Tiny garden

肝っ玉母さんと悪戯息子

 部活の練習があった日は、家に駆け込んですぐに叫ぶ。
「千佳子さん、ご飯!」
「まず『ただいま』が先でしょ!」
 台所から返ってくる千佳子の声。それを軽く聞き流し、秀人は冷蔵庫を開ける。牛乳のパックを取り出し、中身が残り少ないと見るや直に口をつけて飲む。
「こら、秀人! 行儀悪い!」
 千佳子が怒鳴ろうが背中を叩こうがどこ吹く風で、牛乳パックは空になる。手の甲で口元を拭う秀人を、千佳子はきつく睨んだ。
「あんたはもう、手も洗わない着替えもしないうちから!」
「水分補給は大事だろ。練習で疲れてるしさあ」
「手洗いうがいだって大事じゃないの!」
 がみがみとうるさい。千佳子の口喧しさはいつものことで、秀人は気にすることもなかった。学ランの胸元に牛乳の雫が落ちたのを見て、台所のテーブルに置かれた布巾へと手を伸ばす。無造作にごしごしやれば、また噛みつかれた。
「ほらほら、だから言ったのに! 替えがないんだからきれいに着てよね!」
「わかってるって。こんなのすぐ落ちるだろ」
 真面目さも殊勝さもない態度で応じる秀人。もっとも、替えがないのは事実だった。中学校に入った当初は『前へ倣え』をさせてもらえなかった秀人も、三年に進級するまでの間にぐんぐんと背が伸びた。手足も伸びた。制服はあっという間につんつるてんになり、その度に千佳子が社交スキルを駆使してお下がりを入手した。だが秀人の成長は止まらず、四度目のお下がりゲットの後、千佳子はついに匙を投げてしまった。
『もう無理。卒業まであとちょっとだし、これ以上伸びても諦めること』
 かくして秀人は中学卒業まであと半年という段階で、スラックスの裾から靴下を露出させるスタイルを余儀なくされた。秀人自身はファッションどころか身だしなみすら気にしない性質なので、千佳子の苦労が減るならまあいいかと考えている。自分で成長を止めることも出来ない訳だし。
「乾拭きだけじゃ臭いが残るでしょ。やっといてあげるから貸しなさい。しょうがない子ね」
 千佳子はお説教も諦めたらしく、秀人の学ランを脱がしに掛かる。秀人もこういう時だけは素直に従う。内心、面倒事が減ってよかったと思っている。
「ご飯出来てるから、食べるんだったら着替えと手洗いうがいね」
「はーい!」
 そしてこういう時だけ口答えもせず、いい返事をする。まさにやんちゃ盛りだった。

 夕飯のメニューは唐揚げだった。
 秀人と千佳子は二人だけで食卓を囲む。
「敏之さんは帰りが遅くなるって言ってたから」
「へえ、父さん忙しいの?」
「忙しいのって、毎年この時期は残業続きじゃない。忘れたの?」
「あんま気にしたことなかった。そういやカメラ弄ってないよな、最近」
「趣味もしばらくはお預けでしょうね。体調崩さないといいんだけど」
 溜息をつく千佳子。
「大丈夫じゃないの。父さん、頑丈だし」
 唐揚げを頬張りながら、もごもごと答える秀人。中学に入ってからというもの、新しい友人やら部活の仲間やらで交友関係が目覚しく広がった。休日も友人と外出したり、部活の練習に出たりして、相対的に家族との時間が減り始めていた。もちろん秀人に限ったことではないのだろうが、そういう自分に後ろめたさを感じるだけの純心を、秀人はまだ持ち合わせている。
「千佳子さんも寂しいね」
 誤魔化すようにからかいの言葉を向ければ、千佳子は鼻で笑ってみせた。
「あら、言うようになったのね」
「まあね。学校とか部活で鍛えられてるし」
「可愛くないんだから。口ばっかり大人になって」
「口だけじゃないじゃん。背も伸びたよ、千佳子さんより」
