menu

嘘でもいいから(3)

 その晩、クラリッサは腕によりをかけて鱒を料理し、食卓に並べた。
 メイベルは鱒料理に舌鼓を打ち、大層満足した様子だった。
「杜松の実と言えば肉料理に使うものだとばかり思っていたけど、お魚でも美味しいのね」
 こんがりと焼いた鱒のステーキに杜松の実のソースを添えたところ、女主人の口にも合ったようだ。クラリッサが胸を撫で下ろしていると、見計らったようにメイベルが言い添える。
「もちろんあなたの腕がいいからでもあるわね、クラリッサ」
「嬉しいお言葉です。ありがとうございます、奥様」
 メイベルから誉められるとほっとする。特に今は重い気分を引きずっていたから、メイベルの微笑がそれを一時晴らしてくれたように思えた。
 だが胸の奥に垂れ込めた暗雲はしぶとく、あれからずっとクラリッサの思索を侵食していた。
「でも、顔色がよくないわね。今日はくたびれてしまったのかしら」
 小間使いの普段と違うそぶりにメイベルも気づき、心配そうに眉根を寄せる。
 クラリッサは返答に窮したが、代わりにバートラムが口を開いた。
「ええ。今日もよく歩いたようですから、疲れているのでしょう」
「そうなの……ここへ来てからずっと、わたくしの予定に付き合わせてばかりだったものね」
 気遣わしげな視線がクラリッサには少し痛い。
 バートラムの言うことも嘘ではなく、今日も湖畔をたっぷり歩き、夕食の支度では普段以上に腕を振るった。身体が疲れていないわけではない。
 だが今は身体的な疲労をも凌ぐ恐怖がクラリッサを支配していた。シェリルから聞かされた話はすっかり尾を引いて、日が落ちてしまった今、クラリッサは夜の森が立てる音にすら怯え始めている。
 ホリスから借り受けた邸宅はしっかりした造りで居心地もよかったが、森の中にぽつんと立っているだけあり、とても静かだった。おまけに夜になると月明かり以外は差し込まず、邸宅のあちらこちらに深い闇がわだかまる。クラリッサは全ての部屋に明かりを、夜通し点けておきたい衝動に駆られている。
「何なら明日は少し休んではどう? わたくしは小舟にでも乗ろうかと思っていたけれど――」
 メイベルは年長者らしい落ち着いた笑みを浮かべる。
「あなたが休みたいというならそれでもいいわ。明日一日は皆で休みましょう」
「お気遣いありがとうございます。ですがわたくしは平気です」
 クラリッサは慌てた。さすがに主に予定を変更してもらうほどの深刻な事態ではない。メイベルにはこれまで通り、湖畔での日々を楽しんでもらえればいい。
 ただ不安と恐怖は残る。バートラムはああ言ったが、ホリスたちが見つけられなかったものを自分たちが見つけてしまう可能性は本当にないのだろうか。メイベルの美しい思い出に恐怖の影を差しかけるようなことがあってはならないし、もちろんクラリッサも怖い思いはしたくない。
「なら、あなたさえよければ、ここに一人で残っていてもいいのよ」
 そう言ったメイベルは、恐らくクラリッサが気を使っていると踏んで別の案を出してきたのだろう。
 だがクラリッサにとってはそちらの方がより避けたい事態であり、一層慌てて首を振った。
「い、いえ、お言葉ですが奥様、どうぞ明日も奥様のお供をさせてくださいませ!」
「……そう言ってくれるのは嬉しいけどね」
 メイベルはしばらく心配そうにしていたが、クラリッサの意思は尊重してくれるつもりのようだ。
「無理はしないでちょうだいね、クラリッサ。旅先で体調を崩すと大変よ、特にこんな街から離れたところでは」
 その言葉に、クラリッサは夜闇が渦巻く窓の外を見てしまう。
 月と星の他には何の光も見えない、深い森が広がる向こう――街から離れたところへ来てしまったことに、にわかに心細さを覚えた。

 今夜もメイベルは程よく疲れていたと見え、食事の後は早々に寝室へ入った。
 残されたクラリッサは台所で食器を片づけ、ランタンを提げて居間に戻る。居間ではバートラムが待ち構えていて、目が合うと早速笑いかけられた。
