Tiny garden

オーバー・ドライブ

 歩道から、大きく手を振ってくる人影を見つけた。
 正月でもないのに振袖を来た女性だった。そう言や、卒業式のシーズンだっけ。
 品の良い紅色の着物姿を目に留めると、俺はすぐに路肩へ車を寄せる。

 後部座席のドアを開けると、女性は服装の割に機敏な動作で乗り込んできた。袖口も裾も気に掛けた様子もなく、すとんと座る。
「いらっしゃいませ」
 事務的に告げた俺は、ドアを閉めてからハンドルを握り直し、尋ねた。
「お客さん、どちらまで」
「出来るだけ遠く」
 彼女は、すぐに答えた。
 声の感じは意外と若い。いや、幼かった。
「……はい?」
 だけど今、何つった? 俺の聞き違いか?
「どちらまで、ですか?」
 訝しがりながら振り向いた俺の目に、彼女の表情が飛び込んでくる。
 強張った顔。頬は上気し、額には汗を浮かべている。着物の為にまとめ上げた髪は、しかし風に煽られたように乱れ始めていた。肩が上下し、荒い呼吸が聞こえてくる。
 嫌な予感がした。
「だから言ったでしょ、遠くまで!」
 命令口調で彼女は言った。無茶なことを。
「いや、あの、遠くと言いましても……」
「出来るだけ遠くまで行きたいの! お金なら持ってるから!」
「え、いや、しかしですね」
「ああもう、追い着かれちゃうじゃない! とっとと車出してよ!」
 悲鳴のような声が狭い車内に響いた。
「は、はいっ」
 俺は慌ててアクセルを踏み込み、ハンドルを切って走り出す。
 休日の通りは空いていた。車の流れに上手く乗ると、たちまち彼女を拾った街角が遠ざかる。
「ふう……」
 後部座席からは安堵したらしい溜息が聞こえてきた。
 でも、溜息をつきたいのはこっちの方だ。
 一体この子、何なんだ? とにかく遠くまで行きたいだの、金はあるだの、追い着かれるだのと……――怪し過ぎる。

 お客を乗せたことを会社に報告してから、俺はバックミラーで、件の客の様子を窺った。
 物言いが幼いとは思ったけど、実際随分と若い子のようだ。二十歳になったか、ならないかってところだろうか。流れる車窓の景色を見つめる表情は、緊張が解けたせいか結構可愛く見えた。色が白くて鼻筋の通った顔立ち。幼いなりに、どことなく気品のある顔立ちをしていた。
 そう言えば、着ている着物もなかなか上等そうだ。さして詳しくもない俺にもその質が一見してわかるだけの、深みのある紅色の着物。おまけに彼女が乗り込んでからと言うもの、普段は煙草の匂いしかしない車内に、大変良い香りが漂っていた。

 さっき感じた嫌な予感が、再び蘇る。
 こいつは厄介だ。厄介事になりそうな客だ。あるいはもう既に巻き込まれているのかもしれない。
 正直タクシードライバーなんてやってりゃ、いつかはこんなこともあるんじゃないかと思ってた。つまり、無理難題を言う客との遭遇。酔っ払いに絡まれたり、寝込まれたりしたことは何度かあったけど、真昼間から訳のわからん客を拾うのは初めてだ。
 ただ遠くまで行けなんて、無茶を言う。どこへ行きたいかも決めてないような奴なんて、ろくな事情がないに決まってる。追われてるみたいなことも言ってたし。どんな素性の小娘かは知らないけど、おかしな事態になる前に、どっか適当なところで降ろせないもんかな……。
 そんなことを考えながら、俺の車は市中心部を離れて行く。
 行く当ても目的地も決められないまま、流れに沿ってひたすら走る。

