Tiny garden

寝坊した日

 朝、目を覚ましたら七時を過ぎていた。
「えっ!?」
 数秒間フリーズした後、我に返り慌てて飛び起きる。

 家から地下鉄の駅まで十五分、地下鉄で職場まではだいたい十分。
 八時半までに出勤するなら八時には家を出なくちゃいけない。大急ぎでシャワーを浴びながら思いを馳せるのは今日の弁当のことだ。
 作ってる暇、あるだろうか。
 社会人生活三年目の春、今日まで一度として寝坊したことはなかった。ただ昨夜は渋澤と飲みに行っていて、少し帰りが遅かったせいだろう。部屋に帰ってきた時にはもう日付も変わっていたのをぼんやり記憶している。
 バスルームを出て髪を乾かし、とりあえず着替えを済ませたのが七時半前。
 ここで俺は、入社以来ずっと続けてきた習慣への判断を迫られた。
 つまり毎日作っている弁当を、時間のない今朝も作るか否か。

 幸か不幸か炊飯器のタイマーはちゃんと掛かっていて、蓋を開ければつやつやの炊き立てご飯が湯気と共に姿を見せた。酔って帰ってきたっていうのに、米を研いでスイッチを入れておく習慣はしっかり身に着いていたようだ。あんまり覚えてないが。
「……おいしく炊けてるな」
 水加減も問題なく炊きあがったご飯を一口味見して、それから少し考える。
 いつも通りに弁当を作っている余裕はない。本当なら今日は鮭のムニエルを作ろうと思っていたのだが、昨夜もそちらにまでは気が回らず、鮭の切り身はまだ冷凍庫の中でかちかちに凍っていた。今から解凍して鮭を焼いて、更に他のおかずもとなるとさすがに時間が足りない。
 だが、弁当を作っていかないというのもなんとなく悔しい。
 弁当作りはただの趣味じゃない。社会人になってから一度たりとも欠かしたことのない習慣を、体調不良とかならまだしも、酒を飲んで寝坊なんていう理由で途切れさせてしまうのは嫌だった。
 作るとすれば簡単なものしかないだろう。弁当箱をさっと埋めるなら献立はご飯もの、焼き飯や丼などがいい。冷蔵庫や戸棚を覗いてぱっと目についたのは買い置きの玉子、ツナの缶詰、それに冷凍した茹でホウレンソウ――それならメニューは三色丼で決まりだ。

 炒り卵は砂糖と醤油で味をつけ、更に少しのマヨネーズを足す。火にかけた後はとにかくひたすら掻き混ぜながらふんわり仕上げた。
 ツナは油を切ったらフライパンに空け、醤油、砂糖、みりんを足して汁気がなくなるまで炒る。
 できあがったそれらをご飯の上にきれいに敷き詰めたら、最後にホウレンソウを添えて完成。ここまで十分かかったかどうかだ。
 弁当箱には忘れずにスプーンを添え、入りきらなかった分をおにぎりにして簡単ながらも朝食とする。
 全ての準備を終えて部屋を出たのはいつも通りの朝八時。冷や汗も掻いたし慌ただしい朝になってしまったが、無事に出勤できれば結果オーライだ。

