努力、勝利、バニラクッキー(5)
向坂さんは一時間ほど家庭部にいて、紅茶とクッキーを存分に味わったようだ。「ごちそうさん。長居して悪かったな、そろそろ行くわ」
そう言って席を立った時、満足げな顔をしてくれていたから、ほっとした。
「長居なんてことないっすよ。もっといてくれてもいいのに」
ほとんど本気で言った私に、向坂さんは家庭科室を軽く見回してから苦笑する。
「気持ちは嬉しいけどな。俺がいると、何か空気違うだろ」
向坂さんの滞在中、私以外の家庭部員は始終彼のことをちらちらと気にしていた。
何せ向坂さんは校内の超有名人である。後輩も先輩も関係なく『向坂さん』と呼んで恐れるような人だから、そんな人が紅茶とバニラの香り漂う家庭部の模擬店に現れたことが気になって仕方がないようだ。
特にうちの部長は動揺が激しい。私の誘った相手が向坂さんだったということがよほど驚きだったのか、一時間前から表情は強張っているわ、手は震えているわですっかり平静を失っている。あとで質問攻めだろうな、間違いなく。
「美味かったよ、クッキーも紅茶も。堪能した。ありがとな」
家庭科室の戸口まで向坂さんを見送ると、彼は私にお礼を言ってくれた。
お礼を言うのはむしろ私の方なのに。嬉しさについ口元が緩む。
「いえいえ……あの、私の方こそ、来てもらえて嬉しかったんで……」
私はもじもじしながらそれだけ言うのが精一杯だった。
本当はもっと可愛らしく微笑んで『来てくれて嬉しかったです!』って言いたかったんだけど、何かにやにやしてしまって駄目だった。嬉しすぎて顔面が溶けかかってるのかもしれない。
向坂さんはそんな私を不思議そうに見下ろしている。何を不思議がっているのかはよくわからない。
ただその後で太い首を捻りながらこう言った。
「茅野は今日、ずっと家庭部にいんのか?」
「いえ、ここの当番はお昼までです」
「じゃあその後は? 暇なのか?」
「は……はい、全然暇っす」
何でそんなこと聞くんだろう、と私は思う。そんな聞かれ方されたら期待してしまうではないか。
私の内側で膨らむ期待感が目に見えたんだろうか。向坂さんが目だけで笑って、続けた。
「だったら後でうちの部にも来いよ。校庭で屋台出してる」
「屋台? ボクシング部がですか?」
「おう。俺もこれから行って、延々とベビーカステラを焼く。美味いぜ」
「こ、向坂さんがベビーカステラを……?」
ほんのり甘くてふんわり柔らかいあのお菓子と、坊主頭で三白眼の向坂さん率いるボクシング部はあんまりにもかけ離れてて、ちぐはぐな組み合わせだと思う。イメージしようと四苦八苦する私に、彼は尚も続ける。
「お前が来たらたんまりおまけしてやるよ。絶対来い」
向坂さんに『絶対来い』なんて言われたらそれはもう行くしかない。私は即答した。
「はい。絶対行きます!」
正直、向坂さんがベビーカステラ焼くところも見てみたかったし。
「待ってるからな」
向坂さんは釘を刺すように言うと、家庭科室を出ていった。
私はくるりと回れ右をして、持ち場に戻りながら内心スキップでもしたい気分になる。
向坂さんに誘われちゃった。
絶対来い、だって。
待ってるからな、だって。
何ですかねこれ、期待しちゃっていいのかな。向坂さんもちょっとは私のこと気にしてくれてるとか! もっと一緒にいたいと思ってくれてるとか……だったらいいな! 希望持っちゃおうかな。
思いがけない言葉を貰って、浮かれてにやにやしていると、
「ち、茅野さん、ちょっといい?」
まるで向坂さんが帰るのを見計らっていたようなタイミングで、エプロン姿の部長がすっ飛んできた。私の肩を抱くようにして家庭科室の隅へと連行し、こっそり囁いてくる。
「ねえ、本気なの? 茅野さんの好きな人があの向坂さんだったなんて……」
部長の顔は青ざめていたけど、私は逆に頬がかっと熱くなったようだった。
はっきり人の口から『好きな人』って言われると、やっぱりまだどうしようもなく照れる。
「え、ええまあ……すみません、何か恥ずかしくって言いづらくて」
「本気なんだ……」
恥じらう私を見て、部長は戸惑ったようだ。途端にまごまごし始めた。
「怖くないの? 向坂さんっていろいろ噂にもなってるじゃない」
