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勝負には勝ちたい(2)

 最初のうちは、可愛いと思ってた。

 例えば朝の登校中、後ろから必死になって追っ駆けてくるところとか。
「――お、おは……おはよ、ござ……」
 生徒玄関に駆け込んできた茅野は、息が上がってまともに喋れてなかった。
 夏休み直前の七月、朝から気温は馬鹿みたいに高くて、普通に歩いただけで汗をかくほどだ。朝日すら爽やかでもなくぎらぎら照りつけてるっていうのに、そこまで必死になって走ってくる奴があるかと思った。
 実際、茅野も玄関に到着した時はふらふらしてたし、顔は真っ赤で汗が額に浮かんでいた。この当時は名前も知らなかった自慢のエアリーショートも汗でぺったりしぼんでいる有様だった。俺もその様子を見た時はさすがにぎょっとした。
「何だって朝っぱらから全力疾走してんだ、お前」
 すると茅野は額の汗を拭いながら、今更取り繕ったように答える。
「いえ、何て言うか、ちょっと走りたい気分だったんすよ」
 その割には随分なりふり構わず走ってきたもんだ。俺だってこの時期のロードワークは体調と相談して慎重にやる。にもかかわらず、もやしっ子みたいな茅野が何の下準備もなしにそれをやったらマジでぶっ倒れそうだ。
「夏場でこんな暑いのにか?」
 俺が疑ってかかると、茅野は不自然に目を泳がせながら言った。
「ええもう、授業に備えてぱっちり目を覚ましとこうと思って」
「そりゃご苦労さんだな」
 別にこの場で正直に言えとは思ってねえが、見りゃわかるようなことをあえて隠そうとする茅野を見ているとつい笑ってしまうから困る。おかしいとか、呆れてるっていう意味の笑いとは違う、思わず口元が緩むような笑いだ。
 とは言えこんな暑い中を汗かいて走ってくるのは身体に悪い。
「この時期は気温高いんだから、無理して走んなよ。ぶっ倒れんだろ」
 一応釘を刺しとくと、茅野は赤く火照った顔で深く頷いた。
「そ……そうっすね。以後気をつけますっ」
 気をつけるって、何に気をつけるつもりなんだろうな。倒れないようにするつもりなのか、無理のない走りをするのか。あんまり鍛えてるようには見えないから走らないのが一番いいと思う。
 それで俺は一言口にしかけて、
「――まあ、いいか」
 やめた。
 迷いはした。わざわざ追い駆けてきてくれるのは嬉しいものの、後ろからでも一言呼び止めてくれれば済む話だった。ただ、茅野がそれをしない理由もわかっていた。
 俺は誰かに呼び止められやすい風体をしていない。妙な話だと思うが、事実だった。俺に声をかける時、誰もが大抵一度はためらう。そういうのを自分で理解していたからこそ、俺は茅野に対しても言葉を呑み込んだ。
「あとで水分、ちゃんと取っとけよ」
 代わりにそう告げる。
 茅野はしゃきっと姿勢を正して返事をした。
「了解です!」
 まあ、こんだけ声出せてりゃ大丈夫か。その声聞いて、少し安心した。
「しかし元気だな、お前」
 ただ、この時呑み込んだ言葉についてはしばらく引っかかっていた。これもある意味、茅野の前で勝負を避けたことになるんじゃねえかって、後から思った。言いたいことがあるのに言わないのは、俺に対して声をかけるのをためらう連中と同じじゃないのか。
 皆が俺を怖がる理由はわかる。俺がボクシングやってて、坊主頭で、面構えが厳つくて目つきが悪いからだ。
 じゃあ俺が勝負を避ける理由は何か。
 せっかく俺を追い駆けてきてまで話したいと思ってくれてる奴がいるのに、俺がそこから逃げて、一体何になる。
 そうは思っても、これまで築いてきた自分なりのルールを曲げるまでには至らなかった。俺から何か言えば茅野はきっとびびって萎縮するだろうし、ましてそれをクラスの連中の前で言えば騒ぎになる。また教師に目をつけられて余計な説教を食らう羽目になるかもしれない。同じ目には何度も遭ってきた。友達がいない理由だって自分でわかってる。
『クラスメイトなんだし』
 茅野は以前そんなふうに言ってくれたが、俺はまだ、同じように言い返すのをためらっていた。

