Tiny garden

さよならは言わない(2)

 仕事始めの日、私はお弁当を作った。
 一年の計は元旦にありという。今日はとっくに元旦じゃないけど、今年最初の出勤日だ。というわけでちょっと気合を入れておく。これからの為に、来る日の為に、いい習慣はなるべく続けておきたい。
 早起きして作ったお弁当を味見してみたところ、なかなか美味しく仕上がった。だから朝のうちに安井さんへ連絡をしてみた。
『お弁当持っていったら食べる?』
 そんなメールを送ったら三分と経たないうちに返信が来た。
『それはもう喜んで食べる』
 忙しい朝に打たれた簡潔なメッセージを微笑ましく思いながら、私は二人分のお弁当を包んだ。

 社内で手渡すと人に見られた時に恥ずかしいかもしれない。
 ということで、会社の最寄り駅で落ち合って、お弁当を渡すことにした。
 ちょうど本日は雪のちらつく空模様で、万が一積もることを想定すると自転車では行けなかった。安井さんも電車で来ると言うからちょうどいい。

 駅には通勤ラッシュの三十分前くらいに到着した。
 待ち合わせ場所のコンコースに、ほどなくして彼も現れた。冬の通勤用のチェスターコートを羽織り、勤務日らしく短い髪を整えた安井さんが、先に来ていた私を見つけるなりぱっと顔を輝かせる。
「おはよう、園田」
「うん、おはよ」
 私も軽く手を挙げて、彼を出迎えた。年末年始の休みはほとんど一緒に過ごして、昨日だって彼の部屋にいたんだけど、こうして外で改めて会うと何かくすぐったくなるのが不思議だ。
 ひとまずは提げてきた小さな紙袋を差し出す。
「これ、例の品」
 そう告げたら、紙袋を受け取った安井さんがおかしそうに笑った。
「何か怪しい取引でもしてるみたいだ」
「秘密のブツのやり取りには違いないよ」
 私も乗って、企み顔で答えておく。
 実際のところは誰かに知られたらものすごく恥ずかしいというだけで、見られちゃまずいとか、ばれないように振る舞いたいなんてことはない。そりゃおおっぴらにやろうとは思ってないけど、どうせいつかは明るみになることだ。昔みたいにこそこそする必要はないと、私も安井さんも同じように考えていた。
「一応、レンジで温めてもいいお弁当箱だけど」
 紙袋を指差しながら私は説明を添えた。
「あんまり温めすぎると爆発するからほどほどにね」
 途端に安井さんが目を丸くする。
「爆発? 一体どんな献立なんだ」
「豆腐のおかずだよ。美味しかったから楽しみにしててね」
 本日のメインは豆腐のピカタ。前に料理教室で習った鮭のピカタを応用して、豆腐で作ってみた。これがなかなか美味しい出来で、やっぱ食材としての豆腐は素晴らしいものだという認識に達した。前から知ってたけどね。
 あとは安井さんにも喜んでもらえるといいんだけど。少しだけ、どきどきする。
「そういうことか。わかった、期待してるよ」
 紙袋の口を開いて一度中を覗き込んだ彼が、その後で顔を上げた。朝にふさわしい爽やかな笑顔で言った。
「じゃあ、一緒に出勤しようか」
 当たり前みたいに、そう言ってくれた。
 今朝は駅で会ってお弁当を渡す約束をしただけで、それ以上のことは話していなかった。でも彼が声をかけてくれたのが嬉しかったし、それを嬉しいと思う自分にも新鮮さを覚えている。
 少しは変われたんだろうな。私も、彼もだ。
「そうだね」
 もちろん私はすぐさま頷く。ちょっとだけ照れながら。

 一月の朝はきんと冷え込んでいて、空気も澄み切っていた。
 空は真っ白な雲で覆われており、時折ふわふわの雪がちらつくから、まるで雲がちぎれて降ってきているように思えた。アスファルトで覆われた歩道にうっすらと積もり始めていて、ブーツで踏みつけるのが惜しくなるほどだ。帰る頃には一面銀世界かもしれない。
「今朝も寒いね、雪降ってるし」
 歩きながら思わずぼやくと、安井さんも真っ白な息と共に零した。
「こう寒いと、出勤するのが億劫になるな」
 それから何か思い出したように微笑んで、目の端で私を見る。
「前にもこんな話したな、一緒に会社行きながら」
「そういえばそうだったね」
 彼の言葉に私も、去年の冬の朝、こうして並んで歩いた時のやり取りを思い出した。

 あれはほぼ一年前、一月十日のことだった。
 私が二十八歳の誕生日を迎えた日、雪が降ったから電車通勤になってしまって、駅を出たところで彼と偶然行き会った。途中までだけど会社まで歩いたりもした。
 過去のことなんて忘れて、普通に振る舞ってるつもりだったけど、振り返ってみればぎこちないやり取りだったように思う。

