Tiny garden

恋のない世界

 私の世界から恋が消えて、もう随分になる。

 二十代の頃に婚約破棄を経験して以来、恋とは無縁の人生を送ってきた。
 彼と結婚することは職場にも報告していたし、結納も済ませていた。式場まで決めてしまってからの破談だったから、彼の方の金銭的損害は酷いものだったらしいと人づてに聞いた。
 私はと言えば、しばらくの間好奇の目と心ない噂話に晒された程度だった。たまに根掘り葉掘り聞いてくる人もいたけど、広報課の先輩がたが庇ってくれたお蔭でやり過ごすことができた。小野口課長ご夫妻には本当に感謝している。
 あれから月日だけが経ち、私の世界に恋は今でも存在していない。

 それでも私の世界は彩り豊かで十分エキサイティングだ。
 特に今年は素敵な出会いもありました。
「園田伊都です。入社九年目です。誕生日が一月十日なので『伊都』って名前をつけられました。ちなみに姉の名前は『実摘』です。よろしくお願いします!」
 インパクト十分な自己紹介と共に、園田ちゃんは広報課に現れた。
 その言葉通り、秘書課からの移動でうちへやってきた彼女とは、割と早くに打ち解けられた。園田ちゃんの裏表のない性格と明るい笑顔はとても親しみやすかったし、社内では『訳あり』扱いの私に身構えもせず接してくれるのもありがたかった。それも気を遣っているというふうじゃなく、本当に一切気にしていない様子なのがいい。
「失礼なこと聞いちゃうけど、園田ちゃんってどのくらい彼氏いないの?」
「失礼じゃないっす。もうかれこれ数年はいないですよ」
「そうなんだ。まあ、普通に働いてたら出会いなんてないよねー」
「ないですよねー」
「社内で見つけるって手もあるんだろうけど、拗れた時が怖そうだしねー」
「で、ですよねー……上手くいけば楽しいんでしょうけどね」
 飲み会の後に二人だけで二次会をやって、そんな話で盛り上がったりもした。
 園田ちゃんも数年前に彼氏と別れて以来、恋のない世界で生きてきたのだそうだ。漠然と将来のことを考え始めてはいるけど、小野口課長からお見合いをセッティングされるのはどうも気乗りしなかったらしい。まあ、私もあれは結構恥ずかしかったからお薦めはしない。上司の前で社内の人とお見合いっていうのはさすがにね。
 それならと私は、自分が婚活で得た知識を彼女に伝授した。
「園田ちゃん。彼氏を作るのと結婚相手を見つけるのとは似て非なるものなんだから」
 彼女は私の話を真剣に、熱心に聞いてくれた。
「そ、そうなんですか? 大体一緒かと思ってました」
 そんなはずはない。
 もちろんイコールになればそれは幸せなことだろう。恋に落ちた相手と結ばれて、結婚まで辿り着く。それ自体の幸福さを否定するつもりはない。
 だけど誰もがそんな結婚を選べるわけではない。恋のない世界にいる私達が進もうとしているのは、そういう道だ。
「東間さんはどんな結婚がしたいって思ってるんですか?」
 会話の流れで園田ちゃんが聞いてきて、私は正直に打ち明けた。
「私は……子供はいなくてもいいから、夫婦で働けるうちに働いて、家を建てたいかな」
「マイホームですか。うわ、すごいですね!」
「うん。そこを終の棲家にして、二人でのんびり余生を送って、どちらかがどちらかを看取るまで暮らしていけたらって思うんだ。そういう静かな生活に付き合ってくれる人がいい」
 だから具体的な条件としては、私と同等かそれ以上の年収で共働き希望。仕事を辞める気はないので子供は産まないし介護も不可。夫婦水入らずで、人生最後の時まで私の傍にいてくれる人がいい。
 それでも贅沢な条件なのか、今のところ芳しい成果は得られていないけど。
「極論を言えば、一緒に年取ってくれる人ならいいってことなんだけどね」
 そのくらいなら、始まりが恋ではなくても叶えてもらえるんじゃないかと思った。
 二十代の頃の失敗が私を恋から遠ざけていた。できないと諦めるような歳でもないのだろうけど、率直に言えばしたくなかった。恋が素晴らしいものだと多くの人は言うけれど、恋のせいで道を踏み外した人だって決して少なくはない。恋は罪悪だなんて言うつもりはないものの、時に人の判断力を奪い、目を眩ませる代物には違いない。だったら私は恋のない世界で、理知的に、理性的に生きたいと望む。
「恋して傷つくのはもう嫌だからね」
 私のぼやきに、園田ちゃんは深く深く頷いた。
「傷つけちゃうのも嫌ですしね」
 詳しくは話さなかったけど、彼女も前の彼氏とはいろいろあったらしい。
「ね。剣山で殴り合うような恋をするくらいなら、恋のない結婚がしたいよね」
「……東間さん、剣山で人殴ったことあるみたいな言い方しますね!」
「さすがにないかな。例えだよ、可愛い例え」
 そのくらい、相手を殴りたいと思ったことはあるけどね。
 でも、恋のない世界に生きる今の私は心穏やかで幸せだ。婚活に励む仲間もできた。

