは、クラリッサの赤らんだ頬に軽く口づけた。
 たちまちびくりとするクラリッサの背や髪を撫でながら続ける。
「まして素直な君にあんなことを言われてはな。君も何を言ったか、よもや忘れたとは言わないだろう?」
 もちろん覚えていた。だからこそいたたまれない気分になっているのだし、彼の腕の中で湯気が出そうなほど赤面してもいる。
「お願いです。どうぞ昨夜のことはお忘れになってください」
「できない相談だ」
「ではせめて今だけでも。そうでなければわたくしは、今日一日をどう過ごしていいのか……」
 懇願するクラリッサを、バートラムは楽しむような笑みを浮かべて見つめている。
「今日一日、お互いに昨夜のことを振り返りながら過ごすというのも悪くはない」
「そんな……し、仕事が手につかなくなってしまいます!」
「生真面目な君なら大丈夫だろう。片時も忘れず私のことを考えてくれ」
 そう言うとバートラムはもう一度クラリッサの頬にキスをして、それからようやく離してくれた。すぐに寝台からも下り、立ち上がって大きく伸びをする。
「私も今日は君の寝顔ばかり思い浮かべながら過ごすとしようかな。あるいは昨夜の君の言葉を反芻しているのも楽しそうだ。素晴らしい夜のおかげで選り取り見取りだよ」
「バートラムさん……!」
 クラリッサも身を起こし、今更のように毛布で身体を覆った。別に服がはだけていたということも、酷く寝乱れていたということもなかったのだが、非常に無防備な姿を彼の前に曝け出してしまったようで気恥ずかしかった。
 とは言え今になって隠したところでどうにもならず、逆にバートラムから熱のこもった眼差しを向けられた。彼は満足げに、それでいて堪能するようにクラリッサを眺めた後、息をつきながら言った。
「あのまま君が眠ってしまわなければ、私も君に本心をぶつけていたところだったのだが」
「な、何をです?」
「言葉だけでは言い表せないことだ。だからまた時間のある時にしよう」
 バートラムは寝台から数歩離れて、閉じていた部屋のドアの前で一度足を止めた。外の気配を窺ってから振り返り、声を落として言った。
「私はいつでも君の傍にいる。クラリッサ、君から離れないし離しもしない」
 眠気を感じさせないほど甘く、柔らかく微笑む顔に、クラリッサは一瞬目を奪われた。
「抱き締めて欲しくなったらいつでも言うといい」
 続いたその言葉にはすぐさま我に返り、もじもじと恥じらう羽目になったが。
「あっ……お、お願いですから。それは忘れてしまってください……」
「駄目だ。君には私が必要なのだろう?」
 彼は何もかも見通したように言い切ると、大きくドアを開けた。
「では、また後で。昨夜はありがとう、クラリッサ」
 最後に感謝の言葉を残し、彼は部屋を出て行った。
 音もなく閉じたドアを呆然と見つめながら、クラリッサは改めて毛布を抱き締めた。胸の奥が締めつけられるような感覚が走り、とっさに何か縋るものを求めていた。
 忘れて欲しいなどと、本心から思って言ったわけではない。
 だが昨夜の言葉は全て心底からのものだった。嘘ではなく、普段なら口にもできないような本心を、あるいは生真面目さが邪魔をして考えもつかなかった欲求を、ほんの数滴の酒に呆気なく引き出されてしまった。それが正しいことだったのかはわからない。もしかしたらそうたやすく口にすべきことではなかったのかもしれない。
 それでも、彼はとても嬉しそうにしていた。
「……素晴らしい夜、だなんて」
 一人になったクラリッサは彼の言葉を思い出して呟き、その後すぐに抱き締めた毛布に顔を埋めた。
 酒を口にした翌日だというのに、今朝は随分頭がはっきりしている。耳が燃え尽きそうなほど熱い。気分は不思議と悪くない。ただし息もできないほどの気恥ずかしさに苛まれていて、クラリッサはしばらく毛布に埋もれていた。
 かつてのあの朝とは違った。何もかもが変わっていた。
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