 秀人はつい余分な一言を告げ、お返しにきつい一睨みを貰った。慌てて茶碗に視線を落とす。
「昔は可愛かったのになあ。背もこんなにちっちゃくて」
 テーブルの高さに手をかざし、千佳子がぼやく。秀人の記憶の限りでは、千佳子の背丈は昔と変わらない。顔つきもほとんど変わりない。三十を過ぎたばかりの千佳子は、昔から美人と評判だった。お蔭で授業参観日などは大騒ぎになる。お前の母ちゃん若いな、美人だなとクラスメイトにつつかれて、秀人もまんざらではなかったりするのだ。
 と言っても、千佳子は秀人の『母ちゃん』ではない。厳密に言えば間違いなく『母ちゃん』なのだが、秀人自身はそういう風には捉えていない。
「そういえば今日、スーパーで真菜ちゃんに会ったのよ」
 千佳子が幼馴染みの名前を口にしたので、秀人は肩を竦めた。
「ふうん」
 学校でもたまに顔を合わせる相手だ、話題に出されても反応の示しようがない。だが千佳子は真菜のことを話すのが好きらしく、度々秀人に水を向けてくる。
「お母さんと一緒にお買い物してたんですって。偉いわね、おうちの手伝いをして」
「あいつ部活やってないからな。毎日暇らしいよ」
「そういう言い方しないの。真菜ちゃんはいい子なんだから」
「真菜ちゃん『は』って何だよ……」
 幼馴染みと言っても、秀人と真菜の関係はあくまで付き合いの長い一友人、程度のものだ。顔を合わせれば普通に話せてはいるものの、今はもう同性の友人といる方が気楽だった。千佳子や敏之、或いは真菜の両親などはまだ一番の仲良しという認識でいるらしいが、最近は話題に出されるのも何となく、億劫だった。
「真菜って言えばさ」
 だから、話題を変えるつもりで言った。
「昔さ、皆で森林公園行っただろ? 隣町の」
 秀人の言葉に、千佳子の箸が止まる。きょとんとした顔が向けられた。
「森林公園?」
「うん。あのでっかい、アスレチックとかあるとこ」
「森林公園ねえ……行ったことあった?」
 千佳子は首を傾げている。心当たりがないようなそぶりをされて、秀人は少し笑った。見た目の老化より先に、物忘れが来たのかもしれない。
「あったよ。あそこにさ、部の連中と今度遊びに行くんだ」
「いつ?」
「来月までには行きたいと思ってる。寒くなる前に行かないと」
「ううん、そうじゃなくて。皆で行ったのがいつだった?」
 問われて、秀人は考え込む。――そういえば、いつだったっけ。
「えーと……結構ちっちゃい頃じゃないかな。俺も真菜もまだ小学校行ってなかったはずだし。俺がアスレチックのはしごに登って下りられなくなって、真菜に『千佳子さんたち呼んできて』って言ったのに、なぜか真菜の方が怖がって泣き出しちゃってさ。あん時は大変だったよなあ」
 おぼろげな記憶を手繰り寄せつつ、話す。当時の真菜は泣き虫で、そして秀人も大概泣き虫だった。はしごの上で自分も一緒になって泣いたことも覚えていたのだが、それはあえて口に出さない。男のプライドという奴だ。
 そんな秀人の小細工をよそに、千佳子はまだ首を捻っていた。
「思い当たらないけど……真菜ちゃんたちと行ったの?」
「そうだよ。千佳子さんと父さんと、真菜と真菜んちのおじさんおばさんと六人で。しっかりしろよな、千佳子さん。肝心なところでボケてんだから」
 秀人はげらげらと声を立てて笑った。父親の敏之と比べてずっと若い千佳子は、秀人からするとからかい甲斐のある相手だった。遠慮会釈なしに笑っていれば、ふと千佳子が微笑んだ。
「ああ、そっか。わかった」
 急に優しく、穏やかになった口調。嵐の前の静けさか。秀人は内心身構えた。怒鳴られてもいいように、もし烈火のごとく怒られるぱっと逃げ出せるように。備えは完璧だった。
