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努力、勝利、バニラクッキー(4)

 紅茶を飲み終えた後、私は洗い物を済ませて部長に挨拶をしてから家庭科室を出た。
 もしかしたらと思っていたけど、その帰り際、渡り廊下でまたしても向坂さんと出くわした。
 家庭科室から見かけていた通りの格好だった。坊主頭に白いタオルを巻きつけ、汗で濡れたTシャツを身体に張りつかせて鬱陶しげだ。そんな向坂さんは廊下を歩いてくる私に気づくと、軽く目を見開いてから手を挙げた。
「おう、茅野。今帰りか」
「そうっす。向坂さんは練習中ですか?」
 私は妙にどきどきしながら足を止める。
 内心、ここで出くわしたことをちょっと嬉しく思っている。もしかしたらと思ってたけど、本当に会えた。渡り廊下ばんざい。
「ロードワーク帰りだ。暑くても練習は休めねえからな」
 向坂さんが答えながらこちらへ歩いてくる。Tシャツの襟元をぱたぱたさせながら、疲れた顔で苦笑していた。
 あの後もずっと走り込んでいたんだろうか。好きでやってると言い切っただけあって、向坂さんはボクシングに対して本当に真剣だ。強面の顔に浮かぶくたびれたような笑みが、私には眩しすぎて目が眩みそうだった。
「大変っすね、お疲れ様です」
 眩しさに、私は思わず目を逸らす。
「お前もな」
 向坂さんはそう言うと立ち止まらず、ゆっくりした足取りで私の横を通りすぎていく。すれ違いざまに振り向き、私を見た時、少しだけはにかんだように見えた。
「悪い、汗掻いてると臭うだろ。俺行くわ」
「え? あ、はい……」
 もう行っちゃうんだ。呆気に取られた私がぼんやりしている間に、向坂さんはそそくさと渡り廊下を抜けていってしまった。
 その姿が曲がり角を曲がって見えなくなった時、私は朝と同じように少しの寂しさを覚えた。

 見えなくなっちゃった。
 もう、行っちゃった。
 これで向坂さんと今日はもう話せないんだなと自覚した途端、夕暮れ時のような、知らないところに来てしまったような、変に心細い気持ちになった。
 確かに私と向坂さんは、ほんのちょっと変わったのかもしれない。
 以前はただのクラスメイトで、向坂さんにとっての私は名前すら『茅野、だっけ?』ってレベルで覚えられてるような覚えられてないような存在だった。でも今はちゃんと名前を覚えてもらえるようになって、廊下で会った時にほんの少しだけだけど立ち話もしてもらえるようになった。だから確かに変わったと言っていい。
 だけど何もしなければ、これ以上変わることもない。
 部長が言っていた。このままだと私は、向坂さんにクッキーを作ってあげただけの人だって。
 それだけでもいいと思うなら、何もしないで、苦手な努力なんてしないで、このまま帰ればいい。
 でも少ししか話せなくて寂しいと思うなら、もっと話したいと思うなら、もっと変わりたいって思うなら――私は、今こそ再び頑張らなくちゃいけないはずだ。

 そう思ったらもう、駆け出さずにはいられなかった。
「向坂さんっ!」
 私は大声を上げて名前を呼び、渡り廊下をあの人が消えた方向へと取って返した。
 急ぎ足で曲がり角を曲がると、私の声が聞こえていたのか向坂さんは立ち止まり、訝しそうにこちらを振り返っていた。
「何だ、茅野。何か用でもあんのか」
「あ……あります!」
 たったこれだけの距離を走っただけで息が上がるなんてあり得ない。
 でも向坂さんと向き合うと、心臓がやけにばくばく言い出した。息も苦しい。おまけに顔が赤くなるのがわかる。
「じ、実はそのっ」
 それでももごもご言いながら、私は制服のポケットにしまい込んでいた例の食券を取り出した。アールグレイとダージリン、どちらも一杯ずつ飲める券だ。
 向坂さんにそれを差し出して、言った。
「これ、文化祭でうちの部がやる喫茶コーナーの食券なんです」
「へえ。クッキーだけじゃねえのか、お前んとこ」
 興味を持ってくれたのか、向坂さんは少し身を屈めて食券に印刷された文字を読もうとしている。
「はい。これを持ってくるとただで紅茶が飲めるっす」
「紅茶か。あんま詳しくねえな、美味いのか?」
「お……美味しいと思いますよ。練習、頑張りましたし」
 私のその言葉に向坂さんが、黙って大きく目を見開いた。
 それで私は照れたけど、改めて食券を差し出してみた。
「だからつまり、向坂さんに来てもらえたらなと思ってるんです。もちろんその、ご迷惑じゃなければ、ですけど」
 そして祈る思いで俯けば、しばらくしてからとても大きく分厚い手が私の手から、食券を受け取ってくれた。
「わかった。飲みに行ってやる」
 向坂さんは、そう言ってくれた。