 県道の上を通る高速道路の高架が、遠目に見えてきた時だった。
 それまでずっと黙りこくっていた後部座席の彼女が、
「高速乗って」
 急に口を開いた。
「へ?」
 俺は思わず振り向きかけて、声だけで聞き返す。
「お、お客さん、いいんですか。高速乗ったら県外出ちゃいますよ」
「だから言ったでしょ。遠くに行きたいの」
 生意気な口調で彼女が応じた。苛立ちもありありと感じられた。
「いや、だけど、一旦乗ったらしばらく降りられませんよ。目的地も決めてないのに」
 こっちはごめんだ。高速なんて乗ったら彼女を降ろす機会が遠ざかる。付き合わせられる方の身にもなって欲しい。
「何でもいいから言う通りにしてよ。いちいちうるさい人ね」
 小娘は呆れたように溜息をつき、俺に向かって顎をしゃくった。
「じゃあ、海が見たいの。海のあるところまで連れてって」
「海、ですか」
 また季節外れなポイントを。しかも遠いじゃないか。
「そうよ。高速乗って海まで。さっさとして」
「はあ……」
 しかし曲がりなりにも相手はお客。俺は逆らえず、渋々車を高速の入り口へと向けた。

 高速に乗ってからのドライブは至極快調だった。
 今日はどこも流れが良い。風を切ってぐんぐんと飛ぶように走る。
 隣の県にある海沿いの町まで、道順は頭に入ってる。この速度を保てたら、三時間ほどで着くはずだ。あと三時間でこの怪しい小娘を降ろせる。それまではどうか、何事も起こりませんように!
 祈る思いでハンドルを握る俺。

 だけど後部座席の彼女は、しばらくしてこんなことを言い出した。
「ねえ、お腹が空いたの」
「は……」
 だから言ったろ、一旦乗ったら高速下りられないんだって!
 思わず罵倒の言葉が口をついて出そうになったが、ぐっと堪えた。
 代わりに苦笑を送っておく。
「そいつは困りましたね、お客さん」
 しかし精一杯の嫌味を込めても、彼女の方はどこ吹く風。全く意に介した様子もなく、続ける。
「でしょう? だから次のサービスエリアで停まってくれない?」
 ミラーに映る小娘の笑顔が小憎らしい。
 こっちは早く解放されたいのに。早く降ろしてしまいたいのに。
「私、お昼ご飯も食べてないのよ。何か食べないと倒れちゃう」
 小娘は言って、運転席の背凭れに手を掛けた。
 ぐっと身を乗り出してくる。距離が近付くのに比例して、車内に立ち込める良い香りが一層強まった気がした。ミラーには笑んだ唇の、引かれた紅が際立って映った。
「ね、お願い。お客さんに倒れられたら困るでしょう?」
 それは確かに。
「素性も知らない、怪しい女に、いきなり倒れられたら貴方だって大変じゃない?」
 彼女の言葉に俺は困惑した。怪しんでいたのをすっかり見抜かれていたようだ。態度に出したつもりはなかったから、余計に気まずい。
 結局、従うよりほかにないんだが。
「じゃあ、次のサービスエリアに寄ります」
 俺が告げると、後部座席に腰を下ろした彼女がぱっと顔を輝かせ、
「やったあ! ありがとう、おじさん!」
 失礼極まりない呼称で俺を呼んだので、合わせて笑うのに苦労した。
 誰がおじさんだ。俺はまだ二十八だぞ、おい。そりゃあこんな小娘から見たら、途方もないくらい年上なんだろうけどさ……。
「おじさんがいい人で良かった」
 安堵の声が、風の音に紛れるように聞こえた。
 ふと車窓に視線を投げた彼女の、どこか物憂げな横顔。
 顔立ちの割に大人びた表情に見えて、俺はますます怪しむ思いに囚われた。

