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勝負には勝ちたい(4)

 茅野のことを一穂と、名前で呼ぶようになった。
 向こうも俺のことを、名前で呼ぶようになった。
 それは少なくとも俺の人生の中じゃ異例のことだったし、同世代の女に限って言えば覚えている限り初めての出来事でもあった。その分だけ俺は一穂に気を許し、一穂は俺に近づいてきてくれた。距離が縮まったのをはっきりと感じている。幸せだった。
 だが一方で、いつからか俺達の間には圧倒的かつ排除しがたい壁が立ちはだかりつつあった。

「ねえお姉ちゃん、海もお姉ちゃんのクリスマスケーキ食べたい!」
 俺の部屋に来て、俺と一穂の間に座った海が、一穂に向かって屈託ない笑みを見せている。
 普段は用でもない限りは俺の部屋になんて来ないくせに、一穂が来ると必ずこうだ。呼んでもないのにやってきて長々と居座る。日に日に寒くなってきた十二月上旬、外で会うのが難しくなってきたところにつけ込むように、海は一穂にべったりだった。
「嬉しいなあ。なら、すっごいの作んないとね」
 一穂は一穂で、海がいるからといって邪険にしたりはしない。
 むしろ海に慕われているのが嬉しいようだった。一人っ子できょうだいがいないからうちが羨ましい、みたいなことは何度か言われていた。ただ気を遣ってくれてる可能性もあるだろうし、そうでなくても俺と会う度に海の面倒まで見てもらってるこの状況はどんなもんかと思う。
「わあ! すっごいのってどんなの?」
 海が食いつくと、一穂はにこにこ笑いながら答える。
「実はブッシュドノエルを作ろうと思ってたんだ。一枚大きな生地を焼いてね、クリームを塗ってくるっと丸めて……」
 家庭部の部長になってからというもの、一穂のお菓子作りの腕はめきめきと上達しているようだ。最近ではレパートリーも増え、以前のように自信のないそぶりを見せることもなくなった。ただ部長としてのリーダーシップにはまだ自信があるわけでもないらしく、時々相談を持ちかけられている。そういう時は俺もできるだけ一穂を励ますようにしていた。
 十二月に入れば、いやでも意識し出すのがクリスマスだ。一穂はクリスマスにケーキを焼くつもりだそうで、俺の家まで持ってきて一緒に食べようと言ってくれた。もちろんそれは嬉しい。俺もクリスマスには一穂を誘おうと思っていたが、家には海がいるし、かといってクリスマスに女と過ごす時にどこへ行けばいいのか詳しく知ってるわけでもない。どうしたもんかと思っている時に一穂がそう持ちかけてきたから、じゃあ今年はそれでと彼女の申し出を受けたわけだ。
 で、結局。当然のような顔をして海が参加することになってる。
「で、丸めたケーキの上にもクリームを塗ったら、そこを好きなように飾るの」
 一穂が身振り手振りを交えて丁寧に説明をする横で、海が目を輝かせている。
「好きなように? どんなふうでもいいの?」
「うん。果物だったりアラザンだったり、チョコペンでもいいよね」
「楽しそう! お姉ちゃん、海も飾るのやりたい!」
「いいよ、じゃあクリスマスに一緒にやろうか?」
 何やらとんとん拍子で話が進んでいるから、そこで俺はようやく口を挟んだ。
「おい海、一穂にわがまま言うなっていつも言ってんだろ」
 すると海は生意気にも頬を膨らませて俺を睨む。
「わがままじゃないもん。お姉ちゃんもいいって言ってるもん」
 そりゃ一穂はいいって言うだろう。だからって遠慮もしねえってのはおかしい。
「勝手なことばかり言ってると、この部屋出禁にするぞ」
「やだ!」
 俺が睨み返せば海はますます機嫌を損ね、一穂はそれを見てなぜか愉快そうに笑う。
「今回は飾りつけ手伝ってもらえた方がありがたいし、大丈夫だよ陸くん」