 すかさず顔を上げると、向坂さんは怖い怖いとよく言われる顔に最大限の穏やかな微笑を浮かべていて、この人の持つ深い優しさが初めて目に見えたように思えた。
「ありがとな、茅野」
 声まで優しく告げられて、私の身体の全ての器官はそこで一時停止した。
 もちろんすぐに動き出したけど、
「いえ、あの、迷惑じゃなかったですか」
「迷惑どころか」
 こちらの問いにふっと笑い声を立てて応じたのを聞いたらもう、駄目だった。これ以上は心臓がもたないと判断した。
「じゃ、じゃあ、それだけですんで私はこれにてっ!」
「あ、おい!」
 乱暴に挨拶すると、向坂さんが戸惑うのも放置して踵を返した。
 渡り廊下の方へ戻るつもりで駆け出したものの、足ががくがくしていて数歩も上手く走れなかった。向坂さんが追いかけてこないのを足音で確かめてから、曲がり角を曲がった先ですぐに立ち止まる。
 立っている余裕もなく、壁に寄りかかったら体力も気力も尽きた。そこからずるずると、垂れ落ちていくみたいに廊下の床にしゃがみ込んだ。緊張が一気に解けて、どっと疲れていた。
 でも、渡しちゃった。
「渡せた……」
 溜息交じりの声が自然と出た。
 私はしゃがみ込んだまま、両手で顔を覆った。頬が熱い。瞼の裏もちょっと熱い。
「頑張っちゃった……!」
 柄にもないことだけど、頑張ってみたら、受け取ってもらえた。
 そのことが今、無性に嬉しかった。
「えへへ……」
 一人でこっそりにやにやしながら、でもちょっと泣きそうになっているのが変だ。考えてみれば単に食券渡して、来てくださいって言っただけで、告白でも何でもないのに。でも何だか胸の奥がじんとする。変だ。
 本当に、頑張ってよかった。
 私はそんな思いを胸に、ぐすっと鼻を啜った。
「――頑張ったのか」
 不意に、向坂さんの声がした。
 ぎょっとして顔を上げる。
 廊下の曲がり角からこちらを覗くようにして、すぐ傍、頭上に向坂さんの姿があった。しゃがんだ私を見下ろす顔は微笑んでいる。
 今度は完璧に心臓止まった。五秒くらい。
「なっ……ななな、なんでいるんですか向坂さんっ!?」
 私は驚きのあまりよろけ、その場に尻餅をつく。
 向坂さんは笑いながら肩を竦めた。
「なんでと言われてもな。お前が走ってったと思ったらすぐそこで足音止んだから、そりゃ何してんのかなって覗くだろ」
 迂闊だった。限界でももっと走っていってからしゃがみ込めばよかった。
「あ、あの、今のは独り言ですからなにとぞ聞かなかったことにしてください! マジで!」
 尻餅をついたまま両手を合わせて懇願する私に、向坂さんはその大きな手を差し伸べてくる。
「いいからまず立てよ。スカート汚れんぞ」
「あ、そうっすね、すみません……」
 向坂さんは私の手をしっかり掴んで立ち上がらせると、ついでのように私の頭に手を置いて、またがしがしと撫でてくれた。クッキーを作って持っていった時と同じように。
 とは言え今回は撫でてもらえる理由が見当たらない。
「なんで、撫でてるんですか」
 されるがままになりながらも聞いてみたら、向坂さんはにやりとしてみせる。
「お前がまた頑張ったらしいから」
「うわあああ! それは聞かなかったことにしてくださいって言ったのに!」
 私は悶絶のあまり絶叫し、向坂さんが鼻を鳴らす。
「聞こえちまったもんはしょうがねえだろ。文句あんなら呟くな」
「うっ、確かに」
 ごもっともすぎて、もはや返す言葉もない。
 私が言葉に詰まったからか、向坂さんはもう一度私の頭を撫でた。宥めるように撫でてから言った。
「文化祭、必ず行くからな」
 息もできないくらいに心臓がきゅっとなった。
 やっぱり向坂さんはものすごく格好いい。
 努力家で優しくて私なんかよりずっと大人で、そして――不思議なことだけど私なんかより、私の気持ちをわかってるみたいだ。撫でられながらすごく強く、そう思った。私が気づくのに時間をかけたその気持ちも、向坂さんの三白眼には見えちゃってるんだろう。ごまかしようもなく。
「ああ、それとな、茅野」
 私の頭から手を離した後、向坂さんは立ち去ろうとして、思い出したように口を開いた。
「暑い中、無理して走ってくんなよ。そのくらいだったらさっきみたいに声かけろ」
 不意打ちの言葉に戸惑う私を、いやに大人びた顔つきで見下ろしている。もしかしたらタオルで坊主頭を隠しているせいかもしれないけど、こうして見ると向坂さんの威圧感のある顔立ちは高校生離れしていて、成人男性と遜色なかった。
 それでいて声は優しく、さっきみたいに手を差し伸べるように続けた。
「つまんねえ遠慮すんな。クラスメイトなんだから、用があるならいつでも話しかけりゃいい」
 向坂さんはすごい人だけど、大人っぽいけど、私よりしっかりしてるけど、間違いなく私のクラスメイトだ。だって向坂さんがそう言ってくれたんだから、間違いない。
