Tiny garden

最高の創立記念日

 我が社の創立記念日は三月の半ばにある。
 よその会社なら休業日にしてるところもあるというのに、我が社と来たら普通に出勤日だ。大抵の年は適当にそれっぽい挨拶があって適当に軽食配られて皆で乾杯して終了。その後は普通に業務になだれ込むという冴えないイベントだ。
 しかしながらうちの藍子ちゃんはこの創立記念日を大層楽しみにしており、数日前から遠足の日を待ちわびる小学生のようなテンションでうずうずしていたのであった。

「今年こそは皆で揃って乾杯がしたいです!」
 ほらこの通り、彼女の意気込みといったら半端じゃない。
 もっともそれは去年、同様に創立記念日を楽しみに日々を過ごしていた彼女が当日になって急に得意先へ呼び出され、乾杯に参加できなかったことに起因する。だから『今年こそ』なわけだ。
「去年はもう本当に残念で、仕事だから仕方がないとは言えやっぱり皆さんと一緒に創立記念日を体験してみたかったんです!」
 目をきらきらさせながら熱く語る小坂はいつものことながら非常に可愛い。
 だが去年は去年で、もちろん事情あって課での乾杯には参加できなかった小坂にはその代わりとして別のいいことがあったはずだ。俺としてはそちらの記憶も忘れて欲しくない。
 なのでちょっと意地悪して、つっついてみた。
「でもその分、去年は美味しい思いができただろ?」
 俺の言葉に小坂はたちまち慌てふためいて、
「あの違うんです主任、去年がよくなかったというわけでは決して! 決してないです!」
「わかってる。その上で今年は創立記念日らしく祝っておきたいんだよな」
「はいっ! でも主任、その節は本当にありがとうございました!」
 素直にお礼を言える小坂も可愛い。ぶっちゃけ小坂なら何でも可愛い。
 俺としても去年、外出の際にちょっと無理してケーキ屋なんか寄り道した甲斐があるというものです。年度末だってのによくやるよな全く。
 そして今年こそ、小坂にも創立記念日の醍醐味を味わってもらいたい。そんなものあるのかどうかはわからんが、小坂がいれば何だって楽しくなるだろう。もしもさすがの小坂でも楽しめていなさそうだったら、その時は俺がこの手で楽しませてやるまでのことだ。
「よし、俺がお前の為に最高の創立記念日を演出してやるぜ!」
 俺は彼女に向かって力強く宣言した。
「わあ……!」
 小坂は嬉しそうな笑顔を見せてくれたが、傍で聞き耳を立てていた霧島がここぞとばかりに割り込んでくる。
「何なんですか先輩、『最高の創立記念日』って」
「さて、何だろうな。俺もつい勢いで口走っちゃったが」
「ノープランなのに格好つけてたんですか!?」
「だって小坂には喜んでもらいたいからな」
「先輩の行動原理は実に徹底してますよね」
「そんな誉めんな照れるだろ」
 要は乾杯の際に皆が揃って、小坂が笑顔でいれば、それこそが最高の創立記念日ってやつに違いない。
 俺もその為なら多少の労力は惜しまない覚悟だ。