 サービスエリアの駐車場はそれなりに車が停まっていた。
 片隅にタクシーを停めると、すぐに彼女が言った。
「じゃあ私、何か買ってくるわね」
「え?」
 俺が開けるよりも先にドアを開けてしまった彼女。
 外へ出る前にふと振り向いて、機嫌の良さそうな笑みを投げ掛けてくる。
「ねえ、貴方は何を食べたい?」
「いや、俺は……私は、結構です。勤務中なんで」
 口ぶりから察するに奢ってくれるつもりなんだろう。
 誰がこんな小娘に。腹は減っていたが、ご馳走になれば恩を売られるようで嫌だった。
「遠慮しないで」
 なのに、彼女は重ねて言う。
「私ひとりで食べたってつまらないもの。どうせなら付き合ってよ」
「はあ、しかしですね……」
「適当に見繕って来てもいい?」
 彼女は俺の答えを待てない様子で、さっと車から降りてしまった。余程腹が減ってるんだろう。
 そしてドアに手を掛け、車内を覗き込むようにして、
「あ、心配しないでね。乗り逃げなんてしないから」
 と言い残し、ドアを優しく閉めて、サービスエリアへと歩いて行く。着物姿の背中はしゃんと伸び、歩き格好もなかなか様になっている。
 とは言えあの着物は人目を引くだろう。いいのか、追われているらしい身で。
 俺は知らず知らずのうちに遠ざかって行く紅色の着物を見つめていた。そのことに気づくと、何だか情けない気分になって溜息をつく。
「ふう」
 参ったな。とんだ厄日だ。
 彼女のいなくなった車内は妙に静かだった。いっそ乗り逃げされた方が俺にとっては気楽なんじゃないだろうか。

 しかし、彼女は十五分ほどで車に戻ってきた。
 乱れていた髪を整え、化粧も直してきたようだ。車の前までやって来た時はわずかに笑んですらいた。
 ところがその時俺は車外に出て、煙草を吸っていたところだった。それを認めた途端、白いビニール袋を提げた彼女には思い切り顔をしかめられてしまった。
「煙草臭い」
「……すみません」
 外で吸ってんだからいいだろ、などとは、お客にはもちろん言えない。
 代わりに控えめに言葉を返す。
「でもお言葉ですが、車内では吸ってませんから……」
「いつもは吸ってるんでしょ」
 と彼女は俺を軽く睨んで、
「車の中、すっごく煙草臭かったわ。言わないでおいてあげたけど、気になってしょうがなかったの」
「はあ」
 結果としてはっきり言ってるじゃないか。
「煙草の匂いが苦手だって言う人もいるんだから、勤務中くらいは気を付けなさいよね」
 嫌煙家なのか、彼女。絶対に相容れないタイプだ。どうせこれきりのお客だろうし相容れる必要もないけど。
 俺はむっとしつつもやはり言えず、彼女の鋭い視線を受け止めるよりほかなかった。
 押し黙っていると彼女が、
「ドア開けるんだけど」
 と苛立ちを隠さずに言う。
 慌てて煙草を携帯灰皿で揉み消し、片づける。
 煙が拡散し、匂いが遠ざかったのを確かめてから、彼女は後部座席のドアを開けて先に乗り込んだ。
 溜息をひとつ。その後で俺も続いて乗り込む。

