Tiny garden

バレンタインのフルコース

 お互い仕事を終えて帰宅して、いつものように電話で少しだけ話をしていると、
『そういえば、来週はバレンタインデーがあるな』
 さも今思い出しました、というふうな口調で安井さんが言い出した。
 電話越しで見えないのをいいことに、私は笑いを噛み殺す。
 二月にも入ったことだし、そろそろ言われるんじゃないかと思っていた。安井さんはこういうイベントごとを黙って待っているような人じゃない。さりげなさを装いつつ念を押してくるだろうな、と想像がついていた。
「そうだね。私もちょっと考えてたんだけど」
 私はあと一ヵ月半で退去予定の、自分の部屋の床に寝転がりながら答えた。
 三月末の引っ越しに備え、ぼちぼちと荷物をまとめ始めているところだった。部屋の隅には夏服や扇風機などの季節物がもうダンボールに詰め込まれて積まれていたし、食器も使わないものから片づけている。三月は仕事も忙しいけど、このペースなら十分間に合うはずだった。既に化粧品や一部の着替えは彼の部屋に置かせてもらっているし――まあそれは引っ越しの荷物と言うより、必要に駆られての備えというやつなんだけど。
 ただそういう身辺の慌しさを理由に、彼の大好きなイベントごとをスルーするなんてかわいそうだ。私としても安井さんを喜ばせたいと思うし、バレンタインデーなら尚更スルーはできない。
「安井さん、私から普通にチョコ貰っても嬉しい?」
 それで聞き返すと、彼は心外そうに声を尖らせる。
『当たり前だろ。伊都から貰ったものなら何でも嬉しいよ』
「けど、安井さんならチョコとかいっぱい貰うんじゃない?」
 我が社でもバレンタインデーとなれば、社内でチョコレートの受け渡しが行われたりする。
 どこの課も大抵は、上司や同僚宛てのチョコレートは部署単位というのが暗黙の了解になっている。一人ひとりに買って渡すのは手間だし、お返しも面倒だろうし、主に妻帯者の皆様がチョコなんぞを持ち帰って奥様にいらぬ誤解を受けるのを避ける為でもある。広報でもチョコレートは箱で買ってどんと置いといて好きに食べてもらうことになっており、今度の週末に東間さんとチョコレートを見繕いに行く予定だった。
 もっともそういうのは奥様のいる上司を持っているからこその配慮であって、安井さんはまだ独身だし、あんまり考えたくないけどそれなりにもてるみたいですし、結構貰うんじゃないかなと思っている。現に営業課時代はたくさん貰ってきてたみたいで、重そうな紙袋を提げる彼の後ろ姿を見かけてチョコを渡すのを断念したこともあったり、なかったりだ。
『そうでもないよ。そりゃ営業にいた頃は得意先から貰うこともあったけど』
 謙遜なのか私への気遣いなのか、ともあれ彼は否定してみせた。
『人事に移ってからはそれほどでもないな、せいぜい同じ課や総務繋がりで貰うくらいだ』
「全く貰わないってわけじゃないんでしょ?」
『……何、気にしてくれてるの?』
 含んだような笑い声で聞き返され、私は一瞬だけ言葉に詰まる。
「いや、別に、そういうんじゃないですけど」
 ぼそぼそ答えたら更に笑われた。
『そうは聞こえないけどな。伊都が珍しく妬いてくれたんなら嬉しいよ』
「何で喜ぶかな……。こういうの気にするのって年甲斐なくない?」
『いくつになろうと関係ないよ。なぜって、俺がそうだから』
 安井さんはきっぱりと言い切って、
『でも俺に比べたら、伊都はやきもちなんてまず表に出さないだろ。だから今のは、ちょっと可愛かった』
 その声を耳元で聞く私は、一人赤面して大いに照れた。
 私の場合、やきもちは片想い時代に十分焼き尽くしたようなものだ。彼が女の子に人気あるのも今更だし、あんまり気にしない方がいい。と言っても気になっちゃうのが人間というやつですが。
『心配しなくても、俺が欲しいのは伊都がくれるものだけだ』
 今となっては、彼が電話越しにそう囁くのも私だけなんだから、抱え込むほどの暗い気持ちでもない。
「心配してないよ。信頼してるから」
 私がすかさず返事をすると、少しの間があって、彼が呟く。
『そうだよな。俺みたいなわかりやすい男が相手じゃ、やきもちの必要もないよな』
