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酒と涙とピーチババロア(5)

 約束の日、私はババロアの入った保冷バッグを提げて、公園の入り口に立っていた。
 今日もあちらこちらで蝉が賑やかに鳴いている。おまけによく晴れて、すごく暑い日だった。

 何を着ていこうか、部屋の鏡の前で二時間くらいめちゃくちゃ悩んだ。
 今日はデートだ。それも向坂さんのお部屋でのデートだ。なるべく気合入れて可愛くしておきたかったし、ほんのちょっと色気も欲しいなと思うし、しかしながら床に座ったりすることを考えるとミニスカートはさすがにまずいなという気もするし、万が一向坂さんのご家族にお会いした時の為にあまりだらしない格好はしたくない。
 そういったジレンマを抱えつつ、私はお気に入りのキャミソールに膝丈のジーンズという無難ながらも可愛さと色気を諦めないコーデで今日のデートに臨んだ。キャミはネオンカラーのグリーンに白い水玉模様で、裾がひらひらしたフレアーラインですごく可愛いのが気に入っている。そして出るとこ出てない私が着ると実際の体重よりも痩せて見えるのがいい。別に負け惜しみとかじゃない。ないものはないんだからしょうがないのだ。
 ババロアは桃で作った。事前に聞いてみたところ、向坂さんは桃を『自分で買って食うくらいには好き』だと言っていたので、選ばない理由がなかった。問題の洋酒については『なきゃないで別にいい』とのことだったから、今回は入れないでおいた。冷蔵庫でしっかり冷やし固めたので仕上がりはばっちりだ。味見もしたし、あとは向坂さんが何て言ってくれるかだけど――。
 どきどきしているのは、向坂さんと久し振りに顔を合わせるからかもしれない。
 夏休みももう後半に突入していたけど、ずっと向坂さんとは会えずにいた。その姿を見ることはできた――インハイのライブ動画を一度だけ見ていたし、新聞に写真入りの記事も載っていたからだ。でも直に会うのは久し振りで、こうして向坂さんがやって来るのを待っていると、心臓が苦しいくらい速くなった。

 待ち合わせ場所の児童公園は、向坂さんの家のすぐ近くにあるらしい。
 電話で位置を聞いてもいまいちわからなくて、でも向坂さんに私の家まで迎えに来てもらうのも申し訳ないから、地図にも載ってるこの公園で落ち合うことにした。私は待ち合わせ時刻の午後一時より三十分も前からここに突っ立って、向坂さんを待っている。
 足元に広がる影が焼きつきそうな日差しが降り注ぐ中、公園を取り囲む住宅街の景色はゆらゆらと揺らめいて見えた。さすがにこうも暑いと公園で遊ぶ子供の姿もなくて、蝉の声だけがひたすら賑やかだ。日焼け止めを塗ってきたのにひりひりし始めた肩の上、キャミのストラップを直した時、揺らめく景色に浮かび上がるみたいに大柄な影が現れた。
 顔もよく見えないうちから、歩き方だけで向坂さんだとわかった。つるりとした坊主頭はそのままに、白いTシャツを着た向坂さんが真っ直ぐにこちら目指して歩いてくる。私にいつ気づいたのかはわからなかったけど、その表情がわかる距離まで来た時には少し照れたように笑んでいた。
「結構久し振りだな、茅野」
 それから唇の右端に貼った白いガーゼを気にするように、手で軽く触れながら言った。
「悪い、ひっでえツラだろ? 痛みはほとんどねえんだけどな」
 向坂さんの右目の下には青いあざもできていて、心なしか腫れているようだった。試合では結構すごいのを食らったのかもしれない。痛みはないと言っていたけど、私に笑いかける表情はぎこちなく、口元の傷を気にしているように思えた。
 動悸が拍車をかけて速くなる。
 思い出すのは前に見たあの試合のライブ動画だ。向坂さんと相手の選手がリングの上で猛然と殴りあうあの光景。あんなパンチを食らったら怪我だってする。向坂さんはこの右目の下や頬の辺りに誰かからの拳を食らっていたんだろう。どんなふうに殴られたのか、想像したらもう駄目だった。
 好きな人と会えて嬉しいのとは明らかに違う意味で、心臓がどきどきしていた。
「……茅野? どうした?」
 私の顔を覗き込もうとする向坂さんの顔が、たちまち涙でぼやけた。