 昼の社員食堂で顔を合わせた清水に以上の経緯を打ち明けたら、目を丸くして驚かれた。
「播上でも寝坊することあるの!?」
「あるよ。ないと思ってたのか?」
 苦笑する俺を前に、清水は瞬きを忘れるほどびっくりした様子だ。隣に座る彼女は椅子の上でおおげさに動きを止め、しばらくしてから首を振る。
「そういうイメージなかったよ。毎朝しゃっきり六時前には起きてそう」
 普段ならそのくらいには起きている。でも絶対に寝坊をしない人なんているのかと思うし、俺もそこまで自分を律せる人間じゃない。まして前の晩に飲んでいたなら尚更だろう。
 しかし二年の付き合いになる『メシ友』は、俺のことをずいぶん立派な存在だと思ってくれているようだ。
「なんか安心しちゃうな。播上ですら寝坊することあるなら、私がしても仕方ないってことだもん」
 もっともらしくそう言い張るから、こっちはつい笑ってしまう。
「寝坊して安心してもらえるとは思わなかったよ」
「播上はそんなこと絶対しないってイメージだったからね」
 そこまで買いかぶられると、飲みに行ったせいで寝坊したって事実を打ち明けにくくなる。
 いや、嘘をつくつもりは毛頭ない。ただ清水の俺に対する信頼を裏切りたくないな、とは思ってしまった。
「それに、ちゃんとお弁当は作ってきてる。偉いね」
 彼女が俺の弁当箱に目を向ける。
 ちゃんと、というほどでもない本日の弁当を、俺はちょっと恥じ入りながら開けてみせた。
「さすがに時間なくて手抜きだけどな。大慌てで作った」
 炒り卵とツナそぼろとホウレンソウの三色丼は、きれいな黄色と茶色と緑で見映えなら満点だろう。ただボリュームという点では少々不満がある。普段なら箸休めのもう一品を添えるところだ。
「きれいにできてるよ、美味しそう!」
 それでも清水が笑顔で褒めてくれるから、こっちも不思議と『まあいいか』って気持ちになってしまう。
「美味しいのが一番だよな、弁当は」
「そうそう」
 頷く彼女が、続いてツナそぼろを指差す。
「これは何? 挽き肉じゃないよね?」
「ツナ缶で作ったそぼろ。食べるか?」
「食べる食べる! そぼろってツナでも作れるんだね」
「工程は挽き肉と一緒だよ。味つけもな」
 俺はいつものように、弁当箱の蓋にツナそぼろとご飯、それに彼女からのリクエストで炒り卵を取り分けた。
「ありがとう、いただきまーす!」
 清水は嬉しそうに受け取ると、まずはツナそぼろを一口食べた。
 そして次の瞬間目を瞠る。
「わ、すごい。ちゃんとそぼろの味するのにツナだ!」
「挽き肉で作るのとは食感違うよな」
「そだね。でもしっとりめで美味しいし、ご飯に合うなあ」
 頷く彼女が、うきうきとご飯も口に運ぶ。
 その様子を見て俺も満足しつつ、自分でも弁当を食べ始めた。
「そぼろの味つけいいね、後でレシピ教えて」
「わかった、後で送るよ」
「炒り卵もふわふわにできてる!」
「ちょっとマヨネーズを足したんだ」
 炒り卵や卵焼きは冷めるとパサつきがちだが、マヨネーズを少し入れるとふわふわが保てる上、卵色も褪せずにきれいなままだ。三色丼はその名の通り色合いの映えも大事だから、いい色に仕上がってよかった。
「寝坊してもこれだけ作れるならいいじゃない、すごいよ」
 清水の口調には励ましのような優しさが滲み出ている。
 俺が寝坊と手抜き弁当を悔しく思っているのを気遣ってくれているんだろう。情けなさと共に、ほんの少し嬉しさも覚えた。
「ありがとう。寝坊なんてしないに越したことないけど」
 照れまじりに感謝を告げれば、彼女はちょっとからかうような顔つきになる。
「でも、なんで寝坊なんてしたの? すっごいレシピ考えて夜更かししたとか?」
「ああ、それは……」

 その理由を説明しようとしたタイミングで、俺たちが座るテーブルに渋澤がよろよろと近づいてきた。
 俺と清水のちょうど真向かいに、片手で椅子を引いて倒れ込むように座る。こっちを向いた顔色はあまりよくない。今朝からずっとこうだ。

