With me, With you.(2)
満員の電車の中で、私は伏見さんと身を寄せ合っていた。手を繋いでいるから自然と距離が近づいてしまって、私は目のやり場に困り果てていた。
伏見さんは私を人混みから庇おうとしているようだ。私のすぐ目の前に立っていて、私からはネイビーのシャツの襟までしか見えない。だけど電車が揺れる度に、握る手に微かな力が加わって、そのことに私は一人でどきどきしていた。
まさか、手を繋いじゃうなんて思わなかった。
だってまだ付き合ってもいないし、告白だってしてないし――いや、それっぽいことは言った。どう聞いても誤解のしようがないくらいの好意は、既に伝えてあった。だから手を繋がれたということは、伏見さんは私の本心を正しく受け取っているんだと思う。
ましてや私達はもういい大人だ。二十代にもなって、付き合ってないのに手を繋がれて慌てふためくのはどうかと思う。いかにも場馴れしてないみたいで格好悪い。
だけど現に、私は慌てている。
二十三になってたって、好きな人に手を繋がれたら動揺くらいする。
伏見さんはどうなんだろう。二十六にもなれば、こういうふうに手を繋ぐのは余裕なのかな。それとも年齢なんて関係なく、慣れてるだけとか――。
「東京メトロには乗ったことある?」
不意に、伏見さんの声がした。
ぎゅうぎゅう詰めの電車の中でも落ち着き払ったその声に、私はどぎまぎしながら首を横に振る。
「ないです」
メトロというからには地下鉄なんだろうけど、あいにくと乗ったことはない。上京してから二ヶ月とちょっと、最寄駅から乗れる電車以外は今でもほとんど知らなかった。
ともあれ顔も上げずに答えれば、伏見さんが少し笑ったのが聞こえた。
「なら、今日が初めてか。地下鉄に乗ったことは?」
「それはあります。地元で、ですけど」
だから地下鉄自体に物珍しさはないものの、何と言っても東京のメトロだ。小田急線並みの激混みは覚悟しておくべきかもしれない。
「伏見さんは、小田急線以外にもよく乗りますか?」
私が緊張しつつ聞き返すと、彼は落ち着き払って答える。
「用事があれば乗るけど、よくというほどではないな。でも心配しなくていい、乗り換え案内くらいはできるよ」
頼もしい言葉の後で、また笑うのが聞こえた。
「代々木上原からは東京メトロの千代田線で大手町まで。そこから半蔵門線に乗り換えて、あとは終点の押上まで。所要時間は一時間と少しというところかな」
もしかしなくても、初めての私を勇気づけようとしてくれているのかもしれない。
そして私の緊張を解きほぐそうともしているのかもしれない。笑いが滲んだ声から、そう思った。
だけどまだ手は繋いだままだ。緊張はする。どきどきもする。
「えっと、一時間で着いちゃうんですね」
「ああ。恐らくあっという間だよ」
手を繋いでいても、だろうか。
いや、手を繋いでいるから、かもしれない。現に小田急線は、もう登戸を過ぎていた。
伏見さんの骨張った手が私の手を握り締めている。決して強い力で握られているわけじゃないのに、全部包まれているような、ちょっとやそっとでは外れない安定感がある。そのくらい大きな手をしていた。
「えっと……」
私も何か話題を振らなくちゃ。
会話が途切れると気まずくて、とっさに私は口を開いた。
だけど言葉が出てこない。
さっきのが精一杯の質問だった。聞きたいことは山ほどあるのに、こういう時は声にもならないものだった。
すると伏見さんが少し身を屈めて、
「……緊張してる?」
私の耳に囁いた。
すぐ耳元で聞こえた声に更にどきどきしつつ、私は頷く。
「し、してますっ」
「一旦、手を離そうか?」
次の問いには、うろたえたけど素早く答えた。
「それは駄目です。駄目っていうか、い、嫌なわけじゃないんです。全然。決して」
緊張するしどきどきするし慌ててもいるけど、ここで手を離されたら絶対に後悔すると思う。
好きな人に手を繋いでもらってるんだ。嬉しくないはずがない。
ただ、慣れてないだけで――これから慣れる。押上に着くまでに。
「よかった。俺も離したくはないから」
伏見さんが安堵したように呟いて、また心臓がどきっと跳ねる。
だけど同時に、その言葉をすごく、大切にしたいなと思った。
そろそろと顔を上げてみる。伏見さんは窓の外に目を向けていたけど、私の動きに気づいてこちらを向いた。目が合って、色素の薄い瞳が嬉しそうに細められる。
「ありがとう、桜さん」
そんな。
ありがとうは、私の方こそ言いたいくらいなのに。
忘れちゃいけないことがある。
今日はデートだ。
好きな人とデートだ。伏見さんと一緒のお出かけだ。
緊張するのもどきどきするのも当然だろう。だけどそれ以上に、楽しまなくちゃもったいない。緊張するからって俯いてばかりじゃ、こんな素敵な笑顔も見逃してしまう。
告白だ何だと意気込むのもいいけど、まずは今日という日を思いっきり楽しまないと。
「こ、こちらこそ、ありがとうございます。楽しいです」
私がつっかえながらお礼を言うと、伏見さんは目を瞬かせてからこう言った。