「お疲れ様、クラリッサ。今宵は星を見るという気分ではなさそうだな」
「ええ。遠慮いたします」
 身震いするようにかぶりを振って答える。
 とてもではないがとっぷり暮れた森を眺められる心境にない。そのどこかにシェリルたちの祖父が斃れているかもしれないと考えるだけで寒心に堪えない。
 人の死に触れたのはこれが初めてではない。孤児院では病に倒れる子供がぽつぽつといたし、つい最近もレスターの永い眠りを見届けたばかりだ。だがそれらは全て寝台の上で迎えられる死であり、深い悲しみや喪失感こそあっても、恐怖とはやや遠いところにあった。
 怖いと思うのは、想像してしまうせいかもしれない。ある日突然歩き慣れたはずの森で迷ってしまい、助けも呼べないまま孤独な死を迎えた顔も知らない人のことを――もしかすると怪我をしたのかもしれないし、野生動物に襲われて身動きが取れなくなったのかもしれない。いずれにせよ絶望と共にじわりじわりと迫ってくるような死が想像できて、クラリッサをことさらに怯えさせた。
「実は元気で生きている、という可能性はないのかな」
 バートラムは時々、クラリッサの心を読んだように物を言う。それだけクラリッサの内心がわかりやすく顔や態度に表れているということかもしれないが、今もクラリッサは少しだけ動揺した。
「息子一家に財産も土地も何もかも譲って、老人らしい気まぐれさからどこか遠くへふらりと出かけたくなった……そういうふうに考えたら君も、怖くはなくなるだろう?」
 軽い口調で言われたことから察するに、今のは本気の推理ではないのだろう。クラリッサは苦笑した。
「あなたもわたくしを気遣ってくださるのですね。ありがとうございます」
「他でもない君のことだからな」
 バートラムはそう応じた後、わずかに眉を顰めた。
「だが正直な気持ちでもあるよ。まさかこんなところで穏やかでない話を聞かされるとは思わなかった」
「そうですね。あのお嬢さんはご厚意から忠告してくださったのでしょうけど……」
 ホリス夫妻が姿を消した父の話を伏せていたのは商売に響くと思ったからか、それともとうに諦めて、過去の話だと捉えているからだろうか。どちらにせよ去年の話だというなら、来訪者に説明する義理はないとも言える。
 だがシェリルとサイラスは祖父を見つける気でいるのだ。両親がどう考えていようと、月日が経っていようとも。
 祖父について語るシェリルの口ぶりは淡々としていたが、その裏にはたやすく覆ることのない決意が潜んでいたように、今は思えた。
「何にせよ、農場主が言いたがらなかったことを奥様にお伝えする必要はない」
 決然と、バートラムは言い切った。
「我々もなるべく気にせずに過ごした方がいいだろう。難しいことではあるが」
「ええ……」
「いざとなれば私が君を守る。君が怖いものを目にすることがないようにな」
 彼は自信たっぷりに宣言すると、大きな手をクラリッサに差し出してくる。
「昨日も言っただろう。怖い時は、私の手を取るといい」
 目の前まで伸ばされた青年らしい手を、クラリッサは複雑な思いで見つめた。
 その手を取る気にはなれなかった。
 彼が自分の心に安らぎをくれることはわかっている。こうして話をしている間にも、抱いていた恐怖心がゆっくりと薄らいでいった。
 だが彼の存在の頼もしさに安堵する一方で、都合よく彼を利用しているような気もしていた。不安な時、恐ろしい時、何かに縋りたい時、クラリッサはいつも彼を頼りにしてきた。にもかかわらず、自分は彼の為に何をしてきただろう。彼の本心を知った後でも矛盾する感情を持て余した挙句、彼に当たったり愚痴を零したりと、まるで可愛げのない態度ばかり取ってきた。
「あなたは……怖くはないのですか」
 差し出された手をじっと注視したまま、クラリッサは尋ねた。彼の為に自分も何かできないだろうかと、その瞬間考えていた。
 バートラムはいともたやすく答える。
「私に怖いものはない。あるとすれば、君を失うことくらいだ」
