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努力、勝利、バニラクッキー(3)

 向坂さんにクッキーを食べてもらったその後。
 家庭科室に帰還した私は、その手前の廊下で家庭部の部長に行く手を阻まれた。
「さて茅野さん、結果を報告してもらいましょうか」
「な、何ですかいきなり、報告って」
 私は思わずたじろぐ。
「とぼけないで。私は協力してあげたんだから、結果を知る権利があるの」
 じりじりと部長が詰め寄ってくる。
 確かにいい加減な私にクッキーの作り方を仕込んでくれたのはこの人だ。大変お世話になったし、頭が上がらないのも事実だった。
 だけど、結果報告と言われましても何を話していいのやら。
 私がしたことと言えば、向坂さんにクッキー渡して、おめでとうございますって言って、それで向坂さんにはクッキーを食べてもらって、ついでに頭を撫でてもらった――たったそれだけだった。いや、別にそれ以上の何かを期待してたなんてことは決してない。私はただ、柄にもなく頑張って作ったクッキーを向坂さんに美味しく食べてもらえたらそれだけでよかった。むしろ頭なんか撫でてもらえて、ちょっと得した……かもしれない。
 そして公園で向坂さんと別れた後、私は一人きりで学校まで引き返した。部活を中抜けしてきたので家庭科室に戻ろうとしたところで、うずうず待ち構えていた部長にとっ捕まったというわけだ。
「茅野さん、例の彼にクッキーは渡せたの?」
 おさげの部長が冷静に問いかける様子は、まるでドラマに出てくる女裁判官のようだった。
 すっかり被告人の気分になった私は、直立不動の姿勢で答える。
「お、お蔭様で、無事渡せました!」
「そう。美味しいって言ってもらえた?」
「貰えましたです! それもこれも部長のご指導のお蔭っす!」
「私は作り方を教えただけで、頑張ったのは茅野さんでしょ?」
 部長はにこっと微笑んだ。私がいかにだらけていようと適当にやっていようといつも優しかったその笑顔が、なぜか今だけは妙に怖かった。
 そして怯える私の顔を覗き込み、更に言った。
「で、当然クッキー渡した後は告白したんだよね? どうだった?」
 とんでもないことを言われた。
「ええ!? こ、告白とかそんなの、考えもしませんでしたよ!」
 否定しながらも、自分で顔が赤くなるのがわかる。
「あの、部長、本当にただクッキーあげただけですから! 他の目的とかないですから!」
 いくら弁解しても顔に出た以上はもう駄目だ、誤魔化しようがない。それでも言い訳したくなるのは人間の性というやつである。
 確信を得たらしい部長が意味ありげに目を細め、
「茅野さんはお菓子作りだけじゃなく、恋愛でも詰めが甘いね」
 と言うと、制服のポケットから何かを取り出した。
 小さな紙切れには見覚えがあった。何を隠そう、先日うちの家庭部で製作したばかりの食券だからだ。
 開催まで既に一ヶ月を切った我が校の文化祭において、家庭部ではクッキーを始めとする手作りお菓子の販売を行う手はずとなっていた。その際、簡単なものではあるけど喫茶スペースも設ける予定で、お菓子と一緒に紅茶などの飲み物を提供することに決まった。
 そしてこの食券は、家庭部で喫茶スペースでお茶をいただく際に発行されるチケットである。表面には部長の可愛い手書き文字で『アールグレイ』や『ダージリン』などとプリントされている。
「この食券をあげるから、文化祭で彼を誘ってみたらどう?」
 部長はそう言って、食券を私の手にほぼ無理やり握らせた。
「私も茅野さんの好きな人、見てみたいしね。と言うか連れてきなさい、部長命令です」
「な、何でですか!」
「だって、茅野さんがあんなに頑張ってクッキー作るなんてよほどのことでしょう?」
 口元は笑っているのに、目は真剣だった。気圧されそうだった。
「きっとすごく格好いい人を好きになったんだろうなと思って」
「え……いや、まあ、それは」
 向坂さんが格好いい人なのは認める。でも。
 私が否定しなかったからだろう、
「じゃあそういうことだから」
 念を押すように部長は、食券を押し込まれた私の手にそっと触れた。
 そして、得意げな笑みを浮かべて曰く、
