酒と涙とピーチババロア(3)
夏休みに入ると、向坂さんとはめっきり会えなくなってしまった。授業がなくて学校に行く機会もないから当たり前なんだけど、学校がなくてつまらないなんて思うの、生まれて初めてかもしれない。最近は土日が長くて退屈で、早く月曜にならないかなって思うくらいだったから、私は始まったばかりの夏休みを早くも持て余し気味だった。
だからと言ってだらけてもいられない。こうして過ぎていく一分一秒の間にも向坂さんはインターハイに向けてトレーニングを続けている。彼がひたむきに頑張っているというのに同じ空の下で私が棒アイスくわえてエアコン効いた部屋でだらだらごろごろなんて、許されるはずがない。向坂さんが頑張っている分、私だって頑張らなくちゃいけないことがあるはずだ。
インターハイの日程は八月に入ってすぐの一週間。試合はトーナメント形式で、勝ち進めばそれだけ長い夏が続く。私が知ってるのはその程度だった。試合は他県でやるそうなので観戦には行けない。全校応援もないのが何となく寂しいと思う。
「そういえばそうだね。野球部が全国行ったら当たり前みたいに全校応援なのにね」
家庭部の部長もそう言って、私の意見に同意を示した。
「ですよね。何で全校応援しないんでしょうね」
もしそうなったら張り切って向坂さんの応援に行くのに。
「これはある意味不公平ではないですかね! どの競技も公平に全校応援すべきっす!」
私が鼻息も荒く語ると、部長は少し考えてから苦笑した。
「でも、どこかの部活が全国行く度に応援ってなったら、旅費がすごいことなりそう」
「あ、それは確かに……」
ものすごく大事なことなのにその点は思いつかなかった。
バスをチャーターするのだってただじゃないし、それを毎回ったら結構な出費だ。うちの高校は地元じゃそこそこのスポーツ強豪校なので、全国行き自体はそう珍しくはない。
「今年度だってボクシング以外にもちらほら全国行ってるでしょ?」
部長が顎に手を当てて続ける。
「陸上と、あと柔道もだった? あれ全部についてくってまず無理だよ」
夏休み前に見たから覚えてる。我が校の年季の入った校舎の壁には『祝全国大会出場』の懸垂幕がぶら下がっている。幕に記されていたのはボクシング部だけじゃなく、部長の言った通り陸上と柔道もそうだった。全ての競技を全校応援するとなったらそれこそ莫大な費用がかかることだろう。
「それもそうっすね。でもなあ……」
私はぼやきながら居間のテーブルに突っ伏した。
「向坂さんの試合、見てみたかったな……」
天板に頬をくっつけて見上げた先、汗をかいた麦茶のコップの中で氷が解ける。からん、と音を立てて滑り落ちた氷が麦茶の水面を波立たせる。
頭上では部長の微かな笑い声が聞こえた。
「そんなに言うならついてけばいいんじゃない? 茅野さんも」
「できるはずないじゃないですか、そんなの」
「そう? マネージャーですって言えば一人くらい紛れ込んでもばれないよ」
「……私がボクシング部のマネージャーになっちゃっていいんすか?」
その気はないけど突っ伏したまま聞き返すと、部長は笑いながら答える。
「あ、やっぱ駄目。茅野さんは家庭部の大事な人材だもの、引き抜かれたら困るな」
私のようなダメダメ部員がまさか『大事な人材』などと呼ばれる日がやってくるとは、世の中わからないものである。
夏休みもまだ序盤の七月下旬、向坂さんとは全く会えていない私だけど、こうして部長とは会っている。
なぜかと言えば例の、次期部長修業の為である。
私としてはまだ全面的にOKしたつもりはこれっぽっちもない。修業はやれるだけやってみるけど部長にふさわしい人材になれるとは自分でも思ってないしもっとふさわしい人が出てくるならそっちにお任せしたい、くらいのスタンスでいた。部長の期待は裏切りたくないけど、どう考えたって私は適任者じゃないし、ほどほどのところで見切りをつけてもらえないかという甘い考えもあったりして。
そのはずなのに、部長は夏休み初日には連絡をくれて、
『じゃあ今度、茅野さんの家でお菓子作りの練習しようか。材料は私が買っていくから割り勘ね、暇な日教えてくれる?』
みたいな調子で、いつの間にやら我が家へお招きすることになってしまった。
私としても向坂さんと約束したお菓子を作る練習はしたかったから、部長のお誘いは嬉しくもあったんだけど――何かもう引き返せないところまで来ちゃってる気がする。本当に部長になっちゃうのか、私。なれるのか。
それで早速、家族が出払っててキッチンが自由に使える今日を選んで部長を我が家へ招いた。
今は二人でヨーグルトババロアを作り、冷蔵庫で冷やし固めがてら一服しているところだ。真っ白なヨーグルトババロアは型に缶詰のみかんを敷き詰めてあって、固めてから引っ繰り返せばオレンジ色と白のきれいな二層構造としてできあがるはずだった。レシピもバニラクッキーよりは難しくなかった。あくまでも比較するなら、だけど。