「本当に? あなたは何も怖くないのですか?」
 クラリッサが信じがたい思いで聞き返すと、途端にバートラムはなぜか失敗を悔やむような顔つきになる。
 それから言った。
「ああ、そうか。私も怖いと答えたら、君に添い寝でもしてもらえたのかな」
「……わたくしは真面目に伺っているのです」
「私も至って真面目だよ。こんな夜は互いに身を寄せ合って眠るのに最適だろう?」
 この軽佻浮薄な言動さえなければ、彼に対してもういくばくか素直になれそうなのに――クラリッサは溜息をついた。
 バートラムもむくれるクラリッサに気づいて、軽く笑った。
「君が平気だと言うのなら私も今夜は我慢しよう。さて、そろそろ休もうか」
「あ、……もう、ですか?」
 意識するより先にそんな言葉が口をついて出た。バートラムが意外そうに目を瞬かせる。
 慌てたクラリッサはもごもごと言い直した。
「あの、わたくしはまだ眠くなくて。あなたはどうなのかなと思い伺ったまでです」
「私もまだ眠くないと言ったらどうするつもりだ、君は」
 慎重に、しかしどこか試すように聞き返され、クラリッサは更にまごついた。無意識のうちに引き止めてしまったが、何か考えあってのことではなかった。とっさに飛び出した言葉に、自分でも驚いているくらいだった。
「どうと言われましても……その、もう少しお話しでもいたしましょうか」
「君にそう言ってもらえる日が来るとはな」
 バートラムは大げさに眉を上げてから続けた。
「しかし、君は眠くないわけではないだろう。眠れる気がしない、という方が正しいのでは?」
「仰る通りです……」
 こればかりはクラリッサも素直に認めた。
 夜の森は意外と騒がしい。一人で寝室に入り明かりを消した後、森の木々のざわめきや虫たちの鳴き声、梟の呼び声、風が窓を叩く音などを聴いて、その度にびくびくと震え上がる自分の姿が目に浮かぶようだった。森のどこかに眠るシェリルたちの祖父の魂が、今夜自分の元を訪ねてくるかもしれない――昼間のうちなら不謹慎な妄想だと言えるような想像も、夜の帳の下ではいやに現実味を帯びて浮かび上がってくるものだった。
「では、お茶を入れてあげようか」
 ふっと優しく表情を解き、バートラムがそう言った。
「お茶に少しだけ酒を落としてあげよう。きっとすぐに眠りに就ける」
「それってあの時の、わたくしが飲まされたあのお茶ですか?」
 クラリッサが顔を顰めたからか、彼は声を立てて笑う。
「そうだ。安心したまえ、前回よりも控えめの量にしておくから」

 酒の効能についてクラリッサは半信半疑だったが、バートラムが入れてくれた茶はとてもいい香りがした。
 食卓に着くよう言われて、クラリッサは椅子に座った。すぐに彼が茶の注がれたカップを置いてくれ、更に隣の椅子を引いて、すぐ傍に座ってくれた。
 そういえばあの時も、とてもいい香りだと思った。普段使いの茶葉なのに味も香りも格別で、まるで別物のように感じていた。それだけで酒を入れられたことに気づけなかったのは全く迂闊としか言いようがない。
 しかしこうして改めて飲んでみると、酒も意外と美味しいものなのかもしれないと思う。
「とてもいい香りがいたします。それに、美味しい」
 カップを両手で持ち、クラリッサはふうふう息を吹きかけながら茶を飲んだ。少しずつ飲む度に身体がほんのりと温まり、心が穏やかになっていくようだった。
「君の口に合うようで光栄だよ」
 バートラムは隣で片肘をつき、クラリッサが茶を飲むのを見守っていた。
 なぜか彼が持ってきたカップは一つきりで、彼の分は用意していないようだ。気になってクラリッサは尋ねた。
「あなたはお飲みにならないのですか?」
「ご相伴にあずかりたいのはやまやまだが、君がどれほど酒に弱いかわからないからな」
 片時もこちらから視線を逸らさず、バートラムは言う。
「もし君が寝入ってしまうようなことがあれば、それこそあの時のように君を抱えて、寝室まで運んでいかなければならない」