 だから、
「それって私とじゃなくて、秀人のお母さんと行ったんじゃない?」
 千佳子がそう問い返した時、箸を落とさずに済んだ。
 しかし、箸を握り締めておくのに精一杯で、笑うのを忘れた。
「え……」
 言葉が出てこない。怒られる覚悟なら出来ていたのに。
 自分の方がボケていた場合の備えはまるでなかった。
 血の気が引いた後、頭にはどっと思考の奔流が渦巻き始める。何てことを言ってしまったのかと後悔が過ぎり、自分の間抜けさか現に嫌気が差し、幼馴染みの真菜にお前が泣いたせいだと八つ当たりしたくなり、そしておぼろげな記憶の中に千佳子を探した。本当に、本当に千佳子じゃなかったのだろうか。あの日一緒に森林公園へ行ったのは。
 覚えていた。覚えている、はずだった。アスレチックのはしごの下で泣き出した真菜を見下ろし、やがて秀人も泣いてしまった。わんわん声を上げて泣いたら、それを聞きつけてか両親たちが来てくれて、敏之が秀人を抱き上げた。そして千佳子は――。
 千佳子はあの時、言ったはずだ。秀人の頭を撫でながら。
『ほらほら泣かないの、しょうがない子ね』
 ちゃんと、千佳子の声で、千佳子の口調で思い出せた。秀人はその記憶を千佳子との思い出だとばかり思っていた。部活の連中が森林公園行きについて話題にした時も、くすぐったい気持ちであの頃のことに思いを馳せていた。秀人を頭を撫でてくれたのは千佳子だった、はずだ。
「……嘘だろ?」
 よせばいいのに、秀人はそう聞き返していた。千佳子は軽く笑ってこう答える。
「嘘じゃないわよ。だって私、森林公園には一度も行ったことないもの。秀人の話を聞いて、そういえば行ってなかったなって思ったくらい」
 決定的だった。
 絶句する秀人を見てか、後には優しい言葉が続く。
「小さい頃の記憶なら、ごっちゃになってしまったのかもね。私が初めて秀人と顔を会わせた時だって、まだたったの六つだったでしょ? それより昔の話なんだもの、はっきり覚えてなくたってしょうがないわよ」
 それから千佳子は、気遣わしげに促してきた。
「さ、食べちゃいなさい。揚げ物は揚げたてが一番美味しいんだから」
 仕切り直しの合図だ。そうとわかっていても、秀人は謝らずにいられなかった。
「千佳子さん、ごめん」
「何を気にしてるの。謝ることなんてないじゃない」
 ごく軽い調子で言われて、余計にへこんだ。
 いっそボケだのなんだのと罵られた方がよかった。千佳子がそんなことを言うはずがないとわかってはいたものの。

 夕飯の味がわからなくなったので、秀人は早々に自室へと引っ込んだ。
 ベッドに身体を投げ出して、大きく溜息をつく。頭の中にはまだ先程の失態が渦巻いている。普段は千佳子を『母ちゃん』だと思っていないくせに、どうして千佳子と『お母さん』をごっちゃにしてしまったのだろう。秀人の『お母さん』がこの家を出て行ったのは、もう十年以上も前のことなのに。
 どうやら生きているらしいと聞いていた。でも、会いたいとは思わなかった。母親がいなくなったのは秀人が三歳の頃で、六歳の頃には千佳子がこの家へ来るようになっていた。その間、敏之と父子二人暮らしをしていた時のことや、千佳子と初めて顔を合わせた時のことはあまり覚えていない。気が付けば、千佳子の方が大きな存在となっていたし、家族だと認識してもいた。千佳子も敏之も、秀人には相当気を配ってくれたのだろうと思う。母親がいない現実を寂しいと感じたことは一度もなかった。ただそれでも、秀人にとっての『お母さん』は一人きりだった。千佳子のことをさん付けで呼んでいるのもそのせいだ。
