Tiny garden

歩いて帰る日

 今日は自転車で出勤しなかった。
 朝からとてもよく晴れていて、空気はかなり冷え込んでいたけど風は弱く、絶好の自転車日和のはずだった。だけど私は大好きな自転車に乗らなかったし、巡くんも車を置いて、二人で電車に乗って出勤した。
 なぜかと言えば、本日は嬉しい嬉しい仕事納めだからです。

 大掃除を終えた後、我々広報課員は缶ビールの缶をべこべこぶつけ合って乾杯した。
「今年一年、お疲れ様。毎年ながら忙しい一年間だったね」
 小野口課長が課員一同を労えば、東間さんもほっとしたように微笑む。
「よかったですね、ちゃんと仕事が納まって」
「うん、仕事納めで納まらないと困っちゃうからね」
「全くです。課長もお疲れ様でした」
 東間さんは小野口課長に深々とお辞儀をした後、くるりと私の方を向き、持っていた缶ビールをちょこっと掲げる。
「園田ちゃんもお疲れ様。これで仕事始めも安泰だね」
「ですね。その為に年末進行頑張ったようなもんですから」
 頷く私の背中や肩には、ここ一週間ほどで溜め込んだ疲労感が重くのしかかっていた。
 今年度の広報課も年末は非常に忙しかった。クリスマスのお休みが明けてからは連日のように残業をし、仕事納めの日までに全ての仕事が片づくように頑張った。ここ数日は家のことも疎かになってて、巡くんも当たり前だけど忙しい様子だったから、ご飯は豆腐丼しか食べれてない。美味しいからいいけど。
 でも頑張ったお蔭で、無事に仕事の山を乗り切れた。これで気分よく年末年始を過ごせそうだった。
「園田ちゃんは年末年始、どう過ごすの?」
「特に予定ないんで、のんびりします。年明けたら忙しいですし」
 私の答えを聞いた東間さんは、納得したように頷く。
「そうだよね、結婚するんだもんね」
「それはまあ……籍入れるだけですからどうってことないですけどね」
 年が明けて、来年の一月十日。
 その日が、私と巡くんの結婚記念日になる予定だった。
 二人で一緒に婚姻届を出しに行こうって約束している。残念ながらその日は平日なので、仕事の休憩中に行くか、時間外で提出するか迷っているところだった。自転車に乗れたら昼休み中でも難なく行って帰ってこれそうなんだけど、こればかりは天気次第としか。
「だけどその後、結婚式もあるでしょ」
 東間さんは缶ビールをちびちびやりながら、私をしきりにつついてくる。
「私、すっごく楽しみにしてるの! 園田ちゃんも待ち遠しいでしょ?」
「そ、そうですね。結構待ち遠しいかも……」
「ドレスの写真もきれいだったもんね。早く本物の花嫁さんが見たいなあ」
 それから私の耳元で、からかうように囁いた。
「あの写真、撮った人の愛が伝わってくるいい写真だったよ」
 ドレスの試着の際、写真を撮ってくれたのはもちろん巡くんだ。愛があるのは当然だろうけど、それを見た人に指摘されるとめちゃくちゃ照れる。
「東間さん、酔っ払ってません?」
 照れ隠しにつつき返すと、東間さんは肩を揺らしてくすくす笑った。
「まだ一本目だし、全然。開放的になってるだけじゃないかな」
「一年の最後の納会、そりゃ開放的にもなるよ」
 と、小野口課長もお寿司をつまみながら同意を示す。
「僕も幸せな花嫁さんを見に行くのが楽しみでしょうがないよ、園田さん」
「課長もですか!?」
「当然だろう。可愛い部下にいいご縁があったんだ、僕だって嬉しいさ」
「いえそこじゃなくて……ここぞとばかりにつつかれてるなって」
 先輩と上司から集中的にからかわれ、私はだんだんそわそわしてきた。
 だけど小野口課長は穏やかに笑んで、
「そういうものだよ、園田さん。誰もが通る道だから覚悟しておくように」
 まるで実体験であるかのように、しみじみ語ったのだった。

