Tiny garden

残業時夜食列伝(3)

「……ですから、近々新しい契約がいただけるかもしれません」
 予想通り、石田主任は私の報告を嬉しそうな顔で聞いてくれた。
「よかったな、小坂」
「はいっ」
 私は大きく頷き、その後で自らの気持ちを引き締めるべく言い添える。
「でも、喜ぶのは正式にお話いただいた後にしようと思ってます」
「まあそうだな。俺もその手のぬか喜びを何度経験してきたことか」
 主任が天井を仰ぐ。
「『お宅の商品が一番ですよ、もう他社製品は頼めません!』とか『次も是非お願いします、必ず連絡しますから!』とか言っといてあっさり乗り換えられることもあるからな。若い頃は社交辞令を鵜呑みにして痛い目にも遭った」
 遠い目をしてひとしきり嘆いた後、それでも私に向き直った表情は満面の笑みだった。
「今回ばかりはただの社交辞令じゃないと思いたいよな。お前がこんだけ頑張ったんだから」
「そうですね、私も主任にいい報告ができたらなって思います」
「全くだ。頑張ってるのも現在進行形だしな」
 現在の時刻は午後九時過ぎ、本日も私は残業中だった。
 例の製品の仕上がりに合わせて朝から動いたので、それ以外の通常業務がまたしても後回しになってしまったからだ。朝一で製造部に飛んでいって製品を受け取り、そこから取引先へ車を走らせて納品。それだけで午前中がまるまる潰れてしまった。
 だけど今日さえ乗り切れば明日以降は普段通りのペースに戻せそうだし、今夜が正念場だ。深夜近くまでの残業なんてそうそうあるものでもないしと前向きに考えておく。
「俺も今夜は、この仕事片づけないと帰れないな」
 ラップトップの画面を睨みながら主任が呻くように言った。
 つまりは現在、石田主任も残業中だ。
 営業課の他の方々は全員帰ってしまわれて、今夜は主任と二人で居残りだった。『俺の方が先に片づいたら待っててやるから一緒に帰ろう』などと優しい言葉をいただいていたけど、実際にそうなるかは先行き不透明であることも聞かされていた。つまり本日の石田主任は大変に忙しく、面倒なお仕事を抱えているのだ。
 私は自分の席から絶賛お仕事中の主任の顔を盗み見る。夜も遅い時刻だからというのもあるかもしれないけど、顔に疲労がありありと滲み出るほどくたびれた様子だった。今日は一日中非常に忙しかったと聞いているから、もしかしたらお昼ご飯も食べられなかったのかもしれない。
「お互い無茶な要求する顧客と縁があるよな」
 続けてぼやいてきたから、私も笑って答えた。
「こういう努力が報われるといいですよね、お互い」
 今夜の石田主任はまさしく先日の私のように、取引先から急な、そして急ぎの発注を頼まれて大わらわという状況だった。当たり前だけど主任が担当している顧客は客単価の高い、会社にとってとても重要なお客様ばかりだ。無下にはできない。
「お前に散々無理するなと言っといて、舌の根も乾かないうちに同じことやってんだからな」
 ぼやき続ける主任の顔には照れのような苦笑いが浮かんでいる。
「さすがに報われなきゃやってられん……と言うか、ちょっと格好悪いだろ」
 私は主任を格好悪いなんて思ったこともないし、実際そんなこともないと思っている。私とは違い、主任はご自身の仕事には迷わない。それが今後の取引に必要なことだと思うからこそ無茶だってする。
「だから今回の仕事を盾に、もっと高値の契約を取りつけてやる」
 主任がいかにも企んでいるような笑い声を立てたので、私もそのくらい言えるようになりたいなと密かに思う。
 あの和菓子屋さんに、近いうちにもう一押ししてみようかな。
「ところで小坂」
 私が胸算用を巡らせていると、キーボードを叩きながら主任が私を呼んだ。
「何ですか、主任」
 すかさず返事をすると、主任はちらりと私の方に目を走らせる。口元がほんのわずかに緩んだ。
「お前、今日の夜食はどうするつもりなんだ」
 別にやましいことはないのに、ぎくりとしてしまった。
 実は少しだけお腹が空いていたところだったからだ。
「えっと、今日のところはまだ何も考えてないんですけど」
 つい早口になる私に、主任は笑いを噛み殺すように咳払いをしてみせる。
「そんな慌てなくてもいいだろ。何ならまたピザ頼んでもいいんだぞ」
「いえ、会社ではもう食べないことにします」
 あれだけ恥ずかしい思いをした後だから、さすがにまたやろうという気にはなれない。ピザ食べる度にあの夜の出来事を思い出しそうな気がするし。
