Tiny garden

猫にいたる病(2)

 飼い主さんのおうちへ向かうのに、小太郎さんはそのままの姿でバスに乗り込んだ。
 車内の視線を振り切るように最後部まで歩き、黙って座席に座る。私もついていって、小太郎さんのすぐ隣に腰を下ろした。アメショちゃんは小太郎さんの膝の上、キャリーの中にいる。
「よかったね、おうちに帰れるよ」
 私はアメショちゃんに声をかけた。
 バスに乗り慣れていないのか、彼女は落ち着かない様子できょろきょろしている。それでも鳴いたりしないのがおりこうさんだ。
 小太郎さんはと言えば尻尾を左右にぱたぱた揺らしている。機嫌がよくないようだった。
「ね、聞いてもいい?」
 道中で私が話を振ると、小太郎さんは警戒するようにひげを広げた。
「好きにしろよ。答えるとは限んないけどな」
「尻尾ってどうやって動かしてるの?」
 お許しを貰ったので早速質問してみる。
 小太郎さんは宣言通り、何も答えなかった。
「店長さんもお化粧したら、小太郎さんみたいになる?」
 めげずに質問を続けたけど、やっぱり返事はない。
 バスの車内は冷房が効いていて、小太郎さんのひげがその風に乗ってそよそよと揺れている。他のお客さんはさっきから、時々こちらを振り返っては小太郎さんを見ている。
「顎の下、もふもふしてみてもいい?」
「駄目に決まってんだろ」
 今度は即答された。絶対答えないってわけじゃないらしい。
 私はちょっと面白くなって、更に尋ねた。
「小太郎さんって歳いくつ?」
「お前よりは確実に年上。だから敬語使え」
「今更だよ。具体的には何歳なの?」
「いくつに見える?」
 逆に聞き返されて、私は答えに詰まった。
 見た目からじゃわからない。子猫ではないと思う、成人してないとああいうお店じゃ働けないはずだ。でも何歳か当てるのは難しかった。
「わかんないだろ」
 小太郎さんは得意そうに、ひげをぴんと持ち上げた。
「わかんない。答えは?」
「秘密」
「あ、ずるい!」
「ずるくない。答えるとは限んないっつったろ」
 こうして話している分には普通の男の人だ。顔は猫だけど。
 バスが少し揺れ、小太郎さんと肩がぶつかった。小太郎さんはキャリーを落とさないよう、両手でしっかりと掴んだ。毛で覆われた真っ白な手。
「小太郎さんってハチワレ猫でしょ?」
「そうらしいな」
 その答えは、どこか他人事みたいな響きだった。
「手足も白いよね」
「ああ」
「じゃあお腹も真っ白?」
 すると小太郎さんは尻尾を縦に揺らした。そうすると尻尾が座席の背もたれに当たって、ぽふぽふと静かな音を立てた。
 それから、まるでからかうような口調で言った。
「見せてやろうか?」
「いいの? 見たい!」
「おいおい……怖いもの知らずだな、女子高生」
 自分から見せると言ったのに、今度は呆れたように首を竦める。
 本当にからかわれただけなのかな、と思ったところで目的のバス停に着いた。
 座席を立ち、通路を抜けてバスを降りるまでの間、他のお客さんも運転手さんも小太郎さんを無遠慮に凝視していた。小太郎さんはその視線を無視するみたいに、とっととバスを降りてしまった。

