十八歳と十六歳
マリエは胃の痛みを覚えていた。体調を崩した訳ではなく、精神的なものだ。元来生真面目な性格なのでちょっとした問題が浮上しただけであれこれ気を回しすぎてしまう。それは主からも再三指摘されていることだが、性分なのだから仕方がない。
そしてマリエの身に振って湧く問題とは大抵が主に関わる事柄である。今回もそうで、マリエはついさっきまでカレルについた家庭教師の一人と会っていた。――会っていたというべきか、苦情を申し立てられたというべきか、ともあれ『近侍の方に話があるので、少し時間を』と告げられた時点で用向きは概ね把握出来た。苦情を突きつけてきたのはこの家庭教師だけではなかったからだ。
――カレル殿下に、もう少し真面目に取り組んでくださるよう、話をしては貰えませんか。
そういった内容を、実際はいささか尖った口調と冷たい目つきで告げられた。他にもカレルがいかに勉強嫌いであるかを、教えている間のあまり模範的ではない態度を、愚痴混じりにいくつもいくつも並べ立てられたので、マリエはその時から胃がきりきりして堪らなかった。
主のことを悪く言われるのは嫌だった。もちろんそれらの評価が不適当なものであれば、マリエは忠心を胸に真っ向から異を唱えることが出来る。だがそうでない場合は、主を庇う理由を探しながらじっと耳を傾けているしかない。理由すら見つからなければ反論も叶わない。
カレルが勉強嫌いなのは、近侍の贔屓目をもってしても覆しようのない事実だった。
家庭教師からの言葉をどう主へ伝えるか、マリエは悩みながら城の廊下を歩く。
そこへ、
「マリエ!」
廊下の向こう側から、明朗な声に名を呼ばれた。
反射的にマリエは足を止め、こちらへと風のように駆けてくる人影を認める。それが誰かはすぐにわかる、まず白金色の髪が見えれば確実で、その色がわかりづらいことがあっても見慣れた走り格好で判別がつく。それに、後ろからついてくる近衛兵たちがいれば確実だ。じきに弾ける笑顔が映り、つられるようにマリエも笑んだ。
「殿下、お戻りでしたか」
「ああ、ちょうど終えたところだ!」
走りながら返事をしたカレルは勢い余ってマリエの横を通り過ぎかけ、周りを小さくくるりとしてから正面へ戻ってきた。そしてマリエを見下ろし、上機嫌で話し始める。
「聞いてくれマリエ、今日はアロイスに褒められたのだ。私はやはり剣の才能があるのだそうだぞ」
「それはおめでとうございます」
マリエが家庭教師の苦情を受けつけていた頃、カレルは近衛隊を引き連れ、剣術の稽古に出かけていた。それは主にとって唯一とも言える趣味であり、日頃から勉強よりも余程熱心に打ち込んでいる。聞くところによれば近頃は『より本格的な』稽古に移行しつつあるのだそうだが、何と言っても一国の王子がするような剣術だ。本格的といってもせいぜい帯剣時の所作を学ぶ程度で、あとは棒切れ遊びと大差ないのだろう。
とはいえカレルにそういう趣味が存在していて、なおかつ実に満喫している様子なのは、マリエにとっても大変喜ばしいことだった。主の楽しげな顔を眺めているだけで幸せになれる。
うっかり、先の懸案事項まで忘れそうになる。
「殿下はめきめきと腕を上げておいでですからな」
カレルに声をかけたのは、近衛隊長のアロイスだ。彼がその鎧に隊長の位を示す徽章を付け始めたのがいつだったか、マリエはよく覚えていない。ただ彼の顔はとっくに覚えてしまった。
「私もいつか打ち負かされてしまうのではと、気が気ではありません」
「うむ。そのうち完膚なきまでに叩きのめしてやるから、覚悟しておれ」
相好を崩すアロイスの隣でカレルが得意そうにする。しかし筋骨隆々とした近衛隊長と並び立つ十六の主は、腕の太さにせよ胸板の厚さにせよまるで比べ物にならず、棒切れ遊びとはいえか打ち負かせる日が本当にやってくるかどうか、マリエには想像がつかない。
もっとも、ありえないことだが万が一カレルが菓子作りを習いたいと言い出して、その結果そこそこ見映えのいいケーキが出来上がったとしたら、マリエも相好を崩した挙句、アロイスと同じことを言ってしまうかもしれない。そのうちにわたくしよりも美味しく作ってしまわれるかもしれませんね、などと。
つまりはそういうことなのだろう。
「マリエも今度、私の稽古ぶりを見に来るがいい」