「そうなのか。何だ、残念だな」
 なぜか主任は落胆しているようだった。惜しそうに苦笑するのを見て、私は聞き返す。
「もしかして主任、ピザが食べたかったんですか」
「ピザじゃなくてもいいから夜食が食べたかった。今日は昼も食べてねえんだよ」
 それはお腹が空いていて当然だ。私なら耐えられない。
 前述の通り私も多少空腹だったので、それならと切り出してみる。
「そうだ、ちょうど先日のお菓子がありますよ」
 主任が差し入れしてくれたクッキーやチョコレート、春雨ヌードルもまだ残っていた。私の机の引き出しにしまってあるから、お腹が空いたらすぐにでも取り出せる。
「よかったらいかがですか? って言うか、元は主任からいただいた物ですけど」
 むしろいただいたものだからこそ、こういう時に分け合って食べるのが正しいと思う。引き出しを開けながら尋ねてみたら、主任の声がすかさず飛んできた。
「いや、そいつはお前専用。日持ちするんだし、今度腹減った時まで取っとけよ」
「え、でも、主任が……」
「いいから。それより今夜も出前取ろうぜ」
「――えっ?」
 机の引き出しから顔を上げれば、得意満面の石田主任と目が合った。その目が何か楽しいことを考えているみたいにきらきら輝いていた。
「お前だって何か食う気でいたんだろ? 何がいい?」
「何ってあの……主任までそんな、私みたいなことしなくても」
「お前みたいなことをしたいんだよ。好きな子の真似をしたくなるのが男ってもんだ」
 心臓が口から飛び出そうな台詞を平然と口にした後、
「さあて、何にすっかな。どうせならぱーっと美味いもん食おう」
 主任は自らの携帯電話を操作して、あっという間に検索結果を導き出してしまったようだ。すぐに声を上げた。
「見に来いよ、小坂。この時間でも探せばいろんな出前があるぞ」
 そう言って手招きされたので、私は先程の言葉の衝撃を引きずりながらも立ち上がり、主任の席へと向かう。そして主任とケータイの画面を一緒に覗いた。
「釜飯、弁当、カレーにパエリア。ほら、よりどりみどりだ」
「本当ですね。ピザしかやってないと思ってました」
 こんなに種類豊富だなんて知らなかった。もしこの中のどれかから選んでいたら、先日ほど恥ずかしい思いはしなかったかもしれない――と思ったけど、恥ずかしさはあんまり変わらないか。
「お前、何か食べたいもんないのか。せっかく上司が奢ってやろうっつってんのに」
 主任が私を見上げて急かしたので、私は大慌てに慌てた。
「そういうことでしたらあの、私は何でもいいです。と言うか、いいんですか?」
「当たり前だろ。お前が選ばないんだったら俺が決めるぞ」
「ど、どうぞ……」
 そこで主任はケータイに視線を戻し、豊富な検索結果の中から一件を選び出したようだ。
「決めた、寿司にしよう。特上でいいよな?」
「ええっ!? いえいえそんな、私なんて普通のでいいです!」
「普通のって何だよ。言ったろ、こういう時こそ美味いもん食べるんだよ」
「でもそんな、正直なところあまりにも贅沢かなって」
 お寿司屋さんのサイトに掲載されているメニューによれば、特上寿司一人前は私が先日頼んだMサイズのピッツァマルゲリータよりも高額だった。二年目平社員にとって、上司にごちそうになるものとしては十分気後れするようなお値段だ。
「考えてもみろよ小坂、俺達はお互いに客先から無理を通されて、やむなく残業してんだぞ」
 主任はもっともらしい口調で私を説き伏せようとする。
「そりゃストレスだって溜まるだろ。どっかで発散しないとそのうち破裂するって」
「それはまあ、そうかもしれませんけど」
「おまけに可愛い彼女と夜遅くまで二人っきりだっていうのに手も出せないんだぞ」
「え、えっと、二人きりなんで、コメントしづらいこと言わないでください……」
 私は思いっきり狼狽した。
 もっとも、主任はいつものように平然としたものだ。にんまり笑って畳みかけてきた。
「このストレス及び欲求をぶつけられる先は食欲しかない。美味いもん食おう」
「なら、主任は美味しい物を召し上がってください。私は本当に普通のでいいです」
「だったらこの欲求を食欲じゃなくてお前にぶつけるぞ」
「わ、わあ! やっぱり食べます、いただきます!」
 椅子に座った主任にぎゅっと腰から抱き寄せられ、私は危うく主任の上に座ってしまうところだった。
