Tiny garden

世界で一番すきなひと(8)

 その日、俺は営業に出て、営業チョコのお返しを献上して、ちょっと仕事の話もしてから帰社する途中で、事前に見繕っといたケーキ屋に入った。
 ケーキほどお値頃感に欠ける食べ物もないよな、と俺は思う。それも晴れの日の為のものと思えばそれほど不思議なことでもないんだろうが、ともかく一人五百円も徴収したにもかかわらず、丸いケーキを二ホール購入したら見事に予算を使い切れてしまった。しかもでっかいのじゃなくて、小坂だったら一人前だろうってサイズなのに、だ。
 小坂用には、真っ赤な苺のぎっしり乗っかったタルトフレーズにした。あいつが苺好きなのは知ってるし、思い出もあることだし――今でも俺は、苺を点々と置いていったらザルの罠であいつを捕まえられるような気がしている。実際には別の方法で捕まえちゃった後だ、次は逃げられないように苺で囲い込んでおくべきかもしれん。
 霧島夫人宛てには、霧島が微塵も役に立たないヒントしか寄越さなかったせいで散々悩んだ。悩みに悩んだ挙句、チーズケーキなら嫌いな子いないよな、なんていう単純思考で決めてしまった。でも持って帰るのはどうせ霧島なんだろうし、あいつ電車通勤だからいざって時に傾いたり引っ繰り返したりしても被害の少ない品の方がいいだろ。そう考えるとなかなか理に適ったチョイスではないでしょうか。
 小坂も電車通勤だが、あいつなら大丈夫。今日は多少こずるい手を使ってでも俺が送っていくから。

 買ったケーキを持ち帰り、営業課の冷蔵庫に隠してしまった後で、俺は昼飯をどうするかようやく考え始める。
 と言うか、帰り際に何か食ってくるなり買ってくるなりすればよかったのに、ケーキ屋にいる時からいい匂いで腹減ってくるなーとか思っていたのに、いざ購入後はケーキを迅速かつ安全に持ち帰ることで頭が一杯だった。そのせいで昼飯の調達には全く頭が回らなかった。どんだけ小坂のことだらけなんだ俺。
 時計を見れば例の如く午後二時前、きらびやかなケーキたちを目で味わってきた後ではカップ麺も侘しすぎるから、社食に一縷の望みを賭けてみる。