 数日後、迎えた創立記念日――。
 多少の労力を惜しまなかった甲斐もあり、俺達営業課員は朝の時点で誰一人として欠けることなく課内に集まっていた。
 ただし、他のものが欠けていた。
「やっぱり足りないです、主任」
 テーブルの上に並べた缶ジュースを数えた後、小坂が困り顔で言った。
 その横では春名も同じようにサンドイッチのパックを数えていたようだが、やはり同じ表情で報告を寄越した。
「一個足りないです。これって手違いなんですか?」
「多分、総務あたりのな」
 俺は二人に向かって首を竦めた。
 営業課に届けられた缶ジュースと軽食のサンドイッチ、その両方が一人分ずつ足りなかった。せっかく全員揃って乾杯しようというときにこれだ。出鼻を挫かれた感が半端ない。
「前にもこんなことありましたよね、先輩」
「あったな」
 霧島の言う通り、以前の創立記念日にもこんなことがあった。あの時は秘書課で不足が発生して、現在の霧島夫人が営業課にもわざわざ探しに来ていた。あの時はどこにあったって言ってたっけな。
 そして今年、うちの課の不足分は一体どこへ紛れ込んでるのか。まさか発注ミスってことはないよな。違ったとしても、全く面倒なことになったもんだ。
「しょうがねえな、ちょっとよその課見てくるわ」
 宣言してから営業課を出て行こうとすると、
「あっ、私も行きます!」
 すぐさま小坂がついてきた。
 振り向く俺に明るく笑いかけてくる。
「手分けして当たった方が早いですよね!」
 もしかしたら俺が苛立っていたのを察知したのかもしれない。そうでもなかったにせよ、小坂の笑顔一つでささくれ立ってた心が途端に凪いだ。
「それもそうだな」
 そこで俺と小坂は分担して、うちの缶ジュースと軽食がどこへ紛れ込んだか探しに行くことにした。余剰分を抱えたよその課と行き違いになることも考え、留守番の霧島には『動きがあったら連絡を』と言い残しておく。
「じゃあ総務部見てくるから、小坂は企画の方頼むな」
 先に発注ミスがないかどうか確認しようと思い、俺は小坂にそう告げた。
「わかりました!」
 元気よく答えた小坂が、駆け足で廊下へ飛び出していく。
 ゆらゆら揺れる尻尾みたいな長い髪をちょっとの間見送って、俺もすぐに歩き出した。
 張り切ってる小坂の為にも、こんな些細なトラブルは早く片づけるに限る。

 総務部が入っている二階まで階段で下りると、なぜか廊下で安井と出くわした。
「何してんだ、人事課長」
 廊下に一人突っ立っている見慣れた背中に声をかけると、安井はなぜかにやにやしながら振り返る。
「別に何もしてないよ」
「嘘つけ、にやにやしやがって」
「さっき、ちょっといいことがあったからな」 
 いいことって何だ。まさか俺より一足先に最高の創立記念日を過ごしたとかいう話じゃないだろうな。
 俺は安井の態度を怪しんだが、追及しているほど暇でもない。ちょうど会ったんだからとまずはこいつに聞いておくことにする。
「人事課はもう乾杯済んだのか?」
「ああ、無事終わったよ。そっちは?」
「まだだ。缶ジュースと軽食が足りなくて、総務へ聞きに来た」
 聞き返されたので答えると、安井は軽く目を瞠ってから、
「それなら、確か広報課に……」
 と言いかけた直後、何の脈絡もなく吹き出した。口元を手で押さえ、声を殺して笑っている。
 当然、俺が笑われたようで若干腹立たしい。
「何だよ、何笑ってんだよさっきから」
「いや悪い、ただの思い出し笑いだ。石田を笑ってるんじゃないよ」
「うっわ、思い出し笑いとかやらしいな安井」
 俺が思いきり顔を顰めたにもかかわらず、奴は気分を害すどころか笑いを止める気配すらない。笑いながら言われた。
「とにかく、広報で余ってるって聞いてる。行ってこいよ」
 何だか釈然としなかったが、ともかくも目的のブツが見つかったのは確かだ。安井が笑ったまま人事課へ引っ込んでいったので、俺はすかさず霧島と小坂に連絡を入れた。
『あったんですか、よかった!』
 報告を聞いた小坂の声は弾んでいた。ほっとしていたのかもしれない。
「俺、広報で受け取ってくるから先に戻ってていいぞ」
『了解しました!』
 小坂の元気な声を聞くとこっちまで元気になれるからいいものだ。俺は込み上げてくる幸福感に酔いしれつつ電話を切り、それからふと、顔が緩んでいるような気がしたので慌てて引き締める。さっきの安井みたいな顔で社内をうろつくわけにはいかないからな。
 その足で訪ねた広報課で、俺は余っていた缶ジュースと軽食を無事回収することができた。
「行き違いになるのも悪いかと思ってね、誰か取りに来るのを待ってたんだよ」
 とは、のほほんとした広報課長の弁だ。広報はもう業務に入っているのか、課長以外全員が出払っているようだった。聞けば、社内報に載せる写真を撮りに回っているらしい。
 そういうことならとお礼もそこそこに、急いで営業課へ戻ることにした。