「え、どんなですか?」
「気に入らない人がいたらすぐ殴るとか、それで何人か病院送りにしてるとか、先生をぶっ飛ばしたこともあるとか……」
「聞いたことないですよ、そんなの」
とんでもない噂に私は仰け反った。向坂さん、そんなふうに言われてるのか。
そりゃあ見た目怖い人だということは否定しない。向坂さんはあの鋭い目つきといい体格のよさといい高校生離れしてて威圧感たっぷりだし、本気で睨まれたら誰でもがくがく震え上がると思う。私だって同じクラスにならなければ『何か怖そうな人だ』と思って遠巻きにしていたことだろう。
でも同じクラスにいれば自然とわかる。向坂さんは怖いだけの人ではない。どんな理由があったって誰かを殴ったり怒鳴りつけたりしない。ぶっ飛ばすところも見たことないし、その腕力のすごさを垣間見たのはクラスの男子から腕相撲の勝負を持ちかけられ、あっさり机に沈めた時くらいだ。
「そんなのデマです。向坂さんが優しい人だってことは、クラスメイトなら皆知ってます」
私は部長に向かって反論した。
「向坂さんが人を殴るどころか、誰かに怒ってみせたところさえ見たことないです」
「本当に? 聞いてた話と全然違うけど」
部長が目を丸くする。
「本当です。向坂さんはクラスでも人気あるんですよ。男子なんて皆くっついて歩いてますし」
お蔭で教室では私の話しかける隙がないほどだ。
とは言え向坂さんが女子にもてても私はすごく困っただろうし、そのくらいなら男子にもてるくらい全然いいんだけど。少なくとも根も葉もない噂が立つよりずっといい。
「あと、私が以前向坂さんを巻き添えにして先生から散々怒られたことがあるんですけど」
私がそう続けると、部長は由々しき事態だというように眉を顰めた。
「ええっ。一体何をしたの、茅野さん」
「えっと、それはこの際置いといてですねっ」
真面目な部長の前で誤解とは言えシンナーがどうこうと話したらえらいことになりそうだ。
「その時も向坂さん、一緒に怒られたのに私のこと責めたりしないで、お説教食らって遅くなったからって家まで送ってくれたんです」
私があまりにも無知だったとは言え、どう考えてもあの時は百パーセント私が悪かった。
それでも、向坂さんは怒らなかった。先生にお説教されたことも、帰りが遅くなってすっかり外が暗くなっちゃったことも、駅前にある私の家まで私を送ったせいで余分に歩かなくちゃいけなくなったことも、何一つとして私を責めなかった。
「私は、そういうとこも含めて、向坂さんって格好いいなって……」
言ってる途中で恥ずかしくなって、ぼそぼそと小声になってしまう。向坂さんのことならもっと語りたい、たくさん自慢できることがあるって思うのに、なぜかどうしても上手く言えない。
部長は丸くしていた目を数回ぱちぱち瞬かせた。それからふっと肩の力を抜く。
「そう、なんだ。茅野さんが嘘つくとも思えないし、じゃあ噂が嘘だったのかな」
「そうですよ。噂なんて当てにしちゃ駄目です、間違ってることもあるんです」
「勉強になりました。ごめんね茅野さん、好きな人を悪く言っちゃって」
私に向かって手を合わせ、部長は深々と頭を下げてきた。
それから顔を上げたかと思うと、軽く微笑んで言ってくれた。
「じゃあ改めて、頑張ってね。向坂さんと上手くいくように」
「え……えへへ、頑張りますです……」
せっかく励ましてもらったのにこんなにでれでれしてちゃ締まらない。
私はもうちょっとこう、恋する乙女的な可愛さを身につけた方がいいかもしれない。せめて大事な局面で顔が緩まないようにせねば。
家庭部の当番を終えてから、私は向坂さんとの約束通りに校庭へと向かった。
校庭には主に運動部が設営した屋台がいっぱい並んでいた。夏場だから野外の屋台はパラソルやテントを張ってその中で行うよう指導されており、校庭は各屋台のテントでカラフルに彩られている。午後一時を過ぎた現在でも客足は衰えることなく、あちこちの屋台には行列ができていた。
美味しそうな匂いがあちらこちらから漂ってくる中、私はボクシング部の屋台を見つけた。オレンジ色のテントの下で頭に白いタオルを巻いた向坂さんが、一心不乱に何かを焼いている。よく見ると彼の手元にあるのはたこ焼き器で、ピックを使って中の生地を器用に引っくり返しているようだった。屋台でたこ焼きを引っくり返す精悍な顔つきの向坂さんは、はっきり言ってめちゃくちゃ様になっていた。