 運転席のドアを閉めると、早速がさがさと言うビニール袋の音が後ろから聞こえてきた。
 視線を上げると、ミラーに映った彼女もちょうど、俺の方を見たところだ。
 目が合った。
 彼女はさっきまでのやり取りを忘れたように、にっこりと笑う。
「ねえ」
 ビニール袋に手を入れて、尋ねてくる。
「貴方は、小倉あんとクリームと白あんなら、どれが好き?」
「は……あの、三択?」
「ええ。三種類しか売ってなかったから」
 と言って彼女がミラー越しに見せたのは、紙袋に入れられた今川焼きだった。まだ温かいようだ。湯気が見えた気がした。
 しかし何だ、その究極の三択は。
「好きなのあげる。どれでも選んで」
 悪気なく言う彼女に、俺は正直な気持ちを告げられなかった。
 内心では悔やんだ。――甘いものは駄目なんだって、先に言っときゃよかった。
「ああ、俺はどれでも……」
 曖昧に濁して答える。
 すると彼女は少し考えてから、一つを取り出し、きれいに半分に割ってみせた。そして片方を俺に差し出す。中身はカスタードクリームのようだ。
「せっかくだから全部半分こしましょうか」
 要らない気遣いだった。
 俺は渋々片方を受け取る。やはりまだ温かい。しかしだからと言って苦手なものが美味しくなる訳でもなかった。
 彼女には背を向けて、運転席でもそもそと食べる。クリームの甘ったるさが口の中に広がると、さっきまで味わっていた煙草の苦味と入り混じり、何とも言えない風味になった。泣きたくなった。
 黙って食べ進める俺を、彼女はミラー越しに見たのだろう。不意に吹き出した。
「もしかして甘いもの、駄目だった?」
「え、ええ、まあ」
「なら、言ってくれても良かったのに」
 そう言って彼女が苦笑を浮かべる。
 俺が黙ると、彼女はこちらに手を伸ばし、俺の食べかけの今川焼きをそっと取り上げた。制止する暇もなかった。そして、
「私が食べるから、無理しないで」
 食べかけの今川焼きを手に、穏やかに笑う彼女。
 俺は一瞬言葉を失い、どう答えていいのかわからなくなった。自分でもどうして戸惑ったのか、奇妙に思った。
 だけど結局頭を下げた。
「すみません」
「いいったら」
 彼女の顔立ちは幼いのに、笑い方は不思議と大人びていた。ころころ表情の変わる奴だと思った。
 そして彼女は全ての今川焼きを、一人で、あっと言う間に平らげてしまった。

 再び動き出した車の中。
 空腹が解消されたからなのか、後部座席の彼女は機嫌よく話し始めた。
「おじさんってお幾つなの?」
「……おじさん、か。せめてお兄さんって呼んで欲しいなあ」
 俺もつい、本音で答えた。
 ミラーに映る彼女が怪訝そうに目を瞠る。
「お兄さん、なの?」
 正直過ぎる一言をどうも。
「いや、一応まだ二十代なんで」
「そうだったの……ごめんなさい。私てっきり」
 てっきり、何だよ。
 腹立たしく思ったが、もちろんそんなことは言えなかった。まあ小娘の目から見たら二十八歳なんておっさんだろうさ。別に老け顔でもないつもりだがな。
「お嬢さんはお幾つですか」
 俺が聞き返すと、彼女はすかさず首を竦めた。
「あら、女性に年齢を聞くのは失礼じゃない?」
「……すみません」
「冗談よ」
 小さく笑った後で添えるように、
「私は二十歳なの。こないだ、短大を出たばかり」
 思ったとおりだ。そのくらいじゃないかと思ってた。
「へえ。希望に溢れた年頃、って奴ですね」
 こればかりは本気でそう思い、告げた。
 だけど彼女はかぶりを振る。
「ううん、そうでも……ないかな」
「え?」
 車が風を切る音に、負けてしまいそうな声だった。聞き取れた曖昧な言葉は、もしかすると聞き違えたものかもしれない。
 だけど俺が確かめようとする前に、彼女は、
「ね、貴方のお名前ってそこに書いてある通り?」
 話題を変えるように、料金メーターの上にある名札を指した。
 四桁の料金メーターも見えているはずなのに、そのことについては触れなかった。
「そうですよ。高見です」
 俺は改めて名乗った。
「高見さん、ね」
 記憶するように繰り返した彼女。
 その後で名乗り返してくるんじゃないかと思ったけど、そうはしなかった。
 代わりにちょっと笑って、言ってきた。
「じゃあ、この次タクシーを使う時は、貴方の会社に電話して貴方を指名するから」
 風の音が窓の向こうで音を立てる。
「また私を乗せてくれる?」
 彼女にそう尋ねられた時、俺は、また言葉に詰まりそうになった。
 別に深い意味のある話じゃない。単に、お客さんが運転手を呼びつけるってだけだ。
 なのにどうしてか、妙に緊張を呼び起こされた。
 彼女が素性の知れない、いかにも怪しい、着物姿の小娘だからだろうか。
「その日が勤務でしたら、伺いますよ」
 深呼吸の後で、俺はごく模範的に返した。
 後部座席で彼女が笑う。
「よかった。また乗せてね。この次は、ちゃんと目的地を決めておくから」
 それは当たり前のことだ。タクシーってのはそういう風に利用するもんじゃないのか。
 つられるように笑い返した後で、ふと、俺は彼女が乗り込んできた瞬間のことを思い出す。
 あの時の彼女は、誰かに追われていたようだった。一体何に追われていたのか。何から逃げようとしていたのか、未だにわかっちゃいないが――。
 知りたいわけでもない。
 俺は彼女に気づかれないよう、そっとかぶりを振った。