 母親についての思い出はもうおぼろげで、曖昧な輪郭しか残していなかった。きれいな人だったような気がする。でも、抱っこをしてもらった記憶はあまりないような気がする。森林公園へ行った時のこと、一家三人でご飯を食べた時のこと、叱られて、物置へ入れられた時のこと――思い出そうとすると、頭の中がぐらりと揺れて、母親の顔は千佳子の顔に置き換わる。頭を撫でてもらった時の顔も、ご飯を皿に取り分けてもらった時の顔も、叱られた時の顔も、全て千佳子の思い出としてなら簡単によみがえる。
 でも、お母さんは千佳子さんじゃない。秀人はそう思うから、記憶をごっちゃにはしたくなかった。それぞれの思い出を、はっきり区別して留めておきたかった。千佳子に言わせれば、はっきり覚えてなくたってしょうがない、らしいのだが。
 ふと思い立ち、秀人はベッドから起き上がる。そして足音を忍ばせながら部屋を出た。階下にいる千佳子に気付かれないように、父親の書斎へと向かう。書斎の本棚にアルバムがあるのを知っていた。敏之はカメラが好きで、秀人がこの歳になっても事あるごとに家族の写真を撮りたがった。そうして溜め込んだアルバムは十冊にも上る。捜せばきっと、秀人が小さかった頃の写真もあるはずだ。そこには『お母さん』の姿もあるはずだ――。
 息を潜めて、秀人はアルバムのページを繰った。だが予想に反して、写真に収められていたのは六歳以降の秀人だった。それ以前の写真はなく、秀人の隣に映っているのは笑顔の千佳子、だけだった。

 翌日、千佳子と顔を合わせた時は、もう何事もなかったような顔をしていた。敏之は前の晩も遅かったにもかかわらず、早朝のうちに出勤していった。お蔭で秀人も、ある程度は普段通りにふるまっていられた。千佳子は昨晩のことなんて気にも留めていない様子で、いつものように威勢よく秀人を学校へ送り出した。
 しかし、秀人は決意していた。登校してすぐ、クラスの違う幼馴染みの元を訪ねた。真菜は秀人よりも先に登校していることが多く、この日も既に教室にいた。
 秀人の姿を見るなり、戸口まで進み出てきて真菜は言った。
「おはよ、何か忘れ物?」
「……お前さ。俺がいつも忘れ物してるみたいな言い方すんなよ」
 しかめっつらの秀人に、彼女はあっさりと応じてくる。
「秀人があたしに用なんて、どうせ忘れ物か何かでしょ。違った?」
 違うと反論しかけて、はたと思いとどまる。確かに――忘れ物には違いなかった。
 溜息をつき、秀人は声のトーンを落とす。
「アルバムが見たいんだ」
「アルバム? って何の? 卒アルのこと?」
「いや。……その、俺の、母さんの写真が見たくてさ」
 ぼそりと告げると、真菜は目を瞬かせた。不自然な間を置いた後、ふと表情をほころばせた。やけに早口になって答える。
「あ、ああ、おばさんのね! あるよあるよ、何なら明日でも持ってきたげよっか? でも結構昔からあるから、いつ頃のやつがいいのか教えてくれたら――」
 他人に気遣われるのは慣れていた。秀人と千佳子の関係はややこしいから、説明する時に同情を持たれるのもよくあること。しょうがないのだと思っている。けれど、今はその気遣いが痛かった。
「悪い。千佳子さんじゃないんだ」
 秀人はなるべく軽い調子で告げようとして、失敗した。
「俺の、本当の母親の方」
「……ああ、うん。わかった」
 たちまちのうちに真菜の笑顔が引き攣った。かつて泣き虫だった幼馴染みは今でこそ気丈な性格に成長していたが、それでもこういう局面では上手く笑えないものらしい。戸惑いがちに聞き返してくる。
「でも、何て言うか。うちにもあるかどうかわかんないよ? そういえば秀人の……その、お母さんの顔って、あんま覚えてないし」