 外はもう日が暮れていた。
「もうちょっとで着くよ。あとはこの道を真っ直ぐ行くだけみたい」
 事前に聞いていた住所を元に、地図アプリで経路を確認しながら歩く。
 そして目的地の一軒家が道の先に見えてきたところで、
「あっ、あの家じゃないかな」
 私が声を上げた直後、小太郎さんが足を止めた。
「ここまで来れば大丈夫だな」
 そう言うなり、ずっと提げてきたアメショちゃんのキャリーバッグを私に差し出す。
「あとはお前が一人で行ってくれ。俺、その辺で待ってるから」
「……何で?」
 いきなりの提案に私は戸惑った。
 せっかくここまで一緒に来たのに、小太郎さんが行かなくてどうするんだろう。飼い主さんだってただの橋渡し役に過ぎない私より、預かっていてくれた小太郎さんにこそお礼を言いたいはずだ。
 でも小太郎さんは自分の、猫そっくりの顔を指差して言う。
「この顔じゃ行けないだろ。ふざけた野郎だって思われるだけだ」
 ふざけているなんて私は思わないけど、他の人がどう思うかはわからない。
 現にバスに乗り合わせた人達は、小太郎さんのことをすごく見ていた。
「だったら――」
 反論しかけて、私はふと思い留まった。
 だったら、どうしろっていうんだろう。覆面を脱ぐ? メイクを落とす? どちらも違う気がしてならなかった。
 まだ真相に行き着いたわけじゃない。だけど小太郎さんに関して、最初に会った時からずっと感じていたことがあった。
 この人の仕種は、猫にそっくりだ。
 見た目だけじゃない。耳や瞳孔、ひげ、尻尾に至るまで――猫好きの私が、彼の今の気分を察することができるくらいにそっくりだった。
「脱げないんだよね、きっと」
 確認のつもりで告げた私に、小太郎さんは静かに頷く。
「そういうことだ。頼む」
「うん……」
 私はキャリーバッグを受け取った。
 アメショちゃんは、小太郎さんとの別れを惜しむみたいにバッグの中をかりかりしている。
「じゃあな。もう迷子になるんじゃないぞ」
 小太郎さんも屈んで顔を近づけると、優しく声をかけていた。
 それから背筋を伸ばして、私に向かってもう一度、
「頼む」
 と言った。

 私はキャリーバッグを提げ、飼い主さんのお宅を一人で訪ねた。
 飼い主さんは私が一人きりで来たことに怪訝そうだったけど、拾ってくれた人が来られなかったこと、言付けがあれば間違いなく伝えることを告げたら安心していたようだった。
 キャリーから出されたアメショちゃんは、きっと懐かしい家の匂いに気づいたんだろう。逃げることも戸惑うこともなく、飼い主であるおばあさんの腕の中に納まった。
「前より毛艶がいいんじゃない? きっと優しい人に面倒見てもらったのね」
 飼い主さんのその言葉に、私はもちろん頷いた。
「優しい人です、とっても」
「じゃあその人と、連れてきてくれたあなたにお礼をさせてちょうだい」
 そう言って、飼い主さんは私に菓子折りを二つ持たせてくれた。私もお礼を言って、それから飼い主さん宅を後にする。

 外へ出ると、道の向こうの電信柱の陰に小太郎さんが立っていた。
 街灯が点る夜道に、小太郎さんの影が伸びている。人の形によく似ているけど、頭の上についている二つの耳、それにゆらゆら揺れてる尻尾が人とは違う。
 小太郎さんが私に気づいて、毛むくじゃらの手を挙げた。
「済んだか、意外と早かったな」
「うん」
 私は菓子折り入りの紙袋を二つ抱えて、小太郎さんに駆け寄った。
「何か貰ってきたのか」
「お菓子の詰め合わせだって。二つあるから、片方は小太郎さんのね」
「俺はいい。お前、両方持って帰れよ」
「駄目だよ、私は何にもしてないもん」
「そんなことないだろ。ちゃんと働いたよ、お前は」
 小太郎さんはそう言いながら、私の手から紙袋を二つとも受け取った。
「とりあえず持ってやる。忘れず持って帰れよ」
「……ありがとう」
 私がお礼を言うと、小太郎さんは猫の顔で笑った。
「お前ん家どこだ? 遅くなったし、送ってってやるよ」
「私、電車で通ってるの。だからバス乗って駅まで戻りたいかな」
「じゃ、駅までな」
 バス停までの道を、私達は並んで歩き出す。

