病める時も健やかなる時も

 秋半ばのある朝、俺は喉の痛みと共に目覚めた。
 それだけではなく身体の節々もずきずきと痛くて、明らかに熱もあるようだった。体温を測ったら三十九度を超えていた。その時点で会社には連絡を入れ、休みを貰って近所の内科に駆け込んだ。
 そしたら下った診断はインフルエンザ。
 生まれて初めてのことだった。
『インフル!? わかった、なるべく早く帰るよ!』
 普段通りに出勤した伊都に連絡を入れたら、酷く驚いていたようだった。

 それはそうだ。俺はつい先週インフルエンザの予防接種を終えていた。
 これは会社負担で受けさせてもらえるやつなのだが、あくまで経費だけ会社持ちであり、病院へは自ら出向く必要があった。
 俺は先週の土曜、伊都と二人で予防接種の為に近所の内科に足を運んだ。土曜の午前ともなればやむを得ないんだろうが院内は激混みで、事前に予約を入れたにもかかわらず、すし詰めの待合室に立ちっ放しで二時間待たされた。当時の俺たちは健康体で、病気の人を優先するのはもっともなのだが、貴重な土曜を半日潰してくたびれたのも事実だ。
 そうまでして受けた予防接種が、まさか効果を発揮しなかったなんて。

 病院から帰宅した俺は、処方された吸入薬を服用した。
 それから冷蔵庫を漁り、しまわれていた冷却シートを見つけて額に張った。普段は伊都があの自慢の脚を冷やすのに使っているものだ。その冷たさはあまりに心地よく、高熱が出ていることを逆に意識してしまう。
 その後はふらふらとパジャマに着替え直し、ほとんど倒れ込むようにベッドに入った。

 眠っているのか、熱に魘されているのか、自分でもわからない時間が過ぎた。
 そのうちに部屋に差し込む日差しは午前から真昼、昼下がり、そして夕方へと移り変わり――ふと目が覚めた時、俺の額には冷却シートではなく、ひんやりと冷たい手が置かれていた。
「……熱、結構高いね。シート張り替えるね」
 いつの間にか、傍らには伊都がいた。
 まだぼんやりしている俺の額に冷たいシートを張り替えた後、彼女は優しく微笑んだ。
「巡くん、これから七日間出勤停止だからね。ゆっくり治して」
「ああ……」
 返事をした声がかすれていた。喉が酷く乾いている。
「身体起こせる? スポドリ買ってきたよ」
 伊都の問いに、俺はベッドの上で身体を起こした。たったそれだけの動作がいやにだるい。
 彼女が飲ませてくれたスポーツドリンクは甘くて、喉どころか身体中に染みわたるようだった。たちまち人心地ついた気分になる。改めてベッドに横になると、伊都がそっと布団をかけてくれた。
「ずっと寝てたの?」
「ああ」
「もう少し寝た方がいいかもね。食欲はある?」
「いや……。薬だけ後で飲む」
「わかった。リビングにいるから、何かあったらこれ鳴らして」
 そう言って、伊都は俺の枕元に小さな鈴を置いた。ベルとかではなく、キーホルダーについているような丸い鈴だ。俺はそれを手に取って、その表面に反射する強い夕日に気がついた。
「あれ……伊都、帰り早いな」
 時計を見ればまだ午後五時前だ。定時よりも早く帰ってきたことになる。
 すると彼女はにっこり笑って答えた。
「今日は早退。私も初めて知ったんだけど、家族がインフルかかっても出勤停止なんだって」
「マジか……。ごめん、迷惑かけて」
 自分の仕事ばかりか、伊都の仕事にまで影響が及ぶとは。俺はこの身を蝕む病を呪った。
「別にいいよ。どうせ明日は土曜だし」
 彼女はあっけらかんとしていたが、そうはいかない。
 何せ俺は罹患したことさえ納得できてはいないのだ。
「ちゃんと予防接種したのに……」
 確かに注射して、すぐに効果が出るものではないと聞いている。だがタダではないものが――経費で落ちるとは言え一時でも代金を支払ったものが全くの無意味だったとするなら、それは何だか道理に合わないじゃないか。
「タイミングが悪かったのかもね。抗体の準備ができてないうちに攻め込まれちゃったんだよ、きっと」
 伊都はそんなふうに言うが、その理屈なら伊都だって危ないということになる。
「ここにいては駄目だ、伊都。俺を置いて先に行け……!」
「巡くん何か余裕だね。顔真っ赤なのに」
「俺の身体は戦場だ。ウイルスの殲滅戦の真っ最中なんだ……」
「あ、もしかして魘されてる? わかりにくいなあ」
 譫言なのか戯言なのか、自分でもわからないことを呟く俺を、伊都は気遣わしげな表情で見下ろしている。
 彼女の為にも、一刻も早くこの戦いに打ち勝たねばならない。

