Tiny garden

ボーイズアンドガールズ(6)

 旅館の庭は小さいながらも立派な築山造りだった。
 花期を終えいきいきと繁る楓の木も、爽やかな青さの紫陽花も、ぽつりと佇む石灯籠も、池を囲む苔むした石も、全てがしっとりと濡れた夜の景色。
 庭の敷石もくぼみに水が溜まっていて、俺は伊都の手を引きながら歩いた。
「滑るかもしれない、気をつけて」
「うん」
 伊都は素直に俺についてきた。
 足元は普段履きのスニーカー、だが着ているのは旅館の浴衣だ。繋いでいない方の手で袂を押さえて歩く仕種が何だか可愛い。俺といるのに緊張した様子で目を泳がせているのも、彼女らしい初々しさだと思う。
「雨、上がってよかったな」
「そうだね。涼しくて気持ちいいよ」
 外の空気はじっとりと湿っていたが、気温もぐっと下がって湯上がりの肌に心地いい。風はなく、虫達がひっそりと鳴いている他はほとんど静まり返っている。旅館を取り囲む山林からか、囁き声のようなざわめきも微かに聞こえる。空にはうすぼんやりと光る白い月。いい夜だった。
「出てくる時、藍子ちゃん達に何か言われたか?」
 庭を歩きながら尋ねると、伊都はもじもじして答える。
「二人にめちゃくちゃ冷やかされた」
「へえ、何て?」
「い、言うのはちょっと。恥ずかしいし……」
 言葉通り恥ずかしそうに首を竦めた後、彼女は俺の顔を覗き込む。
「巡くんは? 石田さん達に何て言って出てきたの?」
「普通に。『伊都と散歩に行ってくるよって』」
「それで何か言われたりした?」
「まあ、『頑張れよ』とは」
 そのくらいだった。
 あの石田が、今思えば拍子抜けするほどあっさりと俺を送り出してくれた。
「ふうん……ちょっと、意外かも」
 伊都も不思議そうにしていたが、俺はひとまずあいつらのことを頭から追い払うことにする。
 せっかく伊都と二人きりだ。今夜はどうしたって離れて眠らなくてはならないのだから、少しだけでも、彼女と一緒にいたかった。
 不意に、ぴちゃっと水音が響く。
「そういえばさ」
 それで俺は池のほとりに立ち止まり、何気なく彼女に切り出した。
 静かな水面を覗き込もうとした伊都が、思い留まり振り返る。
「卓球の後で、浴衣直してくれただろ。あれ、ちょっとどきっとした」
 石田との熱戦――舌戦、の方が近いか。とにかくラリーを終えた後、伊都がはだけていた俺の浴衣を直してくれた。何にも言わないうちから緩んだ襟を合わせて、乱れた裾を引き上げ、帯まで結び直してくれた。すぐ目の前で睫毛を伏せ、息を詰めて浴衣を直す伊都を見てぐっと来たのは事実だし、俺達結婚してるんだよな、などと今更な感慨も込み上げていた。結婚していなかったら、彼女はあんなふうに人前で浴衣を直そうとはしてくれなかった気がする。
 それが妙に嬉しかったと言うか。
 やっぱり、ぐっと来た、と言うか。
「私は巡くんがはだけてる方がどきっとしたよ」
 伊都はそう言って笑う。
「さすがにあれはセクシーすぎたか」
「そうだね、石田さんにお色気攻撃は効かないよ」
「別に色仕掛けでやったわけではないんだけどな……」
「多分ね、巡くんは上体が動きすぎなんだと思うな」
 それからラケットを持つように構えてみせたかと思うと、
「こう、重心の移動を意識しながら振るんだよ」
 なんて、卓球について駄目出しを始めた。
 別に卓球の話がしたくて呼び出したわけではないのに、どうしたものか。
 とりあえず繋いだ手をわざと強く握ってみたら、彼女は喋るのをやめ、うろたえる。
「ど……どうかしたの、巡くん」
「あの時、卓球では決着つかなかったけど。俺は石田にだって負ける気はしなかったよ」
 伊都が俺を止める為、背中に抱きついてきたから、勝負は水入りになった。
 あの時、浴衣もいいなと思った。布一枚だから抱きつかれると温かくて、柔らかくて――じゃなくて。それも大事だが今はそこではなくて。
「俺の愛妻家ぶり、もっとお前に見せたかったな」
 勝負が水入りになっていなかったら、俺は石田に勝てていたかもしれない。
 純粋な卓球勝負ではさすがに敵わないだろう。向こうは小中高大学とスポーツに明け暮れていたやんちゃ坊主、こっちは徹底して音楽だけを愛してきた繊細なインドア派少年だ。素地の分では端から負けている。
 だが、妻を愛する気持ちでは負けない。
「えっ、いいよ見せなくても。すっごい恥ずかしかったんだからね」
 伊都が唇を尖らせるので、肩をぶつけるようにしてくっついてみる。
「恥ずかしがってる姿がまた可愛いな」
「な、何言ってんの。人前でああいうこと言うの駄目だよ!」
「わかったよ。今みたいに二人きりならいいってことだろ」
「そうじゃなくて! もう……!」
 彼女はいよいよ困ってしまったらしく、ぷいと横を向いてしまった。
 さらさらした髪の隙間から覗く赤くなった耳を見やりながら、俺はしみじみと思う。
 二人きりだったら、本当によかったんだけどな。