 納会が終わった後、私は隣室にある人事課を訪ねた。
 今日はどこも早上がりだから、巡くんとも一緒に帰る約束をしている。向こうもぼちぼち退勤時間だったのか、人事課のドアは開けっ放しで中の様子がよく見えた。
 彼は――いた。
 人事課の部下の子を相手に何か話をしているようだ。部下の子の言葉に真剣に耳を傾け、何度か頷いたのが見えた。
 それから涼しげな目元を和ませて、声をかける。
「お疲れ様。来年もまたよろしくな」
 耳に馴染んだ優しい声が、ねぎらう言葉を口にする。
「はい、課長。こちらこそよろしくお願いいたします」
 部下の子が丁寧にお辞儀をすると、人事課長は同じようにお辞儀を返した。
「では、よいお年を」
 上司からのそんな挨拶に見送られ、部下の子は人事課を出てくる。ドアの前にいた私にも会釈をして、それから軽い足取りで廊下を去っていった。
 私が人事課内へ視線を戻すと、勤務中らしく真面目な顔をした彼と目が合う。
 途端にきまり悪そうに苦笑された。
「こら、何を覗いてるんだ」
「見えちゃったんだよ、開けっぱなんだもん」
 私は弁解をしながら、もう彼しかいない人事課に足を踏み入れた。
「何か今の、すっごく『課長さん』って感じだったよ」
 そう声をかけたら、彼はますます照れくさそうにする。
「どこがだよ。普通に挨拶をしただけだ」
「いいなあって思って。よいお年をって言ってもらえるの」
 私は彼と一緒に仕事をしたことがない。部署が違うんだから当然だ。
 でももし、彼が私の上司だったらどんなふうだったんだろう。今のやり取りを見ていたらふと、そんなことを考えたくなった。きっと優しくて頼れる憧れの上司だろうな。人事課の皆さんがちょっと羨ましい。
 もっとも現実には、同期が上司ってかなり複雑だろうけど――それとも巡くんなら先に出世されても仕方ないって思うだろうか。
 まずありえない過程の話だから、考えてもそれこそ仕方ないか。
「お前に『よいお年を』って言うのはおかしいだろ。一緒に年越しするんだから」
 彼に笑い飛ばされたので、私も妄想に耽るのはやめて、幸せな現実を見ることにする。
「もう帰れる?」
「ああ、すぐ出られるよ」
「じゃあ行こ。せっかく早く帰れるんだから」
 お互いに、今年の仕事は今日でおしまい。
 明日からは待ちに待った年末年始のお休みだ。

