Tiny garden

楽に寄す

「ホワイトデーのお返し、何がいい?」
 俺の問いに、伊都は困ったように眉を顰めた。
「うーん……今、特に欲しいものってないなあ」
 リビングのソファに浅く腰かけた彼女は、ちょうど爪の手入れをしているところだった。桜色の可愛い爪を一つ一つ丁寧に磨く姿を、俺は隣に座ってじっくり眺めている。
「ダイエット中だから、甘いもの駄目だしね」
「そうなんだよな。ホワイトデーらしく、クッキーにしようと思ったのに」
 今年のバレンタインには可愛いお菓子を貰った。ココアクッキーでできたピアノで、中にチョコレートをしまうようになっていた。俺達は二人で仲良くそれを組み立て、そして美味しくいただいた。
 伊都ははっきりとは言わないが、どうやら随分張り込んでいたらしい。それでなくとも彼女が俺の為に選んでくれたチョコレートだ。あれは本当に嬉しくてたまらなかった。
 だからこそホワイトデーにはたっぷりお礼をしたいのだが、前述の通り、伊都は現在ダイエット中である。
 いや、正確に言えば俺もだ。ダイエットというより、体重の増減や体形の変化、肌の不調などはとにかく避けたい時期だった。
 なぜならば、俺達の結婚式まで一ヶ月を切っていた。

 式場を押さえ、結婚式の段取りをプランナーさんと話し合い、招待状を出し、そしてウェディングドレスまで決めている。
 あとはもう式を挙げるだけだと思っていたら、実は式の直前にもやることがあった。
 それは、ドレスのフィッティングだ。
 花嫁さんが美しいドレスを最高のコンディションで着られるよう、式までに何度か試着をし、微調整を繰り返すものらしい。その度に俺達はブライダルショップに足を運び、伊都に予約しているドレスを着てもらっていた。あれも簡単に着られるものではないし、何だかんだで半日くらいは潰れてしまう。
 まあ、そのくらいの手間は仕方ない。男女平等とは言いつつも結婚式の主役は花嫁さんだし、俺だって伊都にはベストの状態で式に臨んでもらいたい。
 ただそうなると、式までは太るわけにはいかない。
 また肌荒れや吹き出物を拵えるのも避けたいと、ここ数週間の俺達は睡眠時間をたっぷり取り、食生活にも気を配っていた。

「甘いものは駄目なの。もうここ最近は豆腐ばっかりの食生活で……」
「いつもじゃないか」
 嘆くふりをする彼女にツッコミを入れると、伊都はてへへと笑ってみせた。
 要はいつもよりちょっと規則正しい生活をしよう、という程度のダイエットだ。別に苦でもないのだが、甘いものだけは避けておきたいところだった。
「だったら食べ物以外で何か、欲しいものないか」
「何かとお金かかる時期だしね。ないよ」
 伊都はきっぱりと言い切ったが、バレンタインにあれだけのものを貰って何も返さないのはどうかと思う。
「いいよ、そのくらい。予算は別に取ってある」
 俺がしつこく促しても、彼女が首を捻るばかりだ。
「ぶっちゃけ、結婚式のことで頭いっぱいだからなあ。全然浮かばないんだ」
 そう言って、伊都は幸せそうに笑う。
 そのあっけらかんとした笑顔に、俺まで幸せで満たされてしまった。つられるように口元が緩む俺を、彼女も甘えるような目で見つめてくる。
「あ、じゃあさ。新婚旅行で何か買ってもらうってのはどう?」
「五月だろ。随分先の話じゃないか」
「別にいつ買ったっていいじゃない。ずっと一緒にいるんだから」
 伊都は考え方まであっけらかんとしている。
 その潔さが俺には、時々眩しい。
「尾道あたりで何か買ってよ。それがホワイトデーでいいよ」
 彼女はそう言うのだが、俺としては――それはそれ、これはこれだ。
 もちろん新婚旅行でもいろいろしてやりたいと思っているが、まずは目の前のホワイトデーだ。
 バレンタインデーにあんないいものを貰っておいて、何もしないというのはやはり、気が引ける。

 しかし甘いものが駄目、金をかけるのもちょっと、となると――。
 あとはもう、彼女にあげられるものと言えばアレしかあるまい。

 バレンタインデーの夜、伊都は、俺にこう言った。
『巡くんがピアノ弾いたら、絶対格好いいと思う』
 それはただの思いつきではないようだ。彼女がピアノ型のお菓子を俺にと考えてくれたことからも明らかだった。ピアノを弾いていた話なんて、実家に帰った時に少ししただけだ。それが彼女の心に印象深く残っていたことが、俺には嬉しかった。
 もし、できたら。
 彼女の為にピアノを弾いてあげたい。

