勝負には勝ちたい(3)
インハイが終わった後、俺の顔には試合で受けたいくつかの傷跡が残っていた。いつものことだ。パンチを食らったところが腫れ上がったり青い痣が残ったり切り傷ができて出血したりする。そういった怪我は一日やそこらじゃ治らないから、試合の後は何日間か腫れ上がった酷い顔で外へ出なければならない。もっとも俺の中ではそれも恒例行事みたいなもんで、メシ時や瞬きの際にちょっとした不自由を感じることはあっても、それ自体を憂鬱だとは思わなくなっていた。
茅野と約束をした日、朝起きて鏡を覗いた時は、慣れっこだったこの傷が忌々しいと思わなくもなかった。ただでさえ目つきの悪い顔に痛々しい傷跡があると、まるでどこぞ帰りに見えてくるから困る。少なくともこれから女と会う奴の顔じゃない。だがそういうのを気にするのも何となく俺らしくない気がしたし、たかが顔の傷くらいで日を改めるのも嫌だった。茅野にはお菓子を――ババロアを作ってもらう約束をしていて、俺は茅野に会えるこの日をすごく楽しみにしていた。
それで俺は特に隠しもせず、茅野との待ち合わせ場所に向かった。
茅野とは近所の公園前で待ち合わせをしていた。
先に来ていたのは向こうで、普段学校でしか顔を合わせない茅野が私服姿で突っ立っているのを見た時、たまらなくほっとした。インハイで遠征中は毎日のように試合があったし、常に緊張から神経を尖らせていて、身体は休められても気まで休める余裕はなかった。茅野とは夏休みに入って以来ずっと会ってなくて、その顔を見た時無性に懐かしくなって、帰ってきたんだと実感した。
茅野は目に眩しい派手な緑色の、水玉模様のキャミソールを着ていた。夏らしく晒した肩や腕に、いつもの無造作な髪の影がそよいでいた。こういうふうに肩とか出してくるキャラだと思ってなくて、足元もサンダルで、茅野ってこういう服を着るのかと正直意表を突かれた。私服というだけでいつもより可愛く見えて、帰ってきてよかった、と密かに思った。
ただ顔を合わせた瞬間の方がもっと意表を突かれた。俺が近づいていくにつれ、待っていた茅野の顔から笑みが消えてみるみる引きつるのがわかった。四角い布張りのバッグを提げた手に、きゅっと力が入るのも見えた。
間違いなく俺の顔の傷が酷いせいだろう。そう思って俺は弁解した。
「悪い、ひっでえツラだろ? 痛みはほとんどねえんだけどな」
告げた直後、茅野の表情が歪んだ。自分が怪我でもしたみたいに痛そうな顔をしたかと思いきや、その目から涙が溢れ出すまで五秒とかからなかった。
「こ、向坂さん……」
茅野は声を震わせながら、ぼろぼろと涙を流していた。八月の炎天下、貴重な水分を流しては頬や肩を濡らしている茅野に、俺はうろたえた。
「な、何で泣くんだよ。何かあったのか?」
まず、どうして茅野が泣いてるのかわからなかった。泣かれるようなことをした覚えがない。顔が怖いってのは自覚してるが、その程度で茅野が泣くとも思えなかった。
しばらくしゃくり上げていた茅野が、聞き取りにくいか細い声で答えた。
「だって、だって、向坂さんが戻ってきてくれたから……」
「はあ? いや、そりゃ戻ってくるだろ」
「あ、あんな、あんな目に遭ったのに、よくご無事で、帰ってきてくださって……」
一瞬、何のことを言われてるのかわからなかった。
少し考えて、茅野の言う『あんな目』というのが試合のことだと察したが――ただの試合だぞ。本気で喧嘩しに行ってたんじゃあるまいし、茅野の言葉も涙もこの時の俺にはオーバーに聞こえた。
「大げさだなお前。俺がどこ行ってたと思ってんだ」
だが俺が笑い飛ばそうとしても、茅野は笑うどころかますます不安になったように泣きじゃくった。
「だって、すごかったじゃないですか。相手の選手だってめちゃくちゃガチムチだったし、ごっ、強盗にも、普通に勝てそうだったしっ」
