Tiny garden

Find me, Find you.(1)

 改札を抜けてホームへ出ると、涼葉ちゃんが手を振っていた。
 ひしめく人波の中に彼女を見つけてほっとする。人にぶつからないよう気をつけながら近づくと、スーツ姿の涼葉ちゃんが微笑んでくれた。
「おはよう、桜ちゃん」
「おはよう、涼葉ちゃん」
「今朝もうんざりするほど混んでるね」
「混んでるねえ」
 お揃いみたいにそっくりなリクルートスーツの私達は、どこからどう見てもこの春からの新社会人だ。二人とも黒髪に戻して、無難に結わえて、化粧もすっかりオフィス仕様だった。
「この人の多さ、さすが東京だね」
 涼葉ちゃんが溜息をついたのと同時に、電車の乗り入れを知らせるアナウンスが響いた。
 春風と共に電車がホームへ滑り込んでくる。やがてドアが開き、どっと雪崩れ込む人の波に私達も飲まれていった。

 就職の為に上京して、ようやく半月が過ぎた。
 誰かに言えば『まだ』とか『たったの』と言われそうだけど、私にとっては本当に、やっとの思いで過ごした半月だった。
 初めて暮らす街、初めてのお仕事、初めての電車通勤。東京へ出てくる前は正直、ほんの少し憧れもあったのだけど、実際に半月も暮らしてみれば憧れどころではなかった。毎朝大勢の人に揉まれ潰されそうになりながら通っている。仕事にはまだ慣れていないどころか、他の社員の顔さえ覚えきれていない。
 そんな日々の中、私にとって唯一の光明は涼葉ちゃんだった。
 彼女とは大学のゼミが一緒で、その頃からの友人だった。たまたま就職先が同じ東京の小田急沿線で、借りた部屋からの最寄駅も同じだったから、こうして一緒に通勤している。
 知らない土地で見知った顔の人が傍にいるというのは心休まるものだった。毎朝、涼葉ちゃんと顔を合わせるとほっとしたし、涼葉ちゃんも同じように思っているみたいだった。
 でもそれも、どうやら終わってしまうようだ。

「桜ちゃん、先に言っとくね」
 通勤ラッシュですし詰めの車内にて、かろうじて吊革に掴まった涼葉ちゃんが言った。
「私、明日から早出だから。当分一緒には出勤できないみたい」
「そうなの? 早出ってどのくらい?」
 人波に揉まれつつ私が聞き返すと、涼葉ちゃんは憂鬱そうに続ける。
「一時間早く出勤しなきゃいけないの」
「えっ、そんなに?」
「そうだよ。あり得なくない?」
 今日までの半月の間、私達は六時半頃の電車に乗って出勤していた。お蔭で毎朝五時起きだ。それより更に一時間早起きなんて大変に違いないのに。
「新入社員は慣例として朝礼前の清掃があるんだって」
 涼葉ちゃんの口調は当然ながら、心の底から面倒くさそうだった。
「だから明日からは先行くね、ごめん」
「う、ううん。涼葉ちゃんのせいじゃないし」
 私は隣の人にぶつからないよう小さく首を振り、
「にしても大変だね。掃除って新人ばかり?」
「そう。皆もう不満たらたらでさ」
 そこで涼葉ちゃんは、すし詰めになっているにもかかわらずおかしそうに笑った。
「同期の子と飲みに行ってもその話ばっかり。愚痴言う会になっちゃって」
「そうなんだ。愚痴言う会、楽しそうでいいな」
「まあね、確かに結束は強くなりそう。そのくらいかなメリットは」
「ふうん……新人さん多いの、羨ましいな」
 涼葉ちゃんの勤務先は一部上場企業で、今年度採用された新人さんも多かったらしい。時々こうして同期の子の話をすることがあって、私はそれが羨ましい。
 私の勤め先では、今年度の新人は私だけだ。愚痴を言い合う相手もいないし結束する必要すらない。
 そういうのもあって、涼葉ちゃんと会える朝の通勤時間をずっと励みにしてきた。東京では唯一の友人、そして親しく話せる相手だったからだ。
 だけど、それも明日からはなくなってしまう。
「そんな寂しそうな顔しないでよ」
 吊革を掴んだまま、涼葉ちゃんが私を肘でつつく。
 顔に出ていたことに私は慌てて、
「ご、ごめん。大変なのは涼葉ちゃんなのに」
「ありがとね。落ち着いたらまたご飯食べに行こ」
 涼葉ちゃんの笑顔はからりとしていて、今の私には少し眩しかった。

