Tiny garden

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幽谷町であった怖い話:黒川編

「黒川さんに、お願いしようかな」
 私が言った途端、
「えええええ!? 嘘でしょ萩子先輩!」
 誰よりも早く、栄永さんが大きな声を上げた。そして私に飛びつくなり腕をぶんぶん揺さぶってくる。
「この四択でどうして猫頭って選択になるかな!」
「どういう意味だよ女狐!」
「だって一番骨なさそうで頼りないじゃん!」
「ここぞとばかりに貶してきたなお前!」
 黒川さんの抗議を聞き流した栄永さんは、大地の方をきりっと見据えた。
「大地先輩は猫頭なんかに任せていいの!?」
 急に話を振られて、大地も困惑気味に私を見る。
「まあ、何で黒川先輩? とは思うけどな」
「君も何気に酷いね稲多くん!」
 黒川さんが嘆いたので、私も慌ててフォローしておく。
「賑やかだし、一緒にいて怖くないかなって……」
「そりゃうるささで言えばこん中で一番だろうけど」
 栄永さんはまだ納得がいかないようだった。ちらっと、収拾を求めるように上渡さんを見る。
 すると上渡さんは溜息をつき、黒川さんに告げた。
「片野さんが選んだのはお前だ。任務を全うしてきてくれ」
「お、さすがは上渡くん。俺を信じてくれるんだね」
「騒がず静かに用だけ済ませてくるんだ。迅速にな」
「……信じてくれてるんだよね?」
 予想通り、出発前から賑やかだ。これは絶対怖くなさそう。

 黒川さんと一緒に階段を上がり、二年の教室がある廊下に出る。
 するとさっきまで夕日が差し込んでいたはずの廊下は、真っ暗になっていた。
「あれ、空曇ってんじゃん」
 訝しそうに言った黒川さんが、廊下の窓越しに空を見る。
 その言葉通り、空は厚ぼったい雲に一面覆われていた。今にも雨が降り出しそうな気配だ。
 もしかしなくても、大地かな。
「俺、信用されてないんだなあ……」
 黒川さんはぼやいた後で首を捻る。
「いや、栄永が余計なこと言ってる可能性もあるな」
 そして制服のポケットから携帯電話を取り出すと、
「ちょっと待って。あいつに注意しとく」
 手短に操作して、メールでも送ったみたいだ。
 すぐに終えて携帯電話をしまってから、笑いかけてきた。
「栄永も酷いよね。幽谷町一の紳士を捕まえてあの言いようだよ」
 そうは言いつつも、垂れ目の顔はどこかしら楽しげだ。
「あ、心配しなくてもいいからね。教室までばっちりエスコートするよ」
「エスコート?」
 聞き慣れない言葉に、私もつられて笑ってしまう。
「そんなこと言われたの初めてだよ」
「えっ、マジで? いいのかな、初めてが俺で」
 黒川さんがにやりとする。
 いいも何も、と私は頷く。
「だって、他に言ってくれる人いないもん」
 大地はそういうこと、絶対言わないと思う。仮に頼んでみたところで、恥ずかしがって途中で辞めてしまうんじゃないかな。
 頼むのも恥ずかしいから、私だって言えないだろうけど。
「わかるよ、あいつは言えなさそうだもんな」
 なぜか納得した様子の黒川さんが、そこで意味ありげに声を落とした。
「でもさ、ぶっちゃけ言ってみて欲しいと思ってるっしょ?」
「えっ。だ、誰に?」
「ってか今だって、本当は稲多くんと来たかったんじゃない?」
「そ、そんなことないよ」
 唐突な質問をぶつけられて、私は思わず口ごもる。
 誰と来たかった、なんてことはない。忘れ物はしないに越したことないし、一緒に来てくれるならだれでもよかった。黒川さんを選んだのは、明るい人だから、一緒にいたら怖くないと思ってのことだ。
 でも、最初にお願いした相手は大地だった。
 大地だったら、黙っててもついてきてくれるんじゃないかって思ったから――全然そんなことなかったけど。
「俺もさ、稲多くんだけなら普通に譲ってたんだけど」
 黒川さんが肩を竦める。
「上渡くんが名乗り出たからさ、俺も俺もって言ってみたんだ。選んでくれてありがとね」
「お礼言うのは私の方だよ。ついてきてくれてありがとう」
 だけど私の言葉に、黒川さんは癖のある髪を揺らして笑った。
「いや、今日のところは俺の方。ありがと、萩子ちゃん」
 どうして黒川さんが私に感謝するんだろう。
 不思議に思ったけど、何となく聞きそびれてしまった。