「そっか」
 だろうな、と思う。自分ですらよく覚えていないのだから、真菜が覚えているはずもない。
「秀人の家には写真、なかったの?」
「なかった。だからお前に聞きに来た」
「そうなんだ……じゃあ、やっぱうちにもないかも。あたしが秀人と写ってるやつって、ほとんど秀人のお父さんが撮ってくれたやつなんだよね」
 真菜はそう言って、頬を掻く。
「秀人のお父さんがカメラ始めたのって、千佳子さんが来てからじゃなかったっけ」
 そうだったっけ。自分の父親のことなのに、秀人はそれすら覚えていなかった。

 急ぐなら、うちに寄って見てけば、と真菜が言った。
 別に急ぐ訳ではなかったが、ちょうどその日は部活が休みだったこともあり、秀人はその言葉に従った。ごく近所なのに、幼馴染みの家に行くのは数年ぶりだった。中学に入ってからは初めてだ。
「あらあら、秀人くんったら久し振りじゃない。よく来てくれたわね。この間、千佳子さんと会ったわよ。いつ見ても若くてきれいで明るくて、おばさん羨ましいわあ。千佳子さんから聞いてるわよ、秀人くんは部活、頑張ってるんですってねえ」
 真菜の母親は、家に来た秀人を見るなり愛想よくまくし立ててきた。矢継ぎ早に千佳子の名前を出されてどぎまぎしたものの、どうにか笑って挨拶が出来た。そして内心、千佳子と自分の関わりの深さを思う。
 真菜が、秀人の『母さん』という言葉に千佳子を連想したように。真菜の母親が、秀人の顔を見るなり千佳子の話をしてきたように。周りの人間から見れば秀人の母親は千佳子ただ一人なのだろう。本当の母親の存在は、秀人自身が口にしない限り、誰も思い浮かべることなどないのかもしれない。
「お母さん、話長い。秀人も構わなくていいから」
 母親の長話を苦笑いで打ち切った後、真菜は自室へと案内してくれた。はっきりと記憶にある階段を上がった先、幼馴染みの部屋はあった。小学校時代よりもおとなしい印象の部屋に変わっていた。秀人が覚えていたようなアニメのカレンダーやおもちゃ、ゲーム機などは置かれていなかった。本棚にも漫画は少なく、代わりにファッション雑誌や音楽情報誌が並んでいる。机の上には参考書まであった。
「じろじろ見るな」
 秀人の視線に気付いてか、真菜が抗議の声を上げる。慌てて目を逸らせば更に言われた。
「そのまま、ちょっと後ろ向いてて。クローゼット開けるから」
「クローゼット? 何で?」
「アルバムしまってあんの、そこなんだ」
 彼女の言葉に、秀人は素直に従った。すぐにクローゼットの扉が開く音がして、ごそごそ探す気配が続いた後、ようやく扉が閉まる。顔を背けていた秀人の前には、どさりと数冊のアルバムが置かれた。どれも表紙が色褪せている。
「あるとしたら、これかなあ。結構古いのばっかだし」
「探してみる」
 早速、秀人はアルバムの一冊に手を伸ばす。あたしも手伝うと言って、真菜もすかさず後に続いた。
 学校で聞いていたとおりだった。アルバムの写真のうち、秀人が真菜と写っているものはほとんどが家にもあったものだった。見覚えのないのもいくらかあったが、それらはピンボケだったり二人して目を瞑っていたりとあまり写りのよくないものばかり。そのせいか枚数もほとんどない。
「この頃はうちの親、写真撮るの下手だったんだよね」
 とは真菜の弁。
 そして、真菜の親が撮った写真の中にも、秀人の母親の姿はなかった。アルバムにざっと目を通しても、一枚も見つけられなかった。
「……なかったね」
 ぽつりと、真菜が呟く。秀人はどう答えていいのかわからず、まだ諦められもせず、アルバムを眺め続けていた。食い入るように全て、三度も目を通した。
 見つからなかった。