 代々木上原の駅に着くと、涼葉ちゃんは先に電車から降りてしまう。
「じゃあね、桜ちゃん」
「うん、またね涼葉ちゃん」
 手を振ってみたけど見えたかどうか、彼女の姿は人波の向こうへ消えてしまった。ホームへ下り立ったところすら見えなかった。
 涼葉ちゃんがいなくなると、いつも決まって心許ない気分になる。いい大人が、友達がいなくなったくらいで寂しいだの心許ないだのおかしなことだろうけど、新生活というのはそんな忘れかけていた甘ったれ根性さえ蘇らせるものなのだ。
 そして再び扉が閉まり、終点の新宿まであと約七分間の苦行は続く。私はこの時間が一番苦手だった。快速ならたった一駅ではあるんだけど、涼葉ちゃん一人が降りたところで通勤ラッシュが解消されるはずもない。彼女がいた空間はたちまち押し寄せてくる知らない人達の質量で埋まり、発車と共に揺れた車内で私はぎゅうっと押し潰された。
 周りの人は皆、私と同じようにスーツ姿だ。その中で押し合い圧し合いする私もまた没個性の量産型新社会人であり、こうしているだけで社会の歯車として知らず知らず組み込まれてしまったような気分になる。無理やり押されても潰されても足を踏まれても文句は言えず、代わりに私も誰かを押してはいないか気を遣う余裕はない。
 ただ、誰かの硬い鞄の角が脇腹に突き刺さった時はさすがに声が出た。
「痛っ」
 結構、来た。鈍い痛みに吊革から手を離してしまう。
 うずくまりたかったけどそんなことができるはずもなく、痛みを堪えて脇腹を押さえると、その時車体が揺れて思わずよろけた。
「わっ……」
 足がもつれて倒れそうになった、その時だった。
 誰かの手が私の肘を掴んだ。
 ぎょっとする間もなく私の身体は引っ張られ、人混みからまるで絞り出されるようにドア前へと辿り着く。
 私を引っ張り出したその人が目の前に立った。ネクタイを締めたスーツ姿の男性だった。
「ちゃんと立ってないと危ないよ」
 やんわりと、注意する口調でその人は言った。優しい声音だったけど、聞き覚えはない。
「す、すみません」
 頭を下げてから視線を上げる。
 見えた男の人の顔にも全く覚えはなかった。全体的に線が細く、さらさらした髪の人だった。無表情にも、意思が強そうにも映る顔立ちは整っていて、私よりは確実に年上に見える。冷静な目は虹彩の色が薄く、他の人よりも赤みが強い。その目が気遣うように私を見下ろしている。
「謝らなくていいけど。俺もごめん、急に引っ張って」
 表情の静かさとは裏腹に、声音はとても柔らかい人だった。詫びた後でその人は周囲を窺うように視線を巡らせ、続けた。
「もうすぐ着くし、ここにいなさい。安全だから」
「はい」
 私は頷いたけど、すぐ目の前に見知らぬ人がいる状況では何となく落ち着かない。
 ずっと顔を見つめているのも失礼だろうし、自然と視線を下げてしまう。そうするとその人のダークブルーのネクタイと、白いシャツの襟元から覗く尖った喉仏に目がいく。目の前にいるのが男の人だと思うと余計に緊張した。
 でも、この人は私を助けてくれた。
 あの時引っ張ってもらわなかったら倒れていただろうし、しかもこの人は私を助けようとして、はっきりとその意思を持って動いてくれたのだ。その親切にはお礼を言うべきだ――そう思った時、電車が止まった。
 長いようで短い七分間だった。ドアが開き、私は新宿駅のホームへ押し出される。あの人にお礼を言わなきゃ、急いで振り返ると、あの男の人もこちらを見ていて目が合った。
「あのっ、ありがとうございました!」
 声を張り上げると、その人は私を見て少し笑った。
 ほんの少し、本当にちょっとだけだった。唇の両端が持ち上がったというより、わずかにだけ緩んだような笑い方だった。色素の薄い目も一瞬細められたかと思うと、彼は言った。
「気をつけて。お仕事、頑張ってね」
 優しい言葉だった。
 一瞬、息を呑むほどだった。
「――あ、は、はいっ」
 我に返って答えた時にはもう、その人は踵を返してホームを後にしていた。そして私も突っ立っているわけにはいかず、周囲からの不審そうな視線を浴びながら駅構内へと向かう。
 だけど、頭がぼうっとしていた。歩きながらもどこかふわふわと、地に足がつかない気分だった。職場に着いてからもあの人の声と言葉を思い出して、その度にぼんやりしたくなって慌てて気を引き締め直した。
 何だろう。見知らぬ人に優しくされたのが嬉しかったからかもしれない。

