酒と涙とピーチババロア(4)
ボクシングの試合会場はやや広めの、でもごく普通の体育館だった。ワックスがかけられた板張りの床にコートラインが見えているところは、うちの学校の体育館と何ら変わりがない。ただ、その中央にリングが設置されている点だけが違っている。
水色っぽい分厚いマットの上に四本のそれほど高くない柱が立っていて、柱のうち対角で向き合う二本は赤と青に塗られている。残りの二本は白だ。柱の間には四本の白いロープが渡してあって、リングへの出入りはそのロープの間を潜るようにしてするらしい。
ちょうど今、向坂さんがリングに入るのがパソコンの画面に映った。
向坂さんは青いタンクトップにトランクスというユニフォーム姿でリングの上に立っていた。つるりとした坊主頭にはユニフォームと同じ青いヘッドギアをつけていて、そのせいか動画では表情がよく見えない。ユニフォームの胸と背中に記されたうちの高校名だけは見えるけど、でもそれがなくても私にはこの人が向坂さんだってわかったように思う。鍛え抜かれ、引き締まった腕には十分に見覚えがあったし、試合前であっても緊張の色さえ見せないその立ち居振る舞いは確かに向坂さんだった。何度か私の頭を撫でてくれた大きな手には、それを一層大きく見せるようなまん丸いグローブが填められている。ぬいぐるみの手みたいで可愛い。
対戦相手は向坂さんとは違い、何から何まで赤で取り揃えていた。タンクトップもトランクスもヘッドギアもだ。向坂さんと違うのは髪型もそうで、赤いヘッドギアのてっぺんから硬そうな黒い髪が剣山みたいに突き出ていた。彼もまたロープをくぐってリングに上がり、赤い柱を背にして立っている。青い柱側に立つ向坂さんとちょうど向き合う位置だった。
それにしても、向坂さんは背の高さといい体格といい校内では比肩する相手もいないほど規格外の人なのに、対戦相手の男子も背丈や体格において向坂さんと全くの互角だった。ボクシングは体重で階級が決まるということだから、向坂さんの出場するミドル級には当然のように、同じくらいの重さの男子が揃うことになるんだろうけど――日本にこんな屈強な男子生徒が何人いるのかって考えたら、何だか気が遠くなってきた。強盗事件くらいは軽く制圧できそう。
でも、同じくらい体格のいい男子が何人いたって、向坂さんが一番格好いい。顔が見えなくても私はそう思う。
向坂さんがリングに立つ姿を、私はパソコンの画面越しに、自分の部屋から見つめている。
動画から伝わってくる館内の緊迫した空気とは対照的に、私の部屋は平和そのものだ。私は相変わらずの部屋着姿で椅子の上で膝を抱えながら、うちわで自分を扇いでいる。エアコンを切っているのは向坂さんが頑張っているのに私だけ涼むのも気が引けたからだけど、私より先にパソコンがどうにかならないかちょっと心配だ。
締め切った窓の外ではけたたましく蝉が鳴いている。
顎まで垂れてくる汗を手の甲で拭い、私は画面に映し出される張り詰めた空気を見つめた。
体育館二階のギャラリーからは色とりどりの応援幕が下げられていた。
うちの高校のもどこかにあるはずで、二年目でもあまり見慣れない校章を探そうとしているうちに、引いていた動画のカメラがぐぐっとリングに寄る。
始まるかなと思った時、向坂さんとその対戦相手がゆっくりと身構えた。
リング上にはもう一人、白いシャツを着たおじさんが立っている。いわゆる審判の人なんだろうと思う。その人が二人の間に立ち、軽く手を挙げた瞬間、意外と軽快な金属音が場内に鳴り響いた。
ゴングの音をちゃんと聞いたのが初めてなら、ボクシングの試合をちゃんと見るのだって初めてだった。
最初はもっとゆったりと様子見の空気から始まるのかと思ったら、試合開始直後から向坂さんも相手の選手も壮絶なパンチの打ち合いを見せた。