「写真撮る人がいなかったから、撮らなかったのかもね。ほら、かなり昔だけど、皆で一緒に森林公園行ったこととかあったでしょ。秀人がはしごに登ったはいいけど下りられなくなって、泣いちゃって大変だった時のこと。あたしもうろ覚えだけど、あの時は写真とか撮らなかったんじゃないかな」
 幼馴染みのフォローにも、上手く答えられない。秀人が押し黙っているとそのうち真菜も口を噤んで、室内には気まずい空気が漂う。
 そもそも、敏之がカメラを始めたのが千佳子と再婚してからというのは、本当なのだろうか。それ以前にも撮っていたが、いろいろあって古い写真は捨ててしまったのではないだろうか。秀人が年頃になって、実の母親に会いたいと言い出さないように、密かに処分してしまったのではないだろうか。真菜の家にないのも、もしかすると、親同士が口裏を合わせて――そこまで考えて、秀人は罪悪感に嘆息した。いくらなんでも疑り過ぎだ。自分の父親や千佳子、それに気のいい真菜の両親まで疑うのは、さすがにどうかしている。
 だとすると、やはり敏之の趣味は再婚後に始めたものなのかもしれない。
「あの、さあ」
 思案に暮れる秀人に、真菜が声を掛けてきた。床の上で体育座りをしている真菜は、何やらためらいがちにしていた。
「ちょっと無神経なこと、聞いちゃうかもだけど」
「何だよ」
「……どうして、お母さんの写真探してんの?」
 無神経だとは思わなかった。だが、答えには窮した。
「お母さんに会いたいの?」
 重ねて、真菜が尋ねてくる。秀人が即座にかぶりを振ると、彼女はあからさまにほっとしてみせた。
「そっか。……何かさ、詳しいこと知らないのにこう言うのも悪いだろうけど」
「なら言うなって」
「ちょっと。協力してあげた人間に対してその言い方はないんじゃないの」
 秀人が言い返すと、しおらしさも忘れて噛みついてくる。その態度に秀人は思う。――こいつと言い千佳子さんと言い、どうして俺の周りにいる女はきついのばかりなんだろう。
「とにかくさ、あたしは、秀人のお母さんは千佳子さんだって思う訳」
 お構いなしで真菜が続ける。
「あたしだけじゃないよ、きっと。少なくともうちの親はそう思ってるだろうし、他の人だってそうだよ。だから……その、何て言っていいかわかんないけどさあ。ほら、秀人も、何て言うかさあ」
 言いたいことはわかった。
 彼女の言う通りだと思う。秀人の母親は、誰の目から見ても千佳子に違いない。年齢的にはいささか若いのだろうし、秀人とは当然のように似ていないはずだが、それでも誰もが『あり得ない』とは言うまい。秀人が千佳子をさん付けで呼んでいることを除けば、二人のやり取りはまさにごくありふれた肝っ玉母さんと悪戯息子、そのものだ。
 秀人だって、千佳子を大切に思っている。お母さんではないけれど、家族だと確かに思っているのだ。千佳子がどのくらい自分を大切にしてくれているのかも知っている。もし、千佳子の身に何かあったら、他の誰よりも心配してしまうだろう。その自覚はある。
 本当の母親にも、決して、会いたい訳ではない。父親との間に何があって、家を出て行くことになったのか、詳しいことは全く知らないものの――知りたいとも思わない。今の秀人が聞いたところで、幼い息子を置いていった人の気持ちを、理解出来るとは思えないから。
 ただ、一つだけ。秀人の中で煮え切らない気持ちがあった。
 それは、
「千佳子さんと母さんを、ごっちゃにしたくなかったんだ」
 正直に告げると、真菜がきょとんとしてみせた。千佳子を連想したくなる、その顔に向かって続けた。