 残念ながら、今ここにいるのは俺達だけではない。
 伊都は気づいていないみたいだが、先程から木々のざわめきのように聞こえる囁き声が建物の陰から聞こえている。
 更にはさっき、誰かが水たまりの水を撥ね上げるドジをやらかした。あの時は伊都が気づいてしまうのではないかと、こっちがひやひやさせられた。
 もちろん、誰がいるのかはわかる。
 まず石田。これはもう気配でわかる。それに一人ではないようだから恐らくは霧島もいるだろう。霧島夫人はノリノリでついてきたのだろうし、藍子ちゃんは一同に引っ張られてやむなく、というところだろうか。いい雰囲気になってるカップルをわざわざ覗きに来るという、まことに趣味の悪い遊びを企んでおいでのようだ。
 とりあえず主犯が石田だということは間違いない。
 おかしいと思ったんだ。俺が伊都に会いに行くのをやけにすんなり送り出してみせたから――あの時からもう企んでいたんだろう。石田め。

 さて、気づいてしまった俺は実に難しい対応を迫られている。
 本音を言えば伊都が気づかないうちに消えていただきたい。せっかくのいい雰囲気を邪魔されるのは困るし、覗かれながら何かするのは俺の趣味じゃない。
 何より、伊都は恥ずかしがり屋だ。連中が覗いていることを知ったら真っ赤になって慌てふためくだろう。問題はその後で、皆を追い払ったから改めて続きを、なんて流れには絶対ならない。下手をすると去って欲しい面々を差し置き、いち早く部屋へ逃げ帰ってしまうかもしれない。
 だから、一番いいのは伊都が知らないうちに連中が飽きるか何かして立ち去ってくれること、なのだが。
「あ、あのね、巡くん」
 ずっと横を向いていた伊都が、不意に口を開いた。
 俯き加減で、いつもよりたどたどしく言葉を継ぐ。
「さっき、ロビーで思ったんだけど、巡くんって浴衣似合うよね」
「ありがとう」
「うん……。待ち合わせした時、格好よくてどきどきしたな……」
 自分で言ってて恥ずかしいのか、伊都は顔を上げない。
 着古された旅館の浴衣は生地がくたくたで、ちゃんと着ても襟刳りが緩んできてしまう。ほんのり赤く染まった首筋がきれいで、俺は頭を抱えたくなった。
 なぜこんな時に限って。
 覗かれていて俺が手を出せない状況下だというのに、いつになくサービスがいいのはなぜだ。旅先の開放感というやつだろうか。キスしたい。
「巡くん……」
 俺が黙っていたからだろうか。伊都は意を決したように、俺の肩にもたれて頭を乗せてきた。
 彼女の体温を幸せに思いつつ、しかし感じる視線は忌々しく思いつつ、俺は伊都の肩を抱く。
 そして辛抱強く、ギャラリーが立ち去るのを待った。
 ひたすら待った。
 待ち続けた。
 息を潜めたくなる沈黙が長く続き、誰かが溜息をついたのが聞こえたような気がした。溜息をつくくらいなら帰れ。どんだけ覗きたいんだお前は。
 俺だってあいつらがいなくなるまでは、そして伊都と二人きりの時間を満喫するまでは部屋に戻るつもりはなかった。
 だが、
「――くしゅんっ」
 お互いの忍耐を競い合うまでもなく、やがて伊都がくしゃみをした。
 湯上がりで涼しい戸外にいれば身体も冷える。彼女の髪も随分と冷たくなっていて、俺は軽く手で撫でながら告げた。
「そろそろ、戻ろうか」
「ううん、大丈夫だよ。まだ平気」
 彼女はかぶりを振ったが、俺は優しく諭しておく。
「せっかくの旅行で風邪引いたら嫌だろ」
 それで伊都も納得したようだ。しっとり微笑み、頷いた。

 彼女とは旅館の玄関ロビーで別れた。
 本当は部屋まで送ろうと思ったのだが、霧島夫人と藍子ちゃんがどういうわけか『ロビーまで飲み物を買いに来ていて』、伊都もそちらに合流すると言ったのだ。
 女の子達が顔を合わせるなり何か小声で話し出すのを微笑ましく思った後で、俺は猛然と自分の部屋へ駆け戻る。