ぬいぐるみみたいで可愛く見えた丸いグローブを、向坂さんは相手に容赦なく叩きつけていく。動画の画質がよくないのか、私の目がよくないのか、ともかく捉えられたのは二発目のパンチまでだった。それ以降はもう何発打ってどれほど相手に当たったかもわからなかった。ただ青いユニフォームの向坂さんの腕が忙しなく動いてグローブを繰り出すその動作を、まごまごしながら見ているしかなかった。工事現場のパイルドライバーみたいな動きだと思う。相手に穴を開けかねない勢いで向坂さんが拳を突き出している。
対戦相手も負けてはいない。向坂さんのパンチを拳で受け止めようとするが如く、同じように拳を突き出してくる。こちらも動きを目で追うのは困難で、どちらがどれだけ食らっているかなんてとてもじゃないけどわからなかった。そのくらいお互いに激しく打ち合い、一歩も引かない試合が繰り広げられている。
ボクシングを見るのが初めての私は、すごくどきどきしていた。
いや、どきどきなんてものじゃない。心臓がそれこそ杭でも打ち込まれたみたいに痛くて、痛くて、倒れそうだった。
だって向坂さんも相手の人も本気で殴り合っている。スポーツだから楽しくやろう、みたいな雰囲気はどこにもない。スポーツじゃないみたいな拳のぶつけ合いは相手を退けんとする気迫に満ちていて、私はそこでようやくボクシングに関して持っている乏しい知識を思い出す。
ボクシングは倒した方が勝ちで倒れた方が負け、でもどっちも倒れなくて判定で決まることもある――あんなパンチをまともに食らったらそりゃ倒れるに決まってる。夏休み前、インハイ行きを決めた直後の向坂さんが顔に怪我をしていたのだって、私の知らないところでこんな試合をしてきたからなんだろう。あの時は勝ったから少しの怪我で済んだ、でももし――。
もし、あのパンチをまともに食らって、向坂さんが倒れてしまったら。
それはただの『負け』じゃない。
私は向坂さんが負けるのを見たくなかった。でも向坂さんが相手選手のパンチを食らって倒れるところは、それ以上に見たくなかった。そうならないって言い切れたらいいんだろうけど、そう言い切れるほど、私は向坂さんのことをまだ知らない。
だからもう怖くて怖くて、動画を直視していられなくなった。
「向坂さん……!」
私は抱えた膝に顔を埋め、パソコンの画面から目を逸らした。だけど再生を止めることはできなくて、何度かゴングの鳴る音と館内のどよめきを聞いた。試合の経過を見守る勇気はもうなかった。平和そのものの部屋からボクシングを見ているのがすごく怖くて、何もできないままただ向坂さんの無事を祈り続けた。
試合は三ラウンド目で決着がついたそうだ。
勝ったのは向坂さんで、TKO勝ちを決めたとのことだけど、この辺りはよくわからない。
つけっぱなしのパソコンの前でうずくまる私は、向坂さんの勝利に胸を撫で下ろす一方、心から喜ぶというわけにはいかなかった。
もちろん嬉しくないわけじゃなかった。向坂さんの今日までの頑張りが結果を出したのならそれはすごく嬉しかったけど、初めて目の当たりにしたボクシングの試合への怖さと、試合を見届けられなかったことへの罪悪感、そして向坂さんが勝った以上、明日以降もまた同じように試合が行われるのだという事実に押し潰されそうになっていた。
翌日以降、私は向坂さんの試合を見なかった。
せっかく動画で試合が見られるというのに、見る勇気が出なかった。
でも試合の結果は新聞に載ったし、ネットで調べることもできた。
それ以前にうちの部長が、
『茅野さん試合見てた? 向坂さんまた勝ってたね!』
『本当すごいよね、とうとう次は決勝だよ!』
などと毎日メールをくれたから、結果だけはすぐに知ることができた。
