Tiny garden

Find me, Find you.(3)

 その日は一日中、何だか調子が出なかった。
 朝のラッシュを一人で乗り切るのは大変だったし、押し合いへし合いしてすっかり体力を使い果たしてしまった。いつもどれほど助けられているか、身に染みてわかった。
 へとへとになって辿り着いた会社では、初めて残業をする羽目になった。これから本格的に仕事を教わるということで、残業が増えるかもしれないとも言われた。憂鬱になりながらも午後八時まで働き、退社した後は夜の新宿の街を一人で抜けて駅まで歩いた。平日だというのに、そして夜だというのに新宿はどこも人が多くて、一人でいると少し寂しくなった。無事に駅へ辿り着いた時には溜息すら出た。

 明日からどうしよう。
 こんな気持ちで彼と、今まで通りに顔を合わせる気にはなれない。初めて故郷を離れて上京して、初めて社会人になって、不安だらけだった私の心をあの人の優しさが救い上げてくれた。私はずっと彼の存在を励みにしてきたし、好きになっていたから、もっと近づきたい、話をしてみたい、知りたいって思うけど、彼はそう思っていないかもしれない。
 いっそ聞いてしまえばいいんだろうか。
『私のこと、教え子の一人だと思ってご親切にしてくださったんですか』
 って。
 それを聞いてしまえば、どんな答えが返ってこようと今まで通りにはいられない。だけど一人で思い込んでもやもやしているよりはまだいい。
 あとはそれだけの勇気が、明日の朝の私に残っているだろうか。