 部屋の鍵は不用心にも開いていて、しかし室内は既に消灯していた。
 俺が明かりをつけると、三組並んだ布団のうち二つがこんもりとふくらんでいた。どっちがどっちかは忘れた。
 俺はとりあえず真ん中の布団を蹴飛ばした。
 それが、試合開始のゴングだった。
「いてっ」
 石田が呻くのが聞こえたので、俺は遠慮なく掛布団を引っぺがす。
 中で丸まっていた石田が眩しそうに目を細めて俺を見上げる。
「遅かったな安井。あの後ちゅーしたか?」
 問い詰める前から自白しやがったぞこの主犯。
「ちょっとは悪びれろ!」
 俺はもう一度石田を蹴りつけようとしたが、石田は元スポーツ少年らしい機敏さでそれをかわすと立ち上がる。
 そしてにやにやしながら言った。
「俺とお前ももう十年の付き合いだろ。俺が抜け駆けを快く許す男だと思ってたのかよ」
「全くです。あ、主犯はこの人ですから」
 奥の布団から霧島が腕だけ出して、石田を指差す。
 その態度がむかついたので、俺は霧島も蹴飛ばして布団を剥いだ。布団の中でも眼鏡をかける霧島が、何だか迷惑そうな顔をする。
「俺は巻き込まれただけですよ。石田先輩が無理やり……」
「無理やりだったか? お前も『まあ気になりますけど』とか言ってたろ」
「行くとは言ってません。流れでしょうがなくです」
「あっ、ずるいなこの野郎。先輩を売る気か」
 お互いに罪を擦り付け合いつつ、奥さんについては一切言及しないのはさすがと言うべきだろうか。
 だからと言って到底許せるものではないが。
「ってかなんであそこで行かなかったんだよ。絶好のチャンスだっただろ」
 反省の色ゼロの石田が俺を煽る。
 さすがにかちんと来た。
「見てただろ、できなかったんだよ! お前らがいなかったらしてたよ!」
「意外と繊細だなお前。見られてると駄目なのか」
「見られたい奴がいるか! そこまで言うならなんでさせてくれなかったんだよ!」
「お前のタイミングなんぞ知るかよ。つか家帰ればいくらでもできんだろ」
 それは当然だ。家に帰れば好きなだけできる。
 だが旅先でのそれはまた格別というか、思い出深いというか、これから離れ離れの夜を過ごさなくてはならないから尚更ちょっとしておきたかったんだよ!
 それを! お前らが!
「大体、裏切り者のお前がよく俺の抜け駆けを批判できたもんだな!」
 俺は石田に指を突きつけた。
 自らの最初の罪も忘れたか、石田が怪訝な顔をする。
「裏切りって何だよ」
「女性陣側についただろ! 旅行来る前の投票で!」
 男女で別れて二部屋にしよう、というのが彼女たちの意見で、俺達は当初全員がその案に反対していた。ところがいざ多数決となった時、石田はあろうことか真っ先に裏切り、女性陣が主張する『男女別』案に賛成票を投じたのだ。
「あれを裏切りと言ってもらっちゃ困るな」
 石田は妙に格好つけて指を振る。
「俺はうちの妻、世界一可愛いマイハニー藍子のことは裏切っちゃいない」
「知るか! お前のせいで霧島も日和ってこの有様だ!」
「日和ったって言い方は心外です。俺は戦意を喪失しただけです」
 結局、石田が賛成に回り、霧島は棄権し、反対票を投じた気骨ある日本男児は俺だけという顛末だ。全く嘆かわしい。
「わかったよ、安井くんはたった一晩伊都ちゃんと離れただけで寂しくてしょうがねえんだな」
 ことごとく神経を逆撫でする物言いの石田が、次の瞬間部屋のテレビを指差した。
「ほら、それなら好きな有料チャンネル見ていいぜ」
「かえって寂しくなるだろ!」
 こういう時にそういうものを見るとかえって空しくなるのを俺は身に染みてよく知っている!
「それに俺が見たら密告する気だろ、伊都に」
「そりゃまあ、タイトルとジャンルくらいは報告するな」
「これだよ! 石田がこんなにも信用できない男とは思わなかった!」
「俺を一度でも信用してたのかよ。いや照れるな」
 平然と切り返されて言葉に詰まる。
 確かに、随分と快く送り出してくれるんだなと思わなくもなかった。ただそれは石田なりに新婚の俺を気遣ってくれたのかと――ああ腹立つ! 何より自分の甘さがむかつく!
「もうやめましょうよ、小学生みたいな喧嘩なんて」
 霧島が他人事のように肩を竦める。
 何だとこの野郎と睨みつける俺をよそに、霧島は小さな四角いものを俺と石田の間に放り投げた。
 布団の上に意外と重い音を立てて落ちたのは、ウノだった。
「……なんで、このタイミングでウノ?」
「家にあったんで持ってきました。旅行の夜と言えばこれじゃないですか」
 霧島はそう言うと紙箱からカードを取り出し、慣れた手つきで切り始めた。
「言い争いだと埒が明きません。ウノで一番勝った人が正義ってことにしましょう」
「はあ!? どう見たって正義は俺にあるだろ!」
 納得がいかない俺が思わず吠えると、石田がそんな俺の肩を叩く。
「もうやめろ、安井。怒りに任せて争ったって空しいだけだぜ……」
「うるさいよ! お前に言われると倍むかつく!」

