Tiny garden

Tell me, Tell you.(2)

 コーヒーのお店で、私は温かいココアを、伏見さんはブレンドコーヒーを注文した。
 伏見さんは更にクッキーも注文して、私にも勧めてくれた。
 せっかくなので、夜遅くだけどたまにはいいよねといただくことにする。お腹が空いていたのもあって、ココアもクッキーもとびきりおいしかった。

 駅前にあるこのお店には、前を通りかかったことこそあっても、中に入ったのは初めてだった。
 でも少し気になってはいた。ガラス越しに覗く店内はアメリカのお店みたいな雰囲気で、照明がそれほど明るくないのが大人っぽく見えた。お休みの日に入ってみようと思ったこともあったけど、ここに限らず駅周辺のお店は、日中はどこも酷く混み合っていた。
 この時間帯はさすがに空席が目立っていたけど、それでも私たち以外のお客さんが数組いて、それぞれに小さな声で話をしていた。
「素敵なお店ですね」
 カントリー調の落ち着いた店内を見回し、私も小声で切り出した。
 向かい合わせに座る伏見さんは、目を瞬かせた後、優しい表情で言った。
「もしかして、入ったことなかった?」
「なかったです。地元にないお店なので……」
 東京はすごい。私が知らなかったお店も、CMで見たことあるだけのお店も普通にある。ご飯を食べる場所も、服を買う場所も、ちょっと遊びに行きたい時だって困らないのが東京だ。選択肢が多すぎて悩む、という意味では困るけど。
「この辺りは何でもあって、すごいですよね」
 私が言うと、伏見さんは怪訝そうに小首を傾げる。
「桜さんはこっちの人じゃないんだね」
「はい。伏見さんは地元、こちらなんですか?」
「生まれも育ちも市内だよ」
 都内とは言わないところに何となく、こだわりを感じた。
「大学だけは神奈川だったけど、ここから離れたことはなかったな」
 伏見さんはそこでコーヒーを一口飲む。
 カップを持つ手はごつごつした関節の、とても男らしい手だ。だけど伏し目がちにコーヒーを飲む表情はやっぱり中性的で、とてもきれいだった。さらさらの髪が微かに揺れ、長い睫毛の影が下瞼にかかる。見惚れたくなる一瞬。
 直後、虹彩の薄い瞳と目が合うと、見惚れるどころではなくなってしまったけど。
「もっとも、この駅のすぐ裏が神奈川だからね」
 私がどぎまぎしたのに気づかなかったか、伏見さんはそのままの口調で続けた。
「東京に住んでいるのか、神奈川に住んでいるのか、二十六年経ってもよくわからない」
「そういうもの、なんですか」
 確かにここは県境にある町だ。伏見さんの言う通り、このお店からも歩いて五分で神奈川県へ行ける。私達が通勤に使っている小田急線も、ここから新宿へ行くまでに東京都に入ったり神奈川に入ったりと忙しい。
 だからかもしれない。この町は都心とは雰囲気が違い、見上げるほど高い建物もそれほどなくて、日本のどこにでもあるような街並みに見える。
「そういえば、ここにはアウェイ感があんまりないなって思います」
 私が同意を示すと、彼はどうしてか少し笑った。
「アウェイ感って、面白い言い方するね」
「お、おかしかったですか?」
「おかしくないよ。使ったことがない言葉だから、新鮮だったんだ」
 伏見さんは楽しそうに言って、またコーヒーを一口飲んだ。
 使ったことがない言葉、という彼の発言を、むしろ私は新鮮だと思う。

 伏見さんは高校の先生らしいけど、担当教科は何だろう。
 何となく、国語かなという気がする。本当に何となくだけど、言葉を大切にしている人だと感じたから。
 私はまだ、伏見さんのことを何も知らない。いっぱい聞きたいことがあるのに、何から尋ねていいのかわからないくらい知らないことだらけだ。もちろん今夜だけで全部知ろうなんて無理な話だし、焦ることはないんだろうけど。
 今は、ほんの少しもどかしい。
 目の前の好きな人について、知らないことがいっぱいあるのが。

 そうだ、知らないことと言えば――どうしても、確かめておきたい点があった。
「あ、あの、伏見さん」
 まだ温かいココアを一口飲んでから、私は恐る恐る切り出す。
「ちょっと聞きたいことがあるんですけど、いいですか」
「俺に答えられることなら」
 伏見さんはカップを置き、美しく居住まいを正した。
 もしかしたら真面目な話だと思われたのかもしれない。いや、真面目な話には違いない。少なくとも私にとっては。
 でも、そんなに姿勢を正して聞いてもらうほどの話ではないかもしれない。
 私は意を決して、だけどなるべく自然なトーンで尋ねた。
「えっと、伏見さんって……彼女とか、いるんですか?」
 いない、とは、思うけど。
 むしろ彼女がいるのに他の女の子をお茶に誘ったりする人だなんて思ってはいないけど、念の為、ちゃんと確かめておきたかった。
 そして私が思った通り、伏見さんはきょとんとしてみせた。
「彼女なんていたら、そもそも桜さんを誘ってないよ」
 それからまた、おかしそうに笑ってくれる。
「彼女はいません。人倫にもとることはしない、当たり前だろ」
 人倫にもとる、なんて言葉遣い、リアルで初めて聞いたかもしれない。新鮮だ!
 私が圧倒されていれば、彼はそこで意趣返しのような、悪戯めいた顔をした。
「桜さんこそ、付き合ってる人はいる?」
 さっき自分で尋ねたばかりの質問を彼から返され、私はなぜかぎくりとする。
 もちろん彼氏なんていない。伏見さん言うところの『人倫にもとる』ことをしているはずもない。
「い、いるわけないです!」
 私は慌てて答え、それから彼と同じように言い添えた。
「……いたら、こうして男の人と一緒にお茶したり、しないですから」
 ついでに言えば、彼氏がいなくても、誰かの誘いに必ず乗るってわけじゃない。
 今夜ついてきたのは、相手が伏見さんだからだ。
「そうか、そうだね」
 伏見さんは驚きもせず、腑に落ちたように顎を引く。
 たったそれだけの仕種さえ、驚くほどきれいな人だ。彼のご家族はどんな人たちなんだろうなと、その顔を見ながら思う。美男美女ばかりのご一家なんじゃないかな。
 私が見惚れているうちに、
「よかった。じゃあ、これからも君を誘っていいかな」
 彼が少しはにかんで、そう言ってくれたから。
 もういてもたってもいられなくなって、勢いよく頷いた。
「はい、是非! よ、よろしくお願いします!」
 駄目なんて言うはずがない。