 近頃はわざわざキーボードを買わなくても、演奏ができるピアノアプリなんて優秀なものがある。
 俺はタブレットにそれをインストールして、伊都に隠れてこっそりと練習をした。会社の昼休みに、音を消してロッカールームで。休みの日に『ちょっと買い物行ってくる』と言って、車の中で。あるいは彼女より先に帰った日に、家の中で。
 アプリは両手弾きにも対応していたが、柔軟な子供時代とは違い、二十年ぶりのピアノに手が思うように動かなかった。ワンフレーズ弾けるようになるのに丸一日かかった。ホワイトデーまでに一曲丸々弾けるようになるかは微妙なところだ。
 だが、密かな練習は子供時代よりも楽しかった。
 手の動きこそ鈍かったが、大人になり、音楽そのものが楽しめるようになっていたからかもしれない。楽譜に並ぶ音符や音楽記号をただの記号ではなく、メロディとして読めるようになっていた。弾けない箇所があってもメロディラインがわかれば何とか立て直せる。これは子供時代にはできなかったことだ。

 子供の頃は、ピアノの練習が嫌いだった。
 うちの両親はあの通りのクラシック好きで、三人の息子にも当たり前のようにピアノを習わせた。だが三人揃って、さして長続きはしなかった。
 俺も自分に才能がないことは何となくわかっていて、それだけに両親の期待が重かった。音楽を聴くのはあの頃から好きだったが、知らない曲ばかり弾かされるのも嫌だった。ピアノの先生は厳しい人で、家でおさらいをサボってきたのがばれるとこっぴどく叱られた。
 俺がピアノをやめたいと言った時、両親は目に見えて落胆していた。それでも止められなかったことにはほっとしたし、今となっては感謝もしている。あのまま続けていたとして、俺が音楽好きのままでいられたかどうかはわからない。
 だが今になってピアノを始めた俺を、うちの両親は何と言うだろう。
 可愛い奥さんの為なら何でもするのか、と苦笑されるかもしれない。

 ホワイトデーの夜、仕事を終えて帰宅した後で、俺は伊都に切り出した。
「プレゼントがある」
 彼女は何となく感づいていたようだ。そこで表情をほころばせた。
「何か隠してるなって気はしてたんだ。プレゼントって、何?」
 やはり一緒に暮らしていれば、隠し事をするのは簡単ではないようだ。
 それでも俺が鞄からタブレットを取り出すと、伊都は怪訝な顔をした。そしてピアノアプリを起動させれば、奥二重の瞳を丸くして俺を見た。
「何するの、巡くん」
「ピアノを弾く。音楽のプレゼントだ」
「弾けるの?」
 彼女はとても驚いた様子で、リビングに棒立ちになっていた。
 俺はタブレットを手にソファに腰を下ろし、呆然とする彼女を見上げる。
「まだ、あまり上手くない。とちっても笑うなよ」
「わ、笑わないよ!」
 伊都は強くかぶりを振ると、急にもじもじし始めた。
「もしかして、私が言ったから練習してくれたの?」
「他にないだろ、理由なんて」
「ありがとう、巡くん……」
 彼女は嬉しそうに目を潤ませたが、弾く前から感激されて、いざ弾いたらがっかりされるんじゃ困る。
「お礼は聴いてからの方がいいんじゃないか」
 そう告げたら、彼女はもう一度かぶりを振った。
「私の為に練習してくれたって気持ちだけで、十分嬉しいよ」
「優しいな、伊都は」
 ぐっと来たのを軽い笑いで押し隠し、俺はソファの空いている隣を目で示す。
「隣、座ってくれ」
「うん」
 伊都がすとんとソファに座る。そしてタブレットを構える俺の手元を覗き込んできた。
 今更ながら、俺は少し緊張してくる。
「先に言っとくけど、弾けなくなったら歌だけになるからな」
 最初からピアノ曲に挑戦するのはさすがに無謀だ。伴奏曲ならいざとなればアカペラでどうにかなる。そう思って練習してきた。
 なのに伊都は大喜びで手を叩いてくれる。
「弾き語りなの? すごい!」
「すごくないよ。歌で誤魔化そうとしてるんだから」
「ううん、絶対すごいよ。ね、なんて曲弾いてくれるの?」
 彼女が子供みたいに瞳をきらきらさせている。
 その可愛い顔に、俺は告げる。
「"An die Musik"」
「えっ、と、何語?」
「ドイツ語。日本語に直すと『楽に寄す』だ」
「がくによす……? それ、本当に日本語?」
 伊都の反応がいちいち屈託なくて、可愛くて仕方がない。
「そうだよ。音楽への愛を歌った歌だ」
「あ、楽って、音楽って意味なんだね」
 彼女が納得したところで、俺は深呼吸をした。
 それからゆっくりと弾き始める。アパートの夜にふさわしく、絞った音で。