「上手くいったらあのクッキーを『恋が叶うバニラクッキー』として売り出すつもりです」
「なんと!」
「家庭部の売り上げ向上の為にもよろしくね、茅野さん」
 そういうことか。部長の無茶振りの理由がわかり、納得したところで溜息が出た。

 しかし貰った食券をどうするかは悩んだ。
 部活を終えて帰宅してから、一晩中悩んだ。
 私だってロークオリティとは言え女子高生、これまで人を好きになったことが皆無というわけじゃない。これが他人事なら、あんなに毎日練習したクッキーを贈っといてそういうのじゃないとか何事か! と弄りまくっているところだ。
 でも向坂さんは――何と言うか、特別だ。
 ボクシングに真剣に打ち込んでいて、ひたむきで、努力家で、それでいて人にも優しくて勇敢で、クラスの皆を蜂から救ったこともある。
 この間だってバニラエッセンスの件では私が迷惑をかけたのに、私を怒るどころか家まで送ってくれたという人格者だ。
 つまり、向坂さんは本当に格好いい。
 そういう人なんだから、畏怖とか尊敬みたいな気持ちを抱くのは当然だ。
 頭を撫でられたことを思い出して妙にどきどきするのも、一人でいる時にぼんやりと『向坂さん、今頃何してるかなあ』って考えちゃうのも、今までは朝起きるのも面倒で憂鬱でしょうがなかったのに、何か学校に行くのが楽しくなってきたような気がするのも、まあ当然じゃないかな。だって向坂さんは格好いいし、学校に行けば会えるんだから、楽しみにだってなる。
 だから、好きとかじゃない。多分。
 クラスの皆と同じように、憧れているんだ。

 クッキーをあげてからも、私と向坂さんの関係が大きく変わったということはない。
 ただ、気がつけばその姿が目に入るようになっていた。
 朝の登校時、あくびしながら歩く私の数十メートル先に、向坂さんの坊主頭があってはっとした。今時あんな見事な坊主頭は野球部員でもなかなかいないし、あの体格の良さは遠くからでも目につくほどだ。だからこうして数十メートル離れてても気づいて当然だろう。
 追いかけてって声かけようと思っても向坂さんの歩くスピードはめちゃくちゃ速く、私が早足を駆け足にギアチェンジしてもまだ追いつけないほどだ。ようやくその姿を至近距離に捉えた時にはもう、向坂さんは生徒玄関で靴を履き替えようとしていた。
「――お、おは……おはよ、ござ……」
 息が上がって挨拶もできない私を、上履きに爪先を押し入れながら向坂さんが横目で見る。
 当たり前だけど寝癖なんかない向坂さんは、シャツの第二ボタンまで開放して、ネクタイをだらっと緩く結んでいる。半袖から覗く腕は無駄なく引き締まっていて、鍛えてるんだろうなあという感じがする。目つきが鋭く見えるのは三白眼のせいだろうけど、以前ほど怖くは感じなかった。右瞼の腫れは少しだけ引いたようだ。
「おう、茅野か。おはよ」
 向坂さんは素っ気なく応じてから、ぜいぜいと肩で息をする私に気づいてか目を剥いた。
「何だって朝っぱらから全力疾走してんだ、お前」
 私は手で額の汗を拭い、答える。
「いえ、何て言うか、ちょっと走りたい気分だったんすよ」
「夏場でこんな暑いのにか?」
「ええもう、授業に備えてぱっちり目を覚ましとこうと思って」
「そりゃご苦労さんだな」
 私の下手な言い訳に、向坂さんは唇を歪めるみたいに笑った。
 追いかけてきたことに気づかれただろうか。ひやりとする私をよそに、向坂さんは靴箱に投げ込むようにごつくて大きなスニーカーをしまい、蓋を閉じる。
 それからまた私を見て、咎めるように続けた。
「この時期は気温高いんだから、無理して走んなよ。ぶっ倒れんだろ」
「そ……そうっすね。以後気をつけますっ」
 神妙な思いで頷けば、なぜか向坂さんは私の顔をじっと見て、何か言いたそうに少し黙った。
 だけどすぐに、困ったように苦笑してみせた。
「まあ、いいか。あとで水分、ちゃんと取っとけよ」
 心配してくれたのかな。やっぱり向坂さん、優しいなあ。
 私も背筋が伸びる思いで返事をする。
「了解です!」
「しかし元気だな、お前」
 向坂さんは呟いて、私にくるりと背を向けた。
「じゃあまたな、茅野」
 背を向けてから言い残し、一足先に廊下へと歩いていく。坊主頭とその下にある広い肩、広い背中を、私は呼吸を整えながら見送った。
