十六歳と十四歳
その日は、突然やってきた。「今日からは、一人で着替えをする」
カレルは酷く言いにくそうに、しかし不退転の意思を滲ませながら宣言した。
言われた方は頭を殴られたような衝撃を受け、とっさに声も出せなかった。何しろ主の召し替えを手伝うことは近侍にとって重要な務めだ。肌に着けるものの一つ一つを検め、主が無事に着終えるまでを見届けなければならない。もしも着衣に毒針でも仕込まれていようものなら、あるいはそこまで非常事態ではなくても、みっともないほつれでもあろうものなら大事である。日常的な範囲内から主の身と身なりを守るのが、近侍に課せられた使命のはずだった。今朝も主の為に着衣全てを丁寧に調べた後、こうして寝室へ運んできたのだ。
なのにその務めを拒まれたら、どうしたらいいのだろう。
声を失ったマリエを見てか、カレルは当惑の口調で続ける。
「私ももう十四だ。そのくらいは自分で出来るし、いちいちお前の手を借りる必要もあるまい。わかったら着替えはそこへ置いて、向こうで待っていろ」
主は当然寝間着姿のまま、寝台に腰かけてこちらを見ている。追い払うように手を振られて、とうとう眩暈さえ覚えた。
マリエは今日までの六年間、近侍としての全ての仕事に、疑問を持たずこなしてきた。母親に教わったことを忠実に、生真面目に繰り返してきたし、そうすることで主を助けてきたつもりだった。近頃では勤労の喜びを噛み締める余裕もあり、忙しいながらも大変充実した日々を送っていた。
そこに振って湧いたのが主からの通達だ。茫然自失の一時を過ぎ、ようやく我を取り戻したマリエは、恐る恐る尋ねる。
「畏れながら伺いますが、何かわたくしに至らぬ点がございましたか」
「なぜそうなる」
「殿下がわたくしの手をご不要となさったのは、わたくしの働きがご期待に添えるものではなかったということでは……」
言いかけたマリエを、カレルはうんざりした顔で制する。
「そういうことではない。考えすぎだ」
「ですが、それだけでは何と申しますか、合点がいきません。どうして急にそんなことを仰ったのか、せめて教えていただきたく存じます」
理由もなく要らぬと言われた訳ではないと思う。思いたかった。今まで当たり前のように毎日してきた仕事だし、昨日も何も言われずに済ませていた。唐突に『今日からはいい』と言われれば納得も出来ない。主が何か不満を持って、マリエの手を拒んだのだとしたら、まずその不満を解消するのが先決だ。
果たして、カレルは鼻の頭に皺を寄せた。
「私がいいと言っているのだ。それで納得せよ」
すげない答えだった。マリエは再び言うべき言葉を失い、カレルは首を竦める。
「大体お前は融通が利かぬ。私が一人ですればお前の手間は省け、仕事が楽になるであろう。まして二つも仕事が減るのだ、喜ぶのが普通であって、いちいち思い悩んだり詮索したがったりするのはおかしいではないか」
主の指摘通り、マリエは端から融通の利く性格ではない。自分の仕事を楽にすると言われてもそうそう容易くは喜べず、なぜ今まで通りでは駄目なのかを知りたかった。でなければこの変化を呑み込めそうになかった。
が、カレルの発言を反芻するうち、
「……二つ、でございますか」
マリエは気づく。主は確かにそう言った。
そしてカレルはぎくしゃくと頷く。
「そうだ。いつもの着替えと……それから湯浴みもだ。今日からは何もかも自分でやる。お前は手伝わなくていい」
「一体なぜでございましょうか」
「だから詮索するなと言っているのに!」
どうやら理由は言いたくないらしい。そっぽを向いてしまったカレルが、ささくれ立った声を上げてくる。
「お前がそんな調子だから、いつ言ってやろうかとずっと考えていたのだ! 言えば言ったであれこれ気を回しすぎて面倒なことになるだろうと思っていたが、やはりどうしても、言わずにはいられなかった!」
そしてマリエはいよいよ狼狽し、息を呑む。
