Tiny garden

うららかな旅路(2)

 旅行二日目の朝、俺達は朝の七時前にホテルを後にした。
 尾道港にあるレンタサイクルターミナルは朝の七時にオープンするとのことで、早めに行って希望の車種を借りてしまおうというのが俺達の計画だった。ましてやゴールデンウィーク中だ、ぼやぼやしていたら希望の車種どころか自転車そのものが借りられなくなってしまう。
「本当はマイ自転車で走りたかったんだけどね」
 伊都は少し残念そうにしていたし、俺も同じ気持ちだったが、さすがにここまで自転車を運んでくるのは難しい。
 せめて俺の車がもう少し大きければ、俺と伊都の愛車を二台とも積んでどこへでも行けるのだが。
「次に買う車、大きめのにしようか」
「自転車載せる為に? いいけど、巡くん大きい車苦手なんじゃないの?」
「今は得意じゃないけど、乗ってれば慣れるだろ、多分」
 去年の帰省の際、うちの兄貴が馬鹿でかい白のミニバンに乗っていたのを思い出す。
 子持ちともなるとちっちゃい車乗ってられないんだなと俺がからかえば、兄貴は平然と、予言のように言ったのだ。
 ――そりゃそうだよ。めぐ、お前だってそのうち車買い替えたくなるさ。
 予定より早く、子供が生まれる前に車を買い替えたくなっているのがおかしなものだが、今後のことを考えれば確かに考慮の余地はある。何せ夫婦で自転車乗りになったのだから――これも所帯を持ったが故の心境の変化、というやつかもしれない。

 レンタサイクルに朝一で乗り込んだ甲斐があり、用意された自転車は一通りのものが揃っていた。
 ごく普通のシティサイクルはもちろんのこと、ママチャリ、クロスバイク、ミニベロ、子供用に電動アシスト自転車と選び放題だ。タンデム自転車はここのターミナルにはないそうで、今回の旅では乗れそうにないのが残念だったが。
「どれがいいのか教えてくれ」
 ここは俺よりも自転車歴の長い大先輩、伊都先生にご助言を仰ごう。
 俺の問いに、伊都はまずミニベロを指差す。
「今回はロングライドだし、小径じゃない方がいいと思う」
「いっぱい漕がないと距離走れなさそうだしな」
「加速はいいんだけどね」
 というわけで、伊都先生曰くミニベロはなし。
「この中だったらクロスバイクかなあ……」
 先生は少し迷いながら、クロスバイクを指差した。
 ちなみにここのレンタサイクル、電動以外は料金一律千円だ。その他に保証料がかかり、返却場所によっては保証料が返却されたり、されなかったりするとのことだった。俺達は今治まで一気に走り、向こうで自転車を返却する予定だったので、その場合保証料は返ってこない。
「クロスバイクがいいのはどうしてですか、先生」
「先生って、照れるなあ」
 俺の言葉に伊都はなぜか照れてみせた後、えへんと咳払いしてから続けた。
「やっぱ乗りやすさ、漕ぎやすさで見たらクロスバイクだと思う。シティサイクルと比べても軽さ、加速、全然違うよ」
「なるほど、詳しいな。さすがは先生」
 それだけ聞いたらこの中ではクロスバイク一択に思える。そのくらいいいことずくめだ。
 だが伊都先生の迷うそぶりが気になって、俺は突っ込んで尋ねてみる。
「迷ってる理由は?」
 すると先生はためらいつつ、口を開いた。
「強いて言うなら、やっぱロードバイクとは違うってとこかな」
「違うっていっても自転車同士だろ。乗ってれば慣れるんじゃないか」
「そうだけどね。巡くんが慣れるまで、最初はゆっくりめで行けば平気かな」
 あくまで俺が心配の種ということか。
 俺は伊都先生の心配りに感謝しつつ、しかしながらやっぱり複雑だった。いつぞやの森林公園の時のように『一人の方が楽』なんて思われないよう、頑張らなくてはなるまい。

