努力、勝利、バニラクッキー(1)
焼き上がったバニラクッキーはものの見事にひび割れていた。きれいに星型に抜いたのが台無しだ、と部長には言われた。
「茅野さん、これちゃんと生地寝かせた?」
問い詰められて私は半笑いで答える。
「多分、そのはずなんです」
「多分じゃ駄目だよ。最低一時間って言っておいたんだけどな」
そう言うと部長はふうっと溜息をついて、困ったように笑う。
「これだと文化祭には出せないな。販売するものなんだから、もっと頑張ろうね」
文化祭まであと一ヶ月というこの時期、我が家庭部でもバザー用のお菓子を焼く練習を、連日家庭科室にて行っている。
ところが私のクッキーは上手く焼き上がらない。型を抜くまでは部長のと遜色ない出来に見えたのに、焼いてみたらまるで地割れのようなひびができていた。
香りは問題なくバニラクッキーなんだけど。味も多少もそもそしてる程度で、まあまあいける。
もっとも部長は私のクッキーを食べて、更に渋い顔をした。
「材料はちゃんと全部量ったんだよね? 水分が足りない気がするんだけど」
「一応は……」
「バターは常温に戻した? 混ぜたり捏ねたりする時に手を抜いてない?」
「やったつもりではあるんですけど……」
私が答えると部長はまた溜息をつき、他の部員には笑われた。
「お腹に入っちゃえば一緒ってことには、なんないですよね」
苦し紛れに言ってみたものの、部長は静かに首を振る。
「なりません。売り物なんだから頑張ろうね、茅野さん」
「はーい」
返事はしてみたものの、文化祭まで間に合うか、はなはだ不安ではある。
何せ私は頑張るのが苦手だ。別に努力するの格好悪いなんて言うつもりはないけど、何かをしているうちにふと、こんなもんでいいんじゃないっていい加減な気持ちになってしまう癖がある。今回のクッキーも生地を寝かせる時間を計り忘れて、まあいいかって焼き始めたらこうなった。多分他にも忘れてることがあるような気がする。
とは言え練習用の材料費だってばかにならないし、このまま文化祭に何も出せないっていうんじゃ格好悪い。どうにかしなきゃなって気持ちだけはずっとあるんだけど。
失敗したひびわれクッキーを全部お腹に収めてから、私は部長に挨拶をして家庭科室を後にした。
正直、クッキー自体は普通に食べられた。まあ部長が作ったクッキーの方が見た目もいいしさっくりしてて美味しかったんだけど、私のだって不味いというほどじゃない。ただ売り物としてはてんで駄目だ。あんなの誰も買ってくれないだろうし、そもそも生真面目な部長が出すのを許してくれるはずがない。
「でも、頑張るとか柄じゃないしなあ……」
溜息をつきながら、生徒玄関へと続く渡り廊下に差しかかる。
すると廊下の向こうから、しゃりしゃり言うウィンドブレーカーの上下を着た男子生徒が早足で近づいてきた。めちゃくちゃ体格のいい、その代わり目つきの悪い坊主頭には見覚えがある。うちのクラスの向坂さんだ。
「向坂さん、お疲れ様っす」
私が立ち止まって頭を下げると、向坂さんはこちらに一瞥をくれた後、
「おう」
とだけ言った。
クラスメイト相手なのになんて敬語を使うのかと言えば、それは向坂さんだからに他ならない。うちのクラスの半数以上は彼に敬語を使っている。上級生だって『向坂さん』って呼んでいる。言うまでもなく、怖いからである。
彼はボクシング部に所属していて、去年はインハイに出たそうで、今年も出場を目指しているそれなりに強い選手らしい。腕はそこまで太くない。ただし腹筋とか背筋とかはすごいらしくて、クラスの男子が着替えの度に覗きに行っては睨まれているようだ。あとで『向坂さんマジすげえ筋肉やべえ』と賞賛を込めて噂し合ってるのを聞いたことがある。頭が坊主なのは部活の決まりによるものらしいけど、三白眼とも相まって素人ではないような威圧感がある。
