Tiny garden

奇跡のような偶然

 ぱっと携帯画面のバックライトが灯った。
 表示された名前が伊瀬のもので、少し訝しく思う。電話するほどの暇なんてあるんだろうか。

 この春に無事、大学を卒業した伊瀬は、私たちの故郷であるこの街に就職を決めた。
 一昨日が入社式、昨日からは泊まり掛けの研修に出ているはずで、電話なんてする暇ないかもな、と暗い声で言っていたのを記憶している。それとも、思っていたほど大変じゃなかったんだろうか。どうしても泣き言が言いたくなったなんて電話じゃないといいけど――心配し過ぎか。
 私はちょっと笑って携帯の着信ボタンを押す。
 ちらと電池残量の少なさが気になったけど、そんなに長電話にはならないだろうし、大丈夫。

「もしもし?」
『――もしもし』
 呼びかけると、返ってきた声は暗かった。心なしか強張っているようにも聞こえた。
 まさか本当に泣き言電話? まだ入社三日目だって言うのに、しょうがない。私でよければ存分に慰めてあげよう。
「伊瀬、電話くれないかと思った」
 私が言うと、電話の向こうでは微かに笑うのが聞こえる。
『いや、そこまで忙しくはねえよ』
「そっか。研修、どう?」
『まあまあ。飯は不味かった』
「贅沢言わないの」
『マジだって。お前来て食ってみろよ。本当に不味いから』
「はいはい。戻って来たらオムライス作ってあげる。だから頑張って」
『おう。励みにするわ』
 あ、伊瀬が珍しく素直だ。
 いつも私の料理には割と辛口なんだけど。余程弱ってるんだろうか。何だかそんな彼がいとおしくなる。
「本当に大丈夫なの? 研修」
 私が尋ねると、伊瀬はまた微かに笑う。
『ああ、今んとこ心配要らねえよ。とにかく飯の問題だけだ』
「ふうん……そんなに酷いの」
『すげえんだって、貧相で貧相で。こいつはどこの精進料理だってレベル』
「そっかあ……」
 研修内容よりも強く伊瀬を打ちのめすご飯って、一体どんな味なんだろう。食べたくはないけど。
 でも、ご飯のこと以外は本当に大丈夫そうだ。そのことには少しほっとする。
 環境が変わっても伊瀬は、伊瀬のままなんだろうな。
 結構、頼もしい。
「研修頑張ってね」
 月並みな台詞だけど、気持ちを込めて私は告げた。
 電話の向こうで息をつくのが聞こえる。
『ありがとう。お前がいてくれれば、俺は何でも頑張れる』
「え?」
『……何だよ、その怪訝そうな声は』
「う、ううん」
 本当に、今日の伊瀬はものすごく素直だ。普段は滅多に言わないようなことを電話越しに言われたから、ちょっと照れた。
 もちろん、うれしいんだけどね。
 早く会いたいな。帰って来てくれる日が待ち遠しい。
『あの……』
 伊瀬の声が、不意にトーンを落とした。
『キク。こないだの、話だけどさ』
「こないだ? 何?」
 咄嗟に言われて、私は思い出せない。
 この間――何か、そう切り出されるようなことがあっただろうか。
 少し考えたけど思い当たらずに、私はそっと眉を顰めた。
『ほら、こないだ』
 私に思い出させようとする伊瀬の声も、どこか躊躇いがちだった。
『俺が……その、お前と昔、行ったっていう店のこと、覚えてなくて』
「え……」
『あの時は本当にごめんな』
「伊瀬?」
 何を、言っているんだろう。
 私と行ったお店のこと? 覚えてないって? 一体、いつの話なの。そんな記憶、私にはなかった。
『前にも話したけどさ』
 伊瀬は、疑問符だらけの私を放ったらかしで話し続ける。
『俺、昔のこととか、よく覚えてないことがあって――』
「ち、ちょっと伊瀬」
 ぞっとしない思いで、私は彼の言葉を遮る。
 どうもおかしい。何か、奇妙な予感がしていた。
 伊瀬が話しているのは、私のことじゃない。私の知っていることじゃなかった。何の話かさっぱりわからないのに。
「何の話? 私、ちっとも心当たりがないんだけど……」
 そう言うと、電話の向こうでは、え、と小さな声が漏れた。
『いや、何言ってんのお前。ついこないだの話だろ』
「何言ってるのか、わからないのはそっちじゃない。知らないったら」
『嘘だろ? 怒って、すっ呆けてんのか?』
「違う。本当に知らないの。って言うか、人違いじゃない?」
 本当に知らないことをどうすっ呆けろって言うのやら。伊瀬の言っていることが何なのかちっともわからないし、いつの話をしてるにしても、まるで思い当たらない。
 どうなってるの? 私は顔を顰めた。
 伊瀬は、一つ溜息をついたようだ。
『キク』
 そして私を、静かに呼ぶ。
『お前、本当に覚えてないってのか?』
「そうよ。こないだって言われたって、いつの話だかさっぱり」
『……じゃあ、もしかしてお前』
 一度、そこで彼の言葉が途切れる。