 ――と、この時は嬉しく思っていたのだけど。

 長い梅雨がまだ明けないある日のこと。
 仕事帰りに立ち寄ったショッピングモールの書店で、私は目撃してしまった。

 最初に見かけたのは、やはり見慣れた園田ちゃんの方だった。
 雑誌コーナーで何か雑誌を広げて、熱心に立ち読みしているようだ。声をかけようかと近づきかけて、私はふと、彼女の傍らに立つもう一人の存在に気づく。
 それは、人事課の安井課長だった。
 広報課とは同じ総務部ともあって、よく知っている顔ではあった。私より年下だし勤続年数まだ八年くらいだったはずなのに、あっという間に人事課長になってしまった出世街道まっしぐらの人。実際、仕事はできるし真面目だし頼りになる人だと思っている。
 ただ、仕事を離れたところで見かけたのはこれが初めてだった。
 ついでに言えば、あんな顔をしているところを見たのも、初めてだった。
 安井課長は、雑誌を読む園田ちゃんを見つめていた。最初は一緒に雑誌を覗いているのかと思ったけどそうじゃなかった。園田ちゃんが自転車の雑誌を読むのと同じくらい、あるいはそれ以上の真剣さで園田ちゃんの横顔を見つめていた。
 その眼差しは、離れていてもわかるほど、ひたむきだった。
 それでいて、とても眩しいものを見ているようでもあった。
 園田ちゃんを見つめる安井課長は、そのうちに目が眩んだんだろう。ふっと目を細めて、とろとろに溶け出してしまいそうな微笑を浮かべて――間違いなく園田ちゃんに恋をしているんだろうなって、その時思った。
 安井課長が勤務中に見せる、きりっとした真面目さはどこにもない。恋がそれを奪ってしまったのかもしれない。私が危惧した恋そのものの症状が窺えて、だけどそれでも幸せそうだった。
 そして私は、安井課長を羨ましいと思った。

 恋のない世界に生きてきた私が、そんなもの要らないと思ってきた私が、他人の恋を羨むなんて変な話だ。
 それに羨むなら素敵な男性に想われてる園田ちゃんの方だろうとも思うけど、どうしてか私は、安井課長の方が羨ましくてしょうがなかった。何もかも忘れて夢中になって、目の前の人にただ愛情を傾けていられるひとときを、私もまた味わいたいと思ってしまった。すごく幸せなのもわかっている、知っている。だから、いいなあって思う。
 私にだって、誰かをあんなふうにひたむきに見つめていた頃があった。
 懐かしくて、羨ましいって思うのも、おかしなことではないはずだった。

 そういえば安井課長には怪しいところがちらほらあった。
 社内でも園田ちゃんと二人でいるところをよく見かけていたし、社内報の企画でもあの愉快な写真を快く提供してくれていたし、振り返れば『なるほど』と思える点は確かにあった。園田ちゃんとは同期入社だと聞いているから、もしかしたら長きにわたる片想いでもしていたのかもしれない。あるいは――。
 一方の園田ちゃんは、翌日問い詰めたら呆気なく陥落した。
「昨日、モールにいたでしょ? 本屋さんに」
 私がそう切り出しただけで彼女は色を失くして慌てふためき、
「私、あの近くに住んでるから、仕事帰りによく寄るの。そしたら先に帰ったはずの園田ちゃんがいるんだもの。これはもしかして、って思っちゃった」
「そ、そうだったんですか。あの、別に昨日のはデートとかじゃなくてですね」
 何だか必死に弁解しようとしていたけど、『彼』が園田ちゃんを見つめていたことを話したら割とあっさり顔に出していた。
 その後も私が手を変え品を変え、お酒の力も借りて質問を重ねてみたら、ぽつぽつと打ち明けてくれた。
「最初に好きになったのも優しかったからなんですよね。私が体調崩してたのを気づいてくれて、声をかけてくれて。すごく他の人のことを見てる人なんです」
 やっぱりと言うべきか、園田ちゃんの元カレとはあの人であったらしい。
「でも本人はちょっと格好つけって言うか。他人のことはよく見てるけど、自分のことは見せたくない人で」
「ああ、それ何となくわかる」
 うっかり同意してしまうくらい、それはあの人のイメージにしっくり来た。
 そしてあの人のことを語る時、園田ちゃんもまた目を細めて、いとおしさを隠しきれない顔をする。
「見栄を張りたがる人だから、私も、見栄を張らせてあげたいと思うようになったんです」
 きっと、まだ好きなんだろうなあ。
 第三者から見ればそんなことは明らかだ。ついでに言えば両想いだってことも、復縁したら必ず上手くいくだろうってことも。そういうもどかしい期間もまた懐かしくて、素敵に思えた。
 だから私は背中を押す。
「元カレと、いい機会だからじっくり話し合いなよ。納得できるまで」
 私がそう言うと、園田ちゃんは照れながら答えた。
「どうなるかわかんないですけど。もし納得した上で婚活したいってなったら、また相談に乗ってください」
 結果的に、言うまでもなく、そんな相談の機会は一度として訪れなかった。
 よかったね。園田ちゃんも、安井課長も。お幸せに。

 近頃の私は二人が羨ましくて、恋がしたくてしょうがない。
 あんなにしたくないって思ってたのに不思議なことだ。私はずっと、恋の悪いところばかり粗探しをしていて、いいところを思い出せなくなっていたのかもしれない。
 いつか私の世界が恋を取り戻して、好きな人ができたりしたら、真っ先に園田ちゃんに打ち明けようと思っている。
 その時は笑わないで聞いてもらえると嬉しいな。
 園田ちゃんなら笑わないって、わかってるけどね。
▲top