「あの日、園田の誕生日だったよな」
 安井さんが記憶を手繰り寄せるように、ゆっくりと語る。
「会えたらいいなと思ってたけど、本当に会えて嬉しかった。おめでとうは朝のうちに言えなかったけどな」
「私がコンビニに寄ったからね」
 同じように記憶を掘り起こしながら相槌を打つと、彼は探るような目をこちらに向けてきた。
「俺のこと避けてただろ、あの頃」
「そんなことないよって言いたいとこだけど、そうかも」
 ここは素直に認めておく。
 彼に断ってコンビニに立ち寄ったのは、誕生日のケーキを買おうと思ったからだ。でも彼と外を歩くことに、二人で話をすることに、全くのフラットな気持ちでいられたかと言えばそうでもなかった。過去の記憶をなかったことにしようとして意地になっていたところもあったと思う。
「おかげで言い損ねた。おまけに園田が普段と違う格好をしてたから、焦ったよ」
 あの日の私、何を着てたっけ。自転車じゃなかったなら今日みたいにコート着たり、ブーツ履いてたりしてたはずだ。
「何で焦るの?」
 不思議に思って尋ねると、彼は何でわからないのかと問いたげに答える。
「誰かと約束でもあるのかと思うだろ、誕生日だし」
 どうやら彼はあの頃から、私のことをちょっとは気にしてくれていたらしい。私が思わずにやにやすると、彼の目が恨めしげに吊り上がる。
「人を振り回しといて喜ぶんじゃない」
「そんなの、あの時はわからなかったから無罪だよ」
 私は尚も笑って、去年の一月十日の記憶の続きを口にする。
「でも、後で言ってくれたよね。誕生日おめでとうって」
 朝のうちは他愛ない会話だけで別れたけど、その後で私達は再び顔を合わせていた。お互いに残業をして、遅くなった帰りに。
 安井さんも覚えてたんだろう。少し得意げに笑ってみせた。
「お前が誕生日に残業してるなんて思わなかったからな。あの時は嬉しかった」
「私もだよ。びっくりもしたけど」

 祝ってもらえるなんて思ってもみなかったから、言われた時はすごく驚いた。
 その前年、前々年は何も言われなかったから尚更だ。
 そうして時間をかけて、ようやく再び一緒にいるようになった私達が、また一月十日を迎えようとしている。

「園田、今年の誕生日は何をする?」
 安井さんがうきうきと尋ねてきた。
 自分の誕生日でもこんなに浮かれないだろうというほど、顔を綻ばせて嬉しそうにしている。
「何せ三連休だからな。どこか出かけるにしても十分すぎるほど時間がある」
 二十九歳になる私の誕生日が成人の日というのも何だか畏れ多い気がするけど、休みは休みだ。せっかくの連休なんだから楽しくのびのびと過ごしたい。もちろん安井さんと一緒に。
「ちょっと遠出して小旅行でもいいし、何なら出先で泊まってきてもいい。この辺で遊び歩くでも、食べ歩くでもいいよな。お前がそうしたいって言うなら、また豆腐料理の美味い店でも見繕っておくよ」
 彼が次々と案を出してくれるものだから、私もだんだん楽しい気分になってくる。去年の誕生日とはうって変わって、今年の誕生日は充実した日になりそうだ。
「まだこれと言って希望はないけど……」
 と言うより、やりたいことが多すぎて絞り込めそうにない。私は少し考えてから、
「最近あんまり遊べてなかったし、軽く遊びに行きたいかなあ。映画でも見に行って、お茶飲んで、帰りにちょっとウィンドウショッピングして、みたいな」
「映画か」
 そういえば、という調子で安井さんが呟く。
「昔は映画館に行ったことなかったよな。何か観るってなったら、いつもお前の部屋だった」
「誰にも内緒って関係だったからね。会社の人に見つかったら困るって思ってたし」
 かつては映画を観るとなったらDVDを借りてきて、私の部屋のテレビで観た。そういうのも楽しくなかったってわけじゃない。映画の内容には集中できなかったけど。
「隠しておいたせいで、かえって遠回りさせられた気がするけどな」
 安井さんは首を竦め、次に目を細めた。
「なら今年の誕生日は堂々と手でも繋いで、映画館デートでもしようか」
「いいね、それ。観たいものがあればだけど」
「上映情報を調べておくよ。あとでメールする」
「わかった、ありがとう。楽しみにしてる」
 手を繋ぐとかデートとか、とっくに初めてじゃなくなっているのに、未だに照れるのが困る。でもいいと思う。
 きっと幸せな誕生日になること間違いなしだ。