 それからしばらく、俺は夢と現の間を彷徨うように行き来していた。
 ――というと格好いいが何のことはない、寝たり起きたりしていただけだ。夜中にふっと目覚めたり、次に気がついた時はもう朝だったりといったふうに、時間の感覚も曖昧な一日が過ぎていった。
 その間、伊都は実に甲斐甲斐しく俺を看病してくれた。冷却シートをこまめに張り替え、定期的に水やスポーツドリンクを飲ませてくれ、薬の時間になると起こしにも来てくれた。汗を掻いたら身体を拭いて着替えも手伝ってくれたし、熱を測る間はずっと傍にもいてくれた。何とよくできた妻だ。もしも伊都がインフルエンザにかかった時は、俺も同じように身体を拭いたり着替えを手伝ったりしてやろうと心に誓った。
 しかし唯一、夜に寝る時だけは、彼女は申し訳なさそうに『隣の部屋で寝るから』と言っていた。
 結婚してからずっと――いや、同棲していた頃でさえ欠かさず同じベッドで一緒に寝てきた俺たちだが、さすがにインフルエンザの前にはその神聖な誓いも破らざるを得ない。治るまでの辛抱とは思いつつも、一人寝の寂しさは病気への憎しみに拍車をかけた。
 負けるものか、インフルエンザ。
 必ずこの殲滅戦に勝利して、伊都の笑顔を掴み取ってやる!

 その決意が効いたのかどうか。
 発症から二日が過ぎた日曜の朝、俺の体温は平熱に戻っていた。
 目覚めもいやにすっきりしていて、昨日までの夢うつつを彷徨うふわふわした感覚が、嘘のようだ。
「よかった! ね、ご飯食べられそう?」
 体温計を覗いた伊都に問われて、そういえば一日半近く何も食べていなかったことに気づく。
 既に空腹を通り越してふらふらだった。気分も悪くないし、今なら食事が取れそうだ。
「何か食べたい」
 俺が訴えると、彼女は安堵に顔をほころばせる。
「食欲戻ったなら安心だね。お粥作るよ」
 伊都が作ってくれたお粥は、俺がこれまでの人生で食べてきたどんなお粥よりも美味しかった。米粒が溶けていくのが舌に優しく、梅干しさえもが甘く感じた。ずっと食事を取っていなかったので程々にしなければならなかったが、この朝食は俺の記憶に印象深く刻み込まれることだろう。
 食事を取れば次第に体力も戻ってくるからと、昼飯に煮込みうどんを、夜には伊都と一緒に普通のご飯を食べた。この日の献立は高野豆腐と野菜の含め煮で、あっさりした味わいがとても美味しかった。
「こういう時こそ豆腐もしっかり食べないとね」
「いつも食べてるじゃないか」
 伊都の言葉に普段通りのツッコミを入れながら、俺は自分の復調を感じ取っていた。
 さすがに身体のだるさは残っているが、一昨日昨日と比べれば嘘のように調子がいい。病に蝕まれているという感覚がない。

