新しい思い出の予感がする日
今朝の僕は、ちょっといい気分で目を覚ました。なぜかというと昨夜の晩ご飯は大好物のハンバーグ、これがかなり美味しくできたからだ。例によって播上からレシピを教えてもらい、試しに作ってみたところ簡単なのにめちゃくちゃいい出来映えだった。せっかくなのでお弁当にも入れて行こうと決めている。
ハンバーグのタネは前の晩に作ってあったから、今朝は焼くだけだ。播上レシピによると、玉ネギをすりおろして加えることで冷めても柔らかいお弁当向きのハンバーグになるらしい。玉ネギをおろすのは初めてだったが、包丁でみじん切りにするよりはむしろ楽だった。
小さめの小判型にしたハンバーグを両面焼いた後、ケチャップとソース、それに少しの砂糖を加えて煮込む。こうすると普通に火を通すより時短になって楽だし、お弁当には味つけ濃いめのほうがぴったりだ。ぐつぐつと音を立てるフライパンを横目に見つつ、お弁当箱に他のおかずを詰めておく。
オーバル型のお弁当は東京に来てから購入したものだ。お弁当作りをしようと決めた時に買ったが、その時はこんなにも続けられるとは思いもしなかった。やはり週に一、二度の無理のないペースで作るようにしてきたのがよかったのだろう。何事も背伸びはせず、身の丈に合った努力をするのが一番いい。
なんだってそうだ。全てのことにおいて、無理なんてしないのがいい。
札幌から東京に移り住んで、僕は早くこちらに慣れたかった。仕事で来た以上はそう簡単に帰れないのもわかっていたし、初めての東京暮らしにちょっとだけはしゃぐ気持ちもあったかもしれない。だが急いで慣れようとすればするほど、札幌との違いを痛感しては寂しくなることもよくあった。
東京の人はみんな言葉がきれいで、僕より全然訛ってない。東京にはちくわパンや豆パン、ようかんパンが見当たらない。東京には、播上みたいな友達がいない。
そうやってここにはないものを思い浮かべる度に、無性に寂しさを覚えた。寂しさを紛らわすためにはここに慣れるしかないと躍起になったこともある。だが無理をしたっていいことはない。慣れたふりをしてきた僕が、ふとホームシックみたいな気持ちに囚われたとしても仕方がなかったって、今なら思う。
新しい土地に慣れるというのは、昔いた場所を忘れるってことじゃない。僕の中には二十五歳まで生きてきた故郷が深く根づいていたし、そこで食べたもの、出会った人の存在だってずっと消えずに残っている。
そんな僕にとって東京は、古い記憶に折り重なるように新しい思い出をくれる場所になるはずだった。
今のところは、そんな予感がするって段階だ。でも事実になりそうだと思っている。多分。
お弁当箱に白いご飯を盛りつけ、できあがった煮込みハンバーグを詰める。
他のおかずはホウレンソウのコーン炒めと、これも播上から教わった茹で卵。ちょうど朝に紅茶を飲んだから、沸かしたお湯でついでに作った。スライスして並べるだけでなんとなく映えるから重宝している。
できあがったお弁当をスマホで撮影するのはここ最近の習慣だ。播上に送りつけてやって、出来映えを自慢している。もちろん料理の腕だけじゃなく盛りつけ一つとっても僕があいつに敵うことは全くないのだが、播上はいつも僕の努力を褒めてくれる。
播上も、僕がこんなにお弁当作りを続けられるとは思っていなかったようだ。時々言われた。
『ちゃんと続いてるなんてすごいな。ただでさえ慣れない土地で、いろいろ大変だろうに』
そう言ってもらえるのは嬉しいのだが、そうだろうすごいだろうと胸を張るのはさすがに照れくさい。
なぜかといえば――お弁当作りを継続させてきたのは、ほんのちょっと不純な動機もあってのことだったからだ。
お弁当を携えて家を出た僕は、代々木駅から山手線に乗り込む。