 広報を後にして廊下へ出、階段を上がろうとした時だった。
「あっ、主任!」
 階上から小坂の声がしたかと思うと、わざわざこっちまで駆け下りてきた。飼い主を見つけた犬のようだ、――と言ったら拗ねそうなので胸にしまっておくことにする。
「先戻ってていいって言ったのに、どうした?」
 俺が尋ねると小坂は可愛らしくもじもじして、
「あの、せっかくだから一緒に戻ろうかと思いまして……」
「もしかして、迎えに来てくれたのか」
「はいっ。主任が見つけてくださったので、何て言うか、嬉しくて」
 見つけたも何も、安井が教えてくれたからすぐわかったようなものだった。でもまあ、挙動不審だったあいつのことは置いておこう。せっかく小坂と二人きりだ。
 階段を上がるだけのほんの短い間だけではあるが、それでもだ。
「これでうちの課も最高の創立記念日になるな」
 俺が回収してきたジュースとサンドイッチを掲げると、小坂は大きく頷いた。
「ですね! 今年こそ皆さんと乾杯できそうで嬉しいです」
「ああ、いくらでもできるぞ。思う存分やっとけよ小坂」
「そうします、楽しみです!」
 彼女がもう一度頷くと、頭の後ろで尻尾みたいな髪も大きく揺れた。まだ乾杯もしてないのにもう満足げな顔をしている。いいのか、そんなに気の早いことで。
 隣を歩きながらしばらくじっと見ていると、小坂は急に柔らかそうな頬を赤らめた。
「あの、主任……い、今更なんですけど」
 階段を全部上がりきったところでおずおずと切り出すには、
「今年も最高の創立記念日になりそうですけど、去年も、最高でした」
 恥ずかしそうなその言葉に、俺はちょっと考えてからツッコミで返した。
「あのな、小坂。最高って言葉は『最も高い』って書くんであってな」
「そ、そうなんですけど! 私にとっては比べられない、別ベクトルの幸せって言うか……」
 好きな子をいじめたくなる精神の俺にも、小坂は小坂らしい真面目さで応じてくる。
 しばらく俯き加減で階段の手前に立っていたが、やがて意を決したように俺を見て、自ら語を継いだ。
「ですから今年は、主任の代わりに私が最高にしたいんです」
 何だ、もしかして俺の為にシュークリームを買ってきてくれる気なのか。俺は別にそこまで甘いものは食べたい気分じゃない。むしろ他のものが食べたい。
 黙ってちらりと視線を送れば、小坂はぎこちなく笑ってみせた。
「えっと……去年もそうでしたけど、創立記念日って残業とかしない感じですよね」
「ああ」
「なのでその、退勤後に今度は、二人で乾杯とかどうかなって……」
 それだけ言うのに小坂は随分と恥じ入り、そわそわと落ち着かない様子だった。俺達はもう付き合って一年以上になるし、結婚の話も出ているくらいの間柄なんだから、こんなお誘いでここまでうろたえなくてもいいのにと思う。
 でも、そこがいい。小坂なら何でも可愛い。
「あの、もちろん主任のご予定が空いてたらでいいんですけど!」
「無理してでも空ける」
 俺は即座に言い切ると、目の前に立つ小坂の顔を覗き込んで、改めて確かめた。
「今年はお前が、最高の創立記念日にしてくれるって?」
 小坂は大きく目を瞠った後、やっぱり可愛らしくはにかみながら答えた。
「……はい、去年のお返しです」

 その後、営業課へ戻った俺達は無事に創立記念の乾杯を済ませた。
「かんぱーい!」
 ジュースの缶を高々と掲げる小坂は誰よりもめちゃくちゃ楽しそうで、たったそれだけのことではあるんだが、それだけで『こんな創立記念日もいいもんだな』なんて思ってしまうから困る。
 俺はその可愛すぎる笑顔をこっそり眺めつつ、終業後の予定に思いを馳せる。
 去年と同じく、今年もまた最高の創立記念日になりそうだ――なんて、いくつ『最高』を並べりゃ気が済むんだろう。でも仕方あるまい、比べられない別ベクトルの幸せってやつだ。
 全く、俺も小坂のこと言えないな。
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