 そのつまらないルールをぶち破ってくれたのも、茅野だった。

 同じ日の放課後、茅野と渡り廊下で行き会った時、俺は思わず手を挙げていた。
「おう、茅野。今帰りか」
「そうっす。向坂さんは練習中ですか?」
 茅野もわざわざ足を止めて嬉しそうにしてくれた。相変わらず何でも顔に出る奴だったが、それが俺にも嬉しかった。
 もっともこの時、俺はロードワーク帰りでめちゃくちゃ汗をかいていた。柄でもねえと言われるかもしれないが、うちの妹も俺が汗かいてると臭う臭うとうるせえから、同じことを茅野にも思われたくない。
「悪い、汗掻いてると臭うだろ。俺行くわ」
「え? あ、はい……」
 俺は軽く挨拶をすると、きょとんとしている茅野の前を通り過ぎた。運よく顔合わせたのに、教室じゃ話しにくいし明日またこういうふうに話せるかもわかんねえのに、もやもやしたまま立ち去るなんてまさに無様だ。
 何かこう最近、気分が晴れない。格好つかねえな、と首を捻りながら渡り廊下を過ぎ、角を曲がって部室へ向かっていた時だ。
「向坂さんっ!」
 茅野の声が俺を呼び止めた。
 即座に立ち止まった俺が振り向くと、足音と共に駆けてきた茅野が曲がり角から現れて、肩で息をしていた。
 また走ってる。この真夏に。汗こそかいていなかったが顔は真っ赤で、おまけに顔は緊張で張り詰めている。そんな茅野を見下ろしながら、俺は尋ねた。
「何だ、茅野。何か用でもあんのか」
「あ……あります! じ、実はそのっ」
 もごもごと言いにくそうにしながら、茅野はブラウスの胸ポケットから何かを取り出した。色紙に手書きの文字が印字されている小さい紙切れだった。
「これ、文化祭でうちの部がやる喫茶コーナーの食券なんです」
 茅野はその紙切れについてそういうふうに説明をしてくれた。
「これを持ってくるとただで紅茶が飲めるっす」
「紅茶か。あんま詳しくねえな、美味いのか?」
「お……美味しいと思いますよ。練習、頑張りましたし」
 その時、茅野は軽く胸を張ったようだった。
 顔にも言葉通りの表情が浮かんでいた。頑張った、そう言えるだけの自信が。目こそ泳いでいたが口元は微笑んでいて、努力したからこそ顔に出るんだと言わんばかりに笑っていた。
 前に、クッキーを作ってきてくれた時と同じ顔だった。
 可愛いな、と思った。
 俺はちょっと浮かれ気分でその食券を受け取った。その時、俺も何か言おうと思っていた。俺を二度も追い駆けてきてくれて、俺に努力を形で見せてくれている茅野に、ここで勝負を避けるわけにはいかねえと思った。
 が、
「じゃ、じゃあ、それだけですんで私はこれにてっ!」
 茅野は俺が食券を受け取ると、一仕事終えたみたいに俺の前で踵を返した。
「あ、おい!」
 そして俺が呼び止めるのも聞かずに曲がり角の向こうへ消えた――はずだが、本来なら遠くなっていくはずの足音がすぐそこで途切れた。落とし穴にでも落ちたかと思うほど急に。
 それでこっそり近づいてって様子を窺えば、
「渡せた……」
 茅野の、微かな呟きが聞こえてきた。
「頑張っちゃった……!」
 廊下の角を曲がってすぐのところでしゃがみ込んだ茅野が、俺がいるのも気づかずにそんな言葉を口にしていた。膝を抱えてそこに短い髪の頭を埋めて、小さな背中を丸めてうずくまっていた。
「えへへ……」
 しかも笑ってた。
 思う。こんな呟きを聞かされて正気を保っていられる男なんているのか。いや、正気って言うのも違うか。だがこんな一撃、食らって普通でいられる奴の方がおかしい。勢いもキレもあるいいパンチだった。しゃがみ込んでなぜか鼻を啜っている茅野を、とてもこのままにはしておけないと思った。
 この時の俺は試合中みたいに気持ちが高揚していて、でも試合中と同じだと思うからこそ次の一手には冷静になれた。
 勝負に出よう。そう決めた。
「――頑張ったのか」
 俺が声をかけると、しゃがんでいた茅野は顔を上げた。
 上げたはいいが勢い余ったのか、驚きのせいか、盛大に尻餅をついた。そしてさっきのパンチが嘘のような慌てぶりを見せた。
「あ、あの、今のは独り言ですからなにとぞ聞かなかったことにしてください! マジで!」
 両手を合わせて懇願されたが、当然、無理な話だった。
「いいからまず立てよ。スカート汚れんぞ」
「あ、そうっすね、すみません……」
 俺は恥ずかしそうにしている茅野の手を掴んでとりあえず立たせると、その無造作な短い髪のてっぺんに手を置いた。がしがしと撫でた。
「なんで、撫でてるんですか」
 茅野が尋ねてきたから、俺はにやりとしてやった。
「お前がまた頑張ったらしいから」
「うわあああ! それは聞かなかったことにしてくださいって言ったのに!」
「聞こえちまったもんはしょうがねえだろ。文句あんなら呟くな」
 あんな言葉、聞かなかったふりなんてできるはずがない。俺がそう言うと茅野は言葉に詰まったようだったから、俺は改めてその頭を撫でてやる。
「文化祭、必ず行くからな」
 俺はこんなだから、誰だって話しかけにくいと思うだろうし、怖がられるのもしょうがないだろう。
 でもそういう俺の為に頑張ってくれる茅野の努力を、無駄にするような男ではありたくない。
 それから、俺自身もだ。言葉をためらうのはやめる。少なくとも茅野に対しては言いたいことを言う。勝負に出る。
「暑い中、無理して走ってくんなよ。そのくらいだったらさっきみたいに声かけろ」
 だからその時は、一番言いたかったことを告げた。
「つまんねえ遠慮すんな。クラスメイトなんだから、用があるならいつでも話しかけりゃいい」
 先にそう言ってくれたのは茅野だ。
 その言葉が嬉しかった。だから俺も、同じように言いたかった。
 ただ、茅野にどう伝わったかまでは読み切れなかった。ぽかんと口を開けて、妙に感心しているようだったからだ。今はその反応は違うんじゃねえのって思ったものの、その顔も可愛かったから黙っておいた。
 この時の勝負は――どうだったんだろうな。俺は引き分けくらいに思ってたが、茅野に聞いたら自分の全面勝利とでも言うかもしれない。そしてそう言われたら、いいパンチを食らってる俺は否定もできないだろう。