 その姿が曲がり角の向こうへ消えてから初めて、少し寂しいと思った。
 すぐに我に返って、私も靴を履き替える。今更だけどここに他のクラスメイトがいなくてよかった。今の様子を目撃されていたらさぞかし不審に思われたことだろう。
 私と向坂さんの関係が、大きく変わったとは思っていない。
 だけどほんのちょっとだけ、変わったような予感は確かにあった。

 教室にいる時の向坂さんはいつも静かだった。
 別に無口な人というわけでもないのにあまり喋っていないように見えるのは、周囲が騒がしいせいかもしれない。向坂さんはクラスの男子にもてもてで、昼休みにはよく大勢に囲まれていた。特に今は地区予選で優勝した直後だから、まるで戦地から戻り凱旋した英雄のような扱いを受けている。
「向坂さんマジすげえっす! 筋肉触らしてください!」
「俺も俺も! 腕とか触ってみたいです!」
「腕相撲で勝負しましょうよ! 俺が負けたら昼飯奢ります!」
 男子達が騒いで取り囲んでいるその中に、ちらっとだけ向坂さんの姿が見えた。
 一人から腕相撲の勝負を申し込まれ、周囲が酔っ払いみたいに囃し立て始めたので、向坂さんは少し面倒くさそうに腕を出す。
「しょうがねえな。一回だけだぞ」
「あざーす!」
 渋々といった様子の向坂さんと、挑戦者の男子生徒ががっちりと手を組み合い、机の上に肘をつく。
 日頃から鍛えている向坂さんと比べると、クラスの男子なんて畑に立ってるかかしみたいな細腕に見えた。当然そんな腕で向坂さんに勝てるはずもなく、レディ・ゴーの『ゴー』の直後に机へと沈められたその男子はひいひい言いながら教室を飛び出していった。その間、向坂さんは顔色一つ変えなかった。
「さっすが向坂さん完勝じゃないですか!」
 残った男子が讃えるのを、向坂さんは満更でもない様子ながらもやっぱり面倒くさそうに答える。
「いいからお前らも飯にしろよ。昼休みも永遠じゃねえんだから」
 クラスメイトの半数以上から敬語を使われて、畏怖と尊敬を集める向坂さんは、それでも男子達といる時はとても楽しそうだ。特別仲のいい友達はいないようだけど、クラスの誰とでも分け隔てなく話す。私とだってそうだった。
 ただ私は、教室で取り囲む男子達に割り込んでまで、向坂さんに声をかける気にはなれなかった。友達とお昼ご飯を食べながら、時々横目でその様子をちら見するだけだった。幸い、彼らの大騒ぎは教室中の注目の的で、単に見ている分には友達から疑われる心配はなかった。
 向坂さんが振り返って、目が合ったりしない限りは。
「――あ」
 思わず声が出たのは、こっちを見た向坂さんと目が合ったからだ。
 周囲に壁のように立ちはだかる男子達の隙間からこちらに視線を巡らせた後、私を見た。すぐに不思議そうな顔をしていたから、何でこっち見てんだって思ったのかもしれない。
 とっさに息を呑んだ私がまごまごしつつも、ここで目を逸らしたら返って不自然かと思ってぎくしゃく笑ってみたら、向坂さんは半分呆れたような笑みを浮かべた。その笑顔の意味は測りかねたけど、私にだけ向けられたものだというのは確かだった。その後でまた男子達との会話に戻っていった。
 ずっとちらちら見てたの、ばれただろうか。
 別に変な意味で見ていたわけじゃない。でも向坂さんに笑われたら顔が赤くなったようで、あとから友達に心配されて大変だった。
 ちなみに腕相撲で負けた男子が買ってきたお昼ご飯は、コンビニのおにぎりが四個にたらこクリームパスタ、グリーンサラダにフランクフルト二本、それにペットボトルのスポーツドリンクというラインナップで、向坂さんの机には乗り切らないほどだった。
「お前、買ってくるっつったって限度があんだろ。こんなに食えっかよ」
 向坂さんの言葉に買い出しの男子は照れ笑いを浮かべ、他の男子はげらげら笑う。
 とは言えそれでも向坂さんはおにぎりを二個とパスタ、サラダ、フランクフルトを完食していたから、それほど度を越した買い物ではなかったのかもしれない。さすがは向坂さん、いい食いっぷりだ。そういえばあの時のクッキーだってばりばりと音を立てて食べてくれていた。