今回も部長が私の隣に立って、
「牛乳を沸騰させない!」
「生クリームの泡立てが甘い!」
「洋酒はちゃんと量って入れる!」
などとさながら鬼のように――もとい、厳しくも優しい熱血指導をしてくださったので、きっと美味しくできてるはずだ。きっちり冷やしてから食べるのが楽しみだった。
「茅野さんって、ボクシング自体は好きなの?」
麦茶のグラスをハンカチで拭いて、部長が私に尋ねてきた。
夏休み中でも髪をおさげにした部長は、涼しげな白の襟付きワンピースを着ていた。お蔭で学校で会う時とあまり印象が変わらない。特に予定がなければTシャツハーパンの私とは違って、お休みの日でもきっちりしてるなあ、と感心してしまう。これが女子力ってやつか。
「実は全然見たことないんすよね」
私は正直に答えた。
向坂さんと話をするようになるまでは興味すらなかった。たまにテレビで中継やってるな、って思う程度だ。だからルールも何となくしか知らない。倒した方が勝ちで倒れた方が負け、でもどっちも倒れなくて判定で決まることもある。あと向坂さんが言ってた、体重で階級が決まるってことは覚えてる。
「部長は見たことあります? ボクシング」
質問を返してみると、麦茶を飲んだ部長もふるふると首を横に振った。
「全然。そもそもスポーツ全般興味ないし」
「私もそんな感じっす。向坂さんが出るなら見たいなって思うくらいで」
「そうだよね、好きな人が出てるから見たいと思うんだよね」
部長が冷やかそうとしてきたので、私はむっとした顔を作ろうとした。なのに口元に力が入らなくてつい、にやついてしまう。
「ま、まあ……そんなとこっす。テレビでやってくれればいいんですけど」
これまた高校野球はテレビでもみっちり中継するのに、他の競技はまずやらないものらしい。残念ながら向坂さんの試合を観戦することはできない。見てみたかったのにな。
「でも新聞には載りますよね、勝敗」
せめて向坂さんの試合がどうなったかだけは知りたい。勝ったのか、負けたのか、どこまで行けたのか。
「載るんじゃないかな。スポーツ欄かはわからないけど、地元欄にはいつも載ってるよ」
部長は思い出すように言ってから、あ、と声を上げた。
「そうだ。インハイってネットで動画配信してるんじゃなかった?」
「ネット中継?」
「うん。各競技のライブ配信してるってクラスの子から聞いたことあるよ」
それは耳寄りな情報だ。私はがばっと起き上がるや否や部長に食いついた。
「本当っすか!?」
「私も聞いただけだからよく知らないけどね。全競技やってるかどうかもわからないし」
そういうのもあるんだ。それなら向坂さんの試合が、もしかしたら見られるかもしれない!
俄然テンションの上がった私は、テーブル越しに部長の両手を握り締めて言った。
「ありがとうございます部長っ! 部長は私の救世主っすよ!」
「調子いいなあ茅野さんは……。詳しいことは自分で調べてみてね」
「了解っす!」
ボクシングなんて何にも知らない私だけど、向坂さんがどんな試合をしているかは一度見てみたかった。
向坂さんが自らを『ボクシング馬鹿だ』と評するほど夢中になり、ひたむきにトレーニングを続けているボクシング。そこまで心を掴まれてしまうほどの何かがその競技にはあるものなのか、向坂さんがボクシングのどこにそうまで惹きつけられているのか、私も知ってみたかった。
そうすることで私は、向坂さんを理解できるようになるんじゃないかって――いや、何か格好つけた言い方かな。理由はもっと単純だ。
私は好きな人のことを知りたかった。どんなことでもいいから、一つでも多く知っておきたかった。
「そんなに好きなんだ、向坂さんが」
はしゃぐ私を見て、部長はにやにやしてみせた。
そして探るような鋭い目を向けてきて、
「で、当の本人には言えたの? 好きですって」
「え!? い、いえ、何と言うか……」
いきなり聞かれたものだから私はしどろもどろになる。
言えたかどうかと聞かれれば、全くもって何にも言えてない。インハイ前の大事な時期に告白なんていうのも暴挙だろうし、私のことなんかで向坂さんの精神統一を妨げたくないので、それが全部済んでからと思っている。
「インハイ終わったら言う、つもり、なんすけど……」
答えつつもだんだん声が小さくなっていく。同時に俯きたくなる私を、部長は何やらおかしそうに見てくる。
「随分自信なさそうにするんだね、茅野さん」
「そりゃそうっすよ。こういうことに自信たっぷりでいられる人なんています?」
「確かにね。自分だけ頑張れば必ず叶うってものじゃないもんね、恋愛は」
部長は実も蓋もないことを言ってしまった。
返す言葉もなく、私はうっと詰まる。