 奇妙な沈黙があった。
 風の音のようなノイズだけが聞こえ続けた。
 遠いところからの電話だから、こんなにノイズがあるんだろうか。それにしてもちょっとうるさい。伊瀬との距離が、急に遠いもののように感じられた。
 確かに、今は遠いけど。
 彼の言うことがちっともわからないなんて、どうしたことだろう。もう長い付き合いになるのに、共有していない記憶があるなんてまるで奇妙だ。彼の知っていることを、私が知らないでいるだなんて――。

『お前、もしかして……』
 再び伊瀬が口を開いたのは、ややしばらく経ってからだった。
 躊躇う間の後で彼は、
『キク。今、西暦何年だ?』
 そう、尋ねた。
 まるで脈絡なくそんなことを尋ねてきた。
「は?」
 私は驚いたけど、
『いいから、答えろ』
 有無を言わさぬ調子で促されたから、渋々答えた。
「今は――2007年だけど」
『2007年? 2007年の4月1日か?』
「そうよ。エイプリルフール」
 カレンダーを見ながら、私はそのことを思い出して答えた。
 そうか、エイプリルフール。
 だからなの、伊瀬? だからおかしなこと言ってるの? つまらない嘘なんて、離れてる時には聞きたくないのに。
『じゃあ、もう一つ聞くけど』
 お構いなしで、伊瀬は尚も続けて、
『お前さ、2003年の夏に、キャンプに行っただろ?』
 ――と。
 携帯電話を持つ手が、勝手にびくりと震えた。
『俺と、キャンプに行ったよな? お前の学校の連中と一緒に』
 嘘。
 まさか、伊瀬。
『それと高校にも。一緒に、母校訪問したよな。用務員さんに見つかって、追い駆けられたのも……覚えてるか?』
「う、うん」
 私は急いで頷いた。
 急に喉がからからになって、声が詰まったけど、言わなくちゃいけなかった。
 どうしても、聞きたかった。
「伊瀬」
 私は、彼の名前を呼ぶ。
「伊瀬は……今も、すごい色に髪を染めてる?」
 電話の向こうで、彼は笑った。
 懐かしい、笑い方だった。
『馬鹿。さすがにあんな色じゃいられねえよ。就活の前に黒に戻したに決まってんだろ』
「……うん」
 それもそうだと思った。あんな、ミルクティーみたいな髪の色で就職活動なんか、ましてや就職なんか出来ないもの。
「伊瀬、本当に、あの時の伊瀬なの?」
 私は勢い込んで尋ねる。
 顔を見られない電話の距離が急にもどかしくなった。この電波は、騒がしいノイズの向こう側は、一体どこに繋がっているの? あの時の伊瀬にまた会えることが、あるの?
『多分な』
 伊瀬はやっぱり笑っていた。随分と大人っぽくて、優しい声だった。
『お前も、あの時のキクなんだな。話し方とか、違うような気がした』
「違う? そんなに、違うかな」
『ああ、違う。こっちにいるキクとはやっぱり違うな。お前の方がもうちょっとガキっぽい』
「う、嘘だあ」
 私も笑おうとしたのに、どうしてか泣きそうな声になる。
 そっか、伊瀬は、あの時に出会った伊瀬は、帰った先でも私と一緒にいるんだ。こっちにいる私よりも大人っぽい、私と。――本当にそうか、わからないけど。確かめようもないけど。