 あの時、美味しいって言ってくれたけど、文化祭で売り出すって話したら『買いに行きたいくらいだ』って言ってくれたけど、果たして向坂さんは文化祭当日、家庭部まで足を運んでくれるだろうか。
 誘ってもいないのに来てくれるなんてこと、あり得るだろうか。

 放課後、食券をまだ渡していないと打ち明けたら、今度は部長に溜息をつかれた。
「詰めが甘い!」
 一喝されて、私は首を竦める。
「そ、そうですかね……」
「甘いです。あれだけ頑張っといて、何の結果も出せないままでいいの?」
 だから結果と言われても、クッキーを作って渡して食べてもらって、喜んでもらえて誉められた。それが結果だ。他に何かあるはずもない。
 他に何かあったら大事だ。クッキーを渡した以外には何にもしてないんだから。
「クッキー喜んでもらえたからいいんです。それが目的だったんですし」
 私は入れたての紅茶をティーカップに注ぎながら答えた。茶漉しでお茶がらを漉しながら、温めておいたカップを紅茶でいっぱいにする。
 文化祭まであと少し。今日の家庭部では本番に備えて紅茶の入れ方を練習しているところだった。もし向坂さんにご馳走する機会があったら、なんて思うと練習にも熱が入るものだ。
 誘えてないけど。
 と言うか、誘うべきかどうか悩んでいるんだけど。
「あの人だって、クッキーに文化祭にって立て続けに来られたら引くんじゃないかと」
 最後の一滴までしっかりと注いでからポットを流しへ持っていく。部長は私の後ろにぴったりと張りつくようにして、私の練習ぶりを観察していた。
「引くって言うけど、クッキーは向こうから作ってくれって言われたんでしょう?」
 部長はその辺りの事情を大筋で知っている。
「それなら話は簡単じゃない。クッキー作ってあげたんだから文化祭来てね、って言えばいいの」
 ただし事情の全てを知っているわけではないので、私が先生に怒られたお詫びで向坂さんにクッキーを作ってあげたことも、よもや向坂さん相手に『してあげたんだから』なんて恩着せがましいことを言えっこないってことも、そもそもクッキーを作ってあげた相手が向坂さんという校内の超有名人であることも打ち明けられていなかった。
 だから部長の言葉には頷けもせず、私は黙って紅茶の入ったカップを差し出す。
 部長はそれを受け取り、息を吹きかけながら一口飲んだ。
「……うん。合格」
 そしてにんまり笑って、言った。
「これだけ美味しく入れられるようになったんだもん。誘わないのもったいないよ、茅野さん」
 そりゃあ部長の厳しいご指導と、もしかしたら向坂さんに飲んでもらえるかもしれないって思ったら、練習も頑張りたくはなる。
 ただ、ためらいもある。
「このまま何にもしないでいたら茅野さん、ただの『クッキーくれた人』ってだけだよ」
 迷う私の内心を見透かしたように、部長が耳元で囁く。
「今のまま、何にも変わらなくてもいいと思ってるんだったら、それでもいいけどね」
 その言葉を聞いて、私が悩みながら顔を上げた時だ。
 家庭科室の窓から校庭とそれを囲む木々とフェンスの向こう、校舎の外周を駆けていく人の姿が見えた。
 Tシャツにジャージ姿で外周をひた走る、頭に白いタオルをバンダナみたいに結びつけた――あれは、向坂さんだ。坊主頭を隠しているのに、なぜかすぐにわかった。
 七月のまだ明るい空の下、向坂さんは顔を顰め、汗を掻きながら走っている。外の気温はまだ高いはずなのに、今日もひたむきに練習に打ち込んでいるようだ。私がぼうっと見守るうち、向坂さんはあっという間に家庭科室の窓の前を走り抜けていき、やがて見えなくなった。
 向坂さん、今日も練習なんだ。インハイは八月って話だけど、地区予選終わったばかりなのに休んだりはしないんだ。本当にあの人はすごい努力家だ。私なんか全然、足元にも及ばない。
 部長の言う通り、このまま何もしなかったら、向坂さんは永遠に畏怖と尊敬の対象というだけだろう。朝、玄関で顔を合わせたらちょっと話すだけ。教室では話をするタイミングもなくて見ているだけ。もちろん部活は違うし接点もないまま、これ以上何か変わることなんてないだろう。
 私は、本当にそれでいいんだろうか。
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