 クラリッサにはあの時のはっきりした記憶がない。椅子に座って茶を飲んで、気分がふわふわとしてきた直後に眠りに落ちて、気がつくと自室の寝台にいた。眠る寸前まではとてもいい気分だったような覚えもある。ちょうど今のように。
 身体が温まってくると気分が穏やかになる。茶を飲む度に微睡みにも似た感覚が身体を包み、クラリッサは満ち足りた思いで息をつく。
「今夜は大丈夫です。自分の足で寝室まで参ります」
「そうかな。早くもほろ酔いの声をしているようだが」
「ええ。こんなにいい気分なんですから、きっと大丈夫です」
 カップの中身が半分を切ったところで、クラリッサはますます心地よくなってきた。椅子の背に寄りかかって目を伏せると、自然と唇が綻んだ。心が落ち着くのに、一方で声を上げて笑い出したくなるような、そんな気分だった。
 もしかすると既に酔い始めているのかもしれない。バートラムはクラリッサをじっと見つめた後、指先でなぞるように頬に触れてきた。彼の手はいやに冷たく、熱を持った頬には気持ちがよかった。
「クラリッサ、もう顔が真っ赤だ。君はやはり酒に強くないようだな」
「そうでしょうか」
 もうじきカップが空になる。こんなに美味しいのに、あまり飲めないというのならそれは悲しい。クラリッサは懸念を払拭したい一心で言い返す。
「お酒のせいとは限らないでしょう。わたくしは、あなたの前ではよく顔が赤くなります」
 バートラムが一呼吸の間だけ目を剥いた。
 すぐに何事もなかったような顔をして、
「それとはまた別の話だ。しかし酔った君というのも、なかなか可愛らしくていいな」
「わたくしはまだ酔ってはおりません」
 自分ではそう思っている。根拠はない。そうありたい、という願望だけで答えたのかもしれない。
「そうは見えないがね。ほら、すっかりテーブルに肘をついている」
 気がつけばクラリッサはテーブルに突っ伏しそうになっていて、両肘を枕にして顎を乗せ、顔を傾けるようにして隣に座るバートラムを見上げていた。普段なら行儀が悪い姿勢だと思うのだが、今はこの方が楽だった。
「こうしていてはいけませんか?」
「いいや。だが、まだ寝て欲しくはない」
「まだ寝ておりません」
「ああ、頼むよ。もう少しだけ話をしよう」
 バートラムは微笑んでいたが、声には切実さが入り混じっているように聞こえた。しかしそれも、酔いがもたらした勘違いかもしれない。
 夢と現の狭間のような、曖昧な世界にクラリッサはいた。
「確かめてみたかったんだ」
 その曖昧な世界の中には、彼の姿も確かにあった。すぐ近くで笑いながら、クラリッサの手を取ってくれた。
「君がどれほど酒を飲めるのか。もし平気そうなら、昼間話していた通りにいつか二人で、と思っていた」
 彼の手が自分の手の甲を撫でる。その行動に何の意味があるのか、クラリッサにはよくわからない。ただ妙にくすぐったくて、笑い声が唇から漏れた。
「しかしこの調子では、君にはほんの少ししか飲ませられないな。もう潰れてしまった」
「潰れてなんておりません」
 言い返す間にも、クラリッサの意識はどこかへ落ちていくようだった。
 眠いのかもしれない。だが眠りたくない、自分も、もう少し話がしたい。
「わたくしも、あなたに……」
 何か言いかけた拍子に意識が途切れ、程なくしてまた戻ってくる。何を言おうとしているのか、クラリッサにもわからない。ただ声に出していたことだけは確かだ。
「私に……何?」
 バートラムが問い返す。
 髪を撫でられたような気がした。気のせいかもしれない。
「何か、できることがあればいいのに……」
 呟いた言葉は呂律が回らず、酷く不明瞭だった。どちらにせよクラリッサはそのまま目を閉じ、しばらくの間、現から切り離されて深い闇の中にいた。

 そして次に気がついた時、クラリッサはバートラムに抱きかかえられていた。
 薄く開けた目から見えたのは居間ではなく、どうやらどこかへ運ばれているようだった。
top