カレルは昨日今日の話ではなく、以前からマリエの手を不要だと思っていたようだ。聞けば随分と前から思っていたような口ぶりだから、長い付き合いの近侍に情けをかけ、さすがに言うべきではないと逡巡していたのかもしれない。あるいは近侍自身が気づくのを忍耐強く待っていてくれたのかもしれない。どちらにせよ今、カレルの口から告げられたことで、マリエは事態が手遅れだと思い知った。
自分はこの六年間、一体何をしてきたのだろう。毎日の仕事を全てこなしているつもりが、肝心なことを見落としていたのではないだろうか。主の不満を察するどころか、はっきり言われるまでまるで気づけなかったとは。そうして主を悩ませるだけ悩ませておきながら、安穏と日々を送ってきたとは。知らず知らずたがが緩んでいたのかもしれない。
とっさに、寝台の傍にひざまずいた。
「申し訳ございません、殿下。そこまで殿下の御心に負担をおかけしていたとは、わたくしは、この上なく至らぬ近侍でございました」
強い悔しさが込み上げてきて、密かにマリエは下唇を噛む。
俯いた頭の上では短い沈黙があり、
「……何と言えばわかってくれるのか」
力なくカレルがぼやいた。
すぐに命じられた。
「ひとまず、面を上げよ」
マリエは即座に従い、主の閉口しきった表情を見上げる。次はどんなお叱りを受けるのかと思うと気が気ではなかったが、自分のしでかしたことであれば受け止めるよりほかない。逃げる訳にもいくまい。
そしてカレルは眉根を寄せ、必死に何か考えているような間の後で、やっと言葉を搾り出す。
「その、私はだな。お前の仕事に不足があるとは思っていないし、気に入らぬ点があるという訳でもないのだ。むしろ、いい機会だからお前にも真面目に考えてもらいたい」
丁寧な説明にマリエは少しほっとした。
だがそうなると疑問が残る。真面目に考えろとはどういう意味だろうか。
「わたくしに? どのようなことでございましょうか」
問い返せば、カレルは一度口を噤む。それでも言わなければならないと思ったか、難しい顔をして、ためらいがちに切り出してきた。
「た、例えばだが、逆に考えたとすれば、お前はどう思う」
「逆に、と仰いますと」
「だから、つまり、私が……その、例えばだ。例えばの話、私がお前の着替えを手伝ったり、湯浴みを手伝ったりしたら、どうか。考えてみるがいい」
終わりの方は微妙に震えた声になった。先程以上に言いにくそうなのがよくわかる。
マリエもその命には諾々と従えなかった。主の持ち出した例えは突拍子もなく、真面目に考えろと言われてもそもそも想像さえつかぬことだった。
とりあえずはっきりしている事実だけを答える。
「それは大変畏れ多いことと存じます」
「そうではない!」
たちまちカレルが頭を抱える。
「論点はそういうことではないのだ、ああもうお前に対してはどう言えばいいのか皆目見当も……いや、こうなっては仕方ない、少し待っていろ、はっきり言う」
なぜかマリエを待たせたカレルは、腕組みをしながらややしばらくの間、考え込んでいた。顔を真っ赤にして唸りながら、やがて追い詰められた面持ちになってマリエを見下ろす。
マリエはひざまずいたままの姿勢で、主が重い口を開くのを待っていた。
「つまり、だな。私は……」
主の口は、今までにないほど重かった。
「お前が、女だからだ」
だが、ずっと黙ったままではいなかった。困り果てた物言いで続けた。
「だから私は、着替えや湯浴みでお前の手を借りたくない。それだけだ」
なぜ自分が女では駄目なのか、――という疑問を持つほど、さすがにマリエも石頭ではない。
ただ、考えつかなかった。こうしてはっきり言い渡されるまでまるで思い至らなかった。主が十四になったということを、単に歳が一つ増えただけのように捉えていた。マリエだってつい二年前は十四だったはずで、その頃に経験してきた身体的、及び精神的な変化と変調を忘れていた訳でもないのに、カレルに対しては同じように見ることが出来なかったのだ。
毎日、同じ仕事をしていればいいのだと思っていた。
マリエのするべき務めと同じように、主の日々もまた、ただ穏やかに繰り返すだけのものだとばかり思っていた。
