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嘘でもいいから(5)

 湖に小舟が浮かんでいる。
 そこには帽子を飛ばされまいと手で押さえているメイベルと、櫂を漕ぐバートラムが乗っていた。
 クラリッサは湖のほとりに腰を下ろし、二人が乗る小舟が目の前を横切っていくのを見守っている。今日も弁当を作ってきたので、荷物の見張り番を仰せつかったのだ。バートラムは『君も弁当と一緒に舟に乗ればいい』と言ったが、万が一のことがあっては三人とも空腹を抱えて森の道を延々と歩かなくてはならない。
「わたくしも昔、舟で帽子を流してしまったことがあるの。不安になる気持ちはわかるわ」
 メイベルのその言葉が決め手となり、クラリッサは舟に乗らずに荷物の番をすることと相成った。
 もっとも、本心では乗りたくなかっただけなのかもしれない。以前乗った大きな船とは違うが、あのふわふわとした揺れは水の上ならば同じことだろう。今はそうやって揺られていたい気分ではなかった。

 この湖畔を訪れてからというもの、連日天候に恵まれていた。
 今日も湖は一枚の鏡のように光り輝き、ほとりに生い茂る草花も日の光を一身に浴びて心地よさそうに揺れている。クラリッサは膝を抱えて座り、草花と一緒になって日差しを浴びていた。
 気分が悪いわけではない。昨夜のほんの数滴の酒が残っているはずもなく、体調はすこぶる良好だった。朝から食事の支度に弁当の用意にといつも以上精力的に働いた。朝食の皿数の多さにはメイベルが目を瞠っていたほどだ。食欲旺盛な夫人はクラリッサの働きを喜んでくれたが、その陰でバートラムには意味ありげな微笑を向けられ、クラリッサは内心の動揺を面に出さないよう振る舞うのに必死だった。
 彼のことを、そして昨夜のことを考えないように、クラリッサはわざと務めに没頭していた。そうしなければつい思い出してしまうのだ。口にしてしまった本心、胸の奥に潜んでいた望み、自分が本当に欲しいと思うもの――全てはすぐ近くにあった。手を伸ばせば容易に手が届くほど近くに。
 一人で座り込んでいる今、物思いに耽り始めたクラリッサを妨害する者はいない。そしてクラリッサは自らの膝に額を当て、俯くようにして考える。
 何もないと思っていた、自分の欲しいものがようやくわかった。
 それさえあれば、彼さえいれば幸せだと感じているのなら、何をためらう必要があるのだろう。
 昨夜も思ったはずだ。彼に抱き締めて欲しいと望む自分と、その望みを叶えることを喜びだと言った彼。想いは一致している。お互いにそれを望むなら、それを喜びだと思うのなら、心のままに生きればいい。
 だがそういった欲求を、生真面目な理性が阻もうとする。朝の訪れと共に酔いは醒め、クラリッサは冷静さを取り戻していた。そして冷静になった頭で思う。
 この気持ちは、果たして恋なのだろうか。
 クラリッサは恋を知らない。二十四年の人生の中でそういう感情とは長らく無縁だった。だからこうして抱え込んでいる感情が何なのか、自らでは掴みきれずに煩悶する。
 彼に抱き締めて欲しいと望み、その温もりに安らぎを覚え、もっと傍にいて欲しいと願う、しかし日の出ているうちに思うにはあまりにもくすぐったく気恥ずかしい感情。
 もしもこれが恋だとするなら、彼もそんなふうに感じることがあるのだろうか。
 孤児院で初めて出会った時、彼もまたこんな想いを抱え込むようになったのだろうか。
 ふわふわと覚束ない気持ちは波に揺られているようだ。これ以上浮つかない為にも、クラリッサは舟には乗りたくなかった。

「――クラリッサ!」
 バートラムの声に名を呼ばれ、ちょうど彼について考えていただけにクラリッサはびくりとした。
