努力、勝利、バニラクッキー(2)
抱いた疑問は寝かせたパン生地のようにむくむくと膨らんだ。普段ならまさか向坂さんに不躾な質問なんてできないんだけど、日の落ちた校舎裏に二人きり、向坂さんがバニラの匂いを嗅ぐ度に黙ると聞こえてくるのは風の音だけだ。暗くて、静かで、並んでしゃがむと立っているときよりも向坂さんとの距離が近い。
そういう状況が、私の口をあっさりと開かせた。
「向坂さんって、そこまでするほどボクシング好きなんですか?」
聞いてしまってから、失礼な質問だったかなと内心焦った。
向坂さんがこちらを向いて、あからさまに変な顔をする。
「そりゃお前、好きでもねえのにトレーニングしたり減量したりする馬鹿がいるか?」
「で、ですよねー……」
愚問でしたすみませんでした。私が謝ろうとすると、それより早く向坂さんが続けた。
「っつうか部活なんて好きでやるもんじゃねえのかよ。お前だって家庭部、好きでやってんだろ?」
「えっ」
なぜかぎくりとして、答えに詰まった。
私が家庭部に入ったのは単にお菓子が好きで、いつも食べられるならいいなと思ったからだ。でも作るの自体が好きなわけじゃないし、部長がやきもきするほど適当にやってきた。入部二年目の今、お菓子作りの技術は驚くほど上達していない。本当にダメダメ部員だった。
私は、家庭部を、好きでやってるんだろうか。
好きならどうしてもっと頑張らないんだろう。向坂さんみたいに。
好きじゃないなら、だらだらといい加減なままで、どうして続けてるんだろう。
「……しかし、ちょっと風強いな。すぐ匂いが飛んじまう」
呆然とする私をよそに、向坂さんがふとぼやいた。
それで私も我に返る。前髪を揺らす夜風は、時々ごうと音を立てて吹きつけた。三階建ての校舎の陰にいるから尚更だった。
「あ、じゃあこれ使います? これなら匂い飛びませんよ」
私は地面に置いといた鞄からスーパーのビニール袋を引っ張り出す。今日のクッキー作りで使った材料を入れてた袋だ。
「これをどうするって?」
「こん中にバニラエッセンス垂らして、すーはーすればいいんすよ」
そう提案すると、向坂さんは一瞬酷く動揺した。
「なっ……お前、それ何かやばくねえか? 見た目が」
「見た目が? いや別にやばくはないと思いますけど」
「そ、そうか。まあ、お前しかいねえし、いいか」
向坂さんは何事か納得したらしく、私からビニール袋を受け取ると、その中にバニラエッセンスを垂らした。
そして袋の口を自分の鼻の辺りに押しつけてから、また微妙な顔つきで私を見る。
「なあ、やっぱこれ……」
「何すか?」
「……いや、何でもねえ」
言葉を濁すなんて向坂さんらしくもない気がしたけど、その後は黙って袋の匂いを嗅いでいたから私も深くは突っ込まなかった。
ちょうどその時、校舎裏に別の人影が現れた。万年ジャージの生活指導だ。
「おいお前ら、こんな時間まで何してんだ――」
サンダルっぽい履き物をぱたぱた言わせながら現れた生活指導は、私達の姿を見た途端、なぜかその場に凍りつく。
「あ、すみませーん。そろそろ帰りまーす」
私が適当に返事をした横で、向坂さんもなぜか凍りつく。
「やべっ」
何がやばいんだろう。だらだら居残ってたのが見つかったくらいで――そう思う私の前で生活指導の顔からさっと血の気が引き、すぐにわなわなと赤くなる。
「お、お、お前らまさか! しかも向坂と――茅野!? お前ら何やっとんだああああ!」
え、何が?