 高速料金は彼女が払ってくれた。金はあると言ったのは、やはり本当だったらしい。
 高速を降りてからは寂れた海辺の町並みを辿った。
 日が傾き始めていたから急ぐ必要があった。昼間よりも色の濃くなった陽射しの中、背の低い家々が伸ばす影を潜り抜けながら、俺は海岸沿いへと車を走らせた。
 彼女の注文に従い、最終的には海水浴場の駐車場を選んだ。シーズンオフとあって車は他に一台もなく、砂浜には人影すらなかった。

 エンジンを切って停止する。
 車内がしんと静まると、彼女は居ても立ってもいられなくなったようにドアを開け、外に飛び出した。
 長距離を走ってきたタクシーの脇に立ち、日の暮れかけた海辺の景色を眺め遣る。細めた目元、表情は意外にも険しかった。
 一瞬迷った後で、俺も車の外へ出た。潮風を味わうのもいいか、と思ったからだ。煙草を吸いたい気持ちはぐっと堪えた。
 運転席のドアが閉まる音を聞きつけたらしい彼女は、こちらを振り返り、そして言った。
「ちょっと待ってて」
 俺の方を見たのはわずかな間だけ。
 すぐに、凪ぎの海面へと視線を戻す。
「帰りもお願いしたいの。すぐ……済むから。ちょっとしたら、帰るから」
「わかりました」
 頷いた俺は、元よりそのつもりでいた。こんな寂れたところに彼女を置いていくわけにはいかない。帰れなくなるだろう。
 彼女は、帰らないわけにはいかないのだろうから。