 ずっと会っていなかったのに、まるで目が覚めるように思い出した。
 2003年に出会った伊瀬の大人びた顔立ち。優しく諭すような話し方。怒った時の表情。たまに子どもっぽい振る舞いをするところ。そしてあの髪の色と、大きな手と、私の背を押してくれた眼差し。
 全部、何もかもを覚えていた。
 それにまだ、あの時のことも忘れていない。伊瀬の部屋で、ふと風が吹いた瞬間、振り向けばもういなくなっていた。空っぽになった玄関と、閉まらずにいたドア。夏の陽射しに焼きつくように、何もかも克明に記憶していた。
 あの時、伊瀬は帰ってしまったのだと思った。
 どうか無事に帰って、2006年の未来に帰って、そして幸せになっていてくれたらいいと、思っていた。私がこちらで過ごした幸せな日々の中、ただそれだけが心残りで、不安だった。私の背を押してくれた人が、私と同じように幸いであってくれたらいいと願っていた。

「ねえ、伊瀬」
 ようやく、確かめることが出来る。
 そう思うと私の声は詰まって、呼び掛けた後が続かない。
 たちまちのうちに視界も滲んだ。脳裏に蘇る情景のほかは何も映らなくなる。
 先に、伊瀬が尋ねてきた。
『キク、お前は幸せか?』
 率直な問いに、思わず見えもしないのに頷く。
「う、うん。すごく幸せよ。ちゃんと元気でいるし……」
『そっか、よかった。何よりだ』
 温かい言葉。
「伊瀬は? 伊瀬は元気なの? 幸せでいる?」
 私が問い返すと、伊瀬は潜めるような笑声を立てた。
『まあ、な。無事帰れた。で、たまに喧嘩はするけど上手くやってる』
「あ……」
 唐突にさっきの会話を思い出す。
 伊瀬は私に何かを謝ろうとしていた。覚えていなかったとか、昔のことを覚えていないとか。あれは、あの話は何のことだったんだろう。
「伊瀬、さっきの」
 私が言い出す前に伊瀬が、
『ん』
 と言って、言葉を続ける。
『帰った先が、ちょっと変わった未来でさ。帰ったらすぐにお前がいた』
「私?」
『ああ。お前よりかはもうちょい大人になってるお前』
 急に何もかもが変わってしまったなんて、きっとタイムスリップすることくらい驚くことに違いないのに、伊瀬の口調はあくまでも何気なかった。
 本当に、伊瀬らしいと思った。
『いろいろ苦労もしたけどな。何とか、上手くやってると思う』
 伊瀬はごく穏やかに言って、また笑った。
『でなきゃ、タイムスリップなんてした意味がねえだろ』
「うん」
 私は泣くのを堪えるのに必死で、その後はもう何も続かなかった。
 よかった。本当によかった。伊瀬は、あの時の伊瀬も幸せなんだ。そうじゃなきゃ嫌だって思っていたから、よかった。
『キク、お前も幸せでいるんだな』
「うん」
『よかった。俺さ、それわかんないまま帰ったから、どうしてるか気になってて』
「うん」
『でもお前が幸せでいるなら、それだけでいいんだ』
「うん……」
 幸せ。今の私は本当に、すごくすごく幸せなんだ。
 それは伊瀬のお蔭だから、本当に、ありがとう。
 もう会えないと思っていたから、せめて話せたことがうれしい。伊瀬も幸せでいるってことを確かめられて、うれしい。
『あの夏も、楽しかったな』
 懐かしむような伊瀬の声に、もう私は頷くしか出来ない。
 電話なんだから声に出さないと伝わらないのに。
『キク、泣くなよ』
 ばれてた。
 伊瀬に、笑われた。
 でも無理だ。泣かないでいるのなんて難しい。ずっと会いたかった人と話せて、その人が幸せでいてくれたなら、これ以上のうれしいことなんてないもの。
 泣かないでいるのなんて、無理だ。
「ありがとう……」
 ようやく、しゃくりあげながらもそれだけは、伝えた。
 少し、電話の向こうでも沈黙が落ちた。ノイズが一度、ぶうんと膨れ上がるように響いた。
『いや、こっちこそ。本当に、あの時はありがとな』
「うん……」
 込み上げてくる思いをどうにか落ち着かせながら、私は次の言葉を探した。
 何を話そうか迷った。こっちにいる伊瀬のことか、あの夏が過ぎてからのことか、ちょうど今、2007年の春のことか。それとも――あの夏の思い出か。
 ふと思い付いて私は、
「あのね、伊瀬」
 涙声なのにも構わずに口を開いた。
 だけどその時、アラームの突き刺さる高い音が聞こえて。
「――え?」
 直後、ふつっと電話が切れた。