 安井さんとは、会社のロッカールームの前で一度別れた。
 そして荷物を置いて廊下へ出てみれば、彼もコートを脱いだスーツ姿で、壁にもたれるようにして私を待っていた。
「せっかくだから、最後まで一緒に行こう」
 屈託のない笑顔を浮かべてそんなことを言う彼に、私もはにかんで答える。
「いいよ。でも安井さんはいいの?」
「何が? 俺は園田と一緒にいたいんだ」
「仕事始めなら挨拶とかあるんじゃない? 何か考えてる?」
 例年通りなら各部署ごとに挨拶代わりのスピーチがあるはずだ。多分うちの課でも小野口課長が一生懸命考えていることだろう。
「その点なら抜かりはないよ。用意はできてるから心配しなくていい」
 彼は羨ましくなるほどさらりと言ってのけた。
「さすがは安井さん、できる男ってやつだね」
「格好いいだろ? もちろん三連休だって心置きなく休めるように仕事を進めるつもりだ」
 確かにちょっと格好いい。
 私もそんな台詞が言えたらいいんだけど――いや、言うんだ。是が非でも。
 その為にもまずは金曜日までに社内報の更新と、広報誌の入稿準備を済ませなくてはならない。全てが順調に進めば、三連休は仕事のことなんてきれいさっぱり忘れて過ごせるはずだ。
「私も頑張るよ。連休中まで仕事モード引きずりたくないもんね」
「そうそう、その意気だ」
 満足げに顎を引いた安井さんが、直後に声を落として続けた。
「でも、仕事に熱中しすぎて俺のことを忘れないように」
「わ……忘れないよ。何言ってるの」
 あらぬ疑いに私が苦笑すると、彼は口元は柔らかく緩めて、だけど眼差しは驚くほど真摯に言葉を継いだ。
「俺は仕事中であろうと、お前のことを忘れられそうにないからな」
 もう出社しているというのに、それは会社の中で言っていい台詞じゃない。うろたえた私が一瞬息を呑むと、安井さんも今度は瞳までふっと微笑ませた。
「年末年始の、それはそれは甘い記憶があるからな。当面は仕事に励めそうだ、感謝してるよ」
「……会社の中で滅多なこと言わないのっ」
 私がぼそっと指摘すると、彼は肩を震わせてくつくつ笑った。こっちは顔が赤くならないよう苦心する羽目になったけど、無駄な努力だと言うことも十分すぎるほど知っていた。

 そんな会話を小声で交わしながら階段を下り、人事課と広報課がある二階の廊下まで出た時だ。
 角を曲がった途端、廊下にたった一人で立っている人影を見つけた。まだ誰も来ていないかと思ったのに、真面目な社員もいたものだ。
 と思ったら、
「園田ちゃん。……と、安井課長。おはようございます」
 東間さんだった。
 こちらを向いて、私達が二人で来たと気づいた瞬間、冷やかすような笑みを浮かべてみせたような気がするのは多分見間違いじゃない。
 もっとも安井さんの前だからか、すぐにいつもの落ち着き払った表情に戻ったけど。
「お、おはようございます……」
 どきりとする私の隣で、安井さんは全く動じずに軽く会釈をする。
「おはようございます、東間さん。本年もよろしくお願いいたします」
「ええ、よろしくお願いいたします。園田ちゃんもね」
 東間さんが安井さんと私を見比べるように眺めた。その視線に揶揄するような気配はなかったけど、私はもう落ち着いてなどいられなかった。

 彼との関係をもはや隠すつもりはないし、誰かに聞かれたら正直に答えるつもりでいる。
 でもそう思っていても、いきなりこうして、しかも仕事始めの日に一緒に出勤してきたのを見られるのは非常に気まずい。
 まして相手は諸々の事情を知り、更に私の話していないことまで勘で見抜くような東間さんだ。

「じゃあ園田、またな」
 安井さんが私の肩を叩いて、一足先に踵を返した。そのまま人事課のあるオフィスに入っていく後ろ姿を、東間さんと共に見送る。
 ドアが閉まったその後は、当然のことながらはしゃぐ東間さんにつつき回された。
「ねえねえねえ、どういうこと? 一緒に出勤してくるなんて!」
「い、いえ、まあ、駅で待ち合わせただけって言うか……」
「本当に? どっちかの部屋からそのまま来たんじゃなくて?」
「そんなことないですって! 本当です!」
「そうかなあ。その割には顔赤いし、随分慌ててるような……」
「顔は赤いかもしれませんが慌ててないです!」
 まあ年末年始のお休みはほとんど彼と一緒に過ごして、昨日だって彼の部屋にはいたんですけど――嘘はついてない。かろうじて。
「にしても、仕事始めからあてられちゃったなあ」
 東間さんは口元に手を当てて、にんまりと笑んだ。
「この分だと今年はいっぱい見せつけてもらえそう。楽しみにしてるね、園田ちゃん!」
「そんなの楽しみにしないでください!」
 私はあたふたとかぶりを振り、尚もつつきたがっている東間さんの背を押した。
「ほ、ほら、そろそろ広報に行きましょう! 今年もお仕事頑張らないと!」
「そうだね。社内報の更新も、広報誌の入稿もあるし」
「ですよね! 頑張りましょうね東間さん!」
「十日は園田ちゃんのお誕生日だしね。きっと予定もあるだろうし、仕事片づけとかないとね!」

 危うく、何で知ってるんですかって口走るところだった。
 何かもう、東間さんには全部見抜かれちゃってるとしか思えない。
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