 とは言え、特上寿司には別の問題もあった。改めてメニュー画像を覗き込んだ私は、それを恐る恐る主任に伝えなければならなかった。
「主任、一つだけわがまま言ってもいいですか?」
「お、何だ? 一つと言わず百個でも二百個でも言えよ」
「そんなにはないです。あの、私、玉子が入ってるのがいいんですけど……」
 すると主任は画面を指先でスクロールして、特上から並までをざっと確認した後で呟く。
「そうだった、玉子が好きなんだもんな。参ったな、並にしか入ってない」
「じゃあ並でお願いします」
「いいのかそれで、せっかくの奢りなのに」
「はい。だって玉子、美味しいですから!」
 私が深く頷くと、主任は数秒間私を見つめてから、なぜかしかめっつらになって言った。
「何か今、俺、玉子にめちゃくちゃ嫉妬した」
 その気持はわからなくもない。私もコピー機を羨んだことがあるからだ。

 今回は主任が通用口まで下り、配達されたお寿司を受け取った。
 注文は並が二人前。どうして主任まで並を、と思ったら、私に玉子を分けてくれるつもりだったらしい。つくづく優しくて素敵な上司を持ったと思います。
「ありがとうございます主任! よかったら私からも一貫、持ってってください」
 私が自分の桶を掲げて告げると、主任はちょっと嬉しそうにしてくれた。
「いいのか? じゃあ、ネギトロ」
「どうぞ!」
 私達は玉子とネギトロをトレードし、それから自分の席に戻ってお寿司を食べた。夜遅くだというのにお寿司はちゃんとできたてでシャリもほんのり温かくて、とっても美味しかった。
「美味しいですね、主任」
「なかなか美味いよな。これで少しは残業にも励めそうだ」
「はい! ごちそうになった分、しっかり励みます!」
「よしよし、可愛いなあ小坂は」
 そうして短いお夜食タイムを過ごしていると不意に、いつぞやのように、営業課のドアがノックされた。
「すみません、忘れ物をしてしまって――」
 ドアが開き、済まなそうに顔を出した霧島さんは、営業課内に視線を走らせるなり大きく目を見開いた。
 そしてそれぞれに寿司桶と向き合い、箸を持つ私と主任を代わる代わる凝視した後、呆気に取られた顔になる。
「な、何してるんですお二人とも……なぜ、会社でお寿司を?」
「そりゃ腹減ってんだから寿司くらい食うだろ、夜食だよ」
 あっけらかんと主任が答える。
 対照的に霧島さんは少し混乱しているみたいだ。戸惑った様子で反論した。
「いや、残業中にお寿司取るってなかなかないでしょう。何やってんですか先輩」
「そんなにおかしいか? 寿司屋だって快く届けてきてくれたぞ」
「しかも出前なんですか!?」
「まあな。オーダーストップにぎりぎり間に合った」
「だって、そんな、桶はどうするんです? ここ会社ですよ!」
「そりゃもちろん、洗って通用口のとこに出しとくに決まってるだろ」
 霧島さんの疑問にも、主任は丁寧に、そして全くうろたえることなく答えている。
 それで霧島さんはこめかみを押さえながら私の方に目を向けて、苦笑いを浮かべた。
「小坂さんもよく付き合おうって気になりましたね、先輩の無茶に」
「え? えへへ……おかげさまで、美味しくいただいてます」
 まさか『そもそも私がピザを頼んだのが発端なんです』とは言いづらい。私が笑って誤魔化すと、そのタイミングで主任も霧島さんを手招きする。
「しょうがねえな、霧島にも分けてやるから来いよ」
「いや、欲しいとは言ってないんですが……」
「じゃあ要らないのか? こんなに美味いのに」
「……すみません先輩、やっぱり一貫だけください」
 霧島さんはどうやらご帰宅前に忘れ物に気づいたようで、つまりお腹が空いていたようだ。主任からお寿司を一貫貰って、とても美味しそうに食べていた。
「でもやっぱり、会社に出前ってすごい発想だと思いますよ」
 お寿司を食べてしまってからもどこか怪訝そうに首を捻る霧島さんを、主任がぎろりと睨む。
「お前、食ってから文句言うなよ。寿司返せ!」
「無理ですよ。それに文句じゃなくて、一周回って感心してるんです」
「そんなに驚くようなことか? 会議の時に弁当頼むのと同じ次元の話だろ」
「まあ……そう言われれば、そうかもしれないですね」
 はっとした様子で唸った霧島さんは、その後で随分と真剣な顔つきになりながら黙り込んだ。
 それを見て主任が私に言う。
「見ろよ小坂。霧島の奴、『今度残業する時はラーメンでも頼んでみようか』って考えてるぜ」
 霧島さんだったらありそうだな、と私も思う。