世の中は頑張ればどうにかなることばかりじゃない。特に恋愛は相手のあることだから、こっちがどんなに頑張ったって向こうにその気がなければただの空回りで終わってしまうこともままあるわけだ。私はクッキーやらババロアやら柄にもなく必死になって練習してるけど、それを向坂さんがどう思っているかはわからない。喜んではくれているみたいだけど、そこに私と同じ気持ちがあるとは限らない。今のこの努力が報われるかどうかなんて知りようがないし、報われなかったとしても誰を責めることはできない。そういうものだ。
でも、自信はないけどそれでも頑張りたいと思えてしまうのも恋愛の不思議なところ、ではある。
「普通に考えたら、どうでもいいと思ってる子とデートの約束なんてしないけどね」
実も蓋もない発言の後で、部長は嬉しい言葉もくれた。
たちまち私はでれでれしてしまって、
「そ、そう思います? だといいんすけどね、え、えへへへ……」
女子力の低い笑い声を立てたところ、部長まで笑い出してしまった。
「立ち直り早っ! 茅野さんって単純だね、いい意味で」
「『いい意味で』ってつけられても誉められてる感じ全然しないっすね」
「あれ、おかしいなあ。ちゃんと誉めてるのに」
部長はお腹を抱えて散々笑った後、目に涙さえ浮かべて言い添えた。
「でも茅野さんのそういうとこ、すごくほっとする。私がそう思うんだから、他の子も同じように思うんじゃないかな」
これは、誉められたのかなあ。
何かいいことを言われたようにも感じたんだけど、部長はその後も思い出し笑いみたいに断続的に肩を震わせていたから、内心ちょっと複雑だった。
それから私達はよく冷えて固まったババロアを冷蔵庫から取り出した。
引っ繰り返して型から抜いたババロアは目論見通り缶みかんとヨーグルトババロアのきれいな二層構造になっていた。少しどっしりしたババロアを切り分けて、私と部長で早速いただく。
「……何かすごく、大人の味になってるような」
一口食べて、私は思わず呟いた。
洋酒が利きすぎて、つんとするような味わいだった。予定ではもうちょっと夏向きの爽やかな味になるはずだったんだけど、香りもすごい。お酒の匂いがぷんぷんする。
「だからちゃんと量ってって言ったのに」
部長は苦笑気味に私を叱った。
「コアントローを入れる時、匙から直接入れたでしょ。一度小鉢にでも入れてから混ぜる方が失敗がなくていいよ」
「はい……覚えときます」
まあでもこれも食べられないほどではないし、洋酒の強ささえ目をつむれば十分美味しい。見た目は予想以上にきれいにできているし、次は上手く作れるんじゃないかな。
でも心配になったので、一応聞いてみた。
「部長、コアントローって絶対入れなきゃいけないんですか?」
すると部長は食べる手を止め、目を伏せて考え込んだ。
「うーん……香りと風味づけだからね。あった方が上品な味わいになると思うけど、なくてもいいよ。お酒が駄目な人もいるだろうし、あと小さな子に作ってあげる時とかは入れない方がいいよね」
向坂さんはお酒、苦手かな。さすがにこんなに入ってたら驚かれるかもしれない。今度作る時は事前に聞いておこう。
「あと、今回はみかんで作ったけど、他のフルーツでも美味しいよ」
部長はそう言いながら、ババロアをきっちり半分、ぺろりと平らげてくれた。
「大体作り方はわかっただろうし、次はアレンジに挑戦、なんてどう? 向坂さんの好きな果物使ってみるとか」
好きな果物かあ。聞いたことないな、でも――そうだ。向坂さんの携帯電話のストラップは桃だった。ちょっと濃い目のピンクで、にっこり笑った顔がついてる桃。そんなことを思い返してみる。
だからって向坂さんが桃好きとは限らないけど、少なくとも大嫌いなのにぶら下げてるなんてことはないだろう。
そう思って言ってみた。
「じゃあ、ピーチババロアってどうですかね」
すると部長は大きく頷き、
「それもいいと思うよ、ちょうど夏だしね。向坂さん、桃好きなの?」
「好きそうなんです、何となく」
私が微妙な答え方をしたせいで、部長はどういうことかわからなかったようだ。怪訝そうに瞬きをしていた。
でも向坂さんが恥ずかしそうにしていたストラップのことを言い触らすのもな、と思ったので――本当に好きかどうかは今度、インハイが終わったら聞いておこう。
八月に入ってすぐ、向坂さんがメールをくれた。
ちょうどインターハイ期間前日のことで、メールにはたった一行、『行ってくる』とだけ記されていた。
私はそのたった一行のメールを何度も何度も何度も読み返してから返事を送った。長くなると負担になるだろうからこちらからも短く、『試合見てます。ババロア練習しときますから、頑張ってください!』とだけ。
向坂さんはそれに『任せた』と返事をくれて、それで初めてのやり取りは終わってしまったけど、私は幸せいっぱいだった。
任された! これは頑張らなくちゃいけない!
私は張り切って部長にコピーしてもらったババロアのレシピを読み返し、そして試合当日には家のパソコンを立ち上げた。
向坂さんの試合を見る為だった。