「こ、向坂さん……」
 名前を呼ぶ声が震えて、鼻の奥がつんと痛くなる。汗より温い涙がぼろぼろ目から流れ出し、私の肩や胸に落ちるのがわかった。
「な、何で泣くんだよ。何かあったのか?」
 向坂さんが珍しくうろたえるのが声でわかった。
 それで私は泣きながら、理由をどうにか説明しようとした。
「だって、だって、向坂さんが戻ってきてくれたから……」
「はあ? いや、そりゃ戻ってくるだろ」
「あ、あんな、あんな目に遭ったのに、よくご無事で、帰ってきてくださって……」
 私が声を絞り出すと、少しの間の後で向坂さんが言った。
「大げさだなお前。俺がどこ行ってたと思ってんだ」
「だって、すごかったじゃないですか。相手の選手だってめちゃくちゃガチムチだったし、ごっ、強盗にも、普通に勝てそうだったしっ」
 向坂さんみたいな男子高校生が他にもいるなんて思わなかった。そんな人と殴り合って無事で済むはずがないと思っていた。だから向坂さんの顔を見て、怪我をしているのがわかったら、あの日の恐怖がぶり返してきた。
 同時に、向坂さんが戻ってきてくれてものすごく、ほっとした。
「私っ、本当に、うう、嬉しくて……向坂さんが無事でよかったって……!」 
 外で泣くのはみっともないと知っているけど、声を上げて泣いてしまった。
「だ、だから大げさだって言ってんだろ。別に戦場に行ってたわけじゃねえんだぞ」
 向坂さんは私を宥めようとしてそう言ったんだろう。
 でもあの日の私の目には、リングこそがまさに戦場に見えていた。
 だから怖かった。向坂さんが負けて、無事じゃなかったらどうしようと思った。とてもじゃないけどあの戦場を直視する勇気なんてなかった。
「わかった。無理に泣き止まなくていいから、こんな暑い中で泣くのはよせ」
 溜息をついた後、向坂さんは私の背中に大きな手を添え、歩くよう促してきた。
「俺の家、すぐそこだ。中入ってから好きなだけ泣け」

 泣きながら、ほとんど担ぎ込まれるみたいに向坂さんの家に上がった。
 肩を支えられながら階段を上り、その先にあったドアのうちの一つを向坂さんが開ける。中に通されて、私の後から向坂さんが入ってきて、音を立ててドアが閉まる。
 その直後、抱き締められた。
 肩を両手で掴まれてくるりと引っ繰り返されて、涙で濁った目が部屋の中を捉えるよりも早く視界が暗く塗り潰される。向坂さんが私の頭に手を置いてぎゅっと力を込めると、ぐちゃぐちゃに汚れている私の顔が向坂さんの着ているTシャツの生地に押しつけられた。
「怖いもん見せて、悪かった」
 私をきつく抱き締めながら、向坂さんは囁く声でそう言った。
 それだけで私の呼吸も、涙も、びっくりするほどたやすく止まってしまった。
 私の現金さなんて今更語るべきものでもなく、抱き締められた途端にのぼせるほど自分の体温が上がったのがわかった。心臓なんてもうフル稼働しすぎてメーターが振り切れそうになっていたし、緊張感から全身がぷるぷる震えていたけど、でも大事なのはそこじゃないということもわかっていた。好きな人に抱き締められて浮かれている場合じゃない。
「あ、あの、違うんすよ」
 慌てて顔を上げると、ようやく涙の引いてきた目で向坂さんの顔を見ることができた。
 口元にガーゼを貼った向坂さんは、明らかに訝しそうにしている。私がいきなり泣き止んだのも、何か違うと言い出したのも、向坂さんからすればすごく奇妙なことだろう。
「私は、何て言うか……ボクシングが怖かったんじゃなくて」
 泣き止んだとは言え、結構長く泣いていたせいで私の声はがらがらだった。顔だって多分相当酷い。せっかくのデートだというのに何やってんだろうって、自分でも思う。
 でも、向坂さんを誤解させたままにしておくのは絶対駄目だ。
 向坂さんがとても大切にして、心血を注いでいるものから、私も目を逸らさずにいられるようになりたかった。
「つまり、向坂さんが怪我するかもって思って、それが怖かったんす」
 ぐすっと鼻を啜ってから告げると、向坂さんは難しげな顔をして少しの間考え込んだ。
 考えた後で納得したのか、重々しい口調で言った。
「じゃあ、お前を不安がらせるような試合をして悪かった」