インハイの試合は動画がネット配信されていて、茅野も最初は俺の試合を見ようとしていたらしい。でも『最後まで見られなかった』と聞いていた。その理由を茅野は途中で怖くなったからだと話していたが、それを電話で聞いた俺は女だからしょうがねえよな、と思っていた。これまでボクシングを好きこのんで見たがる女とは会ったことがなかったし、むしろボクシングやってるって言うと結構な確率で引かれた。茅野はボクシングのことを何も知らないそうだったが、理解しようとしてくれる気持ちは嬉しかったし、理解できなくてもそれはそれでいいと思ってた。
でも茅野は、本気で怖がっていた。
「私っ、本当に、うう、嬉しくて……向坂さんが無事でよかったって……!」
うちの妹でもここまではしないってくらい、声を上げて泣いていた。最後まで見られなかったという試合で、俺の戦いぶりが余程危なっかしく見えたんだろうか。一回戦は割と危なげなく勝てた覚えがあったが、それはあくまで試合に慣れてる俺の感想であって、初めてまともにボクシングを見るような相手には当てはまるはずがない。
「だ、だから大げさだって言ってんだろ。別に戦場に行ってたわけじゃねえんだぞ」
俺は茅野を泣き止ませようとしたが、茅野の涙は止まらなかった。ただでさえ派手な緑色のキャミソールにいくつも濃い染みができていって、このまま放っておいたら干からびるんじゃないかと危機感さえ覚えた。
とりあえず暑い中に突っ立たせておくわけにもいかないし、俺は茅野の小さな背中に手を添えた。
「わかった。無理に泣き止まなくていいから、こんな暑い中で泣くのはよせ」
どうせ俺の家に上がってもらうつもりだった。そこへ連れていって、それからどうにかして俺のせいで泣いてる茅野に――。
茅野に、どうすれば泣き止んでもらえるのかは全くわからなかった。
ボクシングが怖いと言われてしまったら、俺にできることなんて何もないからだ。
妹は遊びに出かけていて、家には誰もいなかった。
俺は未だに泣き続けている茅野の肩を支えて家へ連れ込んだ。茅野はさっきまでよりはいくらか静かになったが、まだ何度もしゃくり上げていて自分で靴も脱げないほどだった。俺が代わりに茅野のサンダルを脱がせて、揃えて、また肩を支えて階段を上がり、俺の部屋まで連れていった。茅野はされるがままだった。遠慮もしなかった辺り、他のことを考える余裕さえなかったんだろう。
そんなに怖い思いをさせてしまったことがショックだった。
せっかく茅野がボクシングを理解しようとしてくれたのに、かえって苦手意識を植えつけてしまった。それは誰のせいかって考えたら、当然俺しかいなかった。もし俺がもっと、初めて見る奴にも不安を抱かせないような試合運びができていたら、茅野もここまで怖がることはなかったはずだ。
そう思って俺は、部屋の中に入れた茅野を強く抱き締めた。
「怖いもん見せて、悪かった」
茅野の肩は細くて、身体は思ったよりもずっと薄かった。それでいて剥き出しの腕が驚くほど柔らかくて、俺の身体とは全然違うと感じていた。抱き締めると茅野の顔がちょうど俺の胸の辺りに来て、そこで茅野が息を呑んだのがわかった。俺からは茅野のつむじくらいしか見えなかったが、腕の中にある身体の小ささになぜか途方に暮れたくなった。
俺と茅野は何もかも違い過ぎて、俺の好きなものをどうやって理解してもらえばいいのかわからなかった。いや、理解してもらうなんて考えがそもそも傲慢なのかもしれない。何にも知らない奴から見たらボクシングなんて乱暴で危ない競技にしか見えねえんだろうし、それを誰かにわかってもらおうなんて思わない方がいいのかもしれなかった。
ちょうど俺自身が、他の奴から理解してもらうのを諦めたみたいに。
するとそこで、急に泣き止んだ茅野が顔を上げた。
「あ、あの、違うんすよ」
いきなり泣き止んだ茅野はそれでも真っ赤な目をしていたし、頬はまだ涙に濡れていて、声はかさかさにかすれていた。でもどうしても言いたいことがあるというふうに、必死になって続けた。
「私は、何て言うか……ボクシングが怖かったんじゃなくて」