 かくして俺達は、何だかわからないうちにウノで決着をつけることになり。
「実は俺も久々なんです。ウノって言い忘れないようにしないと」
「やるからには夜通しやろうぜ。今夜は寝かさないからな、お前ら」
「そう言ってるお前が先に寝てみろ。おでこに肉って書いてやる」
 布団の上に車座になって、あとはもうひたすら三人で遊んだ。霧島だけではなく石田も俺も普通に久し振りで、序盤はミス連発の凡戦が続いたが、だんだん知略を巡らせたいい勝負ができるようになった。
 もっとも、俺達も中身はともかく身体の方は揃ってアラウンドサーティだ。午前二時を過ぎた辺りで意識があやふやになってきた。
 俺の記憶もその辺りで途切れている。

 こうして、一泊二日の割にやたら中身の濃い旅行が終わった。
「はー、楽しかった! 温泉も気持ちよかったし、最高だったね!」
 帰りの車で、助手席の伊都は上機嫌だった。
 今朝は六時に起きて、女の子達だけでまた温泉に浸かってきたらしい。朝から元気いっぱいでよろしいことだと思う。
 男衆は対照的なもので、夜更かしが祟り全員が起きたのは七時半過ぎだ。しかも自力では起きられず、女の子達が朝食の時間になっても音沙汰なしの俺達を案じて――というより多分、お腹が空きすぎて耐えられずに訪ねてきてくれたお蔭で起きられた。
「巡くん達は昨夜、随分遅くまで起きてたみたいだね」
 ハンドルを握る俺を見ながら、伊都はおかしそうに笑う。
「ウノ、楽しかった?」
「まあ、たまにはな」
 彼女達が俺達の部屋へ訪ねてきた時、そこはさながら事件現場のようだったという。散らばるカードを囲むようにして、布団の上に倒れ伏している俺と石田と霧島。俺達は女の子達の笑い声で目を覚ましたというわけだ。
「あっ、藍子ちゃんとゆきのさんだ! おーい!」
 伊都がフロントガラス越しに、前の車に手を振った。
 ちょうどすぐ前を走る石田の車の後部座席に、こちらを振り返る二人の姿が見えている。手を振り返してくるのも見えて、微笑ましいものだと思う。
「仲がよくていいな、女性陣は」
 羨ましくなって俺がぼやくと、伊都は座り直して一層笑う。
「そっちだって仲いいじゃない。夜通しウノで遊ぶとか、超仲良しだよね!」
 いや、そうなった経緯を思えば決して仲良しとは言えまい。俺は怒りと憎しみをカードに託してぶつけただけだ。ただ寝落ちしたせいで正義を証明するどころか、石田のおでこに『肉』って書いてやることもできなかった。心残りは多少ある。
 しかし一番の心残りは、やはり――。
「伊都は昨夜、あの後すぐ寝たのか?」
「うん。ゆきのさんを夜更かしさせられないからね」
「そうか……」
 どうやら霧島夫人と藍子ちゃんは昨夜の一件を伊都には打ち明けなかったらしい。その方がいい。伊都が知ったら大慌てするに違いないからだ。
 彼女にとっては静かで穏やかな夜の記憶となったに違いない。
 俺にとっては、――まあ、いいか。あとは家に帰るだけだ。
「伊都」
「なあに、巡くん」
「家に帰ったらキスしたい」
「……え!?」
 助手席の彼女が息を呑むのが聞こえてきて、今度は俺が笑ってしまう。
「昨夜は一度もできなかったからな」
 今はとにかく、伊都が恋しくてたまらない。すぐ隣にいるのにな、不思議なものだ。
 たった一晩離れただけで寂しくてしょうがない――石田の言うこともあながち的外れではなかった。旅行ももちろん楽しかったが、家に帰るのもまた楽しみだ。離れていた分、伊都と過ごす時間はそれこそ格別なものになるだろう。
 俺達、結婚したんだな。改めて、また思った。
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