そう言ってカレルは胸を張ったが、すぐに慌てて言い添えてきた。
「あ、今度と言っても明日明後日の話ではないぞ。もう少し様になってからでなくては見せられぬ。私もまだまだ鍛錬しておくから、お前も今しばらく待て」
「畏まりました」
マリエは素直に頷く。
考えてみれば、主から稽古を見に来ていいと言われたのは初めてのはずだった。今までもお召し替えをお持ちしましょうかとか、お水をお持ちした方がよろしいのではと尋ねたことがあったのだが、カレルはそれをやんわりと拒んできた。
――私が好きこのんでやっていることだから、お前の手を煩わせるつもりはない。構わずお前も好きなことをしていろ。
ずっとそういう口ぶりでマリエを遠ざけてきたのが、今になって『今度』という言葉に変わったのはなぜか。少し不思議な気がしたが、そもそも拒まれていたというのがマリエの思い過ごしなのかもしれない。
何にせよ主が楽しそうにしている姿を見られるのはいいことだ、機会があれば足を運んでみようと思った。
「楽しみにお待ちしております」
本心からそう答えれば、たちまちカレルも嬉しそうにはにかむ。当然、マリエも嬉しくなる。
だが次の瞬間に気持ちは沈んだ。
主の顔を曇らせる懸案事項を思い出してしまったからだ。
胃の痛みがぶり返してきた。
言わない訳にはいかない。家庭教師はマリエの口添えを期待していたのだろうし、そこにある程度の効き目もまた期待していることだろう。カレルが何も知らないそぶりでいたらおかしなものだ。
しかし、マリエごときの言葉が主の勉強嫌いに効果を発揮するかどうかはわからない。もし効果があるなら、今までにかけた数々のたしなめだって抜群に効いているはずだ。
居室へ戻ったカレルは着替えを済ませ、今は愛用の椅子に腰かけて一服しているところだ。剣の稽古の後は決まって水を欲しがるので、マリエは冷やした水差しを用意して控えていた。三杯ほど所望した後で主が、ふと尋ねてきた。
「どうかしたのか、マリエ。浮かぬ顔をしているが」
八年も傍に仕えていれば顔色も読み取られてしまう。マリエは結局観念して、切り出さざるを得ない。これも一応は主の為なのだし、仕方がない。
「ええ、あの……殿下に聞いていただきたいことがあるのですが」
「何だ」
「殿下は、お勉強はお嫌いですか」
話題提起としては三流の出来だった。
カレルはマリエの顔色だけではなく、問いからもおおよそを察したようだ。すぐに不機嫌そうな面持ちになる。
「お前に用があると言うからそうだろうとは思ったが、またも家庭教師に何ぞ言われたようだな」
「はい」
「相手にするな。彼奴らは教え方が悪い」
ばっさりと切り捨てたカレルを、マリエはさすがにあんまりだと思う。家庭教師たちは給金を貰っているとはいえ、あまり勤勉ではないカレルを今日まで見捨てず、更に打開策を探そうとしてくれているのだ。ましてカレルには、この先のことを考えればどうしても、勉強が必要なはずだった。
「お言葉ですが、殿下」
マリエが反論しかけると主は軽く睨んできたが、発言自体は制さなかった。なのでマリエは胃をきりきりさせながら続ける。
「殿下のなさるお勉強が大変なものだとは存じております。きっとご辛苦も多いことでしょう。ですがそれも、殿下のこれからにとって必要なものでございます。どうぞ考えてみてはくださいませんか」
カレルは王子だ。それもこの国でたった一人しかいない、現国王の血を引いている王子だ。特に問題でもない限り次に王位を継ぐのはカレルで間違いない。そう思われているからこそ家庭教師たちも指導熱心になるのだろうし、カレルに対しても相応の熱心さを求めるのだろう。
「私が王になるからか」
椅子の肘掛に頬杖をつき、カレルはぞんざいに問う。
マリエは大きく頷く。
「その通りでございます、殿下」
「私が王になったら、お前は王の近侍だな」
そこでカレルがいささか非難がましい目を向けてきたので、マリエはなぜ咎められたのかを不思議に思う。
「なりたいか、王の近侍に」
尚も主は棘を隠さず、マリエはその言動から、一連の意見具申を出世欲によるものと誤解されたのではと察する。そんなつもりはなかったので大いに慌てた。
「わたくしは……お許しいただけるまでお傍にいるだけでございます。わたくしの処遇など、殿下がお好きに決めてくださって構いません」