「い、いえ、そういうことでもなくてっ」
 向坂さんに謝ってもらう必要なんて全くない。向坂さんは何も悪くなくて、ただ日々の努力の成果をあの場で存分に発揮したというだけだ。向坂さんにとってボクシングがどれほど大事なものかはわかっている。
「私、本当は向坂さんをずっと見てたかったんです」
 せっかく試合の動画が配信されているんだから、全試合見ていたかった。ユニフォーム姿の向坂さんもそれはもう格好よくて絵になってて、見とれてしまうくらいだった。
 何よりも、向坂さんが頑張っている姿を最後まで見届けたかったのに。
「でも私……」
 一瞬ためらったけど、これを言わないと向坂さんの誤解も解けないだろうし、言ってしまうことにした。
「向坂さんが絶対怪我しないとか、大丈夫だとか、絶対勝つって思えるほどには、向坂さんのこと知らなかったから……」
 好きな人のことは何でも知りたいと思うのが真っ当な乙女心であり、私は自分なりに好きな人についてじっくり観察をしてきたつもりだった。歩き方とか姿勢とか、ちょっとした表情の変化とか筋肉のつき方とか、我ながら変態すれすれだと思うけどそういうことばかりよく見ていた。
 でも肝心の、向坂さんが大好きなボクシングのことだけは、私は何にも知らなかった。
「もっと向坂さんのことを知ってたら、絶対、見てても怖くなかったって思うんでっ」
 私は、私を抱き締めたままの向坂さんを見上げて訴える。
「だから私、向坂さんとボクシングのこと、今以上によく知りたいっす!」
 この人を好きでいる以上、この人が何よりも好きなボクシングについて、見て見ぬふりをすることはできない。
 私の気持ちは、怖いものがあったとしても逃げ出すわけにはいかないところまで来ているのだ。私は向坂さんが好きだった。泣いてる私を、それも決してきれいに可愛く泣いてるはずがない私を迷わず抱き締めてくれた、向坂さんが好きだった。
 向坂さんは静かな目で私を見下ろし、気遣うような表情を浮かべる。
「別に無理して見なくてもいい」
 そう言ってから、何かに気づいたようにはっとして、私の身体を離した。
 そしてドアのすぐ傍にある勉強机の上、畳んで置いてあったスポーツタオルを腕を伸ばして取り上げる。涙でどろどろの私の顔に、そのタオルをそっと押し当てて涙を拭き取ってくれた。
「む、無理してるわけじゃないっす。全然」
 拭いてもらいながら私が反論すると、向坂さんは困ったような顔をした。
「いいんだよ。ボクシングは、興味のない奴が我慢して見るもんじゃねえ」
 思わず私は言葉に詰まり、そんな私の頬を拭き終えた向坂さんが、今度は手のひらで私の頬に触れる。
 大きくて分厚い、すこしざらっとした、温かい手だ。
 こうして触れられるのは二回目だった。前は確か、学校の玄関、靴箱の前で。
「それにな、勝負事に絶対なんてねえんだ。どれほど才能があろうと、どんなに努力してようと、負ける時は負ける。そういうもんだ」
 向坂さんが続けた言葉は少し、胸に痛かった。
 確かに、努力をすれば何でも叶うわけじゃない。そうじゃないものもあるって知ってる。
 まだ大して努力もしてない私が知っているくらいだ。向坂さんはきっとそれ以上にたくさん、知っているんだろう。
「お前の気持ちは嬉しいけどな」
 そう言った時、向坂さんがはにかんだような気がした。
「俺は、そういうんじゃなくても……」
 何かを言いかけて、一瞬だけ目を逸らし、再び私を見る。
 頬に手を添えたまま、親指の腹で私の下瞼を優しく撫でてきた。あれだけ大泣きした後だ、私の目も結構腫れてるのかもしれない。私がそんなことを考えていたら、向坂さんがおかしそうに吹き出した。
「さっきお前の顔見た時、帰ってきたなって、すげえ実感した」
 ふと、向坂さんは笑いながら言った。
 腫れぼったいはずの、少し重く感じる目で私が瞬きをすると、向坂さんは尚も続ける。
「不思議だよな。そう長い付き合いでもねえのに、そういう存在になってる」
「え、えっと……」
 そうですね、と同意した方がいいんだろうか。
 予想もしなかった言葉に、私は戸惑うことしかできない。そういう存在って、つまりどういう意味? いい意味に取ってもいいんだろうか。