 結局、俺達は揃ってクロスバイクを借り受けた。
 そしていよいよサイクリングの始まりだが――その前に。
「私、自転車と一緒に船乗るの初めて!」
 尾道港を後にした俺達は、すぐに尾道駅近くの渡船乗り場へ向かった。伊都がはしゃいでいる通り、ここからまず渡船に乗って向島を目指すのがいいらしい。事前に調べた情報によれば、尾道と向島を繋ぐ尾道大橋は狭く危険な上、坂の多い街らしく橋まで行く道の途中が急勾配の坂道になっているそうだ。しまなみ海道を走る自転車乗りもここは敬遠する向きが多いというので、俺達も偉大な先達の意見に素直に従うことにした。
 自転車を押して赤いゲートをくぐり、俺達は渡船に乗り込む。船は思いのほか大きく、俺達のような自転車乗りの他、歩きの人も、自動車までがそのまま、どんどん乗り込んでくる。
 程なくして船は動き出し、
「見て巡くん! 向こうからも船が来てる!」
「本当だ。結構いい眺めだな」
 俺達はこの旅初めての船を楽しもうとした、のだが。
 ホテルの部屋からも見た通り、尾道市街から向島はすぐ目の前だ。まるで川のような狭い海を渡るだけだから、乗船していたのは五分間もあったかどうかというところだった。
「短かったね、船旅……」
「まあ、船はおまけみたいなものだからな」
 伊都はがっかりしていたし、俺としても船から見た尾道市街はなかなか面白かったので、もっと乗っていたかったという思いはある。昨日二人で歩いた坂道や街並みを海からじっくり見てみたかったのだが、五分程度じゃ景色を楽しむ余裕もないし、そもそも本来の目的は船に乗ることではない。
 気持ちを切り替えて、自転車の旅に挑むこととしよう。
「じゃ、ぼちぼち行こうか」
 向島に着くと、伊都はそう言って長年愛用している黒いスポーツウォッチを操作し始めた。
 今回の旅の目的地は今治。しまなみ海道で六つの島を通過して四国は愛媛県今治までひた走る。走行予定距離は約七十キロ、所要時間は多く見積もって、そして休憩を挟んで七、八時間というところだそうだ。
「上手くスピードに乗れたら、もっと早く着くと思う」
 伊都が言うにはそういうことだそうだが。
「でも無理はしなくていいからね。日が暮れるまでに着けばいいんだし」
「わかった」
 新婚旅行先で無理して怪我でもしたら、石田達にしばらくネタにされそうだ。俺は素直に頷いてから、一応、参考のつもりで尋ねてみた。
「ちなみになんだけどな、もし伊都が一人で走るなら、何時間で走破できる?」
「三時間ちょいで行けるんじゃないかな。コンディション次第だけど」
 伊都先生はあっけらかんとお答えになられた。
 無理はしないと決めてはみたが、男としてのプライドが大いに刺激される回答だった。俺がいると倍以上の時間がかかるということだ。悔しくないはずがない。
「あ、巡くん。今ちょっと悔しいって思ったでしょ」
 おまけに伊都から目ざとく指摘されて、俺は不承不承事実を認める。
「思った」
 すると彼女は、俺を宥めるように微笑んだ。
「旅行なんだから、速ければいいってもんじゃないよ。一人で走るってことは声かけあったり、お喋りしたり、いい景色を見つけたら教え合ったりしないってことなんだから、二人で走る時より速く走れて当たり前なんだよ」
 全くもってその通りだ。
 伊都のこの前向きな明るさは、見栄っ張りな俺の気分をあっさりと楽にしてくれる。
「二人で走るからこその楽しみもあるでしょ。のんびり行こうよ、新婚旅行なんだし!」
 そう言って笑う伊都は、旅先であっても変わらず屈託がない。
 俺も、何より彼女と乗る自転車が好きだ。一人で乗る時以上に好きだ。彼女が俺を気にしながら走りつつ時々声をかけてくれたり、何か面白いものや素敵な景色を見つける度にはしゃいでみせたりするのが好きだ。
「さすがは伊都先生、心構えまで偉大だな」
 感心する俺を、伊都は恥ずかしそうにはにかんで見返してくる。
「もう……照れるってば。そろそろ行こっか、巡くん」
 出発前に、俺は改めて俺の可愛い新妻の姿を眺めてみた。
 白いヘルメットに、スポーツ素材でできたパステルピンクのシャツ。ひらひらした短いスカートも春らしいピンクで、その下にはくレギンスは黒だ。そして本日も、実に素晴らしくいい脚だ。
「ペース配分あるし、私が先行くけどいいよね?」
 伊都がそう言ってくれたので、俺はありがたく頷いた。
「是非そうしてもらいたいな」
「わかった。もしペース速かったら、ちゃんと言ってね」
「もちろんだ」
 彼女の足と後ろ姿に見とれるあまり、ペースを見失うというのも格好悪い。
 あくまでも楽しく、のんびり、新婚旅行らしい自転車の旅を堪能することにしよう。