先生がガチ切れした理由もわからずに立ち尽くす私に、向坂さんはうんざりした様子で囁いた。
「だから言ったろ。見た目やべえって」
その後、私達は夜の生活指導室へと連行されたものの、向坂さんが事実をありのままに話してくれたおかげで厳重注意だけで済んだ。
むしろ『紛らわしいことすんなアホか』と叱られた。理不尽だ。
「アンパンなんて食べる方しか知らなかったなあ」
私が思わず呟くと、向坂さんが力なく笑った。
「ま、普通に生きてりゃそうだよな。お前が知ってたら逆に驚くわ」
二人で校門をくぐると、すぐ傍にある街灯の手前で向坂さんは立ち止まる。
「茅野。お前ん家どっちだよ」
振り向くなりそう聞かれて、私は正直に答えた。
「駅向こうの商店街のとこっす。向坂さんは?」
「あ? 俺はいいんだよ別に」
私の問いには答えずに、向坂さんはネクタイをしてない首を竦める。
「こんな時間になったの俺のせいだからな、送ってく。お前、先歩け」
「え……いやいいですよそんなの。ややこしくなったのは私のせいですし」
「いいから。何かあったら寝覚め悪いだろ」
私が断ろうとしても聞く耳持つ気はなさそうで、ちょっとぶっきらぼうに言われた。
「けど俺みてえのと一緒に歩いてたら、また変な誤解受けるからな。後からついてくから、お前は先を行け」
その言葉には思わず絶句した。
さっき怒られたのも向坂さんだけのせいじゃないのに、まるで自分だけ責任負うみたいな言い方をする。
「誤解とか、考えすぎっすよ。方向同じだったら一緒に帰りましょ」
私は彼を誘ってみた。さっきのこと、ちゃんと謝りたかったし。
向坂さんは片眉だけを上げ、私を黙って見つめている。
「クラスメイトなんだし、一緒に帰ったっておかしくないですって」
駄目押しみたいに付け加えたら、ひょいと肩を竦めてみせた。
「そういう心配じゃ……まあ、いいか。帰るか」
それで人気のない夜道を、並んで歩いて帰った。風の強い夜で少し肌寒かったしお腹も空いていたから、お互いちょっと早足気味だった。
「すみませんでした。私のせいで向坂さんまで怒られちゃって」
歩きながらさっきのことを詫びてみたら、向坂さんは私を咎めるように睨んだ。
「お前のせいだって誰が言った? お前なんか誰も疑わねえよ」
「でもバニラエッセンス持ってきたのも袋出したのも私ですし。余計なことしたかななんて」
「そうでもねえよ。妙なことに付き合わせたのも、もともとは俺のせいだ」
言い切った向坂さんはその後で弱々しく笑う。
「減量中は本当にきついからな。匂いだけでもたっぷり楽しめたし、大会まで頑張れそうだ」
「大変、ですよね。減量とか、その上で練習もあるなんて」
「まあな。ぶっちゃけると、何で続けてんだろって思うこともある」
月の光の下だからか、そう言った向坂さんの顔はやけに大人びて見えた。
「それでもやっぱ、好きで始めたボクシングだからな」
「そっか……そうですよね」
私は何だか後ろめたくなる。こんなに一生懸命好きなことに打ち込んでる人の隣で、今日も適当にクッキー焼きました、なんて言えっこない。
もうちょっと頑張った方がいいよね。そう思いかけた私に、向坂さんがふと言った。
「クッキー食いてえ」
ぽつんとした独り言がおかしく思えて、私はちょっと笑った。
「早く食べれるといいっすね。大会、来週でしたっけ」
「作って」
後に続いた言葉にぎょっとした。
私が目を見開くと、向坂さんはにこりともせずにこちらを見る。
「お前家庭部じゃねえか。クッキーくらい楽に作れんだろ」
「えっ……いやいや何て言うか、作れるってほどじゃないですよ!」
「何でだよ。部活の度に作ってるって言ってたろ」
「い、言いましたけどそれは作ってるってだけで、ぶっちゃけ出来の方は……」
「謙遜すんなって。それにさっき、『私のせいで怒られた』っつったよな」
そう口にした時、向坂さんはちょっと得意げな顔をした。
それも言ったけど。その結果、ひび割れた微妙なクッキーなんて出したらどうなるだろうか。売り物にならないと部長に判断された私のクッキーなんて。
私はめちゃくちゃ焦って反論した。
「素直に買って食べた方が絶対美味しいっすよ。私のなんてお薦めしませんって!」
「買うと高いだろ。部活のついでに作ってくれりゃいいんだよ」
「いや、でも、美味しくなかったら悪いですし……」
「美味く作るだろ? 家庭部員だし、俺に迷惑かけたって思ってんだもんな?」
含んだような笑みすら凄みのある向坂さんに、私はもはや言い返すこともできず、沈黙するのみだった。
実際、迷惑かけたのは事実だ。お詫びとしてクッキーを渡すというのは手間の掛け具合といい食べてしまえばなくなってしまう点といい、ちょうどいい落としどころなんだと思う。
だけどそれは上手く、丁寧に作れる人の話であって、私の場合は。
「予選終わったら頼むぜ。期待してっからな」
向坂さんは黙り込む私の肩をぽんと叩いた。
手のひらだけで私の肩口を覆ってしまえるような、大きな手だった。
翌週、向坂さんはボクシングの大会に出場した。
計量も無事潜り抜け、見事に優勝を決めたそうだ。さすがだ。
私はその知らせを聞いた翌日、向坂さんの為にクッキーを焼いた。そして彼のところへ持っていった。
クラスメイトなんだから教室で渡してもよかったのかもしれない。でも何となく気が引けて、放課後に学校近くの公園で落ち合うことにした。