 顔を上げると湖を進んでいたはずの小舟は一旦岸へ戻ってきており、バートラムは身軽にそこから飛び降りると、こちらへ向かって駆けてくる。手にはメイベルの帽子を持っていた。メイベル自身はまだ舟から降りるつもりはないようだ。彼の姿ごしにちらりと、小舟に座る小さな背中が見えた。
 クラリッサは立ち上がり、気恥ずかしさを誤魔化すようにスカートについた枯れ草を払いながら彼を出迎える。
「どうかなさったのですか?」
「奥様が帽子を預かって欲しいそうだ。やはり湖に流してしまうのではないかとご不安のようでね」
 彼が近づいてくるのが草を踏む足音でわかる。だが顔が上げられず、俯くクラリッサの視界にはやがて彼の靴だけが映る。同時に彼の影がこちらに差しかかり、目の前に立たれているとわかるとどうしていいのかわからなくなる。
「では、お預かりします」
 俯いたまま手を差し出す。
 だがバートラムはすぐには帽子を手渡そうとせず、クラリッサは少しだけ視線を上げて彼を見た。
 ちょうどその時、バートラムも身を屈めてクラリッサの顔を見ようとしていた。前髪が触れる距離から視線がぶつかり、クラリッサは飛び退きそうになる。黒い髪と赤褐色の髪が、その時確かに触れ合う微かな音を立てた。
 飛び退くこと自体はできなかった。クラリッサの動きを封じるように、バートラムも距離を詰めてきていたからだ。
「どうして俯く? 君は胸を張っている方がいい」
 目元を微笑ませて彼が問い、クラリッサは言葉を失う。
「ど、どうしてって、わたくしは別に……」
「顔を上げて、クラリッサ」
 バートラムが甘い声で求めてきた。
 彼が自分の名前を呼ぶのはよくある、普通のことだ。だが彼は時々、いやに甘い声で自分を呼ぶ。クラリッサも初めのうちはそれをただの口説きの手段だと思っていたのだが、今となってはそれがとても親しい相手だけに呼びかける時のやり方だとわかるようになっていた。名前を呼ぶという行為一つにすら心を傾け、大切に思っているような呼び方は、自然と声まで甘くなるものらしい。そしてその甘さが今では、クラリッサの心を蕩かそうとしてくる。
 クラリッサは逡巡しながらも面を上げ、きらめく湖を背に立つ彼の姿を全て視界に納めた。彼はいつものように笑いかけてくれていた。優しく、柔らかく、心を込めたような微笑だった。
 思わず、クラリッサはぼうっとしてしまう。
 その反応を満足げに見つめてから、バートラムが帽子を寄越した。
「預かっていてくれ。もう少ししたら戻る」
「……はい」
「それと。君はもう悩むべき時期は過ぎただろう。あまり考えすぎないことだ」
 帽子に手を伸ばしかけたクラリッサは、的確に胸中を言い当ててくる彼に面食らい、とっさに動きを止めた。
 バートラムは声を立てて笑う。
「あとは楽しむだけだ。もっと肩の力を抜いて、この幸せを味わって欲しい」
 幸せなのは間違いない。だが戸惑いが先立つのは、全く初めてのことだからかもしれない。浮つく気持ちが生来の生真面目さと上手く共存できず、昼と夜でまるで別人のような心になってしまう。
 自分は楽しめるのだろうか。楽しんでいいのだろうか。迷いながらもクラリッサは恐る恐る頷いた。
「考えても仕方のないことですから、今は考えないようにいたします」
「それでいい」
 バートラムも小さく頷くと、クラリッサの両手に帽子を引き渡した。
 かと思うと空いた手でクラリッサの頬を包み、軽く引き寄せ、まるで不意を打つように額に唇で触れてきた。
「あっ……!?」
 声を上げかけたところを目で制され、
「静かに。君がおとなしくしていれば、奥様には気づかれないよ」
 どこか企み顔のバートラムにそう言われたものの、クラリッサは気が気ではない。湖を背にした彼の陰になり、確かにメイベルから自分の姿は見えないだろうが、こうして身を屈めていれば何をしているのかわかりそうなものだ。むしろメイベルがこちらを見ているのかどうか、見えないことがクラリッサの焦燥をより掻き立てる。
