1 誰にも負けたくないの、もちろん貴方にもね。

 軽く肩が触れ合った後で、大きな溜息が聞こえてきた。
「また負けた……」
 ちらと横目で見ると、ほぼ同じタイミングでこっちを見たトモが、悔しそうな苦笑を浮かべたところだった。
「これで五連敗だよ。ちーちゃん、随分上達したんでない?」
「でしょ?」
 私はゲームのコントローラーから手を離して、胸を張る。
 室内で煌々と光を放つテレビには、パズルゲームの終了画面が映し出されている。画面を縦に二分割して、右側の勝利プレイヤーは私、左の敗北を喫したプレイヤーがトモだ。
「こないだ借りて帰った後、みっちりやり込んだんだから」
 自分でもわかってる。私は相当な負けず嫌いだ。こんな娯楽でだって負かされるのは気分がよくない。
 初めてこのパズルゲームを対戦プレイした時は、トモにこてんぱんにやられてしまった。トモはテレビゲームは何でも上手い。年の功なのか何なのか、とにかくあらゆることをそつなくこなすから、私は時々悔しくて仕方がなくなる。
 ずっと大人のトモに、張り合おうとするのは不毛だともわかっている。それでもゲームソフトを借りて帰って、家でみっちり練習している辺り、私はただの負けず嫌いだった。
「はあ、いいねえ学生さんは」
 トモは羨むような口調で言って、手にしていたコントローラーを床に投げ出した。
 そのままごろりと横になる。
「勉強もしないでゲームをやり込む時間があるんですか。こんなに上達するほどの時間があるんですか。いいご身分だ。全くちーちゃんが羨ましいよ」
「いいでしょ」
 勉強をしてないという点について、私は否定せずに頷いた。
 床の上で仰向けになったトモを見下ろし、ちょっと笑ってやる。
「そのうち他のゲームでも負けないようになるよ。見てて」
 トモもにやりと、楽しそうに笑った。
「お、いいね。だけどできるなら、他のことにも力注いで欲しいもんだね」
「他のこと? 例えば?」
 私は寄り添うようにして、トモの隣に身体を倒す。
 フローリングの床がひんやり冷たくて、心地良かった。
「そうだなあ……」
 天井を見つめているトモの横顔。
 何かを考え込む時、まるで大人の人の顔になってしまうから、私はトモの思案顔が好きじゃなかった。だけど、好きじゃないにもかかわらずずっと見つめていたくなる。目が離せなくなる引力がそこにはあった。
 一般的に、格好いいというわけじゃなかった。
 どちらかと言うと厳つくて、ごつごつしていて、鼻筋の通った男の人っぽい顔立ちだった。髭も濃くて、今日みたいなお休みの日には剃らずにいるから、触るとざらざらして痛い。
 多分トモは、年齢に相応した顔立ちをしているんだと思う。トモは三十四歳。その数字は、私にとっては途方もなく遠い世代に感じられる。
 だって私はまだ、トモの半分しかない。たったの十七歳だった。
 それだけ大きな歳の差があるっていうのに、トモの言うことは時々子供っぽい。
「せっかくだから、彼女の手料理とか食べたい」
 私にとって親しみ易い性格であるのも確か。いいんだ、ほんとに、このくらいで。私にはちょうどいいんだ。
「なーんだ。そのくらい、今だってできるよ」
「マジ? ちーちゃん、何作れんの」
「んとね、卵焼きとか上手いよ。家庭科でやったし」
「卵焼きかあ」
 トモは、私の答えを聞いて吹き出した。
「何。何で笑うの?」
「いや、だってさ。卵焼きっつーのは料理……料理だけど、献立じゃないっしょ」
「え?」
「手料理披露するって言うんだったら、卵焼き一品じゃちょっとね。ご飯炊いて、味噌汁作って、魚焼いて、そこに卵焼きって言うんだったらわかるけど」
 言うことはもっともだけど。
 いきなり難題を突きつけられたみたいで、私は思わず唇を尖らせた。
「トモ、贅沢過ぎ。一品でも作って貰えるならいいじゃん」
「いやいや、一般論をお話したまでですよ、ちーちゃん」
「注文多いなあ」
 ぼやく私の唇を、さっと半秒間だけ奪ってから、トモはもっともらしい表情で言った。
「だから、そっちにも力注いでって言ってんの。頑張る気になるでしょ?」
「なるけど」
「頑張れ。楽しみにしてるから。そろそろ外食にも飽きたし」
 トモはひとり暮らしだ。仕事上転勤が多いから、就職してすぐに実家を出る羽目になったと聞いている。
 私が生まれ育ったこの町にやって来たのは一年前のことで、あまり都会とは言えない町の中、ご飯を食べるところが少なくて困っているのだと以前零されたことがある。かと言って、仕事でくたくたになった夜には、自力で食事を作る気が起こらないものらしい。そんなわけで、私は彼女として、トモの食糧事情がいささか心配でもあった。