 その言葉に、海が『ほら見ろ』と言わんばかりにほくそ笑んだ。
 俺はそれをスルーして一穂に尋ねる。
「迷惑じゃねえのか。こいつがいたら邪魔だろ」
「ううん。私もどういうふうに飾ろうかなって悩んでたとこだし」
 一穂は俺にまた笑いかけると、すぐに海へと向き直った。
「じゃあ海ちゃん、どういうケーキがいいか一緒に考えてくれない?」
「いいよ!」
 海は大きく頷くと、急に立ち上がる。
「海のお部屋にスケッチブックあるから、今持ってくるね!」
「……何に使うんだよ」
「ケーキのデザインを描くんだよ」
 どこか得意げな言葉の後、海は俺の部屋から飛び出していった。すぐに隣の部屋のドアが開き、机か何かの引き出しを開けてごそごそやり出す音が聞こえてくる。
 どうせすぐに戻ってくるんだろうが、ようやく二人きりになれた。この隙にとばかり、俺は一穂に囁く。
「毎度毎度、悪いな」
 一穂はすぐに首を横に振った。
「悪くないよ、楽しいよ」
「けど、せっかくのクリスマスだってのに……」
 俺がぼやくと、一穂はびっくりしたのか目を瞬かせて、
「陸くんがクリスマスを重んじるとは思わなかったよ」
「重んじるっつか……まあ、そういう日だってことくらいは知ってる」
 クリスマスの成り立ちだの習わしだのには大して詳しくねえし、世間一般のクリスマスに対する価値観にどうのこうの言うつもりもなかった。『クリスマスだから』一穂に会いたいのかと聞かれたら、それは違うと答える。会いたいと思うのはいつものことで別にクリスマスだからなんて理由は必要ない。
 ただ、他の連中がクリスマスを過ごすのと同じように、俺もクリスマスには当たり前に一穂と会えるもんだと思ってた。
 お互いを名前で呼びあってんだから、それも当然のことだろうと思ってた。
「お前は平気なのか? 二人じゃなくても」
 俺が尋ねると、一穂はあっさり頷いた。
「いいよ。何て言うか、私はクリスマスに陸くんと会えたら十分だし」
「欲がねえな、一穂」
「そもそも私、陸くんに会う口実が欲しくてケーキ焼くみたいなもんだから……」
 一穂が秘密を打ち明けるみたいに、こっそりとそう言った。
 恥ずかしそうに笑って俺を見ているから、俺はその頭に手を置いた。ようやく名前を覚えた『エアリーショート』の柔らかい髪を撫でると、一穂は照れた様子で笑う。
「へへ……頑張って、美味しいケーキ焼くからね」
 きっと一穂なら、クリスマス当日には自信がある時のあの顔で『頑張ったからね』なんて言うんだろう。
 だったら俺も勝負から逃げるわけにはいかない。たとえ敵があの手強くも生意気でませた妹であろうともだ。
 頭に置いた手にちょっと力を込めてこちらに引き寄せると、一穂は座ったままこちらに倒れ込んできて俺の胸に手を置いた。でも俺が顔を近づけて、一穂が目をつむりかけた瞬間に、スケッチブックを抱えた海が戻ってきた。そして俺達を見て眉を顰めた。
「お兄ちゃん。家の中でべたべたされると恥ずかしいんだけど」
「ここは俺の部屋だ。お前に文句言われる筋合いがあるか!」
 思わず怒鳴った俺をよそに、一穂は少し頬を赤らめながらも楽しそうに笑っていた。

 十二月に入ると、午後六時ともなれば辺りはすっかり真っ暗だった。
 駅前の商店街の近くにある一穂の家まで、俺は一穂を送り届けるべく歩いていた。もちろん海は留守番だ。ついてきたがることもあったが、いつも駄目だと言い聞かせていた。一穂を独り占めできる時間が欲しいからだ。
「はあ……最近急に寒くなったね」
 いくらも歩かないうちから鼻を真っ赤にしている一穂が、白い息を吐きながら言った。寒いのが苦手なのか、耳当てにマフラーにピンク色のダウンジャケットにと完全防寒装備だ。
「確かに寒いよな。特に頭が寒い」
 スタジャンを羽織ってきただけの俺がぼやくと、一穂は俺の頭を見ながら心配そうな顔をする。