 だけど、いいのかな。
 こんなに幸せで、夢みたいなことばかり続いちゃっていいのかな。
 憧れてた好きな人にどんどん近づいているみたいで、嬉しいけどすごくどきどきする。どうかこれが夢ではありませんように。
 そして私には、もう一つ、伏見さんに聞いておきたいことがある。
 夢みたいだってぼんやりしている暇はない。

 だけどそこで、
「今夜はもう遅いし、あまり話せそうにないからね」
 伏見さんが腕時計を確かめた。
 私も何気なく今の時刻を確認する。もう午後十時を過ぎていて、他のお客さんたちも、いつの間にかいなくなっていた。
 全然話足りないのに、もう終わりなんだろうか。
「そう……ですね、あの、そろそろ出ます?」
 名残惜しさに私が尋ねると、伏見さんは赤味がかった瞳を細めた。
「その前に、もう一つだけ。連絡先を交換してもらえないかな」
 スーツのポケットから携帯電話を取り出し、私を見つめながら続ける。
「もっと話したいから、よかったら是非」
 よかったら、どころか。
 それは私も、私の方こそ是非聞きたいと思っていたことだった。
 彼の方も同じように思っていてくれたなんて、それこそ本当に、夢みたい。
「もちろんです!」
 私は張り切って答えてしまってから、ちょっとだけ恥ずかしくなった。
「こちらこそ、ぜひお願いします。いつでも電話かけてください」
「本当にいいの? 遠慮しないよ」
 伏見さんはまた悪戯っぽく言い、私がどきっとしている間に表情を緩めた。
「でも、そう言ってもらえて嬉しいよ。それを聞かないうちは帰れないと思ってたから」
「え……?」
「連絡先、ずっと知りたかったんだ。会えない朝もあるからね」
 彼のその言葉は、私の意識を根こそぎ吹き飛ばしていくだけの力があった。
 私は何にも言えなくなってしまって、発熱したように熱い頬や耳を持て余しつつ、あたふたと彼と連絡先を交換し合った。

 一体、いつからなんだろう。
 彼が私の、連絡先を知りたいと思ってくれたのは――いつ、なんだろう。
 そういう話もいつか、彼から教えてもらえるだろうか。今夜はもう、これ以上振り絞る勇気もなければ、時間だってないけど、いつか。

 コーヒーショップを出た後、伏見さんは私をバス停まで送ってくれた。
 駅前のバスターミナルまでは本当に目と鼻の距離だったけど、お言葉に甘えて送ってもらうことにした。実は上京してから、こんな夜遅くまで出歩いたことがなくて、ほんのちょっと心細かったからだ。
 さっきまで暖かいお店にいたからか、外は少し肌寒かった。街明かりはまだ眩しいくらいに、そこかしこに点っていて、やっぱりここも東京なのかもなと不意に思う。
 でも、アウェイ感はあまりない。
 一人ぼっちじゃないから、かもしれない。
「バス降りてからはどのくらい歩くの?」
「五分もかからないです。だからバスさえ乗っちゃえば大丈夫です」
「そうか。でも、遅くまで引き留めてごめん」
「そんな、楽しかったですから。ご一緒できて嬉しかったです」
 二人でぽつぽつ話しているうちに、あっという間にバス停に着く。こんな時間でも長い行列ができていて、私はその最後尾に並んだ。
「気をつけて帰ってね、桜さん」
 伏見さんが軽く手を挙げる。
「はい。おやすみなさい、伏見さん」
 私がお辞儀をすると、彼は微かに目を瞠ってから、同じように頭を下げてきた。
「おやすみなさい、桜さん。また連絡するよ」
「はい、私も連絡します!」
 その返事を聞くと、伏見さんは微笑み、踵を返した。
 私はバスを待つ行列から、その後ろ姿が遠ざかるのをずっと見守っていた。

 これから彼は、どんな部屋に帰るんだろう。
 そこには彼を待つ人がいるのか、いないのかもまだわからないけど――いつか、聞いてみたい。
 そういうことを次の機会までに集めておいて、たくさんたくさん集めておいて、次にゆっくり話せる時を心待ちにしていよう。

 一人ぼっちになってからも、私は幸せな気持ちでこっそり笑っていた。
 あっという間だったけど、今夜はとても、素敵な夜だった。
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