 閑散とした社員食堂には、きつねうどんがかろうじて残っていた。ケーキにはどうしたって敵わなかったが、カップ麺よりは全然ましだ。手作りだし。
 あと、何の因果か安井もいた。珍しく猛然とした勢いで何かの定食を掻っ込んでいた。
「随分急いでんな、腹減ってたのか」
 同じテーブルの向かい側に座りながら声をかける。
 奴はちらっと俺を見ただけで、また茶碗や皿に視線を落とした。
「忘れてたんだ」
 ぶっきらぼうな答えがある。
「何を? ……ああ、ホワイトデーか?」
 俺が質問を重ねると、安井はほとほと困り果てたって顔で頷く。
「最近忙しかったから。うちの課の分とか、頭からすっかり抜け落ちてた」
「忘れんなよー。それは駄目だぞ、男として」
「どうせ義理だらけなんだからいいんだよ」
 安井はそこで演技みたいなへらへら笑いを浮かべて、
「その点、石田はいいよな。今年は本命のお返しがあるから忘れようもない」
 などとわざとらしく言ってくる。
 俺は、黙る。無言で割り箸をぱきんと割って、いっつも売れ残ってくれてるうどんを啜り始める。美味いけど昼飯としてはボリュームもパンチも足りない感じ。小坂なら、確実に足りないって思うであろう分量だ。
 と、こんな時でも小坂のことを考える。
 ホワイトデーと、そこに密接に関わり合うバレンタインデーの記憶とは、どうしたって俺の頭から出て行かない。脳内録画データにはふとしたきっかけで自動再生がかかって、瞬時に小坂のことを考えてしまう。一ヶ月前の、諸々を。
「貰ったんだろ? 先月」
 同じく箸を動かしながら、安井は駄目押しのように聞いてくる。
 ここで適当に誤魔化すとかえって、付き合って早々に上手くいってないのかとでも誤解されかねない。それは癪なので、しょうがなく、答える。
「貰った」
「へえ。幸せ一杯じゃないか」
「まあな、そっちの方はな……」
 上手くいってないわけがない。マジで冗談抜きで幸せ一杯。
 ただ、その幸せを楽しめてない気はする。やたら体力も気力も削られてる。意識のほとんどを日常的にしょっちゅう持ってかれてる。いや恋愛舐めてたわ。
「何か、元気ないな」
 安井が俺を見て不思議そうにする。
 原因はわかってるから、俺は力なく笑っといた。
「そりゃまあ、年度末ですから」
「最近ずっとそんな感じじゃないか。忙しいから、だけ?」
「だけ、ってことにしとけ」
 若い子と付き合って体力持たないとか、いかにもおっさんぽくて嫌だ。認めたくない。しかも俺の場合はときめきだけで既にあちこちダメージ受けてるって状態だから、人には絶対話せない。
 もしかすると小坂はB級映画に出てくるような、男の精気を吸ってどうこうっていう類の生命体なんじゃないだろうか。モンスターにしちゃ随分可愛すぎるんじゃないかとも思うが、しかし俺の興味を引いて誘惑して遂には捕まえてしまったその魅力は、まさにモンスター級。俺も小坂に吸い尽くされちゃうんなら本望である。
 いや、待てよ。もしも俺が吸われてしなしなになっちゃったら、小坂はものすっごく心配しちゃうんじゃないだろうか。ぺらっぺらで骨と皮だけになった俺を見たら、天使みたいに悲しんで泣いてくれるんじゃないだろうか。吸った奴がなんで餌の心配なんかすんだよ、ってところは無視しよう。男の妄想なんてB級映画と同じで、整合性よりも見せ場の方が大事なんだよ。そして俺は好きな子を泣かせちゃうのだけはどうしても、トラウマレベルで嫌だった。あいつだけは、一生通してもそんな目に絶対遭わせねーもん。でももし避けようもないことであいつが泣いちゃったり、しょげてたりしたらだ。俺は今度こそちゃんと向き合って慰めたり話聞いてやったり、手に手を取って一緒に解決を試みたりしたいって思う。我々の未来にはハッピーエンドしかないのです。
 俺は天使みたいな小坂も、小悪魔かもしれない小坂も、どっちも好みだ。でもどっちにしたって小坂はモンスターでも何でもなく、ケーキが大好きで食いしん坊ですごく可愛い、ごくごく普通の女の子だ。そういう子に俺がしてやられてるって事実からは、目を背けちゃいけないと思う。認めたくないけど。
「お前が元気ないと、彼女が心配するんじゃないか?」
 食べ終えて箸を置いた安井が、そんなことを言った。恐ろしいタイミングの一言。
「え……何お前、俺の心読んだ?」
「そんな術は使えない。……何だ、彼女のこと考えてたのか?」
 墓穴掘った。
「い、いやいやいや。仕事のこと考えてましたよマジで」
「無理するなって。休憩中くらいいいだろ、可愛い彼女にうつつを抜かしても」
 それが休憩中だけじゃないから困ってるんだって。
 安井は、湯呑みのお茶をおざなりに一口飲む。それから続けた。
「あんな子を悲しませちゃ駄目だ。ちゃんと養生して、長生きもしろよ」
「そうだよなあ……」
 こんな時に早死にとかしたらシャレにならん。これからが甘く幸せな日々というやつなんだから健康には気をつけよう。体力も気力も要るしな。
「お前がそんなんだと、また理不尽に愛想尽かされるかもしれないぞ」
「またって言うなよ。もうねーから、ああいうのは!」
「もっと若くて元気な男がいい、って彼女が言ったらどうする?」
「あいつがそんなこと言うわけないだろ。つか俺だってまだ若い!」
 そうです三十歳はまだ若いんです。恋に悩んだり身悶えたり、女の子に振り回されたりするもんなんです。
 俺の言葉を聞いた安井は、笑いながら立ち上がった。
「だよな。三十歳なんてまだまだだ」
 それから座っていた椅子を引っ込め、空っぽの食器を手に取ると、俺に向かって揶揄するように語を継ぐ。
「石田を見てると痛感するよ。三十になっても女に骨抜かれたり、手玉に取られたりするんだなって」
 俺が顔を顰めたのを見て、奴は人の悪そうな笑い方をする。直に、足早にテーブルを離れていく。これからホワイトデーの何かを買いに行くんだろう。
 その背中を睨みつけつつ、思わず呪いをかけたくなる。――お前もそのうち、小坂よりも手強くてプライドの高い女の子に、散々振り回されるようになればいい! 一度同じ目に遭えばわかるぞ、三十歳のしょぼさってやつが。
 そして食べかけのうどんを、気合入れ直してがつがつ食べ始める。いろいろ削られて萎れてる場合じゃない。張り切っていこう、ハッピーエンドの為に。