ただ向坂さんが外見に違わず怖いだけの人かと言えばそうでもない。教室にぶんぶんうるさい蜂が侵入してきた時なんかは、ビビるクラスメイトそして先生を尻目に蜂を上手いこと窓際へ誘導し、怪我一つなく外へ逃がすという偉業をやってのけたこともある。あの時の向坂さんは虫達を森へ帰すナウシカのようだったと、我々クラス一同は口を揃えて讃え合った。
そんな調子で畏怖を集めるボクシング部の向坂さんと、特に秀でたところもないダメダメ家庭部員の私に同級生であること以外の接点などない。こうして廊下ですれ違っても挨拶をするくらいだ。
そう思っていたのに、
「……お前、茅野だっけ。うちのクラスの」
一度は私の前を通り過ぎた向坂さんが、眉を顰めながら振り返った。
「そ、そうっすけど」
予想外の行動に、何かまずいことでもしたかととっさに思う。ついつい身構える私の前で、向坂さんはふんと鼻を鳴らした。
「何かいい匂いすんな、お前」
「え? ああ、今まで家庭科室にいたからかと」
言われて私も、自分の制服の袖の匂いを嗅いでみる。そこはかとなくバニラの香りがするような、しないような。これのことだろうか。
「バニラクッキー作ってたんすよ。家庭部で」
私が説明を添えると、向坂さんの目がくわっと見開かれた。
「クッキー!?」
犬歯の尖った口を開け、食いつかんばかりの勢いで聞き返されて、私は思わず一歩下がった。
「は、はい。クッキーです」
答えながら思う。本当に食われるかと思った。
「マジかよ。くそ、いいよな。食いてえなあクッキー」
ぎりっと奥歯を噛み締めながら、向坂さんは唸る。その姿は妙に悔しげだった。
「食べればいいじゃないすか。何だったら今度食べに来ます? うちの部に。部活の度に作ってるんでちょっとくらいなら分けますよ」
私のはひび割れてるけどまあまあ食べれないこともないですし、部長のは本当に美味しいですよ――と続けようとしたところで、向坂さんは坊主頭をゆっくりと横に振った。
「食えねえんだよ」
「え、何でですか」
「減量中」
向坂さんはしゃかしゃかと音の鳴るウィンドブレーカーの袖を振りながら答えた。
「地区予選が来週だから甘いもんとか食えねえんだ。クッキーなんて論外だ」
「へえ、減量って……ダイエットすか?」
よく絞れた向坂さんならどう見てもそんなの必要なさそうだけど、例えば大会前にうっかり食べすぎちゃったりしたのかもしれない。勝手に納得する私に対し、向坂さんはむしろ怪訝そうな顔をする。
「違う。試合前に計量があるからだよ」
「体重量るんですか? 試合する度に?」
そんなの私なら嫌だ。絶対嫌だ。
私が顔を顰めたからか、向坂さんは唇の片側だけを上げて『へっ』と笑った。
「そういうもんだ、ボクシングってのは。知らねえのか」
「もう全然。たまにテレビでやってるなーって知識しかないっす」
「女ならしょうがねえか。ボクシングは体重で階級分かれてっから、そっからはみ出したら失格扱いなんだよ。俺はミドル級だから七十五キロがボーダーラインだ。それ以上増えたら試合ができねえ」
無知の極みたる私にもこうして懇切丁寧に教えてくれるのが向坂さんという人である。決して怖いだけの人ではないのである。
「だから今はぎりぎりまで絞ってるとこだ。甘いもんなんて食えねえよ」
溜息混じりに語った向坂さんは、しかし甘い物に未練があるらしい。ぽかんと立ち尽くす私からせめてバニラの残り香だけでも味わおうとしてか、手で扇ぐようにして匂いを嗅いでいる。そして目を伏せ、しみじみと嘆いた。
「ああ、美味そうな匂い。このバニラの匂いとか堪んねえよなあ」
私はしばらくされるがままになっていたけど、冷静に考えたらすごい状況である。
相手は向坂さんと言えど一応男子だし、こっちはできそこないと言えど一応お年頃の女子高生だ。面と向かって匂いを嗅がれるとだんだん恥ずかしくなってくる。
ましてここは人通りもある渡り廊下、今もすれ違った上級生達が顔を見合わせてひそひそやり出した。
「ど、どうする? 先生呼ぶ?」
「でも向坂さんでしょ? お礼参りなんてされたら――」
それを聞きつけたらしい向坂さんが振り返ると、上級生達は悲鳴を上げ、駆け足で逃げていった。