部長はやっぱりすごい。向坂さんの試合をちゃんと見届けることができるんだから。
私は、見るのが怖くて駄目だった。どうしても、もう二度と、パソコンを立ち上げる気になれなかった。
インハイの決勝が行われたその日の晩、私の携帯電話が鳴った。
パジャマに着替えてベッドの上でごろごろしていた私は、画面に表示された名前を見るなり跳ね起きる羽目になった。
『よう、茅野。起きてたか』
向坂さんだった。
「こここ、向坂さん……っ!?」
私の声が裏返る。まさか向坂さんから電話がかかってくるとは思わなかった。
しかもインハイの全日程が終わったその日のうちになんて、嬉しいけど何だろう、どんな用事でかけてくれたんだろうってそわそわする。
『悪いな、遅い時間に。少し話せるか?』
向坂さんの声はほんのちょっとくぐもって聞こえたけど、暗くも明るくもなかった。学校で聞く時とほとんど変わりがない。電話越しに聞くのは初めてだったからそれはそれでどきどきしたけど、すぐに学校で見るのと同じ姿を頭の中に思い浮かべることができた。
「も、もちろんっす。少しどころか、向坂さんとならいくらでも……!」
浮かれる私が調子に乗ると、それがおかしかったのか向坂さんは短く笑った。
『何だそれ。本気にするぞ』
「いや、嘘じゃないっすよ。もう何分何時間でも喋ってってください!」
『そんなに喋るだけのネタがねえよ。お前が一人で話してくれんならいいけどな』
向坂さんがまた笑い、それから続ける。
『知っての通り、こっち来てから毎日試合だったろ。全部終わって一息ついたら、急にそっちが懐かしくなってな』
そうだった。今の向坂さんはまだインターハイの開催地にいるんだ。
電話だとまるですぐ近くにいるように感じられるのに、不思議だな。
『で、何となく茅野の声が聞きたくなった。迷惑じゃなかったか?』
「いえいえそんな迷惑なんてこと、断じてあるはずないっす」
『そりゃよかった』
そこで向坂さんは一呼吸置き、静かな声で切り出す。
『今日の試合、見てたか?』
どきっとしたのは、忘れかけていた罪悪感のせいだけじゃなかった。
嘘をつく気はなかったから、私は正直に答える。
「いいえ。あの、すみません。結果だけは知ってるんすけど」
『そうか』
向坂さんがほっとしたように思えたのは気のせいかもしれない。
『まあ、結果知ってんならいいか。最後の最後で攻め切れなかったな』
インターハイ最終日、決勝戦に挑んだ向坂さんは惜しくも判定負けを喫し、今年度は準優勝という結果を収めていた。私は例によってその結果を部長からのメールで知った。決勝戦であっても試合を見ることはできなかった。
「準優勝っすね。おめでとうございます!」
私がお祝いの言葉を述べると、向坂さんは少し気後れしたように応じた。
『あと一つだったのにな……いや、そういう欲が出たのが敗因か』
「満足してないんすね、向坂さんは」
『そりゃそうだろ、優勝とそれ以外は価値が、重みが全く違う』
そんなもんかなあ。一番を目指しているのはいかにも向坂さんらしいひたむきさだと思うけど、だからって準優勝に価値がないわけじゃない。
「準優勝でも十分すごいし、格好いいっすよ! お疲れ様です、向坂さん!」
だから私は力を込めてそう告げた。
私個人はこれまでの人生において優勝と名のつくことはもちろん、準優勝と名のつくことにさえ無縁だった。せいぜい運動会で白組優勝、赤組準優勝ってなった程度だ。だから向坂さんの成績は十分すごいと思う。何たって全国なわけだし、強盗も制圧できそうな面々の中を決勝まで勝ち抜いたのだろうし。
『なら、茅野の前でくらいは喜んどくか。そういうふうに言ってくれる奴は貴重だしな』
向坂さんがちょっと笑う。
『いい意味でも悪い意味でも、今日までの努力の結果が今日の試合だからな』