 翌朝も私は出勤すべく、最寄駅のホームへ出た。
 昨日聞いていた通り、いつもの時間に涼葉ちゃんはいなかった。
 だけどあの人がいた。
 人混みの中、老若男女を問わずスーツだらけの出勤ラッシュの最中でも、私の目はあの人を見つけた。線の細い、さらさらした髪の、スーツ姿の男の人。運がよかったのかもしれない。あの人もこちらを向いていて、明るい色の瞳で私を見ていて、あ、と口を開けてみせた。
 いても立ってもいられず、私はあの人に駆け寄った。人にぶつからないように近づき、傍までようやく辿り着いてから頭を下げる。
「昨日は、ありがとうございました!」
 あの人は、昨日と同じ笑い方をした。唇の両端がわずかにだけ緩んだ後、目を細めてみせた。
「どういたしまして。大したことはしてないけど」
 声音が柔らかいのも記憶していた通りだった。
「そんなことないです! 助けていただいて、本当に嬉しかったです」
 私がもう一度頭を下げると、その人は押し留めるように手を振った。
「いいよ、お礼言われるようなことじゃないし」
「そんなことないですったら」
「律儀な子だね、君」
 そう言うからには、やっぱりこの人は私より年上なのかもしれない。
 私は改めて、恩人たるこの人の顔を見上げた。整った顔立ちは輪郭がきれいで、中性的な容貌にも見えた。何より明るい瞳の色が印象的で、見つめられるとまた頭がぼうっとしてくる。
「あの……」
 お礼を言い終わってしまうと、急に言葉が出なくなった。
 考えてみれば、助けてもらったご縁はあるけどそもそも知らない人だ。世間話ができるような間柄ですらない。お礼を言った後は速やかに立ち去るのが礼儀なのかもしれない。
 だけどどうしてか動けずにいたら、
「今日は、一人? お友達と一緒じゃないんだ?」
 彼の声がそう言って、私はぎょっとした。
 どうして涼葉ちゃんのことまで知ってるんだろう。
「ごめん。この駅でよく見かけてたから」
 私の疑問に答えるように、彼はまた少し笑った。
「乗る駅も同じ、降りる駅も同じだからね。何となく顔覚えてたよ」
「そ、そうだったんですか。今日は一人です、友達は早出で」
 没個性、量産型新社会人の私の顔を覚えていたなんてすごいことではないだろうか。ただでさえこの駅にも、これからやってくる電車にも、私と同じようなスーツを着た社会人の皆さんが溢れているというのに。
「いつも、お友達が降りた後で心細そうにしてたね」
「え!?」
 どきっとするような指摘に声が裏返る。
 そんな私を彼は不思議な色の瞳でじっと見つめてきた。
「お友達と一緒の時は楽しそうにしてるのに、一人の時は何だか不安そうだった。それでかな、顔を覚えてたのは」
 私はその瞳から視線を逸らせなかった。
 正直に言えば恥ずかしかった。もういい大人で、就職もして立派な一社会人だというのに、新生活が不安だとか友達がいないと寂しいとか電車通勤が苦手だとか――そんなことを他人にも悟られてしまうくらい顔に出していたのだろうか。だとしたらみっともない。
「すみません、まだ上京したてで慣れてなくて……不安だらけだったんです」
 ようやく半月過ぎたところだった。初めて暮らす街、初めてのお仕事、初めての電車通勤、何もかもに慣れていなかった。友人と一緒に通えなくなるというだけで妙に心細かった。
「ああ、そういうものなんだろうな」
 彼が、どこか腑に落ちたように頷いた。
 それから何度か瞬きをして、
「でも話してみたら意外と元気な子で、ほっとしたよ」
 と言った。
 もしかしたら、気にしてくれていたのだろうか。赤の他人の私を心配してくれていたのだろうか。こんなに優しい人が存在しているだなんて、世の中捨てたものじゃない。
 またしても頭がぼうっとし始める私の前で、彼は急にはっとした。
「あ、こんなこと言っといて何だけど、ストーカーとかじゃないからね」
「そ、そんなふうには思ってないです」
「たまたまなんだ、顔覚えてたの。君の寂しそうな顔見かけたから」
 彼のその気持ちが嬉しい。
 この街のことはまだ知らないことだらけだけど、私を気にかけてくれる優しい人がいた。それだけで何だか頑張れそうな気がしてくる。
「ありがとうございます。今後はなるべく顔に出さないようにします!」
 私がお礼を言うと、彼は初めて声を立てて笑った。
「それでもいいけど、君は顔に出る子だよ。抱え込まない方がいい」
 無表情そうに見えた整った顔に、ふっと男の人らしい笑みが浮かんだ。そういう笑い方をする人には見えなかった。気を許してくれたような、くだけた笑みだった。
 私がその笑顔に思わず見入った時、電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。彼は笑みを潜め、私に向かって軽く手を挙げた後でホームにできた行列に加わる。一瞬遅れてから、私もその列の最後尾に並んだ。
 並んだ後もしばらく、彼の後ろ姿を見ていた。
 私も、覚えていたいと強く思った。
▲top