「楽しんでもらえてるなら、それもよかった」
「はい。まだ電車しか乗ってないですけど、楽しいです」
「それと、手しか繋いでないけどな」
手『しか』って、どういう意味だろう……。
深読みしちゃいけないよね。うん。
「あ、私、山手線なら乗ったことあるんです」
変な想像を始める前に、私はようやく話を継いだ。
「友達と一緒に池袋まで出かけたことがあって。正確には、あちこち回ろうと思って池袋だけで力尽きちゃったんですけど」
上京したての頃、涼葉ちゃんと二人で山手線に乗った。
私でも聞いたことがある駅名ばかりの山手線で、これに乗れば東京の主要スポットは観光できるんじゃないかって軽い気持ちで乗ってみた。だけど最初に下りた池袋だけでも見るものがたくさんありすぎて、結局は新宿と池袋を往復しただけで終わってしまった。
「池袋では何を見たの?」
伏見さんの問いに、私はようやくなめらかに答える。
「サンシャインシティです。お買い物して、ご飯食べました。水族館にも行きたかったんですけど、くたびれちゃって」
スカイツリーほどではないらしいけど、でもものすごく背の高い池袋のサンシャインシティ。水族館やプラネタリウムも入っていると聞いていたけど、それらすら回る余力はなかった。要は私も涼葉ちゃんも、池袋さえ味わいつくせなかったということになる。東京は本当に大きい。
「水族館なら、スカイツリーの足元にもあるよ」
「そうなんですか?」
「ああ。俺も行ったことはないけど、こじんまりしてていいところだと聞いてる」
彼はそう言うと、私を見てまた微笑んだ。
「余裕があったら、スカイツリーの後で寄ってみる?」
「いいんですか? もしよければ、是非」
こじんまりした水族館って、どんなところなんだろう。スカイツリーの後で水族館、まるでフルコースみたいな贅沢メニューだけど、せっかくだから味わっておきたい。
何より、伏見さんが一緒なんだから。
「せっかくだから、桜さんが見たいものは全部見よう」
そう言ってくれる伏見さんが何だか楽しそうで、私まですっかり浮かれていた。
今日はいいデートになる。そんな予感がしている。
彼に手を引いてもらって、私は無事に二回の乗り換えを済ませた。
東京メトロは小田急線ほどの混雑はなく、半蔵門線では横に長い座席に座ることさえできてしまった。私達は終点までのんびりと腰かけて運ばれて、難なく押上に到着した。
改札を抜けて程なくのところで、伏見さんは左手に見える大きな入口を指差した。
「駅からソラマチは直結なんだ。エスカレーターを上がってスカイツリーの足元まで行ける」
ソラマチとはスカイツリーの足元に広がる大きな商業施設のことだ。ご飯を食べたりお買い物をしたりもできるそうで、ここも東京の大きさを具現化したようなスポットだった。
「下から見上げて、写真撮ることできますか?」
私がおのぼりさんらしいことを尋ねると、伏見さんははっとしたようだった。
「写真撮りたい?」
「はい、せっかくなので」
「なら、すぐに上らない方がいいかもしれない。真下からだとカメラに入りきらない」
何せ六百三十四メートルの背高のっぽさんだ。携帯電話を縦向きにしたところで、真下から全部を収めるのは無理なんだろう。
そこで私は伏見さんの勧めに従い、エスカレーターで少し上がった後で一度ソラマチの外へ出た。
そしてそこから、スカイツリーを初めてすぐ近くで見上げた。
「わあ、大きい……!」
思わず声だって出た。
曇り空を貫くように真っ直ぐ伸びた白い塔。こうして見ると足元は網目みたいな造りになっていて、展望台と思しき頭の部分はUFOが停まったような形をしている。写真で見た時はてっぺんがアンテナみたいに細く長く伸びていたと思うけど、ここからでもその辺りは少ししか見えなかった。
「どう? 全部入った?」
携帯電話を構える私に、伏見さんはどこか心配そうに尋ねてきた。
「何とか入りそうです」
私は頷くと、試しに何枚か撮った後、その画像を彼にも見せる。
手のひらサイズのディスプレイの中、スカイツリーは枠を突き破りそうなぎりぎりのところで写っている。遠目に見た時は華奢な立ち姿に見えたのに、真下から見上げれば『そびえ立つ』という形容が相応しい。
「スカイツリーって、近くで見るとすごい迫力ですね!」
初めて見たスカイツリーに、私はすっかり興奮していた。
だって、ずっと遠景でしか見たことがなかった姿だ。その前は写真か、そうでもなければテレビ画面越しに見ただけだった。本物を目の前にして、その大きさを目の当たりにすれば、誰だって驚くと思う。
「確かに、こうして見上げると大きさがわかるな」
伏見さんもしみじみと呟いている。
「これから、ここに上るんですね」
「そうだよ。楽しみだろ?」
「はい!」
問いかけに大きく頷けば、伏見さんは嬉しそうに微笑んだ。
「俺もだよ。桜さんと一緒で、何もかもが楽しい」
それから彼は、写真を撮る為に一旦離した手を、黙って握り直してくれた。
私達はまた手を繋いで、今度はスカイツリーに登ることにした。