 教室もすっかり真っ暗だったから、私は明かりを点けてから中に入った。
 黒川さんも一緒に入ってきて、懐かしそうに室内を見回す。
「二年の教室、ひっさびさー!」
「そんなに懐かしい?」
 自分の机にかけてあった補助バッグを回収しながら、私は黒川さんに尋ねた。
 三年生の教室にはまだ入ったことないけど、さすがに教室はどこも一緒じゃないだろうか。そう思ったんだけど、黒川さんは満足げに目を細める。
「懐かしいね。だってさ、窓からの景色が違う」
 そう言われてみれば、確かに。
 どこの学校もそうだろうけど、幽谷高校も一年、二年、三年でそれぞれ教室のある階層が違う。窓から見える景色が違うのは当然のことだ。
「二年生だった頃が遠い昔のことみたいだよ」
 相変わらず曇り空が広がる窓の外を眺めながら、黒川さんはしみじみと続ける。
「もうじき卒業か……やり残したこと、結構あるな」
 卒業までのあと半年を長いと思うか、短いと思うかは人それぞれかもしれない。黒川さんも上渡さんも、あと半年。私にとってはまだ信じがたいような、実感が湧かない残り時間だった。
「黒川さんのやり残したことって、どんなこと?」
 教室の明かりを消して、廊下に戻ってから聞いてみた。
 すると黒川さんは得意そうな顔をして、
「まあ、いろいろ。でもそのうち一つは君のことかな」
「私!?」
 名指しされてびっくりした。
 でも黒川さんは割と平然としていた。
「ほら俺さ、前にも言ったじゃん。君らと昔会ったのに、あの時何にもできなかったって」
 私の苦い思い出に、実は黒川さんも存在していたことを知ったのは、つい最近のことだった。
 あの時は木の上なんて見ている余裕もなかったし、仮に見えたとしても、それが黒川さんだとは気づけなかっただろう。
「俺が話しかけてたら、何か違ったんじゃって思ったりしたんだよね」
 黒川さんはわざとおどけるように、朗らかに語る。
「だって喋る猫だよ。びっくりするだろ? 泣いてる子もきっと泣き止ませられるよ」
「うん、かもしれないね」
 苦い思い出のはずなのに、想像すると何だか笑えてきた。泣きじゃくる小学生の頃の私が、木の上にいる黒猫に喋りかけられて、泣くのも忘れてしまうのが想像できてしまう。
「でも俺は、その選択肢を選べなかったんだよなあ……」
 溜息をついた黒川さんは、猫っ毛の髪を片手でくしゃくしゃしながら言った。
「だから、まあ、今度こそ上手くいって欲しいんだよね。時間の問題だろうとは思ってんだけど、早いうちの方がいいよ絶対」
「え? 何が?」
 何の話かわからない。
 と言うか、黒川さんのやり残したことって何なんだろう。
「萩子ちゃん。もしかしたらだけど」
 薄暗い廊下の先を見据えながら、黒川さんは語る。
「君にはまた今日みたいに、何か選ばなきゃいけない日が来るかもしれない」
「う、うん……そうなのかな」
 ぴんと来ないけど、人生ってそういうものなんだろうか。
 私もあの時、違う選択肢を選んでいたら何か変わっていたのかな。
「そうだよ。その時はさ、今度こそ君の気持ちに従って決めるといい」
 生徒玄関に続く階段に差しかかる。黒川さんは私を振り返りながら、いい笑顔で階段を下りていく。
「誰かに悪いとか、傷つけるからとかじゃなくて、君がしたいようにすればいい。何だかんだでそれが一番後悔しないやり方だと思うからね」
 私は黙って頷きながら、その後についていった。
 そして考えた。私のしたいようにするって、例えばどんなことだろう。

