Tiny garden

With me, With you.(4)

 すみだ水族館も、中はそれなりに混み合っていた。
 照明が落とされた館内は人が多くても騒がしさは感じない。だけど入ってすぐのクラゲの水槽にはそれぞれ人だかりができていて、眺めるのにも先に進むのにもじっくり待たなければならなかった。
 もちろん伏見さんとなら、待つのだって苦ではない。
 ただスカイツリーを見ていた時よりも、私は口数が少なかった。疲れているわけじゃない。水族館の中でお喋りがしにくいわけでもない。
 次の言葉をどう言おうか、考えているからだった。

「桜さん、疲れてない?」
 人波の中を、水槽の光を頼りに歩きながら、伏見さんは私に尋ねてくれた。
「人混みの中を歩いてきたからな。くたびれてたら言ってくれ」
「ありがとうございます。まだ大丈夫です」
 私は首を横に振ってから、笑って言い添える。
「東京来てから、人混みには慣れちゃいました」
 来たばかりの頃こそ圧倒されていた人の多さも、最近では当たり前に受け止められるようになっていた。毎朝の通勤ラッシュも辛くなくなった。それも全部、伏見さんのお蔭だ。
「伏見さんこそ、人多いの平気ですか?」
 私が聞き返すと、伏見さんはなぜか少し笑った。
「いつも賑やかなところで仕事してる。ちっとも気にならない」
「言われてみればそうですね」
 学校が静かな場所のはずがない。私もつられて笑ってしまう。
「でも、せっかくだからゆっくりしようか。ちょうど向こうに椅子がある」
 彼が指し示した通り、通路の先の大きな水槽の前に、いくつか椅子が置かれていた。
 クッションが効いたその椅子に、二人並んで座ることにした。椅子と椅子の間隔が少し空いていたから、繋いでいた手は一旦離した。だけど不安はない。
 お互い、次の言葉を探しているんだって、わかっていたからだ。

 深い青色の水を湛えた水槽の中に、たくさんの魚たちが泳いでいる。
 まるで時の流れが遅くなったみたいに、ゆったりと、自由気ままに行き交う彼ら。小さな魚、大きな魚、鱗の色もさまざまで、水の中で目も交わさずにすれ違う姿は、これまでに見てきた東京の風景を思い起こさせる。
 私も魚たちと同じように、この街でたくさんの人々とすれ違ってきた。袖触れ合うも多生の縁とは言うけど、私がここで得たご縁はまだごくわずかだ。
 でも、かけがえのない素敵なご縁も得た。
 今日はそのことを、もっと伏見さんに伝えられたらいい。