水差しを置き、主の前でひざまずくと、間髪入れずにカレルが応じた。
「お前を手放しはしない」
素っ気なくはあったが、確かにそう言ってくれた。
お好きにとは申し上げたものの、本心にも違いなかったものの、賜った答えには心底ほっとしてしまった。マリエは王の近侍になることには興味なかったが、カレルの近侍であり続けたいと思っている。王に直接仕える職は名誉だろうが、名誉以上に貴いものをカレルに仕えた八年間でたくさん、たくさん賜ってきた。
今の言葉もそうだ。この先も、何があっても、出来ればずっとカレルの近侍でありたかった。
主も同じように思ってくれていたらと、密かに願ってもいた。
「光栄なお言葉に存じます」
マリエは礼を述べ、もう少し言葉を選ぼうと考えながら、柔らかく続けた。
「殿下。わたくしは殿下でしたら必ずやよき王になってくださると信じております」
「そうだろうか」
当の本人はどこか気のない口調だ。視線があらぬ方を向いている。
しかしマリエは家庭教師たちの苦情を背負ってここにいる。引く訳にはいかない。説得しなければならない。
「わたくしは存じ上げております。殿下は大変思慮深く、またお優しい方でございます。きっと皆から慕われる王となられることでしょう。わたくしは殿下のご成長をじかに見られることをとても誇らしく思っておりますし、その道程においてご辛苦が少ないものであることを願っております。殿下にとってのお勉強は、後のご辛苦を減らす為の杖でございます」
今のあどけなさからはまだ想像もつかないが、じきにカレルも妃を娶るのだろうし、いつかは世継ぎを得ることとなるのだろう。もしもその時まで傍にいられたら、どの瞬間に立ち会っていたとしてもきっと幸せだろうと思う。幼い頃から見守ってきた主が大人になっていく姿を、これから先も見守り続けていられたら。
少なくとも妃を娶る話についてはそう遠い話でもなかった。カレルももう十六だ、勉強が嫌いだの何だのと言っている暇はない。知識と教養は国政には無論、妃となる婦人との会話でも必要不可欠なのである。
「ですからどうか――」
「マリエ」
会話の締めくくりを遮り、名を呼ぶ声が重く澱んだ。
反射的にマリエは口を噤み、椅子の上で頬杖をつく主を見上げる。カレルはやはりこちらを見ておらず、そっぽを向かれている姿がまるで拗ねているように、マリエには映った。その姿勢のまま、ひざまずく近侍に問いかけてくる。
「お前はどうして未来の話が出来る? この先どんなことが起こるか、わからぬというのに」
尋ねているようで、独り言に近い声音だった。
「私は数日先でさえ想像も出来ぬ。その時の私が何をなそうとしているか、何を思っているかも、だ。もしかすると私は、私自身にも予測のつかぬような、突拍子もない行動に出るかも知れぬ」
主の行動が突拍子もないのは今に始まったことでもない。近侍として務めた八年間はカレルによってもたらされた驚きの連続だった。今も少し驚いている、主がそんなことを思っていたとは。
カレルはぽつぽつと語を継ぐ。
「私は先のことを考えるのは苦手だ。どんな未来が来るかを想像しようとすると、少し怖くなる」
「怖い……と仰いますか?」
「ああ。おかしいか?」
質問を返す表情には妙な真実味があり、マリエはおかしいというよりも、ただ意外だった。
マリエの知るカレルとは、剣術の稽古に夢中になる腕白坊主であり、明朗闊達な気質の持ち主であり、ついでに言えば暗闇や眠れぬ夜を恐れる時期はとうに過ぎ、怖いものなどないように見えていた。
未来が怖いという考え自体はわからなくもない。マリエ自身、常に次の瞬間の予測がつかない八年間を送ってきたし、仕事に慣れたと思った途端に失敗するのもよくあることだった。落とし穴はいつも、平穏や退屈や慢心の先にあった。そのくせ落とし穴に落ちた過去は、慌しく日々を過ごすうちにうっかりと忘れがちだ。
翻ってカレルの場合、先で待つ未来は不透明でも、その双肩に負うべき責務ははっきりしている。それに対して臆している姿はカレルに似つかわしくない気もするし、その起因するところを抜け切らない幼さに求めれば、まあ腑に落ちぬほどでもないとも思える。十六歳になって尚、カレルは純粋さを失ってはいなかったようだ。
