スロースターター------Vivace
ティンパニが好きって言うのは、どう考えたってそのままの意味だろ。雄太は深読みし過ぎだ。何を見てそう思ったのかが全く不明。
あの一連のいざこざが落ち着いてから一週間が過ぎ、表面上、パーカスのパートリーダー殿はいつも通りの振る舞いを見せている。内気そうな印象の割に仕切り屋のところがあって、ポニーテールの髪をゆらゆら揺らしながら、パーカッションパートの後輩たちに細々と指示を出している。
「今日も体育館で練習だから、楽器運んで行ってね。階段は気を付けて」
印刷されたばかりで温かい楽譜を配るパートリーダーに、後輩たちが困ったような声を上げる。
「先輩、曲が多過ぎて覚え切れませんよ。本番までに暗譜出来ないかも」
「うーん、確かに大変だけどね。チャンステーマだけでもしっかり覚えた方がいいよ」
控えめに笑う顔を、俺は楽譜の陰からちらとだけ見た。すぐに逸らす。
野球部の県大会出場も決まり、吹奏楽部も各パートごとに練習の大詰めを迎えていた。
パートリーダーたる者、たかだか一部員とのいざこざで時間を取られる訳にもいかないんだろう。あのいざこざなんてまるで起こってもなかったみたいに、あいつの態度は平然としていた。
「耕太くん、ごめん」
その、パートリーダーの声がする。
楽譜から視線を外すと、控えめな微笑がこっちに向いているのが見えた。見慣れたいつも通りの表情。
「楽譜、間違えて配っちゃったみたい。それ、前にも貰った奴だったでしょ?」
尋ねられてようやく、俺は楽譜の頭に記された曲名を見た。
確かにそうだ、これは既に持っている楽譜だった。譜面見ただけで気付けなかったのはちょっとぼうっとしてたからだ。
真夏の音楽室は暑い。放課後ともなればきつい西日のせいで室温がぐんと上がる。額や掌に汗をかくからハンドタオルが手放せないくらいだった。
「ごめんね、うっかりしてて」
すぐに白い手が伸びてきて、汗を拭く前の俺の手から、重複していた楽譜を攫って行く。
新しい方の楽譜を受け取ると、
「気を付けろよ」
条件反射みたいに言った俺に、返ってきたのは短い言葉だけ。
「うん、ごめん」
ポニーテールの端っこを揺らして、後輩たちのところへ戻って行く後ろ姿を見ると、何とも言えない気分になる。気まずく思ってるのは俺だけ、なんだろうか。
あの諍いは何だったんだろう。結果的には俺があいつを怒らせたはずなのに、少し経つと何事もなかったような態度になった。まさかもう、すっかり忘れられたって訳でもないだろうけど。
扱いの面倒な奴は好きじゃないから、別にどう思われてたっていい。
ただ、写真のことだけは謝っときたかった。もしまだ怒ってるなら、だ。まるで買収するみたいに物で釣ろうとしたことは、悪かったと思ってる。馬鹿にしてるって思われてもしょうがなかった。
そういう話を持ち出そうにも、ああまで平然とされてると切り出しようがない。逆に切り出されるのが迷惑だから、ああしてるのかもしれない。判断に迷う。
大体あいつ、いつから俺のことを名前で呼ぶようになったんだ? 呼んでいいなんて言ってねえのに。いや、誰も彼も勝手に呼んでくるけどな、雄太と区別を付ける為に。だけど――雄太みたいな奴だな、と思う。あいつはそういうとこだけ、雄太に似てるのかもしれない。
切り替えの早さがヴィヴァーチェだ。軽快で素早い。
俺はやっぱりレントがせいぜいで、あいつの態度に慣れてない。むしゃくしゃする気分を抱えて、掌にじっとり汗をかいている。スピードの速い奴にはどうせ敵わないと思っている。
「耕太くん」
また、名前を呼ばれた。
楽譜から視線を上げると、スネアドラムを抱えたパートリーダー殿が、眉根を寄せた表情でこっちを見ている。
「ティンパニ、運んで行かないの? 練習始まっちゃうよ」
気が付くと、音楽室も音楽準備室にも部員が残り少なくなっていた。皆、既に体育館に向かったようだ。俺は少なからず慌てた。
「今行く」
席から立ち上がると、音楽準備室に駆け込んだ。
背後からあいつの声が追ってくる。
「私もこれ置いたら、手伝いに戻ってくるから」
別にいい、とは言えなかった。ティンパニを運ぶのに、いつもパーカスの手の空いてる奴に手伝って貰っている。あいつの申し出だけ断るのも妙な話だ。大体、自分一人で運び切れるものでもないのに。
「毎日、暑いね」
廊下を、ティンパニを運び出しながら歩いている。
先を行くポニーテールが揺れているのを、俺はすっきりしない気分で追い駆けている。
「こう暑いと楽器が大きい人は大変だよね。運搬だけで体力使っちゃって」
「ああ」
話し掛けられて、俺は曖昧に応じる。
会話が弾まないのは以前からだ。わざわざ弾ませる気もなかった。ただ、そのことが妙に気になり始めたのはごく最近だった。
気まずい、と思っている。会話が続かないこと。俺は言いたいことがあるのに、それをなかなか切り出せずにいること。向こうはそれを気にするそぶりも見せないってこと。
「でも、県大会の応援に行けるのはうれしいよね」
ポニーテールがゆらゆらと弧を描く。
振り子時計みたいに左右に揺れる。
「そうだな」
俺は言ってから、そっと溜息をついた。
謝りたい。それだけのことならさっさと言うに限るのに。
上手く言えそうにないのは、こないだの雄太とのやりとりのせいかもしれない。