 生徒玄関まで戻ってくると、待っていたのはなぜか大地だけだった。
 靴箱に寄りかかっていた大地は、私達を見ると何だか釈然としない顔を向けてくる。
「遅かったな」
「ごめん、待たせて。……大地だけ?」
「ああ。栄永ちゃんが会長さん引っ張って、先に帰ってった」
 二人とも、帰っちゃったんだ。雨になりそうだからかな。
 それなら大地は、ずっと一人で待っててくれたことになる。
「俺が帰したんだよ。あいついるとややっこしくなるからさ」
 黒川さんが種明かしのようにそう言った。
 そして私に向かって、お芝居みたいに大仰なお辞儀をした後、
「じゃあお姫様、俺のエスコートはここまでだよ」
「えっ。あ、ありがとう……」
 今度はお姫様だって。私は戸惑ったけど、黒川さんは構わずに大地へと向き直る。
「あとは家まで、本物の王子様がエスコートしてくださるってさ」
「誰がだよ。先輩のギャグセンスも微妙だよな」
 大地は鼻で笑ったけど、負けじと黒川さんは明るく笑って、
「じゃ、お兄さんは先に帰ります。ちゃんと無事に送ってけよ、送り狼になったりしないように――ま、なってもいいけどね!」
「はあ!? 先輩何言って……あ、てめえ! 逃げんな!」
 けたけた笑いながら、大地に怒鳴られながら、さっさと靴を履き替えて生徒玄関を飛び出していった。その素早さたるや、まさに猫だった。
「ったく、言いたい放題言いやがって……」
 追い駆け損ねた大地は、私を横目で見てから顔を顰める。
「お前ら、忘れ物取ってくる間にどんな会話してたんだよ」
「どんなって言われても。人生とか、選択肢とか」
「ますますわかんねえな……」
「私も、実を言うと全部わかったわけじゃないんだけど」
 黒川さんが、私に何か伝えようとしていた、そのことはわかる。
 だから私も、その通りにしてみようと思う。
「大地」
 ちょっと恥ずかしかったけど、正直に、言ってみることにした。
「次に忘れ物したら、その時はついて来てくれないかな」
 大地が目を丸くする。
 それから、照れた様子で唇を尖らせた。
「だから言ったろ、『俺でいいだろ』って」
「うん。私も、最初に大地に頼んだんだもん」
 誰でもいいって言ったのは嘘じゃないけど、ちょっと違っていた。
 私は大地がいいから、誰より先にお願いしたんだ。
「……俺も、笑って悪かった」
 大地はぼそっと言った後、はにかむように少し笑う。
「なあ、俺、次は絶対ついてくから。次も迷わず俺に声かけろよ」
「お願いするね」
 私は、嬉しい気持ちで頷いた。
 気がつくと、生徒玄関から見える空は雲が晴れて、きれいな夕焼けが戻っていた。これなら雨の心配はなさそうだ。
「そろそろ帰ろっか、大地」
 靴箱から外靴を取り出しながら声をかけると、大地は思い出したように溜息をつく。
「そうだな。エスコート、すればいいんだろ?」
「あ、えっと、それは別にいいけど……」
 意外と真面目な顔で言われて、私は慌てた。
 でも大地は本気にしたのか、靴を履き替えた後で私の手を掴んできた。
「ほら行くぞ、萩子」
「えっ、手繋いで帰るの!?」
「こんな時間だし、誰も見てねえだろ」
「う、うん……そう、だよね」

 ずっとここで待っていたからだろうか。繋いだ大地の手は冷えていた。
 私はその手を温められないかと思って、家に着くまでずっと、その手を離さないようにしていた。
「あと、黒川先輩の言ったこと、心配しなくていいからな」
「……どれのこと?」
「狼がどうのって。ちゃんと、送ってくから」
「わかってる。大地は雷獣だもんね」
「いや、そうじゃなくて……そうだけどな」
 心配なんかしてない。もうじき日が暮れるけど、大地と一緒なら暗い道だって怖くない。
 ずっと手を繋いでたから、心臓はどきどきしてたけど。
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