Tiny garden

I complete.

 平和な休日の昼下がり、俺は自宅の居間で物思いに耽っていた。
 視線の先には藍子がいる。俺があの可愛い可愛いマイハニーを見つめているのはいつものことで、いつか見つめすぎて穴が開いちゃわないかと密かに心配しているほどなのだが、幸いにして藍子のすべすべの肌に穴が開く気配は目下ない。
 だが今日の眼差しは太陽光を集めた虫眼鏡の如き熱いやつではなく、もう少し真面目なやつだ――と、俺は思っている。
 他人から見たら区別はつかないかもしれんが。

 さておき、藍子である。
 ソファに座った彼女は、ただ今電話の真っ最中である。
「――うん、そうだね。せっかくだから皆で集まりたいよね」
 通話の相手は学生時代の友人らしく、先程から実にフレンドリーに会話を交わしている。
「――わかるわかる! やっぱりそういうのあるもんね」
 フレンドリーな口調の藍子も可愛い。
 というか藍子に関して可愛くない事柄など、結婚して半年が過ぎた今でも一つとして見つけられていない。くしゃみをしようが話の途中で噛もうがダジャレで滑ろうがもれなく可愛いのがうちの妻である。夫として日々幸福を噛み締めてきた半年間でもあった。
 だが、不満が一切ないわけでもない。
 それはごくささやかな、別に俺の腹にしまっといてもいいレベルの不満ではあるのだが、こうして目の当たりにするとやはり考えてしまう。
 藍子はなぜ、俺にはタメ口を使わないのだろう。

 理由はもちろんわかっている。
 夫婦として深く深く愛し合う俺達でさえ、『七歳差』という歳の差は誤魔化しきれない。天地が引っくり返ったって、俺が七歳若返ることも、藍子が俺に追いついてくることもないのである。変な話だ、結婚してからというもの俺の気持ちだけはぐんぐん若返っているというのに――今じゃ思春期の少年気分で彼女に恋をしている。これは結婚前からという説もあるが、その辺の判定は別の機会にするとしてだ。
 おまけに俺達は、かつて上司と部下だった。新人指導を担当する主任と仕事を教わるほやほやのルーキーというところがスタート地点だったわけで、そりゃあ藍子も刷り込みみたいに敬語が染みついて抜けないことだろう。俺としても敬語こそが藍子の第一言語という感覚でいたし、正直可愛ければオールオッケーの気持ちでもいたので、これまであえて訂正はしなかった。
 だがこうしてタメ口藍子を見ていると羨ましくもなってくる。
 俺は藍子を知り尽くし味わい尽くしてきたつもりでいたが、本当はまだ半分も知れていないんじゃないだろうか。俺がまだ見たことのない藍子というのもそれはそれで美味なのかもしれない。それを味わわずして俺は藍子をコンプリートしたと言えるのか。言えるわけがない。

 そこで、彼女が通話を終えたところに切り出した。
「藍子、しばらくだけ敬語やめてみないか」
 電話を置いた藍子が、大きな瞳を瞬かせる。
「……やぶからぼうに、どういうことですか」
「だからタメ口だよ。俺にも。今の電話みたいに」
「ええと、私が、隆宏さんにですか?」
 ようやく理解したらしい藍子は、すぐに小首を傾げてみせた。
「それはちょっと……抵抗あります」
「何でだよ」
「だって、隆宏さんにはずっと敬語でしたから」
「例えば一日くらいやめたりできるだろ?」
 俺が持ちかけても、彼女はあまり乗り気じゃないようだ。可愛い眉をきゅっと顰めて答える。
「隆宏さんにそんなことはしたくないです」
「そんなことって、手酷く罵ってくれって頼んでるわけじゃないぞ」
「わかってますけど、何か、駄目なんです」
 藍子はそう言うと、上目遣いに俺を見る。
「私にとって、隆宏さんは特別なので……その、どうしても」
 特別。
 俺だから、特別。
 妻から賜るその言葉はまた甘美な響きだったが、酔いしれるより先にある事実に気づく。
「でも藍子、霧島とか安井にも敬語だよな」
「あっ。それはその、お二人は職場の先輩でしたから!」
「あと霧島夫人も」
「ゆきのさんも先輩ですし、あと尊敬してますし!」
 俺は特別だったんじゃないのかよ。
 ありがたみがどんどん薄れていくんですが、どうしてくれる。
「やっぱ駄目だ! 今日一日敬語禁止!」
「ええー……」
 鼻息荒く宣言すれば、藍子は戸惑った様子で苦笑していた。