 納得したようでも、照れ隠しのようでもある呟きだった。
 とは言え、バレンタインに関する心配事はまだある。
「ただ、チョコばかり貰ってるとこに私まで追いチョコしたら、食べるの大変じゃない? 違う物にしようか?」
 いかにチョコレートとは言え賞味期限はあるものだし、あまりチョコばかりだと安井さんが困らないだろうか。彼は甘い物も普通に食べる人だけど、かといって積極的に自ら買って食べるような人でもない。せめて私くらいはチョコ以外の品をあげてもいいかな、ともちょっと思う。
『伊都から貰えるなら何でも嬉しいよ。あまり気を遣わなくても、心がこもってればそれでいい』
 彼は優しくそう言うと、少しだけ笑う。
『前に貰ったのは四年も昔のことだからな。本当に、貰えるだけで嬉しい』
「うん……そうだね、すごく久し振りだね」
『正直、お前とこういう話ができるだけでも幸せだ。他には何も要らない』
 噛み締めるようなその言葉に、私はまたしても照れた。
 思えば今年はお互いに、恋人のいるバレンタインデーを久し振りに迎えたことになる。
 だからこそ今年は彼にとびきり喜んでもらえる物を贈りたい。
 四年の空白を埋められるだけの、とても素晴らしい物がいい。

 しかし、デパートで売られているチョコレートはどれもこれも素晴らしく美味しそうで困る。
「……これだけチョコばかり並んでると、目移りしちゃいますね」
 バレンタイン前の週末、私と東間さんは広報課の男性陣に贈るチョコレートを買いにデパートへと繰り出した。
 同じ目的らしい女性客でごった返すデパ地下をうろうろしつつチョコレートを吟味していたものの、なかなか一つに絞れず二人でうんうん唸る羽目になった。
「うちの課長、こと甘い物となると舌の肥えた方だからね」
 東間さんが難しい顔で溜息をつく。
「あんまり下手な物買ってけないし、毎年買いに来てはそれはもう悩むの」
「でしょうね……。何かすみません、これといった意見もできずに」
 広い売り場のあちこちに点在するぽお菓子屋さんのテナントをはしごするうち、私はすっかり目が眩んでしまった。ついでに安井さんにあげる分も選んじゃおうなどという目論見があったにもかかわらず、いざ品物を見てみたら目移りしすぎてどれがいいのかわからなかった。洋酒入りの四角いチョコケーキも宝石みたいにころんとしたトリュフチョコもガナッシュ入りのチョコレートマカロンも、全部美味しそうに見えてしょうがない。そうやってみて回っている間にもチョコレート達は飛ぶように売れていき、私達はいよいよ焦り始める。
「今年は園田ちゃんがいてくれるから心強いよ」
 全く何の戦力にもなってない私に、東間さんは慰める口調で言ってくれた。
「一人だと迷いに迷った挙句、買ってから『やっぱり違うのの方が……』ってなることもあるじゃない。去年なんてそれで三時間も悩んじゃった。でも園田ちゃんがいれば『それでいいと思いますよ!』って言ってもらえるだろうし」
 三時間はすごい。でもここに並ぶチョコレート達の魅力を思えばそれだけ悩むのもわかる気がする。
 きらびやかで美しいチョコレートに目が眩んだ私にとって、この中から一つ決めて、と言われたらそれはそれは難しいことだろう。でも東間さんの背を押すくらいなら力にはなれそうだ。求められたら全力で同意を示そうと、私は心に強く誓った。
「お任せください。精一杯太鼓判を押します!」
「うん、任せたよ!」
 東間さんはにっこり笑い、それから深く息をつき、意を決したように続ける。
「よし、そろそろ決めちゃおう。ね、さっきのお店のチョコ詰め合わせ缶でどうかな」
「いいと思います!」
 すかさず私は全力で同意し、その後は二人でチョコレートの詰め合わせを買いに混み合う売り場へ舞い戻る。いろんなフレーバーのチョコレートが詰め込まれた缶は大きさが私の顔ほどもあり、バレンタイン当日はこれを広報課の中央にどんと置いて、『ご自由にお召し上がりください』とするのだそうだ。
 どうにかチョコレートを購入した後は同じデパート内のカフェへと移動し、達成感と共に一息ついた。
「はあ、ようやく買えた……」
 お茶を飲みながら東間さんがほっとしたように呟いたので、私も苦笑した。