 会社を出て、駅までの道を、巡くんと並んで歩く。
 十二月ともなれば早い退社だろうと容赦なく日が落ちていて、思いのほか冷え込みが厳しい。自転車だと気にならない寒さが身に堪えて、私は手に息を吹きかけながら歩いた。
「今日は寒いね」
「納会で飲んできたんじゃなかったのか?」
「飲んだけど、ビールだからかな。余計に寒い」
「それは困ったな。ほら、手貸して」
 巡くんは私の手を取ると、チェスターコートのポケットに引っ張り込んだ。
 彼の手はいつだって私よりも温かい。ポケットの中は風除けにもなって、長い指を絡めて繋がれると居心地がよかった。今でもちょっとだけ、恥ずかしかったけど。
「会社帰りに手なんて繋いで歩いていいのかな」
「いいだろ、もうじき結婚するんだから」
 潔いくらいにきっぱりと言った巡くんは、少し浮かれているようだった。横顔がわかりやすく緩んでいる。
「巡くんはお酒飲んでる?」
「いいや。酔うと上司の威厳が保てなくなるからな、ジュースにした」
「そっか、だからさっきは格好よかったのかな」
 人事課で見かけた部下の子とのやり取りを思い出す。あの時の巡くんは本当に理想の上司って感じがした。
 ――よいお年を。
 いい言葉だなって思う。誰かの幸せと平穏を願う温かい言葉だ。さらりとそんな挨拶ができる巡くんが、何だかすごく格好よく見えた。
「さっきね、巡くんは素敵な上司なんだろうなって思ったの」
「ああ、それはよく言われる」
 全くもって否定しないところはとっても巡くんらしい。
「俺の下で働きたくなったら言ってくれ。人事課の権限フル行使で引き抜いてやる」
「あっ、職権乱用。いけないんだ」
「毎日頑張って働いてるんだ、いいだろ。ご褒美に可愛い部下が欲しい」
「ご褒美人事ってされる側は複雑だよね。私、やっぱ広報がいいな」
 冗談のつもりの軽い応酬だったけど、その時、巡くんはちょっと傷ついたような顔をした。
「酷いな。伊都なら俺を選んでくれると思ったのに」
 まさか本気にしたなんてことはないよね。
 だけど、本気ではなくても少しは想像してみたりしたのかな。私みたいに。もし私達が一緒に働いていたらどんなふうだっただろう、なんて。
「私は巡くんの部下より、奥さんがいいな」
 照れつつもそう告げたら、巡くんはあっという間に機嫌を直して笑みを浮かべる。
「俺もそっちがいい」
「即答だ!」
「当たり前だろ。勤務中の伊都より、プライベートの伊都を独り占めしたい」
「そうだね。私も、そうかもなあ」
 勤務中の安井課長は確かに素敵だ。真面目で穏やかで優しくて頼もしくて。こんな上司がいたらって思わず考えてしまうくらいに素敵だ。
 だけど私は、課長さんじゃない巡くんをいつでも独り占めしている。こっちの巡くんも素敵だし、優しいし、頼れるし、大好きだ。こんな人がもうじき私と結婚してくれるんだから、これ以上何を望むことがあるだろう。
 私は『よいお年を』とは言ってもらえない立場がいいんだ。
 その言葉は、一番近しい人に告げるものではないはずだから。
「もうじき、結婚するね」
 暮れのビル街を歩きながら、私はそっと呟いてみる。
 今日が仕事納めというところも多いんだろうか、見かけたビルはどこもかしこも注連飾りを飾っていた。
 もうじき今年が終わる。その後は、一月十日がやってくる。
「楽しみだな」
 巡くんがポケットの中で私の手を強く握る。
 歩いて帰る日だけの特別な楽しみだ。自転車はもちろん大好きだし楽しいけど、手を繋ぐことはどうしてもできない。
「楽しみだけど、からかわれそうだよね。覚悟するよう言われたよ」
「そんなの前からだろ。社内結婚の宿命だ、粛々と受け入れよう」
「私は恥ずかしいな……どうしたら恥ずかしくなくなるかな?」
「いいじゃないか、可愛くて。俺は恥ずかしがり屋の伊都が好きだよ」
 うわ。アドバイスを求めたのに、もっと恥ずかしくなるようなこと言われた。
 あまりのことに二の句が継げない私を見て、巡くんは喉を鳴らして大いに笑う。
「顔真っ赤だ。もうじき結婚するっていうのに初々しいんだな、伊都は」
「うるさいなあ、巡くんの馬鹿!」
「うん、いい響きだ。結婚してからもちゃんと言ってくれよ」
 巡くんはむしろ嬉しそうに唇を歪めた。
「俺も、伊都がそう言ってくれるようこれから毎日努力するから」
「努力って何を!?」
「知ってるくせに」
 意味ありげにやり返されて、頬がますます熱を持つ。
 やっぱり巡くん、浮かれてる気がする。

 でも仕方ないか。明日からはお休みだ。
 そしてその休みが終われば、私達は晴れて夫婦になる。
 お休みが楽しみで、でもその先も待ち遠しいっていうんだから、浮かれてしまうのも当然だろう。

 歩いて帰る日。すっかり暗くなってしまったこの時分、外は寒くて、繋いだ彼の手は温かい。恥ずかしさと幸福感が胸中でせめぎ合う。
 それでも私は家に着くまで、巡くんの手を離さなかった。
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