 昼休憩が終わり、俺が課に戻って三十分もしないうちに、小坂が営業から戻ってきた。
 カバンの他に提げてる紙袋は二つともぱんぱんで重そうだ。肩でドアを開けて入ってくるところが、あいつらしくない感じでちょっといい。可愛い。
「お、小坂。待ってたぞ!」
 すかさず俺は声をかける。
「ただいま戻りました」
 重い荷物があっても、笑顔で会釈を返してくれる小坂。最近は勤務中にどぎまぎしてる感じがないので、それはそれでいい成長ぶりだと思うが、俺だけがどぎまぎしてるのが悔しい。小坂が帰ってきた、ってだけで更にテンション上がりまくりだ。
 しかしここで転びでもしたらせっかくのケーキが台無し。落ち着いていこう。
 小坂が紙袋を提げて自分の席へ戻っている間に、俺は冷蔵庫からケーキの箱を、まるで自分が貰っちゃうみたいなうきうき気分で取り出しておく。そして箱自体は後ろ手に隠したまま、もったいつけた速度で歩み寄っていく。課の連中にも意味ありげな視線を向けられてるが、どうしようもない。
 気づいた小坂が小首を傾げる。その手にはまだ紙袋もカバンもしっかと握られていた。
「とりあえず、荷物、机に置け」
 怪訝そうな彼女が、それでも俺の言葉に従い、両手をフリーにしたところで。
 俺は隠していたものを差し出す。白い箱に賞味期限の金文字シールが貼られている、一見して中身がケーキとわかる贈り物を。
「これは営業課一同からお前に、ホワイトデーのプレゼントだ」
 瞬きをする小坂。
「え……私にですか?」
「お前の好きそうなのを選んできた。ほら、遠慮なく受け取れ」
 考え込む表情がゆっくりと理解へと変化していき、やがて、電気が点いたみたいに明るい顔をして、
「あ、ありがとうございますっ!」
 震える手で箱を受け取る。
 受け取ってからすぐに開けるんじゃないかって思ったのに、小坂はその後もしばらく感激してる様子で箱の外側ばかりしげしげ眺めていた。箱じゃなくて、中身の方がお前は好きなんじゃないのか。
 仕方ないから促してやる。
「開けてみてもいいぞ」
 それで小坂の手はまだ緊張気味に、伝説の財宝が入った宝箱でも開けるみたいにケーキの蓋を開く。中から赤い苺のぎっしり乗ったタルトが、しずしずと姿を現す。
「わあ……!」
 あどけなく声を上げる小坂。もうすっかり注意がケーキだけに行ってる。可愛い。
「お前は疲れてる時でもケーキは入るって話だったからな。日持ちはしないから、他の菓子を差し置いて真っ先に食えよ。そして体力つけて、今年度を乗り切れ」
「はいっ」
 目をきらきらさせて彼女は頷く。
 喜んでもらえて俺も嬉しい。ケーキ屋まで行ってきたかいもあったというもの。本当言うと実際食べてるところも是非見たかったんだが、まあそれはな。まさか明日、飲み会に持ってきて俺の目の前で食え、なんてことも言えないし。想像の中で小坂のいい食べっぷりを楽しんでおくことにする。
 で、食べることにかけても一生懸命な小坂は、威勢よく続ける。
「早速、晩ご飯の後に食べようと思います!」
「あ? 何だって?」
 晩飯の後にケーキだと。
「ですから、今夜のデザートにしようと……」
「夕飯食べてから更に食うのか。お前、よくそんなに入るな」
 俺が突っ込むと、営業課のあちこちで笑い声が起こる。
 個人的には笑いを通り越して感嘆しちゃうけどな。どこに入るんだよそんなに食べた分……触った時は柔らかかった腹の辺りに目をやっても、ケーキだけで一杯になりそうなサイズにしか見えん。そして、もたれたりしない辺りも非常に羨ましい。
「まあ、気に入ってもらえたならいい」
 大事なことは他にある。俺は馴れ馴れしく小坂の肩を叩き、
「このケーキは俺が買ってきたんだ。なかなかの見立てだろ」
 審美眼の方も忘れずにアピールしておく。
 出資したのは営業課全員だが、しかしながら他の誰が買ってきてもここまで小坂の喜ぶ顔は引き出せなかったはずだ。俺もちゃんと小坂の好みとか把握してるってとこ、小坂本人にはわかってて欲しい。
「そうなんですか?」
 小坂は目を瞠ってから、俺に向かって感謝の表情を見せる。
「大好きなんです、苺のケーキ」
「だろうと思ったよ。苺は前にも、美味そうに食べてたもんな」
 パフェ食べてる時のあの顔は、もう一生忘れられない。
 本人もどうやら思い当たったようで、伏し目がちな、はにかむ表情になる。そういう顔もまた可愛いんだ。いっつも言ってるけど。
 相当めろめろだな、とこんな時は自分でも思う。愛想尽かされるとか、想像でも可能性だけでも考えたくない。だから俺は俺にできることを精一杯やっときたいし、小坂にめろめろになってる自分をもうちょい、余裕持って楽しめるようにもなりたい。
 その為に必要なのは何だ。体力づくりか。
 体力はともかく、気力の方はどうやって鍛えるんだ。やっぱ、場数踏むしかないのか。
 俺がそんなことを考えながら、ケーキに見とれる小坂に見とれていれば、
「――先輩一人の手柄にされてるみたいで、何となく気に食わないです」
 不意に水を差すような声がした。 
 誰の声かはいやでもわかる。すかさず振り向けば、霧島は自分の席で嫌味ったらしく頬杖をついていた。眼鏡越しの視線がこっちを見る。こっちだって、ちょっとむっとする。
「俺の手柄だろ? このケーキを選んできたのは俺だ」
 仕事の合間を縫って買ってきてやったっていうのに、何だその言い草は。俺が噛みつくと、霧島もお約束みたいに噛みつき返してくる。
「出資したのは皆ですよ。俺だって名を連ねてるんです」
「このケーキを選んだからこそ、小坂にも喜んでもらえたんだからな。俺の功績は称えられるべきだ」
「だからって今、先輩が小坂さんの笑顔を独り占めしているのは納得いきません」
 奴がそう言ったら、他の連中にはなぜか笑われた。
 いや、そこは今朝のうちに了承取ってただろ。霧島は早々に逃亡してたから聞いてなかっただろうけど! 小坂の喜ぶ顔を俺が独り占めしちゃう、というところまでが本日の予定に織り込み済みなはずですから。買ってきた手間と選ぶ手間を考えたら、そのくらいのご褒美はあってしかるべきだろ。
 大体、俺はお前の奥さんの分だって悩んで悩んで選んできてやったんだぞ。あんなしょっぱいヒントで。ヒントにもならないような微情報だけで。
「いいだろ別に。お前はお前で、皆で金を出し合ったケーキを持って帰って、奥さんの笑顔を独り占めするんだから」
 むかついたので指摘してやったら、霧島はしくじったという表情の後で弁解を始める。
「それは……だって、渡してくれって頼まれてるからですよ! 俺は手柄を独り占めしようなんて思ってないですし!」
「なら俺だってそうだよ。皆が俺を適任だと推してくれたから、こうして小坂にケーキを手渡す役目も仰せつかったのであってな」
「先輩が皆に譲らせたんじゃないですか? 他の人が渡すとなると妬くから」
「馬鹿言うな、妬くくらいならそもそもバレンタインデーなんてスルーさせてるっての」