 というわけで、敬語禁止令を発動してみたものの。
「……途端に黙りやがったな藍子」
 宣言直後、藍子はちっちゃな口を閉ざして黙り込んでしまった。
 俺のツッコミには目だけ動かして、何か言いたそうにしてくる。
「何だよ。言いたいことあるならちゃんと言えよ」
 俺が小学生男子みたいに彼女をつつくと、くすぐったそうに身を捩りつつも唇は結んだままだ。
「お、何だ。喋んないで乗り切ろうって腹か?」
 その顔を覗き込むと、藍子の口元がほんのちょっと緩んだ。
 だがまだ何も言わないので、こうなったらこっちも力ずくしかない。
「ほらほら喋んないとくすぐっちゃうぞ!」
「ひゃっ! だ、駄目です、そこ弱いんです……!」
「あー敬語使ったー。お仕置きだぞ藍子」
「わ、わざとじゃな――あっ、くすぐったいです!」
 俺が知り尽くした藍子のウィークポイントを責めると、彼女は声を震わせながら身悶えた。
 それはそれでとても可愛いというか、そそられちゃうのだが、本日のテーマからは脱線してしまうので程々にする。
「何でやりもしないうちから諦めちゃうんだよ」
 仕方なく、俺も作戦を繰り出してみることにした。
 名付けて『ポジティブ励まし大作戦』だ。
「お前はやればできる子だろ、藍子。営業にいた頃からそうだったじゃないか」
 営業課時代の小坂藍子は、励ませば励ますほど頑張れる子だった。上司の俺が鼓舞する度にいい笑顔で張り切ってくれたのを覚えている。
「あの頃のポジティブさを、熱い想いを、今こそ家庭で活かす時だ!」
 俺が肩を叩くと、藍子もはっとしたようだった。
「やればできる……そうです、やらないうちから諦めるのはよくないですよね!」
「その意気だ藍子!」
「じゃあ私、頑張ります!」
「でも早速敬語になってんぞ藍子!」
 俺の指摘に彼女は慌てて口を噤んだ後、もじもじしながらこう言った。
「じゃ、じゃあ……頑張ろう、かな?」
 何でそこで疑問形だよ。
 でもまあ、首傾げたその言い方は可愛かったので、今回はノーカンにしておく。
「今日の、お夕飯、なんだけど」
 藍子はたどたどしく、俺に向かって切り出した。
「何がいい、かな……。家にあるのは鮭、もしくは鯵の開き……」
 どうにも萎れたテンションになっちゃうのはどうしたもんか。
「鮭がいいかな。今日はホイル焼きみたいなの食べたい気分だ」
 俺が答えると、彼女はぱっと顔を輝かせ、
「いいですね!」
 と言った後ではたと気づいて、すぐにまた暗くなる。
「いい、と思う。ナイスアイディア」
 日本語覚えたてみたいな喋り方だ。
「何でお前、片言になってんだよ」
「あの、慣れてなくて……」
「そもそも慣れる必要ないだろ。妹さんにするように喋りゃいい」
 当たり前だが、藍子は実家では普通に喋る。お義父さんお義母さんそして妹さんには敬語は使ってない。ついでに言うと、妹さんの前ではおっとり系の素敵なお姉さんである。
 そのノリで俺にも接してみて欲しいんだが。
「妹にするように、ですか……」
 藍子は唸りながらしばし考え込んだ後、急にきりりとした顔になった。
「じゃあ今から、私がお姉ちゃんだからね! 隆宏さんは弟です!」
「いや、そういうことじゃなくてだな」
「お姉ちゃんが耳掃除をしてあげます! 膝枕されなさい!」
「しかも普通に敬語に戻ってるし! 意味ねー!」
 とは言えせっかくの申し出を断るのも忍びなく、俺は嬉々として藍子の膝に頭を乗せた。