「俺はそれでいいと思ってる。お前は……どう思う?」
 向坂さんは私に尋ねると、答えを求めるみたいにゆっくりと、顔を近づけてきた。
 これも、二度目だった。身動きが取れなくなるほど近く、すぐ目の前にある顔のうち、唇にしか目が行かないくらいに近くに向坂さんがいる。窓から差し込む光もここまでは届かず、右端に白いガーゼを貼った唇の下には、薄く影ができていた。

 前にこうして近づかれた時は、私の顔をよく見る為、だったはずだ。
 それなら今は何だろう。
 向坂さんは私の顔の前でぴたりと動きを止めてしまった。瞬きもしていないのが視界の隅に映っている。私も同じように瞬きもできず、向坂さんの形のいい唇を見つめている。向坂さんの手のひらは分厚くてざらっとしているけど、唇はどんな感触なんだろうって考えてしまう。別に触ってみたいとか、触れられたいって思ってるわけじゃないけど――本当はちょっと、思ってるけど。
 目をつむったのは、確信があったからじゃない。
 ほんのちょっと期待はしていた。もしかしたらって思ってた。瞬きをやめているのに疲れたからというのもあるけど、もしそうなったら嬉しいだろうなと思って、私は、目を閉じた。
 数秒間の沈黙があった。
 不意に押し殺したような吐息が私の唇にかかり、私の肩がひとりでに震えた。
 その瞬間、だった。

 ばたん、と足元で、あるいは階下で大きな音が響いた。
 すぐにどたどたと駆け込んでくる足音がして、
「お兄ちゃーんっ! 玄関に女の人の靴あるんだけどー!」
 女の子の明るく弾んだ声が聞こえてきた。
 しかもその声も足音もどんどんこちらへ近づいてきて、遂には階段を上がってきたようだ。向坂さんが忌々しげに振り返った時には、足音はもうドアの前まで辿り着いていて、それ以外の前触れは何もないままドアが勢いよく開いた。
 現れたのは小学校高学年くらいの、可愛らしい女の子だった。小さい子特有の細くてさらさらの髪をなびかせ、あどけない顔に嬉しそうな笑みを浮かべたその子は、
「お兄ちゃん、もしかして彼女が来てるとか――」
 だけど部屋の中を見回した途端、愕然とした様子で口を開けた。
「あっ! お兄ちゃんが、女の人泣かせてる……!」
 しまった。涙を拭いてもらったとは言え、今の私は明らかに泣いた後の顔だ。
「ノックしてから入ってこいっていつも言ってんだろ。今日は客が来てんのに」
 向坂さんはうんざりした様子で応じると、私に向き直って言った。
「悪いな、あれ妹だ。今締め出すから、ちょっと待ってろ」
「あ、えっと、お、お構いなく……」
 私はそう答えるのが精一杯だった。
 そんなにすぐ気持ち切り替えられないって言うか、ちょっとほっとしたような、すごくがっかりしたような――何だかんだでめちゃくちゃ期待してたのかもしれない。うわあ、何かすっごく恥ずかしい!
 でもあのまま誰も来なかったらどうなってたのかななんて、考えたりもして。
「紹介くらいしてよー! お兄ちゃんが彼女連れてきたのなんて初めてじゃん!」
「うるせえよ。行儀悪い奴を客前に出せるか」
 妹さんがドアにしがみつくから、向坂さんは大きな手で無理やり引き剥がそうとする。もちろん腕力で小学生が向坂さんに敵うはずもなく、あっさりと剥がされたところで私は、ずっと提げていた保冷バッグの存在をようやく思い出した。
 それでまあ、照れ隠しの意味もあって、おずおずと切り出してみた。
「じゃあよかったら皆で、ババロアとか、どうですかね」
 向坂さんと妹さんは揃ってこちらを振り返り、向坂さんは少し不服そうに妹さんに視線を戻す。
 一方の妹さんは得意げな顔をしてから、私に対してにっこり笑った。
「わあすごい! お兄ちゃんの彼女、超優しい!」
 私はその言葉にどう答えていいのかわからなくて、そっと向坂さんの方を見やる。
 向坂さんは諦めたような顔で肩を落としてから、いいのか、と口の動きだけで私に尋ねてきた。
 もちろん全然いいんだけど――今回は『まだ彼女じゃない』って言わないんだなあってツッコミは、当たり前だけどできるはずがなかった。
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