Tiny garden

蜜月旅行(5)

 潮風は、湯上がりの肌にも心地良かった。
 旅先での一夜が明け、二日目の朝。宿泊したホテルの客室露天風呂は予想以上の素晴らしさで、私と瑞希さんはわざわざ早起きまでして朝湯を楽しんだ。チェックアウトまではあと一時間、今は着替えも済ませ、ぼんやり窓辺の景色を眺めている。
 客室からもやはり海が見えた。昨日と同じ五月晴れの午前九時、凪の海面は空よりも深い青。波間が魚のうろこみたいに光るのを、何も考えずに見つめているのが好きだった。
 もっとも、ぼんやりするだけが好きな訳でもない。ふとした時に隣から抱き寄せられるのも、そうしてこめかみ辺りに口付けられるのも、どきりとするけど嫌いじゃない。
「海だけじゃなくて、僕の方も見て欲しいんだけど」
 瑞希さんに耳元で告げられたから、私はおかしさとくすぐったさから少し笑う。
「見てますよ、ここ半年は毎日欠かさず」
「だけどぼんやりする癖は相変わらずだ。せめてこういう時間に考えるのは、僕のことだけにしてくれないかな」
 それだって結婚してからは一日たりとも欠かさずに考えていることだ。でも――彼たっての希望を拒む気もなく、私は湯上がりの気だるさを口実に、彼の肩へと頭を預ける。
 触れ合っているとわかる、二人揃って体温が高い。僅かに視線を動かせば、すぐ傍にある彼の襟首もうっすら赤く見えていた。開け放った窓から吹き込む風がいい気持ちだった。
「今の君も色っぽくていい」
 ふと、もたれかかる私を眺め、瑞希さんはいとおしげに言ってくれる。私に対してそんなことを言うのは彼だけだ。濡れた髪を指先で、やさしく梳いてくれるのも。
 もちろん、彼だけでいい。
 私は彼の言葉を嘘ではないと思っているし、彼の前ではその言葉通りの自分でありたいとも思う。
 ただ、半年くらいでは色気の出し方なんてわかるはずもなく、そしてこういう時間を平静を保ったまま過ごせるほどの度胸もまだなかった。夜はともかく、明るいうちに言われるとうろたえたくなる言葉でもある。どぎまぎしながら別のことを答えるのが精一杯だ。
「もうじき、旅行も終わりですね」
 すると彼の表情は苦笑に変わる。
「家に着くまでが旅行だからまだ終わりじゃない。……とは言え、この街を離れなくちゃいけないのは寂しいな」
「はい。いい旅行でした」
 いい思い出しかなかった。
 幸せな記憶だけで組み立てられて、もうじき完結しそうな、そんな新婚旅行だった。
 だから終らせてしまうのは寂しい。家に帰っても瑞希さんが傍にいてくれるのはわかっているけど、それでも。
「帰りも寄ってくれって言われたから、あいつらの店に寄ってくけど、いい?」
 瑞希さんが尋ねてくる。播上さんから連絡があったのは今朝のことで、帰り際に少し時間をくれないかと言われたらしい。私としては反対する理由もない。
「もちろんです。昨日のお礼もしたいですから」
 答えたものの、お礼を告げるだけでは足りない気もするのが悔しかった。昨日の私はやや緊張していたし、もっとお二人と話がしたかったのに、出来なかった。もう少し時間があればと思ってしまう。
 私の名残惜しさを読み取ったか、宥めるように彼が語を継ぐ。
「今度はもっと長居してやろう。次こそしっかり有休も取って」
「そうですね、頑張りましょう」
 有休の取りにくさはこの先も相変わらずだろうけど、努力はする。出来る限り。
 またこの街に来たい。そして播上さんや真琴さんともっと話をしたい。焼肉のエピソードは教えてもらったけど、他にも瑞希さんと共有している記憶がたくさんあるだろうから。私の知らない彼を知りたい、それが幸せな記憶なら尚のことだ。
 そして私が傍にいる時間も、新しい幸せとして記憶に残してゆけたらいい。
「で、播上たちの定休日にも合わせてだ。次の機会には四人で出歩くのも面白そうじゃないか?」
 瑞希さんの提案にうきうきしてくる。来年の話をすると鬼が笑うと言うけれど、この話はどれほど笑われてしまうだろう。なるべくならあまり笑われないうちがいい。
「はい、是非。きっと楽しいはずです」
 すぐに答えると、彼は私の手を取って、指先に軽くキスをする。意外と柔らかい唇の感触も、半年くらいでは慣れない。彼のそういう、ためらいのなさにも。
「ありがとう、一海。……君で良かった」
 でも、彼の言葉は何もかも、素直にうれしいと思えるようになった。