 季節外れの海水浴場はとても静かだった。
 高速道路の上よりも風の音がしない。繰り返す穏やかな波の音だけが響いている。
 夕暮れ時の陽に照らされた波間はちかちかと目映い。ゆっくりと水平線に近づいていく太陽も、最後の力を振り絞るような強い輝きを放っている。海辺にあるもの全てが眩しく照らし出されていた。
 紅色の着物を着た彼女の横顔も、そうだ。
 舗装された駐車場の路面を、風に吹かれた砂がうっすら覆っている。その砂を踏み締めて、ゆっくりと歩み寄る足音がやけに耳障りに聞こえた。ここで音を立てるのはとても無粋なことのように思えた。声を掛けるのもきっと、無粋には違いないだろう。
 だけど俺は彼女の横に立ち、凛とした表情に、声を掛けずにはいられなかった。
「砂浜に下りないんですか」
 彼女はこちらを見ずに答えた。
「ここでいいの。私、着物だから」
 声だけでひっそりと笑った。
 俺が無言で顎を引くと、彼女は自分の足元に視線を落とす。
 波の音の合間に聞こえた溜息。
 穏やかな潮風が頬を撫でた瞬間に、彼女は紅を引いた唇を動かした。
「私ね、今日、本当はお見合いだったのよ」
 告げられた言葉に、俺はあまり驚かなかった。
 既に短大を卒業した彼女が、振袖を着て歩いている理由なんて、他に見当たらないだろう。そうじゃないかと思ってたんだ。
「でも私、あまり乗り気じゃなくて……」
 彼女は睫毛を伏せる。
「乗り気じゃないってこと、両親にはなかなか言い出せなかったの。いいお話なんですって。相手の方がすごくいい方だって聞かされて、両親はとっても喜んでて、でも私は……ちっとも喜べなかった」
 伏せた睫毛の先が潮風に震えるのが、見えた。
「結婚なんて考えられなかった。せっかく短大も出て、これからいろんなことに挑戦しようって思ってた矢先に家庭に入るなんて、もったいないと思った。それに、会ったばかりの人と結婚を考えなきゃいけないなんて、私には無理だと思ったの」
 見えてはいないだろうけど、俺もひとつ頷いておいた。
 そうだよな。二十歳の小娘には、もしかするととても難しいことかもしれない。
「どうせなら、誰かが選んでくれた人じゃなくて、自分でちゃんと選んだ人と一緒にいたいと思ったし……。それにね、私、彼氏だっていたこともなかったのよ。まともに恋愛も出来ないまま即結婚なんて、それこそもったいないと思わない? こんなに美人に生まれたのに」
「確かに」
 俺が同意すると、彼女は少し笑った。
 彼女はまだ、恋に憧れるような小娘なんだ。結婚なんて早過ぎるんだろう。やがては結ばれるべき人と結ばれる運命でも、一時くらいは夢を見たいものなのかもしれない。
「でもそんなこと言ったら子供っぽい気がして、誰にも言えなくて――だから、思い切って逃げて来ちゃった」
 瞳を開いた彼女が、こちらを向いた。
 今度は苦笑いが浮かぶ。
「やっぱりそういうのって、まずいの? 今頃、破談になってると思う?」
「まずいとは思いますよ」
 普通に。でも、破談になるかどうかはわからない。いい縁談を逃せないと、彼女の両親が必死に取り成している頃かもしれない。
「破談になってないかな……」
 願うように呟く。
 それを聞きつけた俺は、思わず鼻を鳴らした。
「はっきり言えばいいんじゃないですか」
「え?」
 彼女の怪訝そうな声に、すぐには答えず足元を見た。砂が溜まったアスファルトの上、革靴でそれを蹴り上げる。風にぱっと舞ったのはほんの少量だけで、覆う砂が消えてなくなることはなかった。
 それから続けた。
「ご両親に正直に打ち明ければいいと思いますよ、俺は」
「でも……私、ただでさえ迷惑掛けたのに」
「いや、よその家庭のことなんてそうそうわかんないですけど」
 家庭の事情なんてものに首を突っ込む気はさらさらなかった。
 ただ単に、言いたいことを言ってやるだけだ。
「ご両親だってその縁談、お嬢さんの為に持ち掛けたんでしょ?」
「私の為?」
「そうですよ。貴方に幸せになって貰いたいからこそ、いい縁談を持ってきた。なのに貴方が望んでないなら、ご両親だって喜ばないだろうし、後で悔やむかもしれない。そのくらいならはっきり、自分から『破談にしてくれ』って打ち明ける方がいいですよ」
 多分、そういうもんだと思う。
 どこの家だって、多少の差異こそあれそんなもんだろう。これだけきれいな愛娘の幸せを、心から願ってやまないはずだ。まだ短大を出たばかりの、お見合いを抜け出してくるくらいに幼い彼女が、ささやかな反抗を逃亡と言う形でしか実現出来ないくらいにあどけない彼女が、望んでいない縁談。それを無理に推し進めようなんてしないだろう。
「ご両親だって思ってる頃じゃないですかね。貴方の、本当の気持ちを知りたいって」
 俺が言うと、彼女はゆっくり瞠目した。
「私の、気持ち……」
 繰り返される呟きが、波の音に吸い込まれていく。
 彼女は大きな瞳で俺を見て、やがてこう尋ねてきた。
「貴方、もしかしてお子さんがいるの?」
「いえ。こう見えても若いんで」
 一体幾つに思われてるんだ。俺は苦笑して返した。
「じゃあ、独身?」
 確かめるように尋ねられ、すぐに答える。
「ええ、まあ」
「そう。……恋人はいないの?」
「あいにくと」
 結構鋭い質問をしてくるな、と思っていたら、彼女はふと視線を逸らした。
「私と同じね」
 同じ、なんだろうか。
 まあ同じところもあるかもしれない。思っていることを、伝えたい相手には伝えられない。一つも口に出来そうにない。
 ただし俺は、言わない方がいいことを言わないだけだ。
 彼女は、どうしても言わなくちゃいけない。伝えなきゃ始まらない。そこが決定的に違う。
 だから、彼女は帰るべきだった。
「そろそろ帰りましょうか」
 日が落ち、空が暗くなり始めたのに気付いた。俺は彼女を促した。
「そうね」
 頷いた彼女は、まだ海の方を見ている。
 太陽が飲み込まれ、最後に残った光のひとかけらを見つめている。
 そうして全てが水平線の彼方に消えてしまった後、波音の止んだ時を見計らうように彼女が、
「私、帰らなきゃ」
 再び長い睫毛を伏せて、言った。
 引き寄せられるように俺は、すべすべした彼女の頬に手で触れた。そして――触れたところはどこも、ひやりと冷たかった。