ぐすっと鼻を啜って、茅野が声を震わせる。
「つまり、向坂さんが怪我するかもって思って、それが怖かったんす」
言われて、俺はその言葉の意味をしばし考えた。
でも俺は初めから茅野が泣いた理由をそういうふうに解釈していた。ボクシングが怖いっていうのはつまり、リングに立つ人間が怪我をしかねないから怖いっていう意味で、だとするとやっぱり俺の試合運びに責任があるはずだ。
「じゃあ、お前を不安がらせるような試合をして悪かった」
そう思って詫びると、茅野は懸命に首を横に振る。
「い、いえ、そういうことでもなくてっ。私、本当は向坂さんをずっと見てたかったんです。でも私……」
そこで一度、言いにくそうにためらった。伏せた睫毛に小さな涙の雫がくっついていて、頬には涙の跡がくっきりついていて、唇は赤いのに乾いていた。その時俺は、ちょっと場違いなことを考えた。
泣いてる顔が可愛いって、そういうふうに思うこともあるのか。
もちろん、泣いてない方がいいに決まっている。茅野は笑ってる方が似合うし、俺だってこうして泣き止んでもらうまでどうしていいのかわからなくて動転していた。だから茅野は泣いてない方がいいし、ましてや俺のことでなんて二度と泣かせたくはなかった。
でも、俺は混乱していた。泣かせたくない、心配かけたくない、もっと安心できるような試合ができればよかったと罪悪感を抱く一方で、泣いた後の茅野の顔に妙な感想を抱いていた。
「向坂さんが絶対怪我しないとか、大丈夫だとか、絶対勝つって思えるほどには、向坂さんのこと知らなかったから……もっと向坂さんのことを知ってたら、絶対、見てても怖くなかったって思うんでっ」
茅野は真っ直ぐに俺を見て、一歩も引くことなく続けた。
「だから私、向坂さんとボクシングのこと、今以上によく知りたいっす!」
相変わらず、いざって時の一撃が強烈だった。ストレートすぎて眩暈がした。
理解したいと思ってくれるのは嬉しかったが、その結果がさっきの涙だ。俺は茅野を泣かせたいって思ってるわけじゃなくて――迂闊にも泣き顔も可愛いなんて思ってしまったがそれでも泣いてない方がいいに決まっていて、ましてその泣いた理由が怖さや不安だっていうなら理解なんてしなくてもいい。
「別に無理して見なくてもいい」
俺は部屋にあったタオルで茅野の顔を拭いてやりながら言った。
「ボクシングは、興味のない奴が我慢して見るもんじゃねえ」
拭き終えてから、涙の跡が消えた茅野の頬に手で触れてみた。柔らかくて傷一つなくて、やっぱり俺とは全然違う。こんなに何もかもが違いすぎる相手に、俺を理解してもらうなんてことができるんだろうか。
「それにな、勝負事に絶対なんてねえんだ。どれほど才能があろうと、どんなに努力してようと、負ける時は負ける。そういうもんだ。お前の気持ちは嬉しいけどな」
本当は『絶対負けない』、そう言えたらいいのかもしれない。
だが試合に備えてどれほどトレーニングに打ち込もうと、コンディションを整えようと、試合ってもんは水物で必ず勝てるってことはない。俺も何度か舐めてかかった試合で痛い目を見たことがあるし、逆に勝てると思ってなかった試合で勝利を掴んだこともある。茅野に対して、次こそは不安にさせない試合をするなんて約束することすらできない。茅野が俺を理解しようとすればするほど、ますます不安にさせるだろう。
それでも俺は、ボクシングをやめることができない。
好きだからこそ今日まで打ち込んできた。こればかりは誰に何を言われてもやめられないし捨てることができない。他の誰かのせいにしたくはねえから、やめる時は自分で決めるつもりでいる。
だから茅野には、俺を理解してくれなくてもいい。
ボクシングをしてない時の俺と一緒にいてくれるだけでよかった。
「俺は、そういうんじゃなくても……」
言おうと思っていたことがいくつかあった。
でも泣いたことも忘れたようにきょとんとしている茅野を見ていたら、言うべきことはたった一つじゃねえかって思えた。