続いた言葉に、私は決勝戦を見ておかなかったことを今更悔やんだ。ちゃんと見ていたなら、惜しかったっすねとか、でも善戦してたじゃないすかとか、言える言葉もあったはずだった。
とは言え、負ける向坂さんを直視できたかどうかはいまいち自信がない。
「あ……でもその試合、見てなくてすみませんでした」
私が詫びると、至って気にしていないそぶりの声が返ってきた。
『気にすんなよ。そもそもボクシングなんて、お前が見てもつまんねえだろ?』
「い、いえ、そういうんじゃ……」
向坂さんは私が、ボクシングに関心がなくて試合を見なかったのだと思っているようだ。
そうじゃない。私は一瞬詰まりつつも慌てて弁解した。
「違うんすよ。最初は見てたんですけど、何か、途中で怖くなっちゃって」
『怖かったか。女が見りゃそういう感想になんのかもな』
納得したように向坂さんが呟く。
でも、それも違うと思う。私は向坂さんの試合だったから怖かったのであって、他の人の試合だったら案外ぼけっと見続けていたような気がする。
ただ向坂さんにそう打ち明けるのは、まるで向坂さんの勝利を信じてなかったみたいで失礼だとも思えて、気が引けた。それで私は黙るしかなくなり、その間に向坂さんは次の話題に移る。
『明日にはそっち戻る。帰ったら約束してた通り、二人で出かけるぞ』
「あ! は、はい! せっかくなのでお祝いもしたいですしね」
私はうきうきと答えて、もう一つ約束していた件について続ける。
「そうだ、向坂さん。私、ババロアの練習もしてたんすよ!」
『ああ、そっちもあったな。実は結構期待してたんだよ』
向坂さんはめちゃくちゃ嬉しそうだ。甘い物好きな人だもんな、楽しみにしてもらえて嬉しいけど、プレッシャーもすごい。
だけど向坂さんはすっごく頑張ったんだ。次は私が頑張る番だ。
「部長に練習付き合ってもらったんで、いつでも大丈夫っすよ。いつ作りましょうか!」
『そうだな……。さすがにそれ持ってどっか行くってのは大変だよな』
ババロアは冷やしていただくお菓子なので、温くなっちゃったら台無しだ。夏の盛りに持ち歩くのには向いてない。
「じゃあ遊びに行く機会とババロア作る機会は分けた方がよさそうっすね」
『ああ。手間かけさせて悪いな』
「いいんすよ、約束してましたし! 気にしないでください」
向坂さんは済まなそうにしていたけど、私としては向坂さんに会える機会が増える方が嬉しいので全然構わなかった。
すると向坂さんは、
『なら、うち来るか? 狭い家だけど、外うろつくよりは涼しいぞ』
と言い出した。
私は出来の悪いおうむみたいに今の言葉を繰り返す。
「うち?」
『俺の家だよ。何もねえけどババロア食うくらいなら問題ねえだろ』
「こ、向坂さんの……家?」
『お前ん家からなら、歩いて二十分くらいか。何なら迎えに行ってやる』
向坂さんの家。あるのは当然知ってたけど、どんなところかは知らない。向坂さん馬鹿を目指す私としては当然押さえておきたい魅惑のスポットだ。行ってみたい。
ただ、むくむくと膨らむ好奇心とは別に気になる点もあったりして、
「あ、あの私、男子の家とか行ったことなくて、結構緊張するって言うか」
私がそう切り出すと、向坂さんはその懸念がおかしいというように笑い声を立てた。
『緊張すんなよ、何にもねえよ。どうせ俺以外出払ってるだろうし』
「そ……そっすか……」
『ああ、そっちの方が緊張するって言うんなら手の打ちようもねえけどな』
そりゃもちろん、そっちの方が緊張するに決まってます!
心の中で叫ぶ私を見透かしたのか、向坂さんはまた笑っていた。
とは言え、好きな人にせっかくお招きいただいたのに断るなんて選択肢があるはずもなく。
行きますとも。ババロア作って、向坂さんの家へ!