 歩きながら、小太郎さんに聞きたいことがあった。
 それを小太郎さんが答えてくれるとは限らない。でもここまで来た以上、聞かずにいるのも不自然なはずだった。

「飼い主さん、すごく感謝してたよ。優しい人に拾われたのねって」
「へえ」
「前よりも毛艶がよくなったみたいって言ってた」
「何だ、あいつ。迷子ってよりバカンスに来てたみたいだな」
 夜道で聞く小太郎さんの声はどこか明るい。
 あのアメショちゃんを無事に届けられて、ほっとしているのかもしれない。
 飼い主さんが言っていた通り、優しい人なんだと改めて思う。初めて会った時からそうだった。裏路地に迷い込んだアメショちゃんを追い駆けてきた小太郎さんは、優しかった。
「小太郎さんは、さ」
 歩きながら切り出した私は、続けるのをためらっていた。
 私は知りたいと感じたことは調べるなり、見に行くなりする方だ。今までずっとそうしてきた。好奇心の赴くままにとことん情報を集めるのが、私の好きなもの、気に入ったものに対するやり方だった。
 でもこの問いだけは、知りたいことなのに、思うがままに口にはできなかった。
「何だよ」
 急かすように小太郎さんが口を開く。
 街灯が照らすアスファルトの上には、小太郎さんの尻尾の影が揺れている。
 私は意を決して、続けた。
「生まれつき、なの?」
 質問しながら視線を上げると、隣を歩く小太郎さんが右耳をぴくぴくさせているのが見えた。
 彼も躊躇しているんだろうか。しばらくしてから短く息をついた。
「いいや」
「そうなんだ……じゃあ、どうして?」
 小太郎さんが元々はどんな人だったのか、今の姿からは想像もつかない。
 そして、どうして今の姿になったのかも。
「聞いてどうすんだよ」
 聞き返されて、私は即答した。
「知りたいから聞いた、じゃ駄目?」
「お前こそ実は猫だろ。『好奇心は猫を殺す』っていうんだぞ」
「猫じゃないから平気だよ。それに知る権利だってあると思う」
「義務も果たさないのに権利主張すんなよな」
 ああ言えばこう言う小太郎さんは、それでも尻尾を揺らしながら少し歩いた後、
「手術した」
「本当に!? だ、だって全身だよね?」
 事実ならとんでもない規模の整形手術になるだろう。お金だってかかるに違いない。
「ああ。頭のてっぺんから爪先まで、そして尻尾までだ。猫になりたくてな」
「どうして猫になりたかったの?」
「そりゃまあ……猫が好きだからだろ」
 そう語る小太郎さんはひげをぴんと立ててみせた。尻尾も揺れるのをやめて、真っ直ぐに伸びている。
 こんな仕種をする時は機嫌がいい時なんだと、私はよく知っている。
「嘘だよね?」
 思い切って確かめてみたら、小太郎さんが悔しそうに呻いた。
「何でわかった?」
「勘、かな。女の勘」
「猫の勘だろ。くそ、意外とやるな女子高生」
 私は猫じゃないのにな。そして嘘をついても悪びれる様子がないのは困ったものだ。
「本当の理由は?」
「宝箱に入ってた猫のマスクを被ったら呪いで取れなくなった」
「それも嘘だね」
「転送装置に猫と一緒に入っちまって合体したんだ」
「嘘でしょ。ってかそれ聞いたことある」
「駄目か。だったら、そうだな……」
「今考えてる時点で嘘だよね?」
 思わず突っ込むと、小太郎さんは喉をごろごろ鳴らすみたいに低く笑った。
 笑い事じゃない。こっちは真面目に聞いているのに。
「じゃあ、ただの病気ってことで」
 更に小太郎さんが言ったので、
「『じゃあ』っていうのも嘘っぽい」
「これはマジだって。ある日突然毛が生えて、こんな姿になったんだ」
「嘘つかれた後だし、簡単には信じないよ」
「好きにしろ。とにかく医者にかかっても打つ手なし、原因もわからんと来た」
「ふうん」
「親なんか気味悪がって、最後は俺を勘当しやがった。まさに捨て猫だったよ」
 そこでふと、私は小太郎さんの尻尾を見た。
 スーツのお尻の辺りから伸びているしましまの長い尻尾は、今は力を失いしょんぼりと垂れていた。細いひげもさっきまでの元気さはなく、だらんとしている。
「こう見えても昔は、将来を嘱望された優等生だったんだけどな」
 小太郎さんは、声だけは明るく語り続ける。
「この顔じゃまともな就職先もないわな。で、行き着いた先があのバーだよ」
 道の向こうにバス停が見えてくる。こんな時間では待っているお客さんもいない、ぽつんと寂しいバス停だった。
「あの変人店長のお蔭で、とりあえず餓死せずに済んでる。そんなとこだ」
 小太郎さんの言葉も、ぽつんと寂しく暗がりに溶けた。
「何にもなくなったな。家族も、友達も、住むところも、昔のいい思い出も全部」
「猫になったせいで?」
「ああ。いいことなんて一つもなかった」
 ふんと鼻を鳴らした小太郎さんが、バス停の前で足を止める。
 それから私を振り返り、その直後、驚いた様子で瞳孔を開いた。
「何だお前、人の話聞いてへこんでんのか?」
「へこむって言うか、悲しい話だなって……」
「これも嘘だよ、ばーか。騙されてやんの」
 小太郎さんは私を茶化すと、紙袋を持っていない方の手で私の頭を軽く、撫でるみたいに揺すってみせた。小太郎さんの手はぬいぐるみみたいに柔らかくて、今はそれが無性に悲しく思えた。
「嘘じゃないよね?」
 揺すられながら私は問う。
 力なく垂れ下がっている小太郎さんの尻尾を見ながら、重ねて問う。
「今のは、本当の話だよね?」
 私の頭から手を離した小太郎さんは、答えない。右耳をぴくぴく動かしている。