「何も外でこんなことをしなくても……」
 声を落として咎めれば、逆に嬉しそうな顔をされる始末だ。
「部屋の中でならいいということかな。それとも、寝台の上?」
「そ、そういうことではありません。早くお戻りになってはどうです」
「仕方ないな。ではまた後で」
 バートラムは手が空いているのをいいことに、今度はクラリッサに上を向かせて、唇の真横に口づける。唇が重なる予感に一瞬どきりとしたが、外されたことに少しの違和感を覚えた。わざと外されたような気がするのは考えすぎだろうか。
 とは言え場所がどこであれクラリッサはまんまと赤面させられてしまう。
「あの、ですからこういうことは外では……」
「済まない。今日は私もいささか浮かれているようだ」
 バートラムは充足した様子でクラリッサから唇と手を離した。少し冷たい手が離れていく時、クラリッサは少しだけ昨夜の安らぎを思い出していた。
「早く夜が来ればいいのにな。そうしたら君とまた二人で過ごせる」
 同じことを思い出していたのかもしれない。バートラムは言い残すように呟くと、軽い足取りで小舟を泊めた岸へと戻っていく。
 クラリッサは何気なく彼の後ろ姿を目で追い、彼がメイベルの待つ舟に乗り込んで、櫂を握り、再び岸から漕ぎ出していくその一挙一動を見つめていた。そこまでたっぷり見つめてから自分が見とれていたことに気づいて、思わず嘆息した。
 これが恋だとするなら、人々が病と呼ぶのも得心できる。
 まるで熱に浮かされたように、クラリッサはこれまでにない感情に囚われ始めていた。
「夜が来たら、また……」
 不安か懸念か、もしくはもっと他の思いなのか。何かに衝き動かされるように独り言を口にした。
 そんなクラリッサの背後で、不意にがさがさと大きな葉擦れの音が響いた。
 思わず振り向くと、森の木々の陰から見覚えのある子供たちの顔が覗き、こちらをじっと見ているところだった。
 シェリルの緑の目も、サイラスの濃褐色の目も、視線が合うと気まずげに瞬きをしてみせた。
「えっ!? あ、あの――」
 いるとは思わなかった。クラリッサは更に狼狽し、そして彼らがいつからそこにいてこちらを見ていたのかという疑問に打ちのめされた。
 しかもシェリルもサイラスもなぜか顔をほんのり赤くしており、不自然に目を逸らしながら歩み出てきて、
「ご、ごめんなさい。見るつもりじゃなかったんだけど……」
 とシェリルが言えば、遮るようにサイラスも口を開く。
「いや、見てない。俺たち何にも見てないよ」
 嘘だ。
 クラリッサにだって子供のつく嘘くらいわかる。二人とも目を合わせてこないのがその証拠だ。
 しかしだからと言って子供たちを責められるはずがない。悪いのは外であんなことをしてくるバートラムであって、彼らではない。もちろん自分でもないはずだ。多分。
 クラリッサは子供たち以上に赤面しながら、大きく息をついた。とにかく話題を逸らそうと思った。
「お二人は今日も探し物ですか?」
 有無を言わさぬ話題の転換に、サイラスの方がはっとした。
 だがシェリルはこれ幸いとばかりに、まだ少しだけおどおどしながらも答える。
「はい。うさぎを捕まえて、穴を掘らせるんです」
「うさぎに……穴を?」
 それで昨日も彼女はうさぎを追い駆けていたのだろう。クラリッサは納得したが、すると今度は別の謎が浮上した。
 穴を掘って探すということは、二人の祖父が地中に埋まっている可能性があると――少なくとも二人はそう考えているということになる。
 だが人は一人では地中に埋まることなどできない。
「おい、シェリル……」
 サイラスが急にむっつりとして、シェリルの袖を引っ張った。
 だがシェリルは彼にだけ軽く微笑み、
「大丈夫。この人には言ったの」
「言ったの? 何で?」
「見つけたら怖がるから。ちゃんと言っておかないと」
「怖がるって……。この人、大人なのに?」