 クラスメイトなんだから、一生懸命頑張れば、傍にいられるようになるかもしれない。
 そうなりたい。
 畏怖と尊敬だけじゃない、それとは全く異なる気持ちを、その時自覚することができた。

 そして迎えた文化祭当日、向坂さんは家庭部が模擬店を構える家庭科室へと来てくれた。
 しかも文化祭初日の朝一番に来てくれた。家庭部には一番乗りのお客さんだ。
「あっ、向坂さん!」
 戸口をくぐる姿を見つけて私が声を上げると、向坂さんはこちらに視線を向けて、微かに笑った。
「よう。準備できてるか、茅野」
「ぼちぼちっす!」
「そりゃよかった。エプロン似合うな、お前」
「あー……いえいえそんな、それほどでも」
 家庭部でお揃いにしたエプロン姿を誉められ、私は大いに照れた。
 そんな私の横では、この時を今か今かと待ち構えていたはずの部長が凍りついている。
 事前のミーティングでは『茅野さんの好きな人を一目見てみたいと思ってたの!』なんてうきうきしていたはずなのに、その時の笑顔もどこへやら、今は氷の彫像のように固まって身動きが取れないようだ。
 向坂さんがじろじろと不審そうに眺める中、部長はごくりと喉を鳴らし、恐る恐る口を開いた。
「こここ、向坂さんっ!? う、うちの家庭部に一体どのようなご用件で――」
 震える声で問われた向坂さんは、どこか申し訳なさそうに肩を竦めてみせる。
「客だよ。茅野に食券貰ったからありがたく来てみた」
「え!? 茅野さんが誘ったって、まさか、向坂さんが茅野さんの……!?」
 部長は引きつった顔で私と向坂さんを見比べた。この可能性はかけらほども想定していなかった、という顔に見える。そりゃそうか。
 好きな人の名前を言うのが恥ずかしかったっていうのもあるんだけど、でも相手が校内の有名人である向坂さんなら、そのくらいは事前に言っとくべきだったかもしれない。
 あとでフォローしようと意を決した私に、向坂さんがこっそり囁いてきた。
「なあ、茅野。あの人固まってっけど大丈夫か」
「いえいえ平気っすよ、部長はああ見えてスパルタ鬼軍曹なんで」
「ならいいけど、俺が営業妨害してるようならいつでも言えよ」
「そんなこと全然ないですから、ゆっくり紅茶飲んでってください」
 それで向坂さんは以前渡した食券を二枚とも出し、『お前のクッキーに合う方を』と注文してきた。
「は、はいただいま! 大至急お席にご案内いたします!」
 まだ事態を飲み込めていない部長が向坂さんを喫茶コーナーの席に案内する間、私はバニラクッキーに合いそうなダージリンを入れておく。
 それから向坂さんの席へ持っていくと、エプロン姿の家庭部員に囲まれても堂々としている向坂さんが顔を上げる。目が合った時、少しだけ嬉しそうに笑ってくれた。
「お待たせしました。ダージリンと『恋が叶うバニラクッキー』です」
 私が商品名を読み上げると、向坂さんは一度眉を顰め、それから星型のクッキーを一つ、指でつまんだ。
「これ、そういう名前なのか」
「はい。えっと、うちの部長がつけたんです。私じゃないっすよ」
 なるべく平然と、何でもないふうに言おうと思ったけど、恐らく私の顔は赤くなっていたことだろう。
 向坂さんはそんな私を黙って数秒見つめた後、まずは紅茶を一口飲んだ。
「……美味い」
 そう呟いてから、今度は私が焼いたバニラクッキーを口に運ぶ。
「恋が叶うとか、俺の柄じゃねえけどな。やっぱ味はいいな、このクッキー」
 心なしか照れながらも、美味しそうに食べてくれている。
 柄じゃない、のかなあ。向坂さんには好きな人、いないのかな。私としては今のところ、いないといいなと思ってしまうんだけど。
 そんなことを考えながらテーブルの傍で見守っていると、不意に向坂さんが私に告げた。
「柄でもねえから、お前も食え。口開けろ、茅野」
「え? でもあの、私、店員さんなんで……」
「いいからほら、早くしろ」
 向坂さんは私を急かすと、遠慮しようと開いた私の口に手を伸ばし、クッキーを一枚放り込んできた。
 しょうがないからその一枚はありがたくいただいて、バニラの香りと軽い食感を味わっておく。
「美味いだろ?」
 まるで自分のことみたいに、誇らしげに向坂さんが尋ねてきた。
 散々味見もしたから美味しいのは知ってたけど、今日のは何だか特別な味がした。
「美味しいっすね」
「だろ? 茅野は頑張ればすげえんだよ」
 向坂さんが尚も自慢げに言ってくれたので、私は照れた。照れたけど、柄でもないけど、まだまだ頑張ってみようかなという気にもなってきた。
 部長が名づけた通りに、恋、叶うといいな。
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