 あとは、夜食の時間帯まで出前をやっているラーメン屋さんがあればいいんだけど。

 美味しいお寿司をごちそうになったおかげで、私は残業の日々を乗り切ることができた。
 その後仕事も一山越えて、久々に主任と一緒に帰る金曜の夜。乗せてもらった車の中で、私は胸を張って打ち明けた。
「週明けにでも例の和菓子屋さんに、新商品の図案を持っていくことになったんです」
 運転席の主任がたちまち口元をほころばせる。
「そうか、そりゃよかった」
「はいっ。あの時頑張っておいてよかったと思います」
 あの時の急な発注を断っていたら相手の心証が悪くなって、次の注文はなくなっていたかもしれない。もちろんそうではない可能性もあっただろうし、無理をすることに見返りを期待するのも、そもそも無理をすること自体が全く正しいことだとは思っていない。
 ただ、頑張ったことに結果がついてきたのが嬉しかった。
 そしてそのことを、主任と一緒に喜べるのも。
「そうやって『頑張ってよかった』って言えるのはお前のいいところだ」
 ハンドルを握る主任は仕事から解放された後だからか、とても優しい横顔をしていた。
「だからお前には、がっかりした顔なんてさせたくない」
 独り言のようなその言葉の意味を、私だってちゃんとわかっている。
 どんな努力や頑張りだって百パーセント報われるわけじゃない。それは私だけじゃなくて皆がそうだ。まして誰かの為にする努力に見返りを求めても仕方がないのに、結果が伴わなければ落胆するのもまた当然のことだった。
 それでも私は、たとえ頑張ったことが無駄になっても、無理をしたからといって結果がついてこなくても、その末に落ち込んだってきっと大丈夫だと思っている。
「私は主任に誉めてもらえたら、それだけですごく嬉しいです」
 我ながら単純なことだと思うけど、一番の原動力はそれなんだと思う。
 仕事を教えてくれた主任にその分だけ恩返しがしたい。だから、頑張る。
「落ち込んだ時は軽く励ましてもらって、いい結果が出せたら一緒に喜んでもらえて……そういう今の状況だけで、百パーセント頑張れます」
 私が言い切ると、主任は笑うように息をついて少し黙った。
 それから、
「ところで藍子。今は勤務時間外だよな」
 と言って、助手席の私を慌てさせた。
「そ、そうでした。えっと……」
「『主任』はそりゃ、いつもいつもお前を誉めるってわけにはいかないだろうがな」
 石田主任――隆宏さんは、勤務中とは違う声のトーンで言った。気を張っている感じがしない、囁きかけるような穏やかな声だ。
「でも俺は、いつでも好きなだけお前を誉めてやれるし、励ますことも、一緒に喜んでやることもできる」
 どことなく、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「そういうことでいいんだよな、藍子」
 それからそっと聞かれたから、私は笑って答えた。
「はい。これからもよろしくお願いします、隆宏さん」
 私には部下思いですごく優しくて、その上尊敬できる上司がいる。
 でもその人はあくまで上司で、私の仕事の成果を見る人だ。いつでも誉めてもらえるわけじゃない。いつでも一緒に喜んでもらえるわけでもない。
 そういう時に支えてくれるのが、恋人なんだろうな、と思います。
 何か、そう思うのは未だにちょっと、照れるけど。
「よし、じゃあ今日のところは存分に誉めてやる」
 隆宏さんはそう言って、何でもないことみたいに続けて尋ねた。
「明日休みだし、寄ってけよ。泊まってくだろ?」
「か、構いませんけど……お疲れじゃないですか?」
 このところお互い忙しかったから、私はいいけど、隆宏さんは大丈夫か気になった。
 でも隆宏さんは至って明るく答える。
「お前が来てくれたら超回復するから問題ない。むしろ来てくれ」
「じゃあ、お邪魔します」
「よっしゃ、今日の夜食ゲットだぜ」
 隆宏さんが低い声で呟いたので、私は思わず聞き返す。
「え? 今夜も何か食べるんですか?」
「そうですね。もう美味しくぺろりといただいちゃいます」
「……あの、ご飯の話ですよね?」
 重ねて問いかけた私が抱く予感を肯定するみたいに、隆宏さんは唇を吊り上げ、にやりとして笑った。
 しまった。こんなことなら残業中の夜食、ずっと春雨ヌードルにしとくんだった!
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