 夜になるとバスの本数はぐっと少なくなって、午後七時台なんて二本しかない。
 だから私達はしばらくの間、気まずい沈黙の中でバスを待っていなければならなかった。
 人通りも少なく、車だってあまり多くない住宅街のバス停前。不気味なくらい静かだ。
「そんな病気があるんだ……」
 私が小さく呟いても、小太郎さんに聞こえてしまう。
「だから、嘘だっつったろ。真に受けんな女子高生」
「嘘じゃないってわかるもん」
「根拠は何だよ、また猫の勘か?」
 苛立たしげにひげを突き出した小太郎さんが続ける。
「どっちにせよ俺は猫だし、一生猫のままなんだよ。それだけが事実だ」
 それだけが事実、そんなはずはない。小太郎さんに失くしたものがあることはわかる。私ならわかる。
「世の中いろんな人間がいるからな、たまには普通じゃない奴もいるだろ」
 小太郎さんが肩を竦める。
「そして世の中は普通じゃない奴に厳しい。こんなんじゃ免許も取れないし、バス乗ったら他の乗客がじろじろ見てきやがるし。猫拾ったところで感謝してもらうこともできないんだからな」
「でも――」
 私は反論しようとした。アメショちゃんの飼い主さんは、小太郎さんにこそお礼を言いたかったはずだ。だから私に菓子折りを、小太郎さんの分も持たせてくれた。
 でも、小太郎さんが私だけを行かせた理由もわかるから、結局何も言えなくなる。
「そういうわけだからお前も、もうあの店には来るなよ」
 小太郎さんは優しい声でそう言った。
「お前は普通の子だ。俺と関わんのも、あんなとこ出入りすんのもまずいだろ」
 その言葉は正しいのかもしれない。私よりはずっと大人だという小太郎さんは、少なくともそう思っていることだろう。きっとその見た目のせいで辛い思いをいっぱいしたのだろうし、バスではじろじろ見られて気分が悪かったのかもしれない。本当は最後までアメショちゃんを送り届けて別れを惜しんで、飼い主さんとも話がしたいって思っていたのかもしれない。
 でも、私は――嫌だ。
 普通じゃない、そんな理由で突き放されるのは嫌だ。
「……私も、普通じゃないよ」
 私がそう切り出した時、小太郎さんは威嚇するように耳をぴんと尖らせ、牙を見せた。
「はあ? お前はどう見たって普通の女子高生だろ」
「猫好きすぎて友達にめっちゃ引かれてる。そこは普通じゃないと思う」
「ああ……確かにそれはな、変わってはいるかもな」
 小太郎さんが納得しかけたところに畳みかけてみる。
「でも私、普通じゃなくていい。誰にどう思われても猫好きはやめられないし」
 絶対無理。やめられるはずがない。理解されがたい趣味だとしても私はずっと続けるだろう。
「それに猫好きだったからこそ、小太郎さんとも出会えたし!」
 そう告げた時、小太郎さんは驚いたようだ。尻尾がぎくりと持ち上がった。
「え……急に何言ってんだお前」
「私は小太郎さんが優しい人で、アメショちゃんの面倒もちゃんと見てあげてたって知ってるよ。飼い主さんが知らなくたって、誰か誤解する人がいたとしても、私はちゃんと知ってる!」
 世の中は普通じゃない人に厳しい。それは多分、本当のことだ。
 だけど世の中の全ての人が普通だってわけでもない。
 私が『普通じゃない』のはほんのちょっとで、小太郎さんほどではないだろうけど、それでもわかる。
「だから寂しがらなくていいよ。これからも仲良くしてね、小太郎さん!」
 私は小太郎さんに向かって手を差し出した。
 小太郎さんはアンバーの瞳で、私の手をまじまじと見ている。
「仲良くって……お前、俺の話聞いてたか?」
「うん!」
「絶対嘘だろ! つか俺、寂しいとは一言も言ってないぞ!」
「言わなくてもわかるんだよ、私には」
 本当は勘じゃない。猫大好きな私には、小太郎さんの気持ちが見ているだけでわかるんだ。
 今は尻尾を垂直に立てて、細いひげもぴんと元気よく上向きだった。
「実は嬉しいでしょ、小太郎さん」
 私がその気持ちを言い当てると、小太郎さんがびくりとして後ずさる。
「そ、そんなわけないだろ」
「私、小太郎さんのこと好きだよ。嬉しくない?」
「馬鹿言うな。たかだか女子高生に好かれたところで、別に」
「嬉しいんだね。誤魔化しても無駄だよ、わかるもん」
「何でわかるんだよ! 勘か、猫の勘なのか!?」
「なーいしょ。仲良くしてくれたら教えてもいいよ」
 手を差し出したままの私を、小太郎さんはひげをぴんぴん立たせて見つめてくる。右耳がぴくぴく動いていたのは、考えているからだろう。
「大体、好きって何だよ。どういう意味だよ、わからなすぎるだろ女子高生!」
 ぶつぶつ呟いてたのは、混乱しているせいだろうか。
 何にせよ、バスが来るまでの間に小太郎さんが答えを出すことはなかった。右耳をぴくぴくさせて尻尾を縦に揺らしながら、ずっと困った様子で思案に暮れていた。
 私も持久戦には慣れてる。こういう時はとにかく辛抱強く待ちに待って、向こうが気を許してくれるのを待つだけだ。
 猫も、男の人も、そういうところは同じなのかもしれない。