 二人は声を落としきれていないひそひそ話の後で、再びクラリッサへと向き直った。その頃にはシェリルの顔から微笑は消えていたが、それでも愛らしい顔立ちをした子供たちだとクラリッサは思う。
「お父さんたちには内緒にしておいてください。危ないからって怒られちゃう」
 そう言うからには危ないこともしているらしい。クラリッサは黙って頷いたが、懸念を持たなかったわけでもない。
「穴掘りだけなら危なくはないでしょう?」
 何気ないそぶりで聞き返すと、子供たちは一度顔を見合わせてから答えた。
「でも、あたしたち、洞窟を探してるから……」
「結構あるんだ、この辺。入り口が崩れかけてるから掘り返さないと入れないけど」
「そ、そんなところを冒険なさっているのですか?」
 洞窟と聞いてクラリッサは思わず顔を顰めかけた。
 それはどう聞いても危ない。子供たちのする探検という範疇を超えたものではないだろうか。
 しかしこの森には彼らの方がよく慣れているし、クラリッサは数日ここで過ごしているだけの客人だ。何が危険で何がそうでないかは彼らの方が把握していることだろう。何より彼らのすることに口を挟むのは無礼だろうとどうにか思い留まった。彼らは自分たちが秘密を守り、子供の冒険に寛容な人間だと思い、こうして話をしてくれているのだ。
「くれぐれもお気をつけて。怪我などなさらないように」
 クラリッサがそう告げると、子供たちは素直に頷いた。
「うん」
「ありがとう、お姉さん」
 サイラスは秘密を守ることについてか礼まで言うと、少しだけ生意気そうな顔つきになって続けた。
「俺たちも黙っててあげる。お姉さんたちがキスしてたこと」
 とっさにクラリッサは反応できず、ぽかんとしてしまい、
「サイラス!」
 代わりにシェリルが声を上げて咎めた。
 途端にサイラスは逃げ込むように森の中へと駆け出す。脱兎の如くと例えてもいいくらいの素早さだった。
「本当にごめんなさい。サイラスは叱っておきます」
 困り顔のシェリルもそれだけ言うと、慌ててきょうだいの後を追う。
 二人の気配はそのまま森のざわめきに溶けるように消えていき、程なくしてどちらへ駆けていったかもわからなくなった。
 そしてクラリッサは真っ赤な顔で嘆息する。
 後でバートラムには少し強く言っておこう、と思う。やはりああいうことは外でしてはいけない。誰が見ているかわからないのだから――ではどこならいいのかと問われても、きっと答えに窮するに違いなかったが。

 その後もクラリッサはメイベルの帽子を抱えたまま、湖を行ったり来たりする小舟の動きを眺めて過ごした。
 遠目に見ているだけで全てがわかるわけではないが、どうやらバートラムは舟の扱いにも長けているらしい。櫂を操る手は慣れたもので、メイベルを大いに喜ばせているようだ。上機嫌の女主人が時々こちらに向かって手を振ってくるので、クラリッサも笑顔でそれに応じた。
 櫂を持つバートラムが手を振ってくることはなかったし、彼がこちらを見ているかどうかもわからない。むしろわからないからこそ、クラリッサは小舟の動きをずっと眺めていることができた。下手に目が合えばまたうろたえてしまいかねないが、こうして距離を置いていればその不安もない。ただ皮膚のあちこちに彼が触れた柔らかさや温かさが残っていて、思い出す度にクラリッサは一人気恥ずかしさに身悶える羽目になった。
 しかしその日、好天は長く続かなかった。昼前頃になると空には厚い雲が垂れ込めてきて、日差しが度々遮られては辺りに薄暗い影を落とした。
 そして小舟遊びを終えたメイベルたちが戻ってきて、三人で昼食を囲み始めた時のことだ。
 穏やかな時間を破るが如く、またしても森の奥からサイラスが一人で現われた。
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