「千佳子さんは千佳子さんだから。他の人と一緒くたにして覚えておくなんてこと、したくなかった。千佳子さんのことは確かに覚えておきたかったんだ。俺の為にいろんなこと、してくれた人だから。千佳子さんは母さんとは違うんだって、はっきりさせたかったんだ」
 結婚してすぐに六歳の息子が出来る気持ちはどんなものだろう。それも今の秀人には理解の難しいことだ。しかし当時二十歳前後だった千佳子はそれをやってのけたし、秀人を甘やかし過ぎず、しかし邪険にもせず、確かに慈しみ育ててくれた。そんな人のことを曖昧に記憶しているのは嫌だった。母親と間違って覚えていたくはなかった。
 真菜が目を伏せ黙り込む。その様子を横目に見て、秀人は急に気恥ずかしくなった。慌てて立ち上がった。
「あ、ええと。その……いろいろありがとな。助かったよ」
「……うん」
 微かに聞こえる声で真菜が応じる。それで秀人は通学鞄を引っつかむと、部屋を出て行こうとした。
 その時、背中へ言葉が投げ掛けられた。
「秀人、背伸びたね」
「え?」
 脈絡もない一言に振り向けば、真菜はいつの間にやら笑っていた。むしろ、にやりとしていた。
「ズボン、つんつるてんだね」
「卒業までこれで行くことになってる」
「そうなんだ。ま、目立てていいんじゃない? おじさんが写真撮る時、すぐに見つけられて便利かも」
 何事もなかったような軽い口調。
 つられるみたいに、秀人も笑う。
「かもな」

 真菜の家を出てからは、真っ直ぐに家へと帰った。
 部活帰りとは違って、今日はそれほど腹は減っていない。それ以前に、第一声で飯を要求する心境ではなかった。
 しかし、今日は千佳子の方が威勢がよかった。
「お帰りーっ!」
 大声の挨拶で秀人をぎょっとさせた後、やけに上機嫌で千佳子は言う。
「聞いて聞いて! 敏之さんがねえ、もうじき仕事が一段落するから、次の連休は家族旅行でもどうかって!」
「家族旅行?」
 脈絡のない言葉に秀人は戸惑う。しかし千佳子はどこ吹く風だ。
「どこ行きたいか二人で相談しといてって言ってたの。ねえ、テーマパークとかどう? 秀人もジェットコースター好きでしょ?」
「ま、まあ、好きだけどさ……」
「じゃあ決まりね! 敏之さん、いっぱい写真撮るって張り切ってたわよ!」
 はしゃいでいる、屈託のない笑顔を見下ろして、秀人は不意に思った。
 ――父さんがカメラを始めた理由、ちょっとわかったような気がする。
「確かに、今のうちに撮ってもらった方がいいかもね」
 込み上げてくるうれしさを堪えつつ、言ってみた。
「千佳子さんがしわしわになっちゃう前にさ」
「何よ、その言い方! 秀人だってずっと若いままでいられる訳じゃないのよ!」
「わかってるよ、そんなの」
 記憶すら、そのままの形では留めておけない。変わらずにいられるものなんてないことはわかっている。
 新しい思い出をどんどん作りたかった。古い記憶がかすんでしまってもいい。家族でいる一番新しい思い出を、記憶の中にはっきり留めておきたくなった。
 だから、たまには家族旅行も悪くない。
「あ、そうだ。そういえば」
 ひとしきり大はしゃぎした後で、千佳子がにやりとした。
「今日、真菜ちゃん家に行ったんですって? 真菜ちゃんのお母さんに聞いたわよ。最近一緒に遊んでないなと思ってたけど、そうでもなかったのね?」
 冷やかすような物言いに、答えるのが億劫になる。
 もちろん、何しに行っていたかを言える訳がない。どうやって言い逃れをしようか考えつつ、真菜には世話になったし、お土産でも買ってきてやろうか、なんてことも思っていた。
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