あれ、でもボクシング部ってベビーカステラをやってるんじゃなかったっけ。聞いてた話と違うなと思ってよく見れば、屋台上部には『ベビーカステラ六個百五十円』と手書きの札がかけられている。
ますますよくわからなくて、行列が途切れた頃を見計らい、向坂さんに声をかけてみた。
「向坂さんっ」
カステラの甘い匂いが充満する屋台で、向坂さんが顔を上げる。私を見るなり表情がふっと解けて笑顔になった。
「よう、茅野。よく来てくれたな」
「せっかくお招きいただいてたんで。売れてます?」
「お蔭様でな。もうじき材料が捌ける」
「うわ、それはすごいっすね」
向坂さんの隣では見知らぬ顔の男子生徒が二名、首にかけたタオルで汗を拭き拭きこちらを見ている。ボクシング部の後輩だろうか、二人とも向坂さんより小柄で細身だったけど、腕は筋肉質で引き締まっている。そして、揃って坊主頭だ。
「ベビーカステラ屋なんですよね? それ、どう見てもたこ焼き器っぽいですけど」
私は屋台の前からその中を覗き込む。向坂さんが生地を流し込んでいるのはご家庭によくあるタイプのたこ焼き器だ。ただ生地はなめらかでネギや紅しょうがやたこが入っている様子はない。それに甘い匂いがする。
「これで焼くのが一番手軽だからな。引っくり返すのは手間だけど」
向坂さんはどこか得意げにたこ焼き器を指差す。熱せられた丸い型の中、生地がふつふつと泡を立て始めた。
「こんなんでもかなり美味いぜ。奢ってやるから食ってけ」
「えっ、そ、そんなのいいですよ。お金くらい出しますって」
面食らう私に、向坂さんは値札を指差して苦笑する。
「そんな高いもんじゃねえし、このくらいはごちそうしてやるよ」
どうしようかな。私が迷うと、屋台の中から成り行きを静観していた男子生徒の一人が、向坂さんへ尋ねた。
「向坂さん。もしかしてこちらの方、彼女っすか?」
いやいやまさか何を言うのかね君は。私はどきっとした。
ところが向坂さんはうろたえることもなく、質問してきた男子と私の顔を見比べてから答えた。
「馬鹿、本人の前で聞くな。まだ彼女じゃねえよ」
咎める言葉とは裏腹に、さらりとためらいもせず言い切った。
ただの否定じゃなかった。
まだ、って言った。
それで私はその場に硬直せざるを得なくなり、男子生徒二人は顔を見合わせてから私に向き直る。二人の目はたちまちきらっきらに輝き始め、まるで敬い讃えるような勢いで口々に言った。
「姐さん、俺達からもごちそうしますんで是非是非食べてってください!」
「向坂さんには日頃お世話になってますんでサービスします! 三十個ですか? 四十個行きますか?」
二人は言いながら透明なパックにものすごい勢いで丸いベビーカステラを詰めていく。たこ焼き器で焼かれたカステラはそれなりに大きいから、パックにだってそうたくさん入るものじゃない。でも二人はお構いなしでどんどん押し込んでいくので、私の方がたじろいだ。
「な、何て言うか申し訳ないし、普通でいいよ……」
私が慌てて口を挟もうとすると、ピックでカステラを引っくり返す向坂さんが声を立てて笑った。
「いいから貰っとけ。こいつらも奢りたいっつってんだ」
「でもさすがに私一人じゃ食べ切れないっすよ」
彼らが差し出してきたパックは最早輪ゴムを巻いても口が閉まらないほどぼこぼこに膨れ上がっていた。受け取ったらずしりと重く、ベビーカステラに重量を感じたのは初めてかもしれない。いくら私が甘い物好きでも、こんなに食べられるかどうか。
「なら、あとで一緒に食うか」
向坂さんは相変わらず落ち着き払って、目を細めて笑いかけてくる。
「もうちょいで店じまいだ、それまでその辺で待っててくれ」
こんなの、期待しちゃうに決まっている。
何だか急速に向坂さんと仲良くなれてしまったような気がする。これって希望持っていいのかな。頑張ればどうにかなるくらいの距離だって思ってみてもいいのかな。
私はこくんと可愛く頷こうとしたけど、案の定顔がふにゃっと緩んでしまって、絶対だらしない顔になってたと思う。にやにやしながら頷くしかなかった。