 ホテルを出た後、私たちは播上さんのお店へ再び立ち寄った。
 いい思い出ばかりの旅について、是非お礼をと思う私たちを、お二人は昨日と同じく仕事着姿で待っていてくれた。午前のうちからお店の準備をするのかと思いきや、なんと私たちの為にお弁当を作っていてくれたらしい。道中のお昼ご飯にどうぞと差し出された折り詰めにはびっくりして、感謝の言葉にすら詰まってしまうほどだった。
「こんなにしてもらって何とお礼を言ったらいいか……お蔭でとっても楽しい旅行になりました」
 私が慌てて頭を下げれば、
「いや、このくらいしか出来ないから、あまり気にしなくても」
 播上さんはどことなく照れた様子で、でもごく当たり前だと言いたげに応じてくれた。真琴さんも隣でにこにこしていて、優しいご夫婦だと心底から思う。優しいお友達だとも思う。
「このくらいって、いろいろ世話になっただろ。いい宿も取ってもらったし」
 同じく、慌てている瑞希さんに対しても、播上さんはかぶりを振ってみせる。
「いいよ。ほら、リピーターを確保するのも観光都市としては必要なことだし」
 話の途中で笑っていたのは、照れのせいなんだろうか。困ったような、でもうれしそうな笑い方が印象的だった。そう言われたら是が非でもリピーターにならなくてはいけない。少なくとも播上さんのお料理にはすっかり惹きつけられてしまった。
 真琴さんがにんまり笑んで、播上さんの脇腹を冷やかすみたいに肘で突く。それで播上さんは一層はにかみ、私と瑞希さんは思わず顔を見合わせる。結局つられて、笑ってしまったけど。
 友人同士から始めたご夫婦、やっぱり羨ましい。お二人のことももっと知りたかった。長い年月が礎としてあるお二人の仲の良さ、息の合った会話ももっと見ていたかった。次の機会があれば――必ずあるだろうから、その時はたくさん話そう。いろんなことを聞かせてもらおう。そう心に決めた。
 場の笑いが一段落してから、やがて瑞希さんが息をつき、切り出した。
「じゃあ、また来るよ」
「ああ。待ってるからな」
 今度ははにかむこともなく、穏やかに答える播上さん。
「次も是非、ハンバーグがいい」
「……覚えとく」
 瑞希さんが最後に告げた言葉も、真剣なそぶりで受け止めていた。

 私たちは車に乗り込み、播上さんのお店を離れた。
 お二人はわざわざお店の外へ出て、ずっと手を振り見送ってくれた。車が通りを曲がり、サイドミラーに姿が映らなくなるまでずっと――私は頭を下げるべきか一瞬迷ったけど、思い直して手を振り返した。大きく振った。
 そして車は昔ながらの住宅街を通り過ぎ、景観に配慮した近代風の街並みから離れていく。海のすぐ傍にある温泉街は、路面電車の線路沿いに抜けた。駅前通りからは地名入りの案内標識が現れて、高速の入り口は難なく目指せそうだった。
 ゴールデンウィークの最中、道は少し混んでいる。名残惜しい気分にはぴったりのスピードかもしれない。
 私は運転席にいる瑞希さんの横顔を眺めていた。彼はあの港町を出る時、さすがに寂しそうな表情でいた。それでも真っ直ぐ前を見て、ひたすら車を走らせている。
 ふと呟きが零れたのは、再び海が見えた時だ。
 市街地を抜けた道路が海岸線を追い駆け始めて、青い水面と光る波とが窓の向こうに広がった瞬間、
「自慢の友達だ」
 走行音にもエアコンの音にも負けない声量で聞こえた。
 運転席の横顔はようやく笑んでいた。実に幸せそうに、だけど今頃になって何かを思い出して、改めて照れているみたいに笑んだ。私の視線に気付いてか、微かな照れ笑いの声も漏れた。
 くすぐったい感情が私の胸にも込み上げてくる。彼の幸せを、私も共に感じている。
「素敵な方たちですね」
「そうだろ?」
 私の言葉をためらいなく肯定する瑞希さん。――そんな素敵なお友達のいる彼は、私にとって間違いなく自慢の夫だ。播上さんたちと同じように、彼もまた素敵な人だと思う。
 そう感じているのは私だけではないだろうけど、それでも良かった。その方が良かった。そういう瑞希さんのことを愛しているんだから。
「絶対、また来ましょうね」
 告げた口調がねだるようになって、瑞希さんにはよりうれしそうにされた。
「君がそう言ってくれる子で、本当に良かった」

 新婚旅行はもうじき終わりを告げる。
 締めくくりの幸せな記憶は、途中、どこかに停まって食べる美味しいお弁当だ。それが楽しみでしょうがなくて、どうやら旅の最後まで笑っていられそうだった。
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