朝の山手線が混んでいなかったことはまずなくて、今日も今日とて押し合いへし合いしながらの乗車となった。おまけに代々木から職場のある田町までは実はそんなに近くない。山手線沿線なら電車一本だし通勤も楽だろう、なんて下調べもろくにせず部屋を決めたことを悔やんでいないと言えば嘘になる。でも東京なら、どこに住んだってこんなものかもしれないな。
ぎゅうぎゅう詰めの山手線に揺られて、どうにかこうにか田町まで辿り着く。閉じた駅構内の空気ですら電車内よりは澄んでいるような気がして、とりあえずひと呼吸。それから職場へと、姿勢を正して歩き出す。
最近、出社するのが楽しみになっていた。
お弁当を持っていく習慣がついたから、というのもある。今日に限っていえば、メインのおかずがハンバーグだからというのもある。
でも、一番の理由は――。
「渋澤さん!」
思い浮かべた顔の主の声が聞こえて、一瞬どきっとした。
平静を装い振り返ると、コンコースをこちらに向かって駆けてくる姿がある。ぱりっとしたスーツと足元のスニーカーがミスマッチでもあり、彼女らしくもあった。タイトスカートなんて走りにくそうに見えるけど、芹生さんは全く意に介さず軽快にここまで走ってきた。
そして、大して息も乱さずに挨拶をする。
「おはようございます!」
「おはようございます。今日も元気だね、芹生さん」
「はい。昨夜も家に帰って、すぐ寝ちゃいましたから」
ほんの少し恥ずかしそうに、彼女は涼しげな目元を微笑ませる。
それから、同じ高さの目線で真っ直ぐに尋ねてきた。
「渋澤さんは、今日もお弁当を作ってこられたんですか?」
「うん、よくわかったね」
僕がお弁当の入った鞄を掲げると、芹生さんはどこか得意そうな顔をする。
「今日、火曜日ですから。そうかなって思ったんです」
彼女は、僕が火曜日にお弁当を持ってきていることを知っていた。例外的に別の曜日に持ってくることもあるのだが、火曜日には必ず作ることにしている。この日は総務部の全体ミーティングの日で、休憩時間のタイミングが読みやすいからだ。
そしてミーティング終わりに昼休憩に入るのは総務課みんな同じだから、休憩室で芹生さんと話ができる。彼女は僕がお弁当を持ってくると、必ず声を掛けてくれる。おかずを分けてあげると、最初は遠慮がちにしつつもこちらがびっくりするほど喜んでくれるし、美味しそうに食べてもくれる。
もともとお弁当を作りはじめたのだって、彼女の言葉がきっかけだった。
それが今の今まで続いているのも、芹生さんがいるからだ。
「今日のメニューはハンバーグなんだ。播上に習ったレシピだから、美味しいよ」
「素敵ですね! 播上さんは洋食にも詳しいんですね」
「そう言われればあいつ、小料理屋の息子なのに和食以外も作れてるな……」
芹生さんには播上のことも話している。故郷にいる、料理が上手くて毎日お弁当を作ってきてて、真面目だけどちょっと不器用な僕の友達。芹生さんは不思議な人で、僕が一度きり話しただけのことでもちゃんと覚えている。お蔭で僕は彼女に遠慮なく播上の話ができたし、彼女も嫌な顔一つせずに耳を傾けてくれた。
そんな彼女と過ごす時間に、楽しさと幸せを感じつつある今日この頃だ。
「では、私は先に行ってますね。また後程!」
「ああ、また」
会釈の後で職場に向かって走り出す芹生さんを、僕は笑顔で見送る。どうせ行かなくちゃいけないんだからそんなに急がなくてもと思うのだが、誰よりも早く出勤して課内の清掃をするのが芹生さんという人だった。生真面目で勤勉で、それでいてすごくかわいい人だ。
まだ一緒に出勤できるほどの距離感ではなくて、それでも僕もなんとなく急ぎたい気持ちで歩を速める。掃除に人手があればあるだけいい。せっかくだから彼女を手伝うことにしよう。
この東京で僕には、ささやかだけど新しい思い出ができつつある。
今はそんな予感がしている。たぶん――いや、きっと事実になるだろう。