 慌てて覗き込んだ手元の携帯電話の画面が、真っ暗になっていた。
 そう言えば、電池残量が少なかった。今になってそのことを思い出す。
 電池、切れちゃったんだ。まだ話したいこと、たくさんあったのに。もう二度と話せないかもしれないのに。繋がらないかもしれないのに。
 でも不思議と、涙は止まってしまった。エイプリルフールの嘘みたいな奇跡に、私はようやくあの夏の全てが片付いたことを知った。
 本当に伊瀬は、すごい人。何でもないことみたいに私に、電話を掛けてきてくれた。私のことを安心させてくれて、幸せを噛み締める時間をくれた。
 よかった。本当に、話せてよかった。幸せでいてくれてよかった。
 あとはあの鍵のこと、話しておきたかったけど。忘れて行っちゃったでしょって言いたかったけど、すぐに思い直したら、笑えた。
 伊瀬にも、鍵を開けてくれる人がいたんだよね。ドアを開けて、ちゃんと待っててくれたんだよね。だから鍵は必要なかったんだ。

 携帯電話を充電器に置いて、少ししてから電源を入れた。
 しばらく経って、着信。表示されたのは伊瀬の名前。
『お前さ、何で電源切ってんだよ』
 繋がってすぐ、伊瀬は子どもみたいな不満げな声を上げた。
『何度掛けても繋がんねえし。心配したんだぞ、マジで』
「ごめん。電池切れてたの」
 私は、すっかり乾いてしまった涙の代わりに、笑みながら応じる。
『ちゃんと充電しとけ。心配するから』
 むっつりと言った彼に、私はふと思い付いた言葉を、すぐに告げた。
「伊瀬。私、すごく幸せだから」
『へ?』
 返ってきたのは、ちょっと間の抜けた声。
「伊瀬と一緒にいられて、幸せなの。だから、早く会いたいな」
『ああ……うん、まあ、そうだな。俺もそうだけど』
 何だか動揺した様子で答えた伊瀬は、その後でちょっと笑った。
『俺も早くお前に会いたい。本当、お前の作ったオムライスが食べたくて、しょうがなくってさ』
 そっちで食べたご飯、美味しくなかったの? と尋ねたら、何でわかったんだと驚かれた。
 だって、聞いた。伊瀬から聞いていたから知ってたの。
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