「敬語なしって難しいですね」
 極上の耳掃除を終えた後、膝枕を続行したままで藍子が呟いた。
 その柔らかい手のひらで俺の髪を撫でながら、ふうと溜息をつく。
「そもそも、どうして敬語禁止なんて言い出したんですか?」
「お前をコンプリートしてみたくて」
「コンプリート? ええと……」
「要は、俺の知らないお前がいるのが嫌だったんだよ」
 藍子のことは何もかも全部もれなく知っていたい。それはもう夫として当然の感情だ。
 だからこそ、友達と親しげに話す姿にだって飛びついてしまった。
「隆宏さんの知らない私なんて、どこかにいましたか?」
 藍子が割と真面目なトーンで尋ねてくる。
「私はどこにいても、誰と話してても、あんまり変わらない私だって思ってます」
 それはまあ、その通りだ。
 敬語を第一言語とする藍子だが、だからといって取り繕われてるとか、よそよそしいなんて思ったことはない。
 藍子は藍子だ。
 どこにいても、誰といても。
 だから今すぐコンプしたいって無闇に焦んなくても、いつか自然とできてるのかもしれないな。十年、二十年と一緒にいれば。気がついたらふと、知らないことなんて何もない夫婦になってたら――最高だな、そういう歳の取り方。
「ま、俺しか知らない藍子ちゃんってのは確実にいますがね」
 俺が頭を乗せてる膝を撫でると、藍子がびくっと身を固くする。困ったような顔をして見下ろしてきた。
「く、くすぐったいです」
「くすぐってるからな」
「もう……隆宏さんだってこんな姿、私しか知らないですよね」
 そう呟く彼女の声は、心なしか誇らしげに聞こえた。
 そして藍子が思う通り、案外と彼女は、既に俺をコンプリートしてるのかもしれない。

 そんなこんなで、藍子の敬語なしキャンペーンは半日持たずに幕を下ろした。
 俺としてはもうちょっと頑張ってみて欲しかったのだが、本人が音を上げたのと、藍子コンプリートが現実味を帯びてきた実感から譲歩してやった。
 いつかはまた挑戦してみようか。
「……そういえば」
 翌朝、ふと早くに目が覚めた時、俺の脳裏に閃くものがあった。
 人間誰しも寝起きには素が出るものだ。それは藍子とて例外ではなく、たまに寝込みを襲うと反応が可愛くて堪らなかったりする。いつもより恥じらい少なめで、素直に身を委ねてくれるのが、まさに俺だけ知ってる顔ってやつだ。
 閑話休題。
 もし寝ている時に話しかけたら、素の返事が返ってくるんじゃないだろうか。そう思いついて、試してみることにした。
「藍子」
 俺が名前をそっと呼ぶと、隣で寝ている彼女の瞼がぴくっと動いた。
 まだ目を開ける気配はない。すやすやと可愛い寝息を立てている。
「な、藍子」
 指を絡めて手を繋ぎながらもう一度、呼んでみる。
 すると藍子は目をつむったまま、わずかにだが手を握り返してきた。
「はい……」
 きれいな色の唇が微かに動いて、そんなふうに返事をした。
 すぐにその唇が微笑んで、
「目、覚めちゃったんですか……?」
 むにゃむにゃと寝言らしい曖昧な口調で、だけど気遣うように尋ねてくる。
 俺が隣にいるって、寝起きでもちゃんとわかってるんだな。しっかり敬語になっていた。でも何だかそっちの方が嬉しくて、俺は藍子を抱き締めたまま同じように目をつむる。
「藍子、愛してる」
 そう囁いたのが聞こえたのかどうか、藍子は微笑んだまま、再び深い眠りに落ちたようだ。
 起きたら覚えてないくらいの、短くて些細なやり取り。
 そんなのがつくづく幸せだって思うのが、結婚生活ってやつかもしれない。

 そしてこういう時間も、コンプリートに続く道の途中なのかもしれない。
 一生かかってもいい。藍子の可愛さを、これからも余さず見届ける。
▲top