 午前八時少し前。俺達は向島を起点として走行を開始した。
 まずは市街地をサイクリング道に沿って進み、次の因島に渡る為の因島大橋を目指す。
 五月の初め、天気は昨日と同様に見事なまでの五月晴れ。朝のうちから空気は爽やかで、風もさほど冷たくはない。ただ海風を直接浴びたらどうだろう。それまでに身体が温まっていれば心配もなさそうだが。
 いつものように、俺の前を伊都が走っている。ヘルメットから束ねた長い髪がさらさらとはためき、短いスカートも同じようにぱたぱた揺れる。そこから伸びるすらりとした脚は実に程よい引き締まり具合で、ぴったりしたレギンスのお蔭で筋肉の動きまで見えてくるのがすごくいい。
 自転車を通勤に使うようになって約半年。こうして伊都を追い駆けつつペダルを漕ぐのもすっかり当たり前になってしまったが、視界を流れていくのが旅先の風景ともなればまた格別の楽しさがある。向島は尾道と同じくレトロな佇まいの街で、緑も多くこちらも目の保養になった。道沿いに眺めることのできる瀬戸内海はやはり緑がかっていて、空の青さとはまた違う、美しく深い色合いをしていた。
「巡くん、橋だよ!」
 一時間も漕がないうちに、伊都が声を上げた。
 もちろん俺の目にも見えている。島と島を繋いでいる、全長一キロは超えているであろう大きな大きなトラス橋だ。俺達はその橋の下を一旦くぐり、自転車歩行者進入路から因島大橋に入った。
 せっかくのトラス橋なのだから自動車と同様に橋の上を通れたらよかったのだが、残念ながら自転車と歩行者は自動車道の下に作られた専用道路を進まなくてはならない。こちらの通行帯は橋を支えるトラス構造の鉄骨やフェンスに囲まれており、あまり景色はよく見えない。
「でも何か、秘密基地っぽくてわくわくしない?」
 とは、先を行く伊都の言葉である。
「秘密基地と言うか……映画とかで、最終決戦の場になりそうな場所だよな」
「わかる! 刑事さんと悪い人がここで撃ち合ったりするんだよね」
 俺は橋マニアではないのでトラス構造に燃えるということはないのだが、これはこれで普段見られない、面白い光景だと思う。
 自転車と歩行者の道路は低いブロックで仕切られており、きちんと色も塗り分けられている。自転車乗りにとことん配慮した道であることは間違いない。
「そろそろ橋が終わるよ」
 伊都が声をかけてくる。
 その言葉通り、橋の終わりが見えてきた。トラス構造がふっつり途切れ、普通の橋の下へ出る。『ご利用ありがとうございました』の看板を横目に、俺達はしまなみ海道二つ目の島、因島に入った。
「ここまで四十三分」
 彼女がちらりとスポーツウォッチを確かめてから、そう言った。
 そしてこちらを振り返って尋ねる。
「予定よりペース速めだけど大丈夫?」
「ああ。今のところは」
 橋に入る前の坂道は少々きつかったが、まだ疲労を感じるほどではないし苦しくもない。クロスバイクの乗り心地にも慣れてきた。彼女が勧めてくれた通り、なかなか軽くて乗りやすいのがいい。
 それに橋を抜けたら爽やかな潮風が吹いてきて、汗を掻き始めた身体に心地よかった。
「なら、このくらいのペースで行くからね。疲れて来たら言って」
 気遣う伊都の長い髪も、潮風に揺れ、日差しを跳ね返してきらきらしている。
 しばらくは海沿いの道が続くようだ。俺も今は楽しい気分でペダルを漕ぎ、彼女を追い駆けていた。
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