「今年も結構悩んじゃいましたね。全部美味しそうなんですもん」
「本当にね。いっそ全部買ってみたいとこだけど、そうなると予算がね。義理チョコにそこまでかけられないし」
 東間さんは首を竦めると、不意にこちらへ向かって微笑む。
「そうだ。園田ちゃん、本命チョコはもう用意したの?」
「え? その、実はまだなんです」
 突っ込まれるであろうことは予想していたのに、いざ突っ込まれるとあたふたしてしまう。私がお茶でむせかけたのを見てか、東間さんはおかしそうにしていた。
「園田ちゃんは手作り派? それとも市販品を贈る派?」
「いえ、私はお菓子作りはあまり……。なので買うつもりでいたんです」
「じゃあ今日、ついでに見ておけばよかったのに。今からでも見に戻る?」
「一応、ついでに見てたんですよ。でもそっちはそっちで決めかねてて」
 本当にデパ地下の品揃えの豊富さと言ったら目眩がするほどだ。どれもこれも美味しそうで全く選び切れなかった。
 そして安井さんは他にもチョコレートを貰ってくるのだろうし、じゃあよさそうなの全部買う、ともいかないのが困る。いっそチョコ以外の物にしようかな。
「バレンタイン意識するの久し振りなんで、意欲と熱意が空回っちゃってるのかもしれないです」
 私は正直に打ち明けた。
 バレンタインに臨むに当たり、なるべくいい物を、喜んでもらえる物をと思う気持ちは誰にでもあるだろう。その上、私と安井さんにとっては四年ぶりのバレンタインでもある。おろそかにはしたくない。でもおろそかにしない為に何を用意したらいいのか、売り場では全く決められなかった。
「普段からチョコとか食べる人じゃないんで、チョコ一つに絞り込めないんですよね。もっといいのがあるんじゃないかって思っちゃって」
「そっかあ」
 東間さんが腑に落ちたように頷いた。
「もう彼が好きすぎていとおしすぎて何でもしてあげたいくらいなのにチョコ一個しかあげられないんじゃ全然足りない! って感じなんだね」
 そして私の内心を勝手に意訳したので、慌てて訂正に入る。
「そ、そこまでは言ってないですから! 何を言うんですかもう!」
「でも大体はそういうことでしょう?」
「まあ……そういう部分もなくはない、ですけど」
 そうかもしれない。大体は。
「なら、無理にチョコにこだわらなくてもいいと思うけどなあ」
 東間さんは諭すように、穏やかに言った。
「付き合い長いんでしょ? チョコよりも彼が喜びそうな物、わかってるんじゃない?」
「そうですね。知ってると言えば知ってる……かな」
「だったら彼が喜ぶ、園田ちゃんらしい物を贈ればいいんだよ。チョコ一つに気持ちを込めようとするから難しく思えるんじゃないかな」
 安井さんが喜ぶ、私らしい物――。
 となるともう、思い浮かぶ品はあれ一つしかない。
「どうしても決めかねたら、さっきの台詞伝えるだけでも彼、ぐらっと来そうだけどね」
 考え込む私にふと、東間さんが言った。
「さっきの台詞? 何でしたっけ」
 何のことかとっさにわからず聞き返せば、
「ほら、園田ちゃんの『彼が好きすぎてチョコ一個じゃ全然足りない!』っていうやつ」
「それ言ったの東間さんじゃないですか! 私じゃないですよ!」
「私は園田ちゃんの気持ちを翻訳しただけだよ。愛が溢れてだだ漏れになってるのが見えるもの」
「そんなことないですってば! 気のせいです!」
「まあいざとなったら『私がプレゼント』でいいじゃない。何ならリボンかけてあげようか」
「東間さん! わざとからかってるでしょう!」
 私が抗議すると、東間さんは長い間くすくす笑った後、『ばれた?』なんて聞き返してきた。

 その後も散々からかわれはしたけど、東間さんのおかげで方向性が定まった。
 安井さんが喜ぶ物、そして私らしい物と言えばあれしか思い浮かばない――そう、豆腐だ。
 確かにチョコレート一つに、私の今の気持ちを詰め込もうとするのは難しい。
 だけど豆腐になら詰め込める。調理次第でいろんな味になり、どんな食材とも組み合わせることができるあの真っ白な豆腐となら。
 バレンタインらしくはないかもしれないけど、美味しいから大丈夫じゃない、かな?

