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十四歳と十二歳

 頻度としては一年に一度ほど、カレルも風邪を引くことがある。
 マリエの目から見れば少ないくらいだと思う。何しろやんちゃ盛りの王子殿下は身体を動かして汗を掻くのが好きだし、たらいでする水浴びが好きだし、そのくせ湯浴みの時間は温まる暇もないほど短いし、服や髪が濡れたままでも一向に気にしないと来ている。寝相も決してよくはなく、マリエが朝起こしに行けば毛布や枕が床に落ちていることもしばしば。酷い時はカレル自身が床に落ちたまま、ぐうぐう寝息を立てている。
 そんな訳だから、たまに風邪くらい引いてしまっても仕方がないと思っている。――思うのとは別にもちろん心配もするが、大抵の場合は侍医に診せれば三日も経たぬうちに治ってしまうので、マリエはなるべく落ち着いて世話をする。近侍の勤めも四年過ぎれば慣れたもので、カレルがくしゃみをし始めた時には薬を煎じ始めていたし、熱が上がってきた頃には特製の湿布を完成させ、寝台に横たわる主の額に乗せていた。

 熱があればさしものカレルも遊び回ったりせず、おとなしく夜具に包まっている。
 しかしそれでも黙っているのは苦手のようで、マリエが傍にいる時はしきりと話しかけてきた。今も、水で濡らした布で顔を拭いている間中、あれこれ喋り続ける。
「顔を拭いてもらうのは気持ちがいい。すうっとする」
「喜んでいただけて光栄です、殿下」
「お前の作る湿布や薬よりずっとよく治る気がするぞ。湿布は冷たいのはいいがやけにべちゃべちゃしているし、薬は鼻を摘んでも上手く飲めないくらい変な匂いがして、その上やたら苦い」
「治るまではご辛抱ください」
 どことなく甘えた口調のカレルに、マリエは思わず苦笑する。いつものわがままも熱っぽい顔で言われたなら実に可愛いものだった。体調を崩した時に心細くなるのは誰にでもある心理で、カレルとて例外ではないようだ。
「なあ、私はいつ治る?」
 眉尻を下げながら答えようもないことを尋ねてくる。
「剣術の稽古があるのだ。あれは間を空けるとすぐに身体が鈍ってしまうと聞いた。急いで治さねばならぬのだ」
「殿下がちゃんと養生なさっていたら、きっと早くによくなります」
「早くとはいつだ、明日か?」
「お約束は出来ませんが、もしかすれば」
 マリエは曖昧に答えた後、主が不満と不安をあらわにするより先に話を逸らした。
「ところで、何かお召し上がりになりますか? ご気分がいいようでしたら、少しでもお腹に入れておいた方がよろしいかと」
「それなら、クルミのケーキが食べたい」
 真っ先にカレルが挙げたのは大好物の菓子だった。しかし病人に向く食べ物ではない。
「もっと消化のいいものにいたしましょう。治ってからいくらでも作って差し上げますから」
 言ってしまってから、『いくらでも』は失言だったかなとマリエは思ったが、カレルはそんな言葉尻を捕まえる余裕まではないらしかった。
「じゃあ川魚の焼いたのがいい」
「お言葉ですが、それもお風邪を召した時には……」
「何ならいいと申すか、お前は」
 カレルがさすがにうんざりした様子を見せる。確かにその言い分ももっともなので、マリエは病人向きの食べ物の例を挙げてみることにする。
「では、リンゴでも摩り下ろして参りましょうか。お見舞いにと料理人たちから差し入れがあったのです。さっぱりと召し上がれますよ」
「リンゴは構わぬ。だが下ろしたのは嫌だ」
「畏まりました。皮を剥いて切っただけのものを持って参ります」
「うむ」
 納得したらしいカレルが顎を引く。マリエはその肩を包むようにして毛布をかけると、恭しく一礼した後、寝室を出ようとした。
 寝室のドアの前まで来た時、
「くしゅんっ」
 不意にくしゃみが出た。
 何だか鼻がむずむずする。
「どうした、マリエ。お前も風邪か?」
 背後から主の問いがあり、振り向いて答えようとするともう一回。慌てて手で押さえたものの、心なしか寒気まで覚えて、思わず眉を顰めた。
「失礼いたしました」
 寝台に向き直って謝罪をすると、カレルはどうにも気にかかった表情で再度尋ねてくる。
「まさか私のがうつった訳ではあるまいな」
「ご心配なく。わたくしは滅多に風邪を引きません」
 軽く笑み、マリエは主の寝室を後にする。

