Tiny garden

ファーストステップ

 衣替え期間の初日、今年初めて夏の制服に袖を通した。
 これで少しは涼しくなるだろうと思ったのに、家を出ると日差しがきつくて早くも溜息が出た。外の空気は朝のうちから真夏みたいに蒸し暑い。それでも蝉が鳴いていないから、今が六月だとかろうじて実感する。
 今年は空梅雨みたいだよ、と三浦さんは言っていた。
 あの穏やかな声を思い出す度、私の胸は温かい気持ちで満たされる。夏の重苦しい暑さとは違う、心地よい温かさだ。

 朝のバス停はいつも混み合っている。
 私と同じ高校の制服の子、違う制服を着た子、この暑いのにスーツを着込んだサラリーマン、夏らしい私服姿の人も何人かいる。皆、バス停から車道に沿うように一列に並んでいる。
 その列に加わっていない三浦さんは、この四月からずっと私服だった。今朝は白いサマーニットにジーンズという着こなしだ。
「おはようございます、三浦さん」
 駆け寄りながら挨拶をすると、振り向いた三浦さんが私に微笑んだ。
「おはよう。今日から夏服?」
 三浦さんの笑顔はいつも優しい。見る人をほっとさせるような笑い方をする。かつては見ているだけだった横顔もそれは素敵だったけど、笑顔を向けてもらえる方がより嬉しかった。
「はい、ようやく衣替えなんです」
 答えながら、私は三浦さんの隣に並ぶ。
 それから二人で、バスを待つ行列の最後尾に着く。
 三浦さんはいつも私を前にしてくれて、私は恐縮しながらそれに従った。そして後ろに並ぶ三浦さんを振り返って、バスが来るまでの短い時間でいくつか話をする。
「毎日暑いから、衣替え期間が待ち遠しかったです」
「制服じゃ、好きなように着てくるわけにはいかないもんな」
「その点、大学生が羨ましいです。いつでも半袖が着られて」
「確かにその点だけは便利だけど、結構悩むよ、毎朝」
 そこで三浦さんは苦笑した。
 この春から大学生になった三浦さんは、野暮ったい制服からめでたく解放されたはずだった。ところがいざ解放されてみると毎日何を着て行こうか悩むのだと以前から語っていた。高校時代、テニス部だった三浦さんは休日も練習をして過ごすことが多く、純粋に外出する為の私服がほとんどなくて、進学に当たり慌てて買い足したのだそうだ。
「制服の方が楽だった、なんて思うことも多くてさ」
 三浦さんはぼやいたけど、シンプルな無地が多い彼の服装はいつも素敵で、高校時代より何倍も大人っぽく見えた。
 そう思っていることを正直に伝えられたらいいのに、
「よく似合ってますよ、その服」
 私はそんなふうに誉めるのが精一杯だった。本当はもっと違う言い方をしたいのに、できない。
 そしてそれでも、三浦さんは嬉しそうにしてくれた。
「ありがとう」
 感謝の言葉は耳をくすぐるみたいに優しく、柔らかい声をしている。
 お蔭で私の方が照れて、しばらくの間俯いていた。

 三浦さんと話をするようになって、四ヶ月が過ぎた。
 ラストチャンスだと思っていたあの日がラストではなくなってから、私達は随分仲良くなったと思う。
 自己紹介をして、連絡先の交換をした。いろんな話もした。三浦さんのことをいろいろ知った。
 高校時代はテニス部に所属していた三浦さんだけど、大学のテニスサークルには入らなかったそうだ。
「見学はしたんだけど、どうも思ってたのと違ってて」
 それで母校の小学校にOBとして、テニスを教えに行くことにしたと言っていた。趣味としてもしばらく続けていきたい、とも。
「細々とでも続けていければいいかな、って思ってる」
 そう話してくれた時の三浦さんの表情は真剣で、私は彼が大切にしているものの一つに触れられたような気がした。
 テニス以外には、映画を観るのが趣味だという。
「料金も安いもんじゃないから、そんなに頻繁には見れないけど」
 大学では映画研究会に入り、月に二度ほど映画を観に行くのだそうだ。ジャンルを問わず幅広く見るけど、特に好きなのは壮大なSF映画だと言っていた。
「君は映画って好き?」
 逆に三浦さんから尋ねられ、私は恥じ入りながら答えた。
「映画館には全然行かないんです。テレビでやってたら見るくらいで」
 もちろん映画を観るのが嫌いなわけではない。ただアルバイト禁止の校則の下、月に五千円のお小遣いでは好きな本を一冊買って、服を一枚買い足すだけで使い切ってしまう。とてもではないけど映画館まで行く余裕はなかった。
「好きな本って、どんな本?」
 私の趣味が読書だと知ると、三浦さんは興味深げに質問を重ねてきた。
 そこで私は好きな小説や漫画の名前をいくつか挙げ、彼が興味を示してくれた本を二、三度貸してあげた。三浦さんはいつも一週間ほどで読了した後、丁寧で温かい感想をくれた。
 三浦さんとは朝のバス停でしか顔を合わせない。大学生の方が帰りが遅いようで、帰りのバスでは一緒になったことがなかった。
 それでも私達は着実に交流を重ねつつあった。
 彼が卒業してしまうことを悲しく思っていた頃に比べたら、今の私は幸福で非常に満たされていた。