 安井さんには二月十四日、バレンタイン当日まで秘密にしておいた。
 ただし当日は早めに種明かしをしておいた。彼が手渡されるはずのない私のチョコレートを待ち続けるあまり、そわそわしていたら悪いからだ。
『今日はバレンタインだから、退勤したら部屋に寄ってご飯作っておきます。食べてね!』
 そうメールを送ると、彼からは午後になって『楽しみにしてる!』と返信があった。
 つまり計画はこうだ。私は退勤後に買い物をしてから安井さんの部屋に立ち寄り、彼の為にバレンタインのディナーを作る。仕事を終えて帰ってきた彼を待ち受けるのは手作りの豆腐料理。きっとチョコレート以上に喜ばれることだろう。
 イメージは昔読んだ『小公女』だ。くたくたになって屋根裏部屋へ帰ってきたセーラとベッキーを素敵なごちそうが出迎えてくれたように、安井さんにも幸せな夕食を味わってもらいたいと思う。
 ただあいにくと今年の十四日は平日、そして翌日もまた仕事がある。なので私本人がきっと遅く帰ってくるであろう安井さんを待っていることはできない。本当なら一緒に味わいたいところだけど、明日のことを考えるとちょっと無理だ。それだけは残念だった。

 その日、私は定時ちょっと過ぎに退勤することができた。
 その足で安井さんのアパートまで急ぐ。途中、近くのスーパーに寄って買い物も済ませた。本日のメニューは麻婆豆腐、身体も心も温まるピリ辛メニューだ。
 当たり前だけど鍵のかかった彼の部屋に、私は合鍵を使って上がり込む。物音一つしない彼の部屋はカーテンが開いており、私は明かりをつけてからカーテンを閉めて回る。そして洗面所で手を洗った後、調理に取りかかった。お米を研いで炊飯器にセット、スイッチを入れる。まず付け合わせの春雨スープを作り、その次に麻婆豆腐を作る。作り慣れてるだけあってそれほど時間はかからなかった。お皿に盛りつけた後、刻みねぎでハートマークを描こうとしたけど何か気恥ずかしくなったのでやめた。
 麻婆豆腐にラップをかけて、キッチンのわかりやすいところに置いておく。スープは鍋の中、炊飯器はもうすぐ保温に切り替わるタイミングだ。
「……よし」
 用意が整い、私は思わずにんまりした。
 時計を見れば午後七時少し前、恐らく安井さんはまだ帰ってこないだろう。できたてを食べてもらえないのも残念だけど、それは一緒に暮らし始めればいつでもできるはずだ。
 やり遂げた達成感に満ち溢れながら、私は使ったフライパンを洗い始める。そして洗い物が全て終わり、後片づけも済ませ、さあ帰るかと玄関へ向かったところで。
 急に、外から鍵が開けられた。
 靴を履く私の目の前で玄関のドアが開き、仕事帰りの安井さんが姿を見せる。屈んだ私を見るなり目を丸くしていた。
「あれ、今帰るとこか? ぎりぎり間に合った?」
「安井さん、どうしたの?」
 予想以上の早い帰宅に、私の目も恐らく丸くなっていたことだろう。
 彼は私の問いに苦笑して、
「どうしたのってことはないだろ。せっかく伊都が来てくれてるんだから、早く帰ってきた」
「いや、ご飯作っとくからって言っただけで、待ってるつもりは――」
 靴を履き終えた私が弁明しかけたのを、玄関に入ってきた彼が笑顔で抱き寄せて黙らせる。彼の背後でゆっくりとドアが閉まり、私は彼に抱き締められながら何か予定と違うなと思う。
「メール貰った時から、間に合うように今日は早く帰ろうと思ってたんだ」
 安井さんが私の耳元で囁く。
「だから帰るなよ。一緒にご飯食べよう」
 確かに考えてみれば、彼ならそうするだろうと今更思う。私が早く帰ってご飯を作っておくね、なんて言ったらそれに間に合うように大急ぎで帰ってくるはずだ。長い付き合いなんだからちょっと考えればわかるはずなのに、どうも私は相変わらず考えが足りないみたいだ。
 おかげで今になって慌てる羽目になる。
「そう言うけど、一人分しか作ってないよ」
 私は顔を上げて反論した。別に帰りたいなんて思ってないと言うか、むしろ安井さんが早く帰ってきてくれて嬉しいと言うか、今もちょっと予定外のことに戸惑いつつ顔が緩んできちゃったりしてるけど――それはそれとしてせっかく作ったバレンタインのディナーを、安井さんが半分しか食べられなくて物足りない思いをするのは困る。
 だけど安井さんは全く気にしたふうもなく、鞄と一緒に提げていた紙袋を掲げてみせた。