「こんなに早く熱が下がるなんて思わなかったな」
 夕食の後、久々に風呂に入るとすっかり気分もよくなった。
 上機嫌で髪を拭く俺を見て、伊都も嬉しそうにしてみせる。
「うん、本当によかった。きっと注射が効いたんだよ」
「注射が?」
「ウイルスの侵入は許しちゃった抗体軍が、持てる力の全てを振り絞って防衛戦に臨んだんだろうね。もはや籠城しかないってなった時、倒れていくばかりだった抗体たちに奇跡が起きた。彼らは城を守り抜いたんだよ!」
 俺の身体、城だったのか。
「すごいね、映画みたいじゃない。全米が泣きそう!」
 伊都は浮かれているみたいにころころ笑った。
 俺が元気になって嬉しいのかもしれない。可愛いな。
 しかし元気になったとは言え、完治したわけではない。吸入薬はまだ続けなくてはならないし、出勤停止は熱が下がろうと解除されることはない。
 あと五日間、俺は仕事を休まなくてはならない。
「あ、そうだ。私、明日から出勤だから」
 追い打ちをかけるように伊都が言った。
「出勤停止じゃないのか?」
 驚いて聞き返せば、彼女は苦笑を浮かべてみせる。
「家族の場合は潜伏期間だけなんだって。明日熱が出てなかったら仕事行かないと」
 もちろん伊都が発症しないのは幸いなことだ。
 だが、明日からの五日間を俺は一人きりで過ごさなくてはならない。
「五日か……。やばいな、何して過ごそう」
 俺は頭を抱えた。
「外にも出られないしね。持て余しそう」
「そうなんだよな……」
 熱が下がったとは言え、インフルエンザのウイルスが全ていなくなったわけじゃない。
 つまり現状の俺は立派な保菌者、どこぞへ出向けばウイルスを撒き散らす羽目になってしまう。当然、外出は禁止。家で養生に努めなくてはならない。
 おまけに保菌者ということは、
「あと五日間、キスもお預けか」
 当然のことながら、伊都にだってうつすわけにはいかない。
 一緒に暮らし始めてからというもの、おはようとおやすみといってらっしゃいとただいま、それぞれのキスを欠かしたことはなかった。その記録もまた忌々しいインフルエンザのせいで途切れたことになる。許すまじ。
「そうだね、仕方ないね」
 伊都も少し、残念そうにしてくれたのが救いか。
 だが寂しい。一緒に寝ることもできなければキスさえ許されないなんて。新婚夫婦にとってこれ以上の地獄があるだろうか。

 翌日、月曜日。
 伊都は発熱もなく、いつも通りの元気さで自転車に飛び乗り、出勤していった。
 そして残された俺は――。
「することがない……!」
 いや、もちろん家事はある。洗濯は毎日しなければならないし、いい機会だから土日しかやらない布団干しやアイロンがけを済ませてしまうことにした。ついでに部屋の掃除もして、キッチンのシンクも磨いて、そこでようやく昼飯の時間だ。
 家のことは大体やり切って、職場への連絡も済ませたら、あとは自由に過ごせばいい。撮り溜めていた音楽番組もあるし、映画もあるし、買ったきりで読んでない本もある。まだ体力も戻っていないし、何なら少し昼寝してもいい。
 そう思って、ひとまずはリビングのソファに腰かける。
 途端に家の静けさが、一人ぼっちの俺を包んだ。
「思えば、一人でいるのも久々だな……」
 同棲を初めてから今日まで、家にいる時はいつも彼女が一緒だった。
 自発的には音楽を聴かない伊都だが、俺の好きなバンドの曲は楽しそうに聴いてくれた。映画の趣味はよく似ていて、家で見る時はビール片手に二人揃ってのめり込んだ。俺が本を読む時、彼女は自転車雑誌を広げていた。このソファに並んで座って、いつでも俺の隣にいてくれた。
 だがそれ以前には、俺はずっと一人だったはずだ。
 伊都と一度は別れ、そして弟が故郷へ帰っていった後、この部屋には俺が一人きりで残された。それから長い間、ここでは何をするにも一人だった。今になって一人が耐えられないとか、どうなんだ。
「……いや、違うか」
 自分の考えに、俺は自らかぶりを振った。
 彼女が俺の腕に戻ってきた時、思ったはずだ。
『どうして平気でいられたのか、自分でもわからない』
 俺は一人でいるのが好きだったわけではなく、慣れていたわけでもなく、ただ麻痺していただけだ。
 本当は伊都がいてくれた方がいい。いつだって、何をする時だって。だから俺は自転車にだって乗り始めたし、ピアノだって再び弾くようになった。
「治ったら、嫁孝行するか」
 健康でいなければ、感謝の気持ちだって伝えられない。
 病める時も健やかなる時もと誓いは立てたが、自分が病気になっては愛することもままならない。伊都の為にもこの五日間、どうにか乗り越えなくてはならない。
 と言いつつ、既に彼女の帰りが待ち遠しくなっている俺がいたりする。