そんな主に、どんな励ましをかけたらいいのだろう。マリエはいつものようにあれこれ気を回し始めながらおずおずと答える。
「今の殿下には怖いものなどおありでないと思っておりました。そんな風に思っておいでだったとは、存じ上げませんでした」
それに対しカレルは、恐らく困惑一色のはずのマリエをしばらく見下ろしてから、湧き上がるようににやりとした。
「そうだな。そう思うか」
「はい、殿下。畏れながら……」
「では今のが、単なる口実だと言ったら、お前はどうする」
「え?」
「私が勉強から逃れる為に、わざと怯えたふりをしていたとしたらだ。未来が怖いなどと繊細な人間の言うことを口にしていれば、あのうるさい家庭教師どもも納得するだろうと考えたとしたら、お前も合点がいくであろう?」
主のあっさりした種明かしに、マリエは一転呆気に取られた。そう言われてみれば合点のいかなくもない話で、やはり十六の主に何かを怖がる姿は似合わないと思うし、勉強嫌いの主ならそのくらいの口実も思いつきそうな気がする。そういう知恵を、それこそ勉強に使ってくれればいいのだが。
だが、語るカレルの顔つきには不思議な真実味も覚えていたのだが――それは、単なる気のせいだったのだろうか。
気のせい、だろう。主について、マリエが知らぬことがあるとは思えない。二年前の着替えの一件から、マリエはカレルの内心についてより推し測ることが出来るよう努めてきたし、どんな些細な変化でも見逃すつもりはなかった。前々からそんな風に考えていたのなら、何かしら気づけはしたはずだ。
「今のお話は、一体どこまでが本当でございますか」
一応、確認の為にマリエは尋ねたが、カレルはひょいと肩を竦める。
「解釈はお前の裁量に任せる」
「そんな、殿下……」
「お前が私に怖いものなどないと思っているのなら、それでいいではないか。どちらにしても私が勉強とやらを好いていないのは事実だ」
その事実については、マリエもためらいなく合点がいった。
「しかし、まあ、あまり案ずるな。私も私に課せられたさだめを理解しているつもりだ。そのうち自然と勉学に励むようにもなるだろう。お前にも苦労はかけるが、今しばらくのことと思っていて欲しい」
カレルが取り成すように言う。マリエは主の傍でする苦労を苦労だとは思っていないから、そのことはよかった。問題があるとすれば、結局家庭教師からの苦情を事態打開までには繋げられそうにないことで、次に会った時はどんなことを言われるだろうと思うとまた胃がきりきりし始める。
だが、マリエの感じる重圧や胃痛も、主がこれから負う責務に比べたら微々たるものだ。
もし仮に、先程の、未来を恐れる心が真実だったとしても、主は強いお方だ。ほんの一時惑ったり、つまずいたりするくらい、きっとどうということもない。いかに主の双肩にかかる荷が大きく重いものであろうと、そうそう容易く潰れてしまうような方では決してない。ずっと傍にいたからこそ、マリエはカレルの強さを、資質を信じている。
「それではゆっくりとでも、殿下のお気持ちが前向きになりますよう願っております」
マリエは願いを込めて頭を下げる。
「ああ」
短く答えたカレルは、マリエが面を戻した瞬間、不意にまた視線を外した。少しの間があり、
「マリエ」
今度は明るくもなければ重くもない、何気ない声で名を呼ばれた。
「はい、殿下」
返事をすれば、カレルはまた間を置いてから、マリエが怪訝に思ったその直後に口を開いた。
「……私はお前を、手放しはしない」
先程も賜った嬉しき言葉だ。マリエはしみじみと幸福を感じながら返事をする。
「光栄に存じます。わたくしの忠心は、いついかなる時も殿下にございます」
するとカレルは一度だけ、溜息をついた。
目の端でこちらを見た時、口元には十六歳らしい照れ笑いが浮かび、それから何だか困ったような、それでいてとても優しい声で呟いた。
「知っている。もう十分なくらい、よくわかっている」
落とし穴はいつも平穏や退屈や慢心の先にあり、それでいて落とし穴に落ちた過去はうっかりと忘れてしまうものだ。
マリエはしみじみと感じた幸福のあまり家庭教師からの苦情も忘れかけていたので、この日に主と交わした未来についての会話も、やや長らく思い出すことはなかった。