そして向坂さんは気まずげに私に向き直り、
「悪い。めちゃくちゃ匂い嗅いだりして俺、変質者みてえだな」
「あ、いえいえ、大丈夫っす」
「甘いもん断ちして長えから、匂いだけでもと思ってな。気休めだ」
厳つい顔つきの向坂さんも、憂鬱そうな顔をすることはあるのだと初めて知った。
一体どのくらいの間、甘い物を食べていないんだろう。一ヶ月くらいでも私だったら発狂しちゃうな。もともとお菓子が食べたくて家庭部に入った私は、大会の為に減量している向坂さんがかわいそうになってしまった。
「呼び止めて悪かったな。じゃあ俺、まだ練習あるから」
向坂さんが節くれだった大きな手を挙げた時だ。
普段はぽんこつでしかない私の脳内コンピュータがいきなり唸りを上げて、とてつもないナイスアイディアを導き出した。
「向坂さん、匂いだけ味わうんならいいものがありますよ」
「はあ?」
再び立ち去りかけた向坂さんに、私は密談を持ちかけるが如く声を落とす。
「何なら後で、持ってきやしょうか」
「……いいけど、何のノリだよお前」
悪徳商人を気取る私に、向坂さんは訝しそうに瞬きをした。
ボクシング部の練習が六時で終わるというので、その後で落ち合うことにした。
呼び出したのは月の光だけが差し込む薄暗い校舎裏。この時分になると玄関が閉まり、校舎には立ち入りできなくなるからだ。
「で、いいものって何だよ」
練習後だからか少し疲れた顔の向坂さんは、一応制服を着て現れた。ネクタイは結ばずシャツのポケットに突っ込んでるし、ワイシャツの裾もしまわれてなくて夜風にひらひらしていたけど、もう帰るだけだから問題ないんだろう。
待ち構えていた私は、得意げに鞄から例の品を取り出す。
「これですっ」
「何だこれ」
私が手にした手のひらサイズの遮光瓶を見るなり、向坂さんは顔を顰めた。
「やべえ薬じゃねえだろうな、茅野」
「んなわけないっす。私、普通の女子高生っすよ」
「じゃあ何だよ」
向坂さんが瓶のラベルを覗き込もうと屈んだので、私もよく見えるように瓶を傾けてあげた。
「バニラエッセンス……?」
「知りません? お菓子の香りづけに使う香料です」
家庭部で私が使ってる自前のバニラエッセンスだ。家庭科室に置きっぱにしてたので取ってきた。
バニラの匂いを存分に味わうというならこれしかない。匂いだけならカロリーもないし。
「これ、どうやって使うんだ」
瓶を受け取った向坂さんが持ち上げて底から中身を覗く。
「まず蓋開けてください」
私の言葉に指先でつまむようにして蓋を開け、それから鼻を近づけた。
「お、これは」
唸った向坂さんが、その後でにやりとする。
「美味そうな匂いだ」
「バニラですからね。どうです、これなら思う存分堪能できますよ」
「でかしたぞ茅野。さすがは家庭部員」
「えへへ、それほどでも」
向坂さんに誉められた。普段は足引っ張りまくりのダメダメ部員だけに、ちょっと嬉しい。
「けどこれ、蓋開けっ放しにしてたら駄目だよな」
もっと匂いを嗅ぎたそうな向坂さんが瓶を片手に眉根を寄せる。
「じゃあ、香水みたいに手首につけたらどうっすか」
私が提案すると、
「香水なんてつけたことねえ」
との返答だったので、私が代わりに向坂さんのごつい手首にバニラエッセンスを一滴落としてあげた。
向坂さんは手首を持ち上げてまた匂いを嗅ぎ、うっとりした表情になる。
「はあ……いい匂いだ。早くインハイ行き決めて、好きなもん好きなだけ食いてえよ」
そう呟いた時の彼は、どこか疲れたように笑っていた。
私は月明かりを頼りにその横顔を見ながら、不思議だなと思う。
ボクシングなんてよく知らないけど、好きな物も食べられなくなるような部活を、どうして向坂さんは続けているんだろう。食べられない間も普通に練習はしてるみたいだし、そんなの辛いだけじゃないのかな。
私は努力とか頑張るってことが苦手だから、余計疑問に感じるのかもしれない。
どうして向坂さんは、ボクシングを頑張っているんだろう。