「渋澤くん、具合悪そうだね」
 清水が声を掛けると、渋澤は力なく顎を引く。
「二日酔いなんだ」
 そう言ってペットボトルから水をちびちび飲んでいた。どうやら食欲もないらしい。
 奴の様子を見て清水も大方の事情を察したようだ。
「あ。もしかして、播上が寝坊したのって……」
 隠すつもりもなかったし、俺も正直に打ち明ける。
「昨夜、渋澤と飲みに行った」
「次の日も仕事なのにすごいね。そんなに盛り上がったの?」
 清水は揶揄するでもなく、純粋に驚いた口調で尋ねてきた。
「盛り上がったっていうか……」
「俺たちはちょっと飲んで帰るつもりだったんだけど、店の雰囲気がそうじゃなかった」
 渋澤と俺が昨夜入ったのは大通駅周辺でもよくある類のダイニングバーだった。
 特にスポーツバーと銘打たれてもいない店だったが、店内には大型スクリーンが設置されていて、昨夜は地元球団のナイターを流していた。お客さんの半数以上がユニフォームを着用していて、仕事帰りでスーツ姿の俺たちが浮いていたほどだ。試合が盛り上がるにつれお客さんたちのボルテージも上がっていき、賑々しい店内で飲み始めた俺たちは当初『二杯くらいで店を出よう』と示し合わせていたはずだった。
 ところが試合は一点を取り合う攻防戦、手に汗握る試合運びに俺たちもついスクリーンに見入ってしまう始末。俺も渋澤もそこまで野球好きというわけではなかったが、そこはニュースでもよく目にする地元球団だ。監督と主だった選手の名前くらいは知っていたからなんとなく観戦を続けてしまい、気づけば周囲のお客さんと共に固唾を吞んで見守ったり、本気で悔しがったり、快哉を叫んだり――そうして試合を勝利の瞬間まで見届けた後、周りにつられるように追加の一杯を頼んで乾杯して、そのままずいぶん遅くまで店に留まってしまった。
「あれは完全に飲まれたよな、雰囲気に」
 清水にひととおり説明した後、俺と渋澤は口々にぼやく。
「つられちゃうよな。僕もお前もそんなに野球好きでもないのに」
「ああいう場にいるとなんか見入っちゃうんだよな」
「そして酒も飲んでしまう。つくづく流されやすいな、僕らは」
 その結果が俺の寝坊、渋澤の二日酔いだ。藤田さん辺りに知られたら『お酒の飲み方がなってない』とお叱りを受けるかもしれない。
 反省する俺たちをよそに、清水はなぜか楽しげな顔をしている。
「野球ではしゃぐ播上も全然イメージできないよ! すっごく意外!」
 彼女の反応に、今度は俺が目を丸くする番だ。
「はしゃいだってほどじゃ……そこまで意外かな」
「まあ確かに、播上っぽくはないよな」
 渋澤まで納得した顔をしている。そっちだってそこまで詳しくなかったくせに、一緒になって歓声上げてたじゃないか。
「見てみたかったなあ、播上が観戦してるとこ。想像できないしギャップすごそう!」
 そう話す清水がむしろはしゃいでいる気がする。一体何がそこまで面白いのか。
「なんでそんなに楽しそうなんだ」
 俺の問いに、彼女は満面の笑みで答えた。
「私、播上のことまだまだ全然知らないんだなって思って!」

 そりゃメシ友とは言えたかだか二年の付き合いだし、この会社に就職するまでは知りあってすらいなかった。知らないことなんて当たり前のようにある間柄だろう。
 至極当然のことを楽しそうに言われると、清水の中で俺はどんなイメージだったんだろうって逆に気になってくる。
 絶対遅刻はしない、野球見てはしゃいだりもしない奴――ものすごく真面目で勤勉なタイプとか思われてるのか。そこまででもないのに。

 そわそわする俺をよそに、渋澤と清水が会話を始める。
「播上についてなら、清水さんより僕の方が詳しいかもな」
「えー、それはないよ! 私もけっこう播上のこと知ってるよ」
「でも僕は同じ総務課だし、よく飲みにも行く間柄だしな」
「私は播上から直接レシピ教わってるもん」
 二人して何を張り合ってるんだ。
 愉快そうに争う渋澤と清水を横目に見つつ、俺は弁当を食べる。手抜きとは言えちゃんと作った三色丼はやっぱり美味しい。他の事柄についてはさておき、弁当作りに関してだけは『真面目で勤勉』も間違ってはいないかもしれないな。
「じゃあいいよ。私はこれから播上ともっと仲良くなって、渋澤くんより詳しくなるから!」
 言い争いがどういう方向に展開したのかは不明だが、なぜかそう断言した清水がくるりとこっちを向く。
「ね、播上!」
「え? ああ、うん」
 勢いに気圧されて思わず頷いてしまえば、視界の隅にいかにも何か言いたそうな顔の渋澤が見える。清水はなんだか得意そうに笑っていて、その笑顔を見ると、不思議と『まあいいか』って気持ちになってしまう。
 まあいいか。俺がそこまで真面目でも、勤勉でないってことが彼女に知られたって――弁当作り続けてるってことだけは確かだもんな。
 そして清水は、そのことをちゃんと褒めてくれる。
 それを知っているから、何を知られたって別に不安はなかった。
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