「そういえばさ」
 到着したバスの混み合う車内で、三浦さんは吊り革を握っている。
 隣で同じように吊り革を持つ私に、いつも顔を向けて話しかけてくれる。
「君の好きな漫画が映画になったよね。今週に公開だって」
「はい、CM見ました」
 前述の通り映画には縁遠い私だけど、その作品だけはどうしても気になって仕方がなかった。好きな作品が形を変えて表現されるというのはとても興味深いことであり、同時に不安なことでもある。私は雑誌やテレビなどでその映画についての情報をかき集め、既に主演俳優や共演者について少しばかり詳しくなっていた。今回ばかりは友人を誘って映画館へ行こうか、それともレンタル開始されるまで辛抱強く待とうか――そんな思案を始めていたところだった。
「観に行くの?」
 三浦さんの次の問いには、苦笑いで応じておく。
「まだ、わからないです。友人が付き合うと言ってくれたら行ってみるつもりです」
 友人もまた同じように高校生として少ないお小遣いでやりくりする立場である。映画に行こうと誘っても、必ずしも付き合ってくれるとは限らない。
「そうなんだ。約束はまだしてない?」
「はい、これからです」
「じゃあ」
 そこで三浦さんは短く息をついた後、私を見つめながら言った。
「俺と行かない? 映画」
 穏やかな声がそう持ちかけてきた瞬間、全身の体温がすうっと上がるのを自覚した。バスの中は冷房が効いて涼しいはずなのに、急に汗が滲んでくる。
「映画……ですか?」
「うん」
 思わず聞き返してしまった私の前で、三浦さんはおかしそうに吹き出した。たった今その話をしていたのだから、あえて確認するのも妙なことだろう。
 でも、この誘いは特別だ。
 こんなのは今までになかった。三浦さんからもそうだけど、私の人生において初めてのことでもあった。
「君から借りた漫画が面白くてさ。俺も映画、すごく観たかったんだ」
 畳みかけるように三浦さんは言った。
「君の都合がよければ、次の週末にでもどうかな」
 どうも何も、行きたくないはずがない。他でもない三浦さんからの誘いだ。毎朝のように顔を合わせ、少しずつ話をして交流を重ねつつあった彼と、もう少し近づけるようになるかもしれない絶好の機会だった。
 だから答えなんて一つしかなかったはずなのに、
「次の週末、は……」
 ある懸念が胸を過ぎり、私は答えをためらった。
「都合が悪かった?」
 三浦さんはそう言ってから、はっと気づいて、
「あれ、中間ってこの時期だったっけ?」
「いえ、テストじゃないです。私も映画見に行きたいんですけど」
 どうしても三浦さんとは一緒に行けない理由がある。少なくとも今のままでは駄目だった。
「この時期はちょっと都合が悪くて……来月じゃ駄目ですか?」
「来月か。封切りが今週だから、多分間に合うと思うけど……」
 眉根を寄せる三浦さんに、私は申し訳なさと焦燥感でいっぱいになっていた。
 せっかく、初めて誘ってもらえたのに――本当はすごく嬉しくてすぐにでもお供しますと返事がしたいのに、できない。高校生の財政事情とはかくも厳しいものだった。
「とりあえず、都合のいい日がわかったら教えてよ」
 白いサマーニットが似合う三浦さんが、優しく声をかけてくれる。
「はい」
 私は吊革を掴んだまま頭を下げ、胸中ではある決意を固めていた。

 お小遣いの残高、二千八百四十円。全額お財布の中にある。
 上の空の授業をやり過ごして迎えた放課後、私は軽い財布を携えて寄り道をした。
 行き先は駅前のビルに入っている衣料量販店。制服姿では浮かないかと心配していたけど杞憂だった。他にも学生のお客さんは数人いたし、忙しそうな店員さんはこちらに見向きもしなかった。
 もう少し大人っぽい服を買わなければいけない。
 これまで私は、男の子と二人で出かけるという機会がなかった。だから手持ちの夏服はTシャツとジーンズ、そんなものしか持っていない。
 だけど三浦さんは大人っぽくて素敵だ。本人は謙遜していたけど、あのシンプルな着こなしが彼を高校時代よりずっと格好よく見せていた。その人と一緒に出歩くなら、Tシャツにジーンズなんて隙だらけの格好ではいられない。そう思い、私は彼の誘いに即答できなかった。
「……思ったより、高い」
 安価良品を謳う量販店も、高校生にとってはなかなかのお値段だった。スカート一枚千二百円、半袖ブラウス一枚九百円。両方買うと軽い財布が一層軽くなってしまう。当然、映画のチケット代など捻出できるはずもない。
 夏物の可愛いプリーツスカートを手に取った時、ほんの少し迷った。
 これを買わなければ映画には行ける。見たかった映画だ、そして三浦さんも誘ってくれた。今朝はいい返事ができなかったけど、今からでも連絡を入れて週末の約束をすればまだ間に合う。
 でも、せっかく三浦さんと会うのだから。
 大人っぽいあの人と釣り合う私でありたい。そう思うのも、当然のことだろう。
 一時間以上も迷った挙句、私は意を決しスカートとブラウスを購入した。