「大丈夫。ほら、デザートもある」
 紙袋の中には包装された四角い包みがいくつか詰め込まれていた。
「え、それ安井さんが貰ってきたチョコじゃないの?」
「そうだよ。だからお前と食べたい」
 彼は私に向かって、目を細め微笑んだ。
「くれた相手には『彼女と一緒に食べた』と言うつもりだからな」
 それで私は、この間のつまらないやきもちを思い出して恥ずかしくなり、黙って彼にもたれかかった。
 ちらっと零しただけだったのに、実は結構、気にしてくれたりしたのかな。安井さんはこういう細かいところにとてもよく気がつく人だ。気を遣わせて悪いと思いつつ、それでもやっぱり少し嬉しい。
「明日仕事だから、電車のあるうちに帰るけどいい?」
 私は一度履いた靴を再び脱ぎ、同じく靴を脱いだ彼と共に部屋の中へ舞い戻った。
 冬のコートをハンガーにかける安井さんが、意外そうな顔をして私を見る。
「泊まっていかないのか?」
「今、『明日仕事だから』って言ったばかりだよ……安井さんだってそうじゃない」
 むしろ彼の方が今は忙しい時期なんだから、私が長居したら気疲れするかもしれない。それは、長く一緒にいたいのはやまやまだけど。
 私がそんなことを考えていたら、
「俺は一緒にいられる方が嬉しい。何だったら明日の朝、お前の部屋まで送ってくよ」
 安井さんはすごく簡単なことみたいに言い切った。
「早起きしなきゃいけないよ。大変じゃない?」
「ちっとも。お前と一緒にいられるなら何も苦じゃないよ」
 彼が言った通りのことを、私だって思ってる。
 ただ、二月十五日に朝帰りとかいかにもすぎて何だかこう、こそばゆいという気もしなくもない。
「ここに化粧品なんか置いてあるんだろ? うちで飯食べてチョコ食べて風呂入って寝て、あとは化粧だけ済ませておけばいい」
 ものすごく簡単なことみたいに言い放たれたけど、それらの行動には全部『二人で一緒に』って前置きがついてくることは考えるまでもない。あ、化粧だけはしないだろうけど。
 何か今夜は、カップル向けバレンタインの過ごし方フルコースって感じになりそうだ。
「そして明日の朝、お前の部屋まで送ってく。そしたらお前は着替えるだけで出勤できる」
 てきぱきと立てた計画を述べる安井さんに、私はもはや笑うしかなかった。
「すごいね。計画立てるなら安井さんの方が上手って感じ」
「そうだろ。で、どうする?」
「じゃあ……泊まっていってもいいけど」
 答えたら、それはもう嬉しそうな顔をされたので、選択としてはよかったんだと思う。
 明日は仕事だけどそれはお互い様だ。案外こういう時間を過ごした後の方がはかどるかもしれない。

 翌朝、午前六時。
 化粧とヘアセットはばっちり済ませて、スーツだけは昨日と同じ物を着た私が自分のアパートへと帰ってきた。
 ものの見事に朝帰りというやつだ。
「ちょっと上がってけば? コーヒーくらい入れるよ」
 わざわざ一緒に早起きして私を送り届けてくれた安井さんを招くと、彼は一も二もなくついてきた。
「お言葉に甘えようかな。お前の部屋に入るの、久し振りだ」
「暖房入ってないから寒いよ。コート着たまま待ってて」
 私はやかんを火にかけて、お湯を沸かす間に着替えを済ませた。安井さんはその間、私の部屋の隅に詰まれたダンボールをぼんやり見つめていた。三月末に引っ越す為にまとめていた荷物だった。
「久々に来たと思ったらもうじき見納めなんだな、この部屋」
 ぽつりと彼が呟くので、私はコーヒーを入れながら応じた。
「そうだよ。春からはもう朝帰りなんてできなくなっちゃうよ」
「だから今回、やっといてよかっただろ?」
 安井さんは妙に得意げだ。それでいて、すごく幸せそうだ。
 昨夜、バレンタインのフルコースだったのがそんなに楽しかったんだろうか。
 私は――まあ、楽しかったし、幸せですけど。
「ホワイトデーは何しようかな……」
 にやにやしながら考え込む彼に、私は入れたてのコーヒーのカップを持っていってあげる。
 この間、『お前とバレンタインの話ができるだけで幸せだ』なんて健気なことを言ってたような覚えがあるんだけど、それはまあ、もういいか。
 だって四年ぶりなんだから、チョコレートだけじゃ足りないくらいなんだから、フルコースじゃないと!
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