 俺と霧島が不毛な言い争いをしている間に、小坂はケーキを手に、他の連中への挨拶をするべく動いていた。
 口論の合間で視界の隅に追えば、白い箱を大事そうに抱えたまま、一人ひとりにお礼を述べていたようだ。皆が笑顔で応じるからか、本当に喜んでいるからか、小坂は遠目に見ても実に嬉しそうで、そしてとびきり可愛かった。
 挨拶を全部終えてから、いそいそとケーキを冷蔵庫にしまいに行く。そのちっちゃい後ろ姿を見つめていたら、尻尾の似合いそうな、既に生えてそうな背中を見てたら、何かもう込み上げてくるものがあってぎゅーっと抱き締めたくなった。あいつはどうしてあんなに可愛いんだろう。俺の為にか。
「先輩、せんぱーい! 聞いてます?」
 そういえば霧島と口喧嘩中だった。肩をつつかれてうるさく呼ばれたが、奴の方を見る気も起こらない。
「あいつ、可愛いよなあ」
 思わず呟けば、傍でドン引きしたらしい呻き声がする。
「え……。いや可愛いですけど、先輩はでれでれで気持ち悪いです」
「何言ってんだ、男前だろ」
「鏡見てきたらどうですか。ひっどいですよ」
「鏡よりあいつ見てる方がいい」
「勤務中に言うことですかそれ! こっちが恥ずかしくなります」
 霧島はどういうわけか照れた様子で、踵を返すとそのまま自分の席まで戻っていく。
 つまり、俺の勝ち。

 でも霧島ごときに勝って喜んでる場合じゃないよな。
 勤務中に言うことじゃない。それは俺もわかってる。つまりこれからの俺と、俺たちにとって大切なのは、公私の区別をつけることじゃないだろうか。
 ってことでどうでしょう。俺としては彼女には、『隆宏さん』って呼ばれたいんですが。
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