 この時から俺にとっての茅野は何でも話せる相手になった。
 俺は茅野に隠し事をするつもりはなかった。約束通り文化祭の模擬店に顔も出したし、逆にボクシング部の屋台にも来てもらったりした。その時々に茅野から聞かれたことには正直に答えたし、ボクシング部の後輩に『もしかして彼女っすか?』と聞かれた時も同じように正直に答えておいた。そうすることにためらいはなかったし、全部が勝負のつもりで臨んだ。
 茅野も何にも変わりなくよく顔に出る奴で、俺といる時には嬉しそうにしてくれた。俺が何か言うと照れたり、慌てたりした。自信がある時には素直にそういう顔をした。俺は茅野の努力が顔に出る、その時の顔が一番好きだった。

 逆に、嫌いじゃねえができればあまり見たくねえって顔もある。
 茅野を初めて泣かせた日のことは、もしかしたら一生忘れられねえかも、とさえ思う。
 俺にとってのボクシングは、俺をほぼ百パーセント構成していると言っても過言ではない要素で、誰に何を言われようと、俺自身が納得するまではやめることもないだろうと思っていた。実際、俺にボクシングをやめさせたがる奴なんて誰もいなかった。両親も、妹も、世話になってるジムの人達も、部活の顧問も他の部員も、クラスの連中も、挨拶程度しかしない近所の人でさえもが俺の活躍を信じていてくれたし、期待されているのもわかっていた。インハイ行きを決めたら地元のテレビ局が取材に来たし、新聞にだって載った。皆が俺の勝利と活躍を祝ってくれたが、今更怪我についての心配なんていちいちしてこなかったし、ましてや誰も『危ないからボクシングなんてやめろ』とは言わなかった。
 茅野にも、そうはっきり言われたわけじゃない。
 でもあの日、夏休みに入ってインハイが残念な結果に終わり、俺が準優勝という不本意な結果と多少の怪我を持ち帰って茅野と会った日――。

 茅野は、俺が怪我をするのが怖いという理由で泣いた。
 他人からそういうふうに泣かれたのは初めてで、俺もどうしていいのかわからなかった。
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