 物思いに耽りながら駅構内を歩いていると、
「――桜さん」
 ふと背後から、名前を呼ぶ声がした。
 だけど私を名前で呼ぶ人は、この東京では涼葉ちゃんの他にはいないはずだった。それに聞き覚えのあるこの柔らかい声は――。
 振り返ると、彼がいた。
 私が驚きに凍りつくのを見て、微かな笑みを浮かべる彼がいた。
 夜に会うのは初めてだった。朝と違って少し疲れていたようにも見えるし、スーツには朝にはなかった皺が寄っている。だけど間違いなく彼だった。その顔つきも笑い方も、私を見つけた色の薄い瞳も。
「あ……」
 声が出なくなる私に、彼は申し訳なさそうに詫びてきた。
「呼び止めてごめん」
 柔らかい声に私もようやく我に返る。
 呆然としている場合じゃない。せっかく彼が声をかけて、呼びとめてくれたのだから、応えなければ。
「いえ、大丈夫です」
 それからすぐ、彼に名前を呼ばれたことを思い出して尋ねた。
「私の名前、ご存知だったんですか?」
「前に電車の中で、お友達と話しているのを聞いてたからな」
 そこで彼はちょっと気まずげにして、
「盗み聞きみたいでごめん」
 それだって謝られるようなことではなかった。私と涼葉ちゃんは名前で呼び合う間柄だったし、あんなに人だらけの電車の中で話をしたら、周りには内容も筒抜けだろう。毎朝見かけていたという彼なら、私の名前を覚えていても不思議じゃない。
 それに、嫌な気はしなかった。
「それと、まだ君の名字は知らなかったから」
 彼は弁解するように眉尻を下げた。
「いきなり名前呼んじゃって、嫌じゃなかったかな」
「嫌なんてこと、全然ないです」
 決して嫌じゃない。それどころか今更のように頬が熱くなって、心臓が速くなって、頭がぼうっとしてきた。
 桜さん、だって。
 この人は教え子もそんなふうに呼ぶのだろうか。
「あと、朝は話せなかったから」
 彼が溜息をつく。
「君がいたのは見かけてた。声をかけたかったけど……」
 教え子達の前ではできなかった。そういうことだろうか。
 夜の新宿駅も行き交う人は多かった。立ち止まって向き合う私達を、通り過ぎていく何人かが不審そうに振り返る。
「先生、だったんですね」
 私が切り出すと、彼は二、三度瞬きをした。
「ああ。見てた?」
「はい。生徒さん達とご一緒のところを、今朝方」
「じゃあ君も、俺を見つけてくれてたんだな」
 朝、通勤ラッシュで混み合うホームの中、私達はお互いを見つけていた。あれだけ大勢の人がいるのに毎朝ちゃんと見つけられた。私はそれをまるで奇跡のようだとずっと思っていた。
 だけどそれは、本当に奇跡だろうか。
 確かめてみるのには勇気が必要だった。きっとお名前や連絡先を伺うのと同じだけの勇気だ。自信のほどは朝よりもずっと減少してしまったけど、それでも私は尋ねずにいられなかった。
「私のこと、生徒さんと同じように思ってくれていたんですか?」
 私は彼に問いかける。
「私を何かと気にかけてくださったのも、電車の中で庇ってくださったのも……そういうことだったんですか?」
 すると彼は意外にも、うろたえたようだった。
 あの特徴的な色合いの瞳を見開き、一瞬言葉に詰まるのがわかった。だけど私を見て、微笑み直して、やがて穏やかに答えた。
「初めのうちはそうだったよ」
 やっぱり、そうだった。
「俺の最初の教え子は、早い子ならもう社会に出てる。だから寂しそうな顔の君を見て、あの子達も同じような顔をしてるんじゃないかって思ったら、放っておけなかった」
 きっと彼はいい先生なのだろう。生徒達に慕われ、生徒達を思いやる、とてもいい先生なのだろう。
「でも当たり前だけど、君は俺の教え子じゃない」
 彼は軽く首を振り、更に続けた。
「君の方がずっと大人で、強かったな。君はすぐに寂しそうな顔をしなくなった」
 それは違う。今度は私がかぶりを振った。
「私が不安を捨てられたのは、あなたのお蔭です」
「俺の? 本当に?」
「はい。あなたがいたから、私は……」
 初めて暮らす街、初めてのお仕事、初めての電車通勤。全てが不安で辛かった時期も、彼がいたから乗り越えられた。彼を好きになった途端、全ての暗い気持ちがどこかへ飛んでいってしまった。今だってそうだ。彼の答えを聞いたら、何もかもが吹っ飛んでただ一つだけの気持ちが残った。
 彼のことが、私は好きだ。
「あの、もし、私のことを教え子だと思ってないのなら」
 そう前置きしようとした私に、彼はいつか見せた男の人らしい笑みを浮かべてみせた。くだけた、気を許してくれたように見える笑みだ。普段の静かな笑い方とは違い、目の当たりにするとどぎまぎしてくる。
 お蔭で今度は私が言葉を詰まらせ、彼は念を押すようにもう一度、
「思ってないよ」
「じゃあ、あの」
 それを尋ねた次は、一体何を聞くんだったっけ。
 今朝はあれこれ考えていたはずなのに、遠い記憶と成り果てている決意はそうそうたやすくは蘇ってこない。そもそもさっきの質問はわかりやすすぎる。私の気持ちはもう彼に知られているだろうし、そのことを認識したらもう倒れそうだった。
 言いたい言葉が出てこない私に、笑顔の彼が言った。
「君とは、もっと話したいと思ってた。君を毎日見てるうち、君の話をじっくり聞いてみたくなったんだ」
 私も。
 私も、同じように思っていた。
「朝のうちだと、今朝みたいに見つかる心配があるから、どう誘おうか悩んでたけど……」
 彼は色素の薄い目で、ひたむきに私を見つめてくる。
「桜さん。今度、ご飯でも行かない?」
 いつもは柔らかい声がそこで、ほんのわずかに硬くなった。
 だから私は勢い込んで答えた。
「はい、是非! 私、とっても美味しいお店を知ってるんです」
「……よかった」
 彼が目に見えて胸を撫で下ろす。
 それで私も、さっきの質問を後悔せずに済んでよかったと安堵する。勇気を出して聞いてみてよかった。同時に恥ずかしくてたまらなかったけど、幸せな気持ちの方が強かった。
 奇跡かどうかはわからないけど、彼は私を見つけてくれて、私もまた彼を見つけられた。それだけは揺るぎない事実だ。一千万という人がいる東京で、私達はこうして出会うことができた。
 だからこのまま前へ進んでしまおう。
「そうだ、先生」
 ふと思い出したのは、今朝方思い描いていた彼への、本当に聞きたかった質問だった。
 新宿駅の構内を並んで歩き出しながら、彼が困ったように笑う。
「俺は君の先生じゃないよ」
「でも私、まだあなたのお名前を知らないです」
 まずはお名前から。
 それから連絡先と、お勤め先のことと、彼女の有無と、あと――。
「お名前以外にもいろいろ聞きたかったんです、あなたのこと」
 私がねだると、彼は嬉しそうに声を立てて笑い出した。
「本当に? 今夜、君を見つけられてよかった!」

 私も、あなたを見つけられて、よかった。
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