 店を出ると、外はすっかり日が暮れていた。
 買い物袋と鞄を提げて、駅前からバスに乗り込む。いつもより遅い帰り道、バスの中はがらがらに空いていた。座席に座っているのは数人のみで、朝とは違い、私も座っていられそうだった。
 でもそこで、
「――あれ、今帰り?」
 乗車口のすぐ後ろにある二人掛けの席から、三浦さんの声がした。
 はっと面を上げれば、今朝と同じ白いサマーセーターの彼が私を見て微笑んでいる。
「三浦さん……!」
 私は慌てた。
 こんな時間に会うと思わなかった、というのもある。でもそれ以上に、私が三浦さんと会う為に服を買ってきたことを知られるのが恥ずかしかった。
「ほら、バス出るよ。座りなよ」
 三浦さんは座面をぽんと叩いて、私に隣へ座るよう促した。
 私は買い物袋と鞄を胸に抱え、それに従う。袋には店のロゴがごまかしようもないほどはっきり記されていたから、抱えたところで隠しようがない。
 案の定、肩がくっつくほど近くにいる三浦さんが言った。
「買い物してきたの?」
「えっ、あ、ええと、あの――」
 不自然にどもった私を、彼はどう思っただろう。
 怪訝そうに瞬きをされれば口ごもっているわけにもいかず、私は渋々頷いた。
「はい……服を、買ってきたんです」
「そうなんだ」
「三浦さんに今朝、誘ってもらったからです」
 続けた私の言葉に、彼が目を見開く。
 こうして見つかった以上は隠していても仕方がないと、打ち明けることにした。
「可愛い服を買ってからじゃないと駄目だって思ったんです。それで私……」
 財布の中にはもう五百円ほどしか入っていない。
「服を買ってしまったので、映画を観に行くお金がなくて。本当はすごく行きたかったんです」
 映画自体も興味があったし、それ以上に三浦さんの誘いだ。どうしても行きたかった。
 以前と比べたら私は三浦さんのことを随分と知った。見つめていただけの頃よりもずっと親しくなった。毎朝話ができるのが幸せで、十分満たされていた。
 だけど映画に誘われた時、私は自分に足りないものがあることを悟ったのだ。
 彼と会う為の可愛い服と、お金と、そして――彼の傍にいる幸せが、全然足りなかった。
 もっと三浦さんのことを知りたくなった。もっと長い時間を一緒に過ごしてみたくなった。もっと可愛い私になって、三浦さんにも一緒にいたいと思ってもらいたくなった。
 朝よりも乗客の少ない車内に、重いエンジン音だけがしばらく流れた。
 沈黙に耐えかねて私が、
「でも映画、必ず付き合いますから。もし来月までやってたら、是非――」
「なら、お金のかからないところにしようか」
 言いかけたところを、三浦さんが穏やかに遮った。
 今度は私が目を瞬かせる番だった。
「だ、だけど、映画見たかったんですよね……?」
「映画に誘ったのは、つまり、最初の一歩を踏み出す為の口実だったんだ」
 いつもの優しい笑顔に、その時ほんの少しの照れが滲んだように見えた。
「君を誘ってみたかったけど、どう声をかけようか迷ってた。あの映画なら君も即答で『行きたい』って言ってくれるんじゃないかと思って」
 確かに、あの映画は見たいと思っていた。
 だけど本当は、三浦さんの誘いであれば行き先はどこでも構わなかった。
「でも高校生にだって、映画料金は安くはないもんな」
「すみません……」
「俺の方こそごめん。口実なんてずるいことせずに、ちゃんと誘っておけばよかった」
 温かい気持ちが胸に満ちてくる。
 私はとても優しい人を好きになった。その笑顔を見ているだけでほっとできるような素敵な人だ。知れば知るほど、憧れだった気持ちが恋に変わり、そして募っていくのがわかる。
「服、どんなの買ったか聞いていい?」
 その問いに私は頷いた。
「ブラウスとスカートです」
「じゃあ、次の週末は公園デートなんてどうかな」
 次の問いにはもっと大きく頷いた。
「楽しみです」
 デートと明言された以上、行き先は本当にどこでもよかった。
 どこであっても、三浦さんとなら幸せな時間が過ごせるだろう。
「俺もだよ。すごく楽しみだ」
 三浦さんは安堵したように微笑むと、買い物袋を抱き締める私の左手に自分の右手を添えた。そしてそっと握ってくれた。
 大きくて、温かい手だった。
「今年は空梅雨みたいだからね」
 その言葉は確かに、前にも聞いていた。

 だから私達はこの夏の間に、最初の一歩を踏み出してしまうことだろう。
 あるいは、もう踏み出したといってもいいのかもしれない。
 バスに揺られるいつもより遅い帰り道、私は三浦さんと、ずっと手を繋いでいた。
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