 緊張していたからだろうか、短い前奏の段階で指がもつれた。
 本物のピアノとは違い、タブレットのつるつるした画面を叩くピアノアプリは指先が滑りやすい。俺はミスを立て直そうと、伴奏のテンポを少し落としながら歌い始める。本来はAndanteのところを、Lentoの速さで弾く。
 歌曲としてはごく短い曲だから、ドイツ語の歌詞だけはちゃんと覚えた。だが耳で覚えたので、発音の方はちゃんとしているか怪しいものだ。おまけに伴奏が頼りない。たったの二十四小節の間に、何度ミスタッチをしたかわかったものじゃない。
 だがそれでも、伊都は真剣な顔で聴き入ってくれた。
 タブレットの上でもがく俺の手に、時々はタブレットを凝視する俺の顔の側面に、彼女からの視線を感じていた。
 ともすればちりちりと焼け焦げそうな、熱っぽい視線だった。
 音楽の邪魔をしないよう心がけているのか、彼女は息を止めているようだった。

 弾き終えた後、深い溜息をついたのは、俺じゃなくて伊都の方だった。
「そんなにはらはらした?」
 俺が問うと、伊都は慌てたように、
「違うよ! 格好いいなあって思って、聴き入ってただけ!」
「ありがとう。でも、結構ミスしてただろ」
 思い立ってから今日まで、あまり時間もなかった。もうちょっと練習に時間を割けていたら、もっといい歌をプレゼントできたのに。
 だが、弾き終えてみれば不思議と満足もしていた。
「ミスとか、全然わからなかった。すごく格好よかったし、それに歌詞! 歌詞もドイツ語だったよね?」
 伊都が誉めちぎってくれたから、かもしれない。
「ああ。発音、適当だけど」
「巡くん、すっごく素敵! 最高のプレゼントだよ、ありがとう!」
 そう言うと彼女は俺の腕に飛びついてきて、まるで演奏を労うように、柔らかい胸にぎゅっと抱き締めてくれた。
 それからやっぱり目をきらきら輝かせて、
「ね、もっと弾いて。アンコール!」
「無茶言うなよ、まともに弾けるのはこの一曲だけだ」
「だから、この曲もう一回。歌もつけてね」
 しきりにねだってくるから、俺はご要望通りにもう一度、歌つきで『楽に寄す』を奏でた。
 伊都はまたしても真剣に耳を傾けてくれ、演奏が終わるとうっとりと俺にしなだれかかってきた。
「すごい、本当にすごいよ。ピアノ弾く巡くん、絵になりすぎるよ……!」
「誉めすぎだよ。待っててくれ、もっと上手くなるから」
 そう言いつつも、悪い気は全くしない。
 むしろ伊都に誉められると、もっともっと練習して上手くなりたい、他の曲も弾けるようになって聴かせてやりたいと思う。
 あの頃、ピアノのお稽古が嫌でたまらなかった巡少年も、こういう女の子が傍にいたら長続きしていたかもしれない。
 上手い下手なんて関係なく、ただ俺の奏でる音楽を愛してくれて、誉めてくれる女の子がいたら。
「それにしても、すごいね。今はこんなのでピアノ弾けちゃうんだ」
 ひとしきり俺を称賛した後、伊都は例のピアノアプリを覗き込み、人差し指で『レ』の音を叩く。
「伊都も弾いてみるか?」
「私? 私は『猫踏んじゃった』さえ弾けないよ」
「教えてやるよ、ほら」
 俺は伊都の肩を抱き寄せ、後ろから回した手で彼女の手を掴むと、タブレットの鍵盤の上にそっと置いた。
 柔らかく冷たい手の持ち主が、ちらりと俺を見上げてくる。
「こんなに近いと、緊張するんだけど……」
「近くないと鍵盤が見えない。平面だからな」
「まあ、そうだけど」
「何なら俺の膝の上に座るか? その方が手取り足取りしやすい」
 俺が促すと、途端に伊都はおかしそうに吹き出した。
「いつもの巡くんに戻ってる」
「いつもの、って何だよ」
「だって、ピアノ弾いてる時は格好よかったのに」
「今は格好よくないって言うのか」
 思わず睨んだ俺に、伊都はしばらく笑い続けていた。
 だがやがて、俺の手にもう片方の手を重ね返してきた後で、言った。
「巡くんはいつでも素敵な旦那さんだよ。最高のプレゼント、ありがとう」

 お礼なんて、こちらこそだ。
 ピアノを好きにならせてくれて、本当にありがとう。
 次はわかりやすいラブソングでも練習して、もっと夢中にさせてやろうかな。
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