「じゃあ、頑張ろうっかな」
 私は素直に言ってあげた。
 それからトモの額に――唇は髭が痛いから避けて、さっとお返しのキスをする。
「ね、トモ」
「ん?」
「次はいつ会えるの?」
「そうだな……」
 トモの目は、壁に掛けられたカレンダーへと向いた。
 ぽつぽつとつけられた丸印は、見事に土日祝日を外していた。トモのお仕事はドラッグストアの店長さんだ。小売業は世間一般の暦が通用しない世界なのだと知っている。
 私はまだ高校生だった。バイトもしているから、こうしてトモの部屋で会える時間はごく少ない。今の関係に不満はないけど、もっとたくさんこの部屋にいられたらいいのになとは思う。
「再来週の月曜なら、いいよ。来ても」
「え、それまで休みないの? 来週の水曜もお休みじゃん」
「ああ、その日、店長会議」
 トモは半身を起こして、皮肉っぽく笑った。
「またねちねち言われてくんの。多分、夜までかかるわ」
「そっか……大変だね」
「全くです。ま、それもこれも再来週、ちーちゃんに癒して貰うからいいけど」
 私は、トモのお仕事が大変なことを知っている。十分、知っている。
 だからわがままは言えない。もっとたくさん会いたいとか、もっとたくさんこの部屋にいたいとか、もっともっと長い間トモを独り占めしていたいとか――そんなことは言えなかった。
 せめてこうして一緒に過ごす時間が、多忙で激務なトモにとって、少しでも癒しであればいいんだけど。
 トモはそうだと言ってくれるけど、私としてはいまいち自信がなかった。どうすれば、もっと安らいで貰えるのかな。
 やっぱここは彼女の手料理ですか。卵焼き以上の品揃えで。
「そろそろ門限?」
 テレビの上に置かれた時計を見て、トモは尋ねてくる。
 あえてその針は見ずに私は頷いた。
「うん……帰らなきゃ」
「じゃ、送ってく。外もう暗いし」
 トモの手は、テーブルの上にあった部屋の鍵に伸びたけど、
「ううん、大丈夫。近いから」
 とっさに私はかぶりを振った。
 瞬きをせずにトモが、立ち上がった私を見上げる。
「でも危ないよ、ちーちゃん」
「そんなことないよ。それに……人に見られたら、まずいでしょ?」
 三十四歳のトモが、十七歳歳の私を連れ歩いているところを知っている人に見られたら、きっと大変なんだと思う。それもわかってる。だから私たちはいつも、トモの部屋でしか会わない。
 外で一緒に、肩を並べて歩いたりはしない。
「車でもまずい?」
 トモに尋ねられて、私は目を逸らした。
「うん……。車停まってるとこお母さんに見られたら、びっくりされるし。前も『外に見慣れない車停まってるわね』なんて言ってたし」
「そっか」
 がっくりと肩を落とすトモには申し訳ないけど、しょうがないことだった。
 この関係はお母さんには話してなかった。お父さんにも、もちろん。家族の誰にも。友達にも。バイト先の仲間にも。誰一人として話すつもりはなかった。誰にも否定されたくなかったから、否定されなくなる時が車では黙っていようと思う。
 今はまだ秘密の関係でいい。そうすべきだと思ってる。
 それに、下手に送ってもらったりしたら、もっと離れがたくなるから。
「一人で平気だよ」
 私は言い、トモは立ち上がって私を抱き寄せた。
「わかった。だけどくれぐれも気をつけて帰るんだぞ」
「うん」
「ごめん、送ってけなくて」
「ううん」
「また来るよな?」
「うん、もちろん。手料理も練習するよ」
「楽しみにしてる」
 ぎゅうっときつく抱き締めた後で、トモは私を解放した。少しだけ笑いながら、名残惜しそうな目をしてくれた。

 日が落ちた一人きりの帰り道は、もう慣れっこだった。
 だけど季節が過ぎるにつれ、日暮れ時を迎えるのがだんだんと早くなってくる。
 宵闇を照らす水銀灯の光の中、私は足早に家路を歩く。差し迫るような冷え込みに震えながらもひたすら歩く。背中の方向にあるトモの部屋の明かりは見ない。振り返らない。
 こんな寂しい思いも、秘密にしてなきゃいけないのも、いつまでも続くものじゃないってわかってるから、負けたくない。絶対に、負けない。
 だって、好きなんだ。あんまり一緒にいられなくても、十七歳年上でも、二倍の年の差があったって、トモのことが好きだから。
 負けず嫌いの気持ちがいつも試されてる、私とトモはそんな関係だった。