「……魚を見るのも好きみたいだな」
 気がつくと、伏見さんは水槽ではなく私を見ていた。
 揺れる青い光を受けて、彼の表情は一層静かに映る。あの独特の瞳の色も、ここでは影と同じ色をしていた。きっと私の顔も、同じような色合いに見えているんだろう。
「癒されますよね。つい、じっくり眺めちゃいます」
 私はそう答えてから、考えていたことを尋ねてみる。
「この水槽、東京の街みたいだって思いませんか?」
「東京? そんなふうに思ったことはなかったな」
「ほら、大勢で泳いでて、急いですれ違っても目も合わせてなくて……」
 そこまで説明すると、伏見さんは納得したように小さく頷いた。
「確かに似ているな。俺はどちらかというと、休み時間の教室をイメージするけど」
「教室かあ……それもわかる気がします」
 伏見先生から見た生徒たちは、きっとこんな感じなんだろうな。群れになって泳ぐ魚もいれば、たった一人でのんびりとたゆたう魚もいる。そうかと思うと、大急ぎで泳ぎ回るすばしっこいのもいる。
 ガラスで隔てられた向こうの世界は、美しい青色に染まっている。
「君のことも、かつては教え子のように思っていた」
 伏見さんが苦笑を浮かべ、切り出した。
「前に話したな。もちろん、初めのうちだけだ」
「はい」
 そのことは、ちゃんとわかっている。
 そうじゃなければこうして、二人でお休みの日に出かけたりもしない。
「俺は教師としては新米だけど、過去に教え子の卒業を見届けた。そのうちの何人かは卒業してからも年賀状をくれたり、母校に遊びに来てくれたりしたけど、卒業以来顔を見ていない子も大勢いる。春先の、リクルートスーツに身を包んだ君を見る度、その子たちのことを思い出していたよ。皆、元気でやっているだろうかって」
 落ち着き払った、柔らかな声で伏見さんが語る。
 語られているのは四月頃の記憶だ。上京したての私と出会った頃のこと。
「あの頃も、毎日のように君の不安そうな顔を見ていた」
 彼がそう続けたので、私は今になって恥ずかしくなる。
 見てわかるくらい心細そうにしていたんだろうな。もういい大人だっていうのに、顔に出ちゃうなんてどうだろう。
「だから、俺は君の幸せを願っていた」
 伏見さんがこちらに手を伸ばし、そっと私の手を取る。
 椅子と椅子の間は五十センチほどの隙間があって、再び手を繋ぐ為にはお互いに少し手を伸ばす必要があった。彼が軽く手を握ってきたから、私も握り返した。
「君が教え子たちと同じように、元気で、そして幸せであって欲しい。毎朝、見かける度に思っていた」
 あの頃、電車で見かけるだけの私に、伏見さんはそんなふうに思ってくれてたんだ。
 すごく嬉しい。
「君のことはその顔と、お友達が呼ぶ下の名前しか知らなかったのにな」
 伏見さんがそこで、口元をはにかませる。
「気がつけば毎日、君の幸せを願っていた。電車を降りた後、君が笑っていればいい。会ったことがない帰りの電車では、もう少し明るい顔をしていたらいい。そんなことを思うようにもなった」
 そこまで、願ってくれていたなんて。
 四月にタイムスリップして、あの頃の私に教えてあげたいくらいだ。そんなに不安がらなくても、私のことを気にかけてくれる人はちゃんといるから大丈夫だよって。
 でもあの頃の私はそんな慰めなんか聞き入れなかっただろうし、ましてやその人に恋をするようになるなんて、想像もできなかったに違いない。
「声をかけてみたいと思ったこともある」
 彼が更に語を継いで、そこはちょっと、私も照れた。
「でも見ず知らずの男に声をかけられたら驚くだろうし、引かれるに決まっている」
「そんな、伏見さんなら引いたりしませんよ」
 思わず口を挟むと、彼は笑いながら首を傾げる。
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、どうかな。少なくとも俺はその不安を拭いきれなかったし、だからあの日までは見ているだけしかできなかった」
 あの日――伏見さんが私を助けてくれた日のこと、だろう。
「そして夜の新宿駅で会えた日、ようやくちゃんと、話ができたな」
 ほんの一ヶ月前のことなのに、伏見さんは懐かしそうに口にする。
 私も同じだ。
 あの夜の記憶は酷く懐かしくて、だけど今でも思い出すだけで胸がどきどきする。
「あの頃と変わらず、俺は今でも君の幸せを願っている」
 彼がもう一度、私の手をぎゅっと握った。
 心臓が口から飛び出そうなほど、どきっとした。
「教え子たちとは違って、初めは何も知らなかった君のことを。毎朝電車で見かけるだけだった君が、幸せであればいいと思い続けている。その気持ちは、教え子たちに抱くものとは違っていて当然だ」
 今更、頬が熱くなる。
 話の流れにようやく気づいた。
 つまり、彼が言いたいことは。私がずっと耳を傾けている話の、行き着く先は。
「そして今は、俺が君を幸せにできたらと思っている」
 水槽の光に照らされて、私を見つめる伏見さんの顔も美しい青色に染まっている。
 この人はどんな光の中でもやっぱり、きれいだ。
 私が見惚れていると、真剣な面持ちの彼が言った。
「桜さん、君が好きだ」
 その言葉でさえ柔らかく優しい声音なのが、彼らしいと思った。
 そしてシンプルなその言葉は、彼の声を通すととても美しく響いた。

 私の返事は、とっくの昔に決まっている。
 でも、せっかくだから『はい』以外の答え方をしたかった。
 だって、素敵な言葉を貰った。伏見さんは私の幸せを願い、そして私を幸せにしたいと言ってくれた。誰かの幸せを願うのは簡単なことじゃない。春先の私には、それをする余裕さえなかったから、わかる。
 だけど今は、私も、伏見さんの幸せを願っている。
 このきれいで優しい人が、いつも幸せでいてくれますように。
 それから、いつまでも一緒にいられますように。そう思う。

 だから、私はこう答えた。
「私も、伏見さんを幸せにしたいです」
 彼の関節が目立つ手を改めて握り返して、どきどきとうるさい鼓動を叱咤しつつ、続きの言葉も口にした。
「それに私も、伏見さんが好きです」
 本当はもっと、大人っぽい台詞にしようと思っていた。
 二十三歳になったんだから、気の利いた言葉の一つや二つ言えるのが大人なんじゃないかなって。
 だけど伏見さんの言葉を聞いたら、大人だとかそういうのは関係なく、伝えたいことを言えばいいんだと思った。
 そういえば前にもこんなこと、悩んでたな。彼女がいること聞いちゃってもいいのかな、とか。あれから私、ようやくもう一歩進めたみたいだ。
「……よかった」
 伏見さんは胸を撫で下ろしたようだ。
 館内のざわめきに混ざって深い溜息が聞こえた後、照れたように目を細める。
「話が長くなってごめん。でも、最後まで聞いてくれてありがとう」
「長さなんて……ちっとも感じなかったです」
 私はかぶりを振った。
 仮に長かったとしても、彼の声と言葉ならいくらでも聞いていられる。好きだから、嬉しい言葉だから、当然のことだ。
「仕事では、いつも『手短に』を心がけているんだけどな」
 伏見さんがくすくす笑う。
「でもプライベートとなると、そうもいかないみたいだ。言いたいことがたくさんあったから、かな」
 本音を打ち明け合うって、どきどきするけど、素敵なことだ。
 お蔭でもう、二人揃って幸せになれた。

 だけど、その幸せにお互い照れてしまったんだろうか。
 それからしばらくは、私も伏見さんも次の言葉が見つからなくて、椅子から立ち上がった後も、ペンギンの大きなプールやトンネルを泳ぐオットセイを見て歩く間も、ほとんど会話は交わさなかった。
 手は繋いだままで。
 自由気ままに行き交う生き物たちを、二人で、一緒に。
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