 滅多に風邪を引かないというのは事実で、マリエは見かけによらず壮健な身体の持ち主だった。城に上がってからは病気一つしていないし、たまの寝不足や多忙さで少し調子を崩しても、すぐに持ち直せた。もちろん体調の変化に対する用心深さも肝要なところで、普段と違うと感じ取った際は早めの対策を怠らぬようにしている。
 自分の務めには代わりがいない。一度身体を壊してしまえば主を始めとして、城内のほうぼうに迷惑をかけることとなる。日頃から体調管理には特別気を払っていた。
 今も、マリエは上着を一枚羽織ってきたところだ。それから急いでリンゴの皮を剥き、形よく切った後で塩水に漬けると、皿に盛りつけて主の部屋へと舞い戻った。

「失礼いたします」
 そう声をかけてから、マリエは返事を待たずに寝室の扉を開けようとした。
 だが、開かない。
 取っ手が途中で止まってしまい、びくともしない。二、三度がたがた言わせてみたマリエは不審に思い、ひとまず室内へ呼びかける。
「殿下? 鍵をかけておいでですか?」
 寝室には鍵がついているが、普段はかけておかない決まりだった。小さな王子の部屋には、むしろ鍵のある方が危険な場合もあるからだ――そうはいっても何度か悪戯半分で篭城されたことがあり、もしかすれば今回もそうかもしれないとマリエは考えた。風邪を引いているというのに、やんちゃ盛りにも困ったものだ。
 寝室の鍵は預かっているが、普段は厳重に隠してある。いつもの悪戯なら説得して開けさせた方が早い。マリエは繰り返し尋ねてみる。
「リンゴをお持ちしました。入れていただけませんか、殿下」
 いくらもしないうちに、
「そこへ置け。後で食べる」
 扉越し、いやに素っ気ない返答がある。
 マリエは目を瞠った。さっきまで甘えるように話しかけてきた主の言葉とは思えない。まさか急に具合が悪くなったのだろうか、そう思うといてもたってもいられなくなる。
「殿下、どうなさったのですか。まさかお加減がよろしくないのでは――」
「違う」
 声は思いのほか近くからあった。扉のすぐ傍にいるのかもしれない。だが寝台を抜け出していることも、鍵をかけていることも、マリエには全く理解出来ない行動だった。
 その理由を、カレルは不機嫌そうな声で語る。
「今日はもう下がっていい。あとは私一人で治す」
「は……? あの、それはどういう……」
「お前にうつると困る」
 マリエは皿を持ったまま呆気に取られた。
 姿の見えない主は一人ぽつぽつと続ける。
「いや、もううつっているのではないか。さっき二度もくしゃみをしていたが、あれはきっと私のせいだ。だから今日はもういい、悪くならないうちに早く休め」
 それから、より小さく言い添えた。
「お前が倒れでもしたら、嫌だ」
 隔てられた応接間と寝室は、どちらも珍しく静かだった。硬く閉ざされたままの扉に触れ、マリエはそっと息をつく。
 何を仰るのだろう、この方は。――困るというなら自分は今こそ困っているし、心配だってしているのに。
 自分だけではなく城中の者たちが、冷静に努めてはいても、風物詩のような風邪だと知っていてもやはり、王子の身体を案じているのに。マリエが持ってきたリンゴだって、見舞いの品として渡されたものだ。それを受け取った時、料理人たちからはカレルの病状を尋ねられた。他の城勤めの者からも、何かで顔を合わせる度に聞かれていた。廊下で警護に当たる近衛兵たちだって、カレルが剣術の稽古に出られぬことを寂しがっているようだった。
 誰もが皆、そうだ。
 普段はとても朗らかなカレルが寝室に閉じ込められているのを、案じていない者などいるはずもない。
「殿下。先程も申し上げましたが、わたくしは平気でございます」
 訴えたマリエに対し、カレルは詰問口調で返す。
「なぜ平気だと言い切れる。絶対に風邪を引かぬ保証でもあるのか」
「保証まではございませんが……」
「では駄目だ。約束が出来ぬのなら下がれ。そしてちゃんと休め」
「無理を仰らないでください」
 ほとほと弱ったマリエは、しかし主の意思の強さにも気づいていた。子供相手にするような曖昧な答えでは納得させることは出来まい。
 説明して、理解してもらわなければならない。
「殿下が早く元気になってくださらなければ、わたくしが困ります」
 マリエは扉に向かって、真剣に話しかけた。
「城の皆が心配しているのです。殿下が一日も早くご快復なさることを、誰もが望んでおります。もちろん、わたくしもです」