「陸くん、帽子とか被んないの? 頭、本当に寒そうだよ」
「持ってねえ。何かそういうこじゃれたのって、俺に似合わねえだろ」
「そうかなあ……。陸くんは帽子被ったら雰囲気変わりそうだけどな」
 一穂はそう言うと、並んで歩きながら俺の顔をじっと見つめてきた。そのうち何か楽しい想像でも浮かんだのか、口元がにゅっと解けるように笑んだ。
「お前、今何考えた」
 俺が尋ねればわかりやすくぎくりとしてみせる。
「えっ! う、ううん、何ってこともないんだけど!」
「いや、あるだろ。明らかになんか楽しいこと思いついたって顔してたぞ」
「えー……いや、あの、ちょっと思い出したってだけなんだけど……」
「何をだよ、言ってみろ」
 それで一穂は言いにくそうにしながらも、ぼそぼそと言った。
「陸くんは中折れ帽にトレンチコートが似合いそうだなって……」
 あまりにも典型的なハードボイルドの主人公像が一穂の頭の中にはあるようだ。たかだが十七の俺に似合うと言われてもぴんと来ないが一穂に言われて嬉しくないはずもない。
「坊主やめたら被ってみっかな、中折れ帽」
 冗談半分で俺が言うと、一穂もまたつられたように笑う。
「今被んないの? 頭寒そうだよ」
「今の俺にそういうのは似合わねえだろ。そういうのはもうちょい大人になってからだ」
「そっか……。いつか見れるかな、陸くんのそういう格好」
「当たり前だろ。その代わり、実際被って似合わなかったらはっきり言えよ」
 繋いだ一穂の手は冷たかった。夏や秋のうちはそこまで冷たいなんて思わなかったのに、冬になったら急に体温が下がってしまったように感じた。だから外を歩く時は忘れず手を繋ぐ。時々俺のスタジャンのポケットに突っ込んで、温めたりする。
 小さな手だった。この手がいつも俺に美味いご褒美をくれる。
 俺はこの手を掴み、繋いでいられるだけの権利を勝負によって勝ち取った。次の権利も勝負に出なきゃ得ることなんてできないだろう。そして勝負をするなら、絶対に勝ちたい。海に乱入されてノーコンテストになるのはもう懲りていたし、その分は次の勝負で取り返してやるつもりだった。
「……クリスマスだけどな」
 寒い夜道を歩きながら、俺は一穂に勝負を切り出す。
「俺の部屋でケーキ食ったら、二人で少しだけ外に出ねえか?」
「外?」
「何か、クリスマスっぽいとこに寄り道したい。ツリー見に行ったりとか」
 十二月になると駅前に大きなクリスマスツリーが立ち、イルミネーションが灯るのを俺は知っていた。ジム帰りにその辺りを通るので実際に見たこともある。更にその近くには喫茶店があって、俺が小さかった頃は親父がその店でパフェやケーキをごちそうしてくれた。
「行きたい!」
 一穂がすかさず声を上げる。
 嬉しそうな即答に俺はほっとして、続けた。
「じゃあ付き合ってくれ。他にも寄りたいとこあるし」
「うん! クリスマスだからって言ったら、門限もちょっと延ばしてもらえるかも」
「マジか? なら一穂はその辺の交渉頑張ってくれ」
「オッケー、頑張る!」
 一穂がいつもの笑顔でそう言ってくれた。
 お蔭で俺もクリスマスへの期待が膨らみ、予想以上にいい気分でその日まで待つことができそうだった。

 勝負からは逃げない。そして勝負には勝ちたい。
 クリスマスこそは、全面的に『勝った』と言えるような結果を――思い出を作れたらいい。そう思う。
 その為にも用意しなくちゃならないものがいろいろある。とりあえずはクリスマスらしく、一穂が喜びそうなプレゼントでも見繕っとくか。
 一穂の小さな、冷え切った手を握り締めながら、俺は勝負の日をしっかりと見据えていた。
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