だが事実はそうでなく、マリエは十六にして初めて、人に仕えるということの難しさを知った。知っているつもりだったが、実際は何もわかっていなかったのだ。
いつまでも八歳のままでいるはずがなく、カレルも年頃になった。
いつかは大人にもなってしまうのかもしれない。
「仰せの通りにいたします、殿下」
主の意思を受け止めたマリエは、粛々と答えた。
カレルが、肺が空になりそうなほど深い息をつく。
「そうか。わかってくれたか」
「ですが、どうぞお詫びだけはさせていただきたく存じます。申し訳ございません、わたくしはやはり至らぬ近侍でございます」
ひざまずいたまま頭を下げれば、寝台の上からは慌てたような言葉が、
「違う、さっきから何度も言っているが、私はお前の働きを――」
「いいえ、そのことではございません」
マリエは珍しく主を制し、きっぱりと続ける。
「本来ならわたくしは、殿下がご意思を打ち明けてくださる前に察していなければならなかったのです。殿下にとってこの件は大変仰りにくいことでしょうから、なおさらです。なのに教えていただくまでまるで気づけなかったこと、申し訳なく存じます」
悔しかった。何もわかっていなかった自分に腹が立った。近侍としての未熟さを、いやというほど思い知らされた。
そんなマリエに、カレルは気遣わしげに言う。
「それはまあ、いい。お前がそんなに聡い人間だとは思っておらぬ」
「……申し訳ございません」
「いや、そうではなくてだ、そういうことではなく……」
言いかけたカレルが、そこではたと気づいたようだ。マリエを急き立ててくる。
「と、とにかくその話は後だ。服を寄越せ、私はまだ寝間着のままだ!」
マリエは本当に聡い人間ではなく、その事実を目の当たりにしながらまるで看過していた。
まごつきながら差し出した召し物を主は奪うように取り上げ、
「着替えをする、お前は下がれ!」
鋭く命じてきたので、マリエはすごすごと寝室を退出した。
一人ですればさぞ手間取るのではないかと気を揉んでもいたのだが、主は思いのほか早く寝室を飛び出してきた。
もしかすると急いだのかもしれない。肩で息をしていたし、まだ上着を着ていなかったし、シャツのボタンが途中で一段飛ばされていた。
「殿下、ボタンが……」
すかさずマリエは手を伸ばそうとしたが、すんでのところで主に、大仰なくらい身を翻された。
「いいと言っているのに! 自分で出来る!」
「も、申し訳ございません」
マリエは詫び、こちらに背を向けてボタンを直し始めたカレルを複雑な思いで眺めた。随分と難しい年頃になられたものだと思う。仮にマリエが女でなかったら、近侍として当然の務めはもう少しの間、許されていたのだろうか。やはりカレルに対して女の近侍では、不足があったのだろうか。
考え込むマリエの鼻先、不意に見覚えのある布地が突きつけられた。
カレルの上着だった。
「これは、取っておいてやった」
仕方がないとでも言いたげに、主がしかめっつらを作る。
「お前のことだ、今度は女に生まれてきたことを悔やみそうな気がしたからな。特別に、上着を羽織るのだけは手伝わせてやる」
「よろしいのですか?」
「いい。その代わり、この度のことはもう気に病むな」
マリエに上着を手渡すと、カレルは歳相応の苦笑いを浮かべた。
「そもそも私は、何でも一人で済ませる方がかえって気楽なのだ。着替えも湯浴みも手早く終えられるしな。初めにそう言えばよかったのだろうが、思い至らなかった」
その言葉にマリエもやっと微笑み、主が上着を羽織るのを手伝った。
人に仕えるというのは難しいことだ。いくつであっても人は年を経るごとに変わっていくし、それに伴い必要とする手伝いもまた変化していく。近侍の仕事も然りで、主が歳を取ればその分だけ変わっていくものでなければならない。これから先も主に仕えることを考えるなら、マリエはそのことをよくよく心に留め置かねばならないだろう。
他方、長く仕えているからこその幸いもまたある。
カレルはマリエの気持ちを不思議なくらいわかってくれる。ここぞという時に気遣ってくれ、沈んだ心を掬い上げてくれる。何よりもそのことがマリエにとって、幸いだった。