 帰りの道は、お互いにあまり口を利かなかった。
 暗い車内。彼女は窓の外ばかり見ている。横顔に水銀灯の明かりが流れるたび、何とはなしに胸がざわめいた。
 それでも俺は黙っていた。言わなくてもいいことばかりが胸裏を過ぎっていくから、黙るよりほかになかった。

 彼女を拾った辺りに戻って来ると、彼女はようやく市内の大きなホテルの名前を告げた。そこが今日の、お見合いの会場だったのだと。そこへ戻らなくてはいけないのだと。
 俺はそのホテルの前まで彼女を送り届けた。
 後部座席のドアを開けてやると、彼女は小さく笑んで、メーターに記されていた通りの代金を支払った。
 それからもう一つ、
「これも、貰って」
 俺の手を取り、ぎゅっと握らせた。
 何だ、と聞き返す前に彼女は、素早く車から降りた。背筋を真っ直ぐに伸ばし、後はもう一度も振り返らずにホテルの中へ向かっていく。
 ちょうどその時ロビーの中から、スーツ姿の中年男性が飛び出してきて、彼女を迎えたようだ。彼女が足を止める。男性は駆け寄ってくる。
 男性が彼女を抱き締めた瞬間、俺はサイドミラーでそれを見ながら、アクセルを踏み込んだ。

 何事もなかったように市内を、少しだけ流してから、堪らなくなって車を停めた。
 ライトを点けて、まだ手の中にあった、彼女が握らせてきたものを確かめる。
 四隅をきれいに合わせて折り畳んだ紙切れだ。サービスエリアのレシートの裏側に、丸っこい文字が記されている。
 十一桁の数字が。――携帯電話の番号が。
「掛けてこいってか」
 俺はハンドルに突っ伏して、思わず呻いた。
「無茶言うなよ、おい……」
 しがないタクシードライバーなんてやめとけ。ご両親が心配する。こっちはいい話になんかなりっこないんだから。
 だけど彼女はそのうちに俺を呼ぶだろう。そしたらどんな顔をして会えばいい?
 煙草を吸いたい気持ちは、やはりぐっと堪えた。レシートはまた畳んで、シャツの胸ポケットにしまい込む。
 あとは、この感情をどうするかだ。

 ふと俺は視線を上げ、バックミラーに映る自分の顔を見た。
 唇の端に口紅がついていたことを、その時ようやく知った。
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