 その五日間は、恐ろしいくらいの鈍足で過ぎていった。
 毎日毎日、伊都の帰りが待ち遠しかった。
 家にいてもすることがないわけではない。ただ、何をするにも伊都がいてくれた方が楽しいのは事実だ。そういう気持ちが顔に出ていたのか、仕事から帰ってきた伊都は俺を見るなりころころ笑った。
「巡くん、寂しかった?」
「……ああ」
 俺は素直に頷く。
 この部屋には――俺には、いつだって伊都が必要だ。

 そして長い長い五日間の後、遂に俺はインフルエンザから解放された。
「治った! 治ったぞー!」
 快哉を叫ぶ俺は、愛しい妻をこの腕に抱き締める。
「伊都! 全部お前のお蔭だ、ありがとう!」
「わ……別に大したことしてないよ」
 ぎゅうぎゅうに抱き潰されつつ、伊都が頬をすり寄せてきた。
「でも、嬉しいな。心配してたんだから」
 それはよくわかってる。うつる可能性だってあったのに、甲斐甲斐しく看病してくれた。
「今晩からは一緒に寝られるな、伊都」
「そうだね」
 耳元に囁きかけると、彼女はくすぐったそうに首を竦める。
 それから上目遣いに俺を見て、
「巡くんがいないと、お布団冷たかったな」
 と言った。
 奥二重の瞳を潤ませて、じっと俺を見上げている。ねだるような眼差しが可愛い。厚い方の下唇に指を置くと、柔らかい唇がはにかんだ。
「ずっと、してなかったね」
「そうだな。七日分はしないとな」
「七日分……七回くらいかな」
「それじゃ足りない。いっそ七十回しよう」
「え! ちょっと多くない?」
「多くない。ずっと、したかったんだからな」
 それから俺は彼女の柔らかい頬に手を添えて、彼女が恥ずかしそうに瞼を下ろすのを見守った後、睫毛の長さに見とれながら、その唇に自分の唇を重ねた。
 お預け明けの一回目のキスに、ふと、結婚式のことを思い出す。

 病める時も健やかなる時も――あの一分四十七秒の間だって、俺たちはそう誓い合った。
 でもどうせなら健康な方がいいな。キスもできるし抱き合えるし、何より彼女が笑ってくれる。そりゃ伊都に看病してもらうのも幸せだけど、楽しく愛し合えるのはもっといい。

「……あと、六十九回だね」
 長い長いキスの後で唇を離すと、伊都が吐息と共に呟く。
「たった六十九回か。足りなくなりそうだ」
 もっと欲しくてたまらなくて、じれったい思いで唇に囁いた。
 すると彼女はその唇を微笑ませ、
「私も」
 結婚式の時と同じように、この上なく幸せそうな顔で言ってくれた。

 俺もめちゃくちゃ幸せだ。可愛い妻と健康な身体がここにあり、そして二人で過ごせる長い夜が待っている。
 この夜、俺は、彼女と数え切れないくらいキスをした。