「私なら平気だ。じきに治る」
 むっとした声のカレルは、ついさっきマリエが言ったことと同じ言葉を口にしていた。その事実に気づいたか、寝室には沈黙が落ちる。
 扉は動かない。
「わたくしを心配してくださる殿下のお気持ちは、とても嬉しゅうございます。ですが、今はご自身の養生に努めて、早く元気になっていただきたいと存じます」
 それでもマリエは話し続ける。
「もしわたくしが風邪を引いたとしても、その時に殿下が元気でいてくださらなかったら、気がかりで堪らなくて、じっとしていられぬだろうと存じます。殿下が健康でいらして、いつものように朗らかに笑っていてくださるのが、わたくしにとっては何よりの薬となります」
 その薬は、常日頃から大いに効き目を発揮しているはずだ。マリエは滅多に風邪を引かない。
「わたくしだって、殿下にもしものことがあっては嫌です。とても困りますし、心配になりますし、どうしてお傍にいなかったのだろうと後で酷く悔やむはずです。ですからきちんとよくなるまで、お傍に置いてくださいませんか」
 言うと、マリエは祈る思いで目を伏せた。
「お願いでございます、殿下」
 そこから待ったのはほんの数呼吸の間。やがて鍵の開く音がして、はっとしたマリエの目には細く開いた扉と、そこから覗く主の、いつになく悲壮な面差しが映った。
 かさついた唇が動いて、呟く。
「……心配、だったのだ」
 熱があるのが見ただけでわかる。なのにカレルは寝間着姿で、開けた扉にしがみつくようにして立っている。甘えたことを言っていた時とは別人のように、必死な顔で主張してくる。
「お前が私のせいで風邪を引いたら、それで寝込んでしまったらどうしようと思った。一人で寝ていたらそのことばかりしきりと考えてしまって、ずっと心細くて仕方がなかった」
 青い目が潤んだのも、熱のせいだろうか。それとも。
「なあ、お前は本当に平気か? 実は大層無理をしているのではないか? 急に倒れたりはしないだろうな? 私は、お前がいなくなったら――」
 こんな時に笑みが込み上げてくるのはなぜだろう。無論おかしかった訳でもなければ、嬉しいのとも少し違った。胸が苦しいのに、潰れそうなくらい苦しいのに、笑いたくなる。
 マリエは場違いな口元の綻びを、あるいは感情が振れるのを堪える。
 それから、静かに答える。
「殿下、ご存知ですか。具合の悪い時は得てして不安になってしまうものでございます」
「そうなのか?」
「はい。ご覧いただけばおわかりでしょう、わたくしは殿下よりもずっと元気でおります」
 それでカレルはマリエの顔をじろじろ眺めた。得心したか、赤らむ頬が安堵に緩む。
 マリエにも主の心境はよくわかる。だから急かさず、カレルが自分から寝台に戻るまで待った。しばらくしてのろのろと歩き出した主に手を貸し、横たわったところに毛布をかけ直し、額に滲んだ汗を拭いてやる。
「だがマリエ、今後も断じて無理はするな。少しでもおかしいと思ったら正直に申せ」
「お気遣いありがとうございます、殿下」
 深々と頭を下げたマリエは、次いで皿のリンゴを差し出した。カレルはそれを全て平らげてから、心細さを紛らわすように少しの間、話し続けた。
「もしお前が寝込んでしまったら、私は見舞いに行く。見舞いの品は何がいい?」
「あの、それはお気持ちだけで十分でございます」
「駄目だ、もう決めた。何がいいか考えておけ」
「……畏まりました」
「もちろん寝込まないのが一番いい。しつこいようだが無理はするな、もししたら後で怒るぞ」
 熱があるのに起きていた当人が言うのだから始末に終えない。
 もっともマリエは怒るどころか、主の振る舞いを咎める気すらなかった。カレルが口を閉ざしてまどろむまでじっと傍にいたし、眠りに落ちてからも長い間、あどけない寝顔を見守っていた。どうしても離れがたくて、くしゃみを我慢しながら主の寝室に留まり続けた。

 結局、カレルの風邪は翌々日にはすっきり治ってしまったし、マリエは何日間か喉が痛んだ程度で、寝込むこともなかった。
「せっかく見舞いの品が貰える機会だったのに、残念だったな」
 元気になった途端、カレルはそんなことを言ってマリエをからかおうとする。
 でも本当に寝込んでしまったら、主がどんな顔をするか知ってしまったから、マリエはますますの養生を心がけることにした。
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