「さっきお前の顔見た時、帰ってきたなって、すげえ実感した」
待ち合わせの時、茅野の顔を見たら無性にほっとした。
俺の何もかもを知ってくれとか、常に傍にいてくれとか、俺が背負ってるものを一緒に背負ってくれなんてことは言わない。今日みたいに試合の後に会ってくれたらそれでいい。俺がボクシングから離れて一息つく時、傍にいて、トレーニングの課題やら試合への緊張感やらプレッシャーやらの対極にあるような――そういう茅野に、俺と一緒にいてもらいたかった。
俺にとっての茅野は、ちょうど茅野が作ってきてくれる菓子みたいなもんだと思った。あの日頼んで、本人曰く『頑張って』作ってきてくれたクッキーや、今日の為に作ってきてくれた、きっと美味いに決まっているババロアみたいな。努力をすればするほど、そして成果を挙げればその分だけ、美味いと感じるはずだった。俺も茅野といる為なら今以上に頑張れそうな気がしていた。
昔、親父が俺にボクシングをさせたくてジム通いを始めた頃のことを思い出した。小学生の頃の俺はまだボクシングをよく知らなくて、今ほど熱中してもいなかったし興味もなかった。それで親父は俺を釣る為に、ジムの帰りに時々喫茶店に寄って、ケーキセットやらパフェやらをごちそうしてくれた。今では俺も親父の思惑通り、ボクシングにすっかりのめり込んでしまって、わざわざご褒美なんて貰う機会もなくなったものの――。
そういう記憶まで蘇ってくる。茅野といると、不思議なことに。
「不思議だよな。そう長い付き合いでもねえのに、そういう存在になってる」
口に出して告げると、茅野は腫れぼったい瞼で瞬きをした。俺が何を言いたいのか、ぴんと来なかったのかもしれない。
だから俺は改めて尋ねた。
「俺はそれでいいと思ってる。お前は……どう思う?」
ただし言葉だけじゃなく、行動でもだ。
茅野の顔を覗き込んだ。泣いた後の重そうな瞼と、雫が消えて艶だけが残った睫毛と、今でも赤く潤んだ目と、乾いた唇と――その唇に近づいた時、茅野はゆっくりと重そうだった瞼を閉じて、俺もそれが答えだと思った。
しかしこの時の勝負は言わばノーコンテストだった。
要は俺が七つも下の妹にまんまと出し抜かれたという話だ。海は俺が女を家に連れ込むと読み切った上で、非常に腹の立つタイミングで帰ってきて乱入してきた。結果、邪魔が入っただけでなく茅野が俺の為に作ってきてくれた美味いババロアまで半分食べられた。歳の離れた妹だと思ってこれまで優しくしてやっていたが、海にはそろそろ礼儀とか物事の道理ってやつを教えてやるべきかもしれない。
俺はその日の帰り、茅野を送り届ける途中で改めて思っていたことを告げ、茅野からも望んだ通りの答えを貰った。
そして家へ戻ると、上機嫌の海が俺を待っていた。
「お兄ちゃん、またお姉ちゃんを連れてくるよね? 海、あのお姉ちゃん好き!」
「お前な……。もう四年生だろ、あんまり人前でわがまま言うな」
妹に対して溜まりに溜まった不満はあったが、俺自身そこまで機嫌は悪くなかったので、とりあえず頭ごなしに叱るのは避けた。
代わりにやんわりと諭すことにする。
「また連れてくるからちゃんと礼儀正しくしろよ。あと俺の客なんだから、あんまり長居すんな」
「はーい!」
海はわかっているのかいないのか怪しい返事の後、にこにこしながら言った。
「ねえお兄ちゃん。お兄ちゃんのこと好きになってくれる人がいてよかったね!」
一歩間違えば嫌味みたいな言葉だが、俺は、素直に頷く気になれた。
「ああ」
本当に、ご褒美でも貰ったようないい気分だった。
俺の答えを聞いた海はまた笑ったが、ふと思い出したように付け加えてきた。
「でもさ、お姉ちゃんには敬語やめてもらった方がいいよ。海もクラスの子には敬語使わないし!」
「……わかってる」
たまにぐうの音も出なくなるようなことを言いやがる。一体誰に似て、こうもませてんだか。
とは言え俺もその通りだと思っていたから、それについてはいつか茅野にも頼んでみるつもりだった。