 それから私と小太郎さんは、ほんの少しだけ仲良くなった。
 と言ってもお店に行ったらやっぱり、ひげを震わせて怒られたけど。
「だから、店には来んなっつってるだろ」
「開店前だよ。それに、ここ以外に小太郎さんと会える場所知らないし」
「それでも駄目だ。このビルなんて飲み屋ばっかだし、変なのに絡まれるぞ」
 お店の前で小太郎さんにお説教を食らっていれば、やがてストロベリーブロンドの店長さんが顔を出す。
「あら柚ちゃんいらっしゃーい。よかったら入ってジュースでも飲んでく?」
「駄目です!」
 店長さんのお誘いは小太郎さんがいつも阻止するので、私もお言葉に甘えたことはない。このお店のお客さんになるのはまだ早いと、自分でもわかっているからだ。
 でもいつかは、小太郎さんがお仕事しているところを見てみたい。
「ありがとうございます、大人になったら来ることにします」
 私の答えに被せるように、小太郎さんが首を横に振る。
「駄目だっつってんだろ。お前が来たところで店長らのおもちゃになるだけだ」
「柚ちゃんが、じゃないでしょ。小太郎くんがでしょう?」
 店長さんのツッコミが正しいのかどうかも、今はまだわからない。
「このお店って、いくらくらい払うと小太郎さんを独占できますか?」
 私が尋ねると小太郎さんはぎょっとしていたけど、店長さんは愛想よく答えてくれた。
「うちは指名とかないから、チャージ料とワンドリンクだけでオッケーだよ」
「店長、正直に答えなくていいですから!」
「いいじゃない。未来の太客だもの、今からうんと大事にしないと」
「いやワンドリンクなら太くも何でもないでしょう!」
 どうやら『マッドティパーティ』はとっても良心的なお店のようだ。
 早く大人になってお店に来たいなと思っている。あと約三年、道のりはまだまだ長い。