クッキーを携えた私が公園に駆け込むと、向坂さんはベンチに座って私を待っていた。
公園のペンキ塗りのベンチは、向坂さんが座ると随分小さく見えた。でも彼は腰を浮かせて私が座るスペースを空けてくれ、私はその隣に座った。
座ってすぐ、その顔を覗き込んでみた。
「顔、腫れてますね」
向坂さんは右の瞼が腫れ上がっていて、唇の端も切れていて、少し痛そうだ。もっとも本人は気にしたそぶりもなく、平然として答えた。
「こんなん普通だ。大したことねえよ」
口を切ったりしたら念願の好きな物を好きなだけ食べるのに支障があったりしないんだろうか。心配になったけど、本人が平気そうなのでひとまず気にしないようにしておく。
「これ、クッキーです」
私はワックスペーパーで包んだクッキーを差し出した。部長がお裾分けしてくれた赤いリボンで結んである。
「おう」
向坂さんは短く答えてそれを受け取り、手にした瞬間驚いたように目を瞠った。
「温かい。これ、焼いたばかりか?」
「焼きたてです。ついさっき、家庭科室で焼いてきたばかりっす」
「へえ。ってことは今、部活の最中じゃねえのか」
「まあそうなんすけど……部長に言って、中抜けしてきたんで」
私がぼそぼそと説明すると、向坂さんは少しばかり怪訝な顔をしたものの、すぐにクッキーへと関心を移したようだ。赤いリボンに手をかけた。
「開けるぞ」
「どうぞ」
節くれだった大きな手が意外と器用にリボンを解く。ワックスペーパーの中にはきれいな星型に抜かれたクッキーが入っている。文句のつけようがない焼き色で、表面もひび一つなくなめらかだ。
向坂さんは星の一つを指先でつまみ、目の前に掲げてみせた。
「へえ。謙遜してた割にいい出来じゃねえか。いい匂いしてるし、見た目も店で売ってんのと変わんねえぞ」
誉められるとちょっと照れた。
「あははは……どうも」
「さすが家庭部だな。早速食っていいか」
「是非そうしてください」
私は頷く。その為に作ったんだから。
いや、それだけじゃない。その為に練習もした。向坂さんと約束をした翌日、私は大慌てで部長に頭を下げに行った。心を入れ替えて頑張るから、どうかクッキー作りを教えてくれないかと――もうびしばしスパルタでしごいてくださって結構ですと言うと、部長は二つ返事で請け負ってくれ、言葉通りにびしばししごいてくれた。ボクシングの地区予選が終わるまでの数日間、みっちりと練習した。怠けたり手を抜いたりまあいいかっていい加減な気持ちになったりしないよう、自分を戒めながら取り組んだ。そうじゃないと頑張ってる向坂さんにあげられるようなクッキーは、到底作れないと思ったからだ。
おかげで私のバニラクッキーはひび割れもなく、きれいな星の形をしている。
向坂さんはその星を口の中に放り込み、ざくざくと豪快にと噛み砕いた。飲み込んでから感心したように息をつく。
「美味いな、これ。このまま店に出せるレベルじゃねえの?」
「ありがとうございます。文化祭で出す予定なんで、そうだと嬉しいんすけど」
「問題ねえよ。俺も買いに行きてえくらいだ」
そう言うと向坂さんは焼きたてのクッキーを次々に口へ運んでいく。ワックスペーパーの上に一掴み分はあったクッキーの山がみるみるうちに小さくなっていく。美味しいと言葉で言われる以上に、その食べっぷりが出来映えを保証してくれているようで、本当に嬉しかった。
「あの日、茅野がバニラの匂いぷんぷんさせてる時から、食ってみてえなって思ってた」
向坂さんはクッキーを頬張りながら、時々そんなことを言った。
「まさに食いたかった味だよ。我慢してた甲斐もあったってもんだ」
「頑張りましたから」
私は短く答えた。なぜか胸が詰まって、それ以上の言葉が口にできなくなっていた。
向坂さんに喜んでもらいたかった。だから美味しいって食べてもらえて嬉しかった。それだけだ。
なのに今になって、急に恥ずかしいような、苦しいような気持ちになってきた。
「頑張ったのか」
向坂さんが少し笑うのが頭上で聞こえた。
その時にはもう私は顔を上げられなくなっていて、腫れたように熱を持ってる自分の頬に両手を押し当て、じっと俯いていた。
私にクッキーの作り方を教えてくれた部長は、私の急な心変わりを喜びつつも訝しがっていて、ある時こっそり問い質された。
――もしかして、好きな人でもできた?
違う、そんなんじゃない。私は単に向坂さんにお詫びがしたくて、そのついでに喜んでもらいたかっただけだ。自分の好きなことに打ち込んで、頑張って、その為に甘い物も我慢してる向坂さんに、美味しいクッキーを食べさせたいって思っただけだ。今までのいい加減さじゃ駄目だ。私も頑張らなきゃいけないって思った。好きなのはお菓子そのものであって、作ることでも、作って誰かに喜んでもらうことでもなかった。今までは。
そして今の私は向坂さんに喜んでもらったことで、どきどきしたり、赤くなったりしてる。変だ。
黙り込む私の態度に気づいてか、不意に私の頭に、大きな手がぽんと置かれた。
がしがしと髪を掻き回すみたいに私を撫でた向坂さんが、その後で言った。
「ありがとな」
「……優勝、おめでとうございます」
絞り出すような声で私が告げると、もう一回、がしがし撫でられた。
本当に、好きになったとかそんなんじゃないんだけど。
でも今、柄にもなく思ってる。私らしくもないことを。向坂さんがいなかったら考えもしなかったことを。
頑張ってみて、よかった。