 そして私に店まで来て欲しくないからか、小太郎さんとは別の場所で会うようになった。
 初めて会った駅前商店街の裏路地、猫たちのたまり場だ。
「お前が来ると、店長がフィーバーしてうるさいんだよ」
 ぼやく小太郎さんがちょっとお疲れのようだったので、私もしばらくは自重すると決めた。
 私としては場所がどこでも、小太郎さんに会えさえすればいい。私は放課後の猫ウォッチングのついでに、小太郎さんは出勤前にこうして裏路地で落ち合うようにしていた。
「小太郎さん、最初にここで会った時のこと覚えてる?」
「ん? ああ、ついこないだの話だしな」
「あの時、小太郎さんのこと、猫の王子様が来たって思ったんだよ」
 どこかにあるかもしれない猫の国から、いつか王子様が迎えに来てくれる。そんな夢を見ていた頃も確かにあったけど、事実は小説より奇なり。もっと夢のような出会いが私には訪れた。
「そういや言ってたな。王子様とか、柚もまだまだ子供だな」
 小太郎さんはからかうように言って笑う。
 顔はキジ柄ハチワレの猫そのものなのに、笑顔は人とそっくりだ。屈託のない心からの笑顔だ。『猫だって笑わないとは限らない』、小太郎さんはかつてそう言っていた。
 私も思う。猫は人に気づかれないように笑っているのかもしれない。人には見せようとしないだけで、本当はいつも笑って暮らしているのかもしれない。猫好きとして、全ての猫の笑うところを見てみたい、そんな気持ちもなくはない。
 だけど小太郎さんは、私には隠さずに笑ってくれる。その笑顔を見られるから、他の猫は今まで通り笑っていなくてもいい。私の前でも猫らしく、気ままに過ごしてくれればいい。
 私も今まで通り、その姿を楽しんで、そして写真に撮り続ける。
「こいつら、お前にすごく懐いてんな」
「でしょ? 足繁く通ったからね」
 顔なじみのサバトラちゃんを抱っこする私に、小太郎さんは興味深げだ。アンバーの瞳をくるくるさせてこっちを見ている。
「最近ね、私に瞬きしてくれるようになったの」
「瞬き?」
「そう。猫はね、好きな人には目で伝えてくれるんだよ」
 両手で抱いたサバトラちゃんは、私を見るとぱちっと目をつむってくれる。
 私も彼女に向かって目をつむり返す。ますます仲良くなれたみたいで、すごく嬉しい。
「こうして瞬きするのが、好きだよって愛情表現なんだって」
 それから小太郎さんを見たら、彼は足元にすり寄っていた茶トラちゃんをいきなり抱えた。
 かと思うと、ひょいと顔の高さまで持ち上げた。まるで顔を隠すみたいに。
「何してるの?」
「筒抜けになるのは癪だろ。ただでさえお前、猫の気持ち熟知してんのに」
 私としては小太郎さんも、いつか私に瞬きして欲しいって思ってるんだけどな。

 でも今は、小太郎さんの笑顔が見られたらそれでいい。
 普通じゃないんだって言った割に、普通の恋をしてるなって、自分でも思う。
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