こいつが俺のことを好きなはずがなかった。そもそも理由がない。部活が一緒でパートが一緒じゃなきゃ話すこともなかったし、そこまで一緒でも、こないだまではほとんど口を利かない間柄だった。今だって同じようなもんだけど。
――もし仮に、あり得ないことだけど、雄太の言った通りだとしてもだ。別に何があるって訳じゃない。俺には知らないふりをする自由も、拒否する自由もある訳だ。だから関係はない。
気まずいのは、やっぱり写真のことだけだ。
あれだけは悪かったと思ってる。引っ掛かっているからこそ、こうやってずっと囚われたみたいに考えてるんだろうし、以前みたいに接することに気まずさを感じるんじゃないだろうか。とっとと謝れるならその方が、やっぱいい。
掌に汗をかいていた。
階段を下り、ティンパニを一階まで運んできて、あとは廊下を一直線に体育館へ向かうだけ。
再び廊下を歩き出し、ポニーテールが揺れるのを見据えながら、俺はやがてぽつりと言った。
「お前さ」
前を行く夏服の細い肩が、一瞬びくっとしたように見えた。
でも振り向かずに、
「なあに?」
声だけが返ってくる。
お互い立ち止まらず、放課後の廊下をゆっくり、ゆっくり歩いている。あいつが先に立ち、俺はその後ろ姿を追うようにティンパニを運搬していた。足音の響く廊下に、他に人気はほとんどない。
「怒ってねえの?」
尋ねると、一瞬息を呑むような間があった。
「……何を?」
「こないだのこと」
説明するのが億劫で、そう告げる。通じるだろうと思った。
今度は、息をつくのが聞こえた。肩が少し下がり、微かな声が続く。
「怒ってないよ」
体育館へと続く渡り廊下が見えてきた。
思わず早口になって、俺は、
「本当に?」
と尋ね。
ちらとあいつが振り向く。表情は窺えない。
「本当に。怒ってもしょうがないことだもん」
「けど、写真のことは……」
怒られてもしょうがない。俺は雄太の写真で、パートリーダーを買収しようとした訳だから。しかも、全く見当はずれな理由で。
ティンパニを運ぶ掌が、汗で滑りそうになる。
きつい西日の射し込む廊下は暑くて、喉が渇いた。声を立てようにもかすれて、上手く言葉にならなかった。
「悪かった」
だから届いたかどうかわからない。
短く、ごく小さく告げたつもりだった。もしかすると溜息にしか聞こえなかったかもしれないけど。
その後で俺は本当に溜息をつき、視線を廊下に落とす。
床の前方で影が止まった。
ゆっくりと揺れ幅が小さくなっていくポニーテールの影。寄り添うようにティンパニの影が伸びている。てかてかした床に、ケトルの銅色をはね返した光を映す。
顔を上げ、夏服の後ろ姿を見たのは一瞬だった。
くるりと振り向いて、ポニーテールの端っこが水平に弧を描く。
じっとこっちを見てくる顔には、何とも言えない表情が浮かんでいた。笑っている訳でも、怒っている訳でもない様子だ。
「怒ってないったら」
言ってきた言葉は、本当なのかもしれなかった。
「大丈夫。わかってるから」
わかってるって、何を。
俺は訝しく思ったけど、尋ね返す気にはならない。とにかくこの気まずさを抜け出せたらそれだけでよかった。吹奏楽部は学校では唯一の居場所だった。ここを失えば他に行くところもなくなる。雄太の言った『吹奏楽馬鹿』って代名詞は、まさしく俺の為にあるものだ。
ようやく見つけた居場所。熱中出来る、打ち込めるもの。失う訳にはいかなかった。
「――ごめん」
意外に、するっと言葉が出た。
上手く、はっきり言えた。
目の前で内気そうな顔が、少し怯えたような顔をした。だけどそれはちょっとの間だけで、すぐに控えめな笑みが返ってくる。頷きも、一つ。
「うん、わかってる。こないだのことは、なかったことにしよ」
なかったこと。
そう言って貰えて、俺はほっとした。
「こんな大事な時期に、喧嘩なんてしてる場合じゃないもんね」
軽い口調で言ってきた後、あいつが踵を返す。ポニーテールの髪が再びくるりと揺れた。そしてこっちを振り返る。
「行こ、耕太くん。今日も練習頑張らないと」
「ああ」
俺は頷いた。
ほっとした。失うものもなく片付いたようだ。ぎすぎすしていた空気が『なかったこと』になって、本当によかった。
こうまですんなり解決したってことは、やっぱ雄太の言ってた話がいい加減だったって意味だろう。ティンパニが好きだっていうのだって、別におかしな意味じゃなかった。ややこしく考え過ぎてたからこじれただけだ。なかったことになったなら、もう深く考える必要もないはずだった。
安心した途端、掌の汗が気になり、俺はハンドタオルを取り出して手を拭いた。その後でポケットにタオルを突っ込んで、ティンパニを運び出す。
ポニーテールの後ろ姿はその時、既に体育館の入り口まで差し掛かっていた。
やっぱり速かった。のろまの俺とは大違いだ。
体育館での練習が終わっても、まだ外は明るく、校内は全体がオレンジがかった西日に包まれていた。
開け放たれた音楽室の窓。吹き込んでくる風はグラウンドの匂いがする。カーテンをゆらゆらさせている。
遠くから野球部の掛け声も聞こえる。金属バットがボールを打つ、甲高い音も。
今日も雄太は遅くまで練習なんだろうか。いつも帰りが遅くなって、ほとんど顔を合わせない日もたびたびあった。今日のことを報告してやりたかったけど、話すのはずっと後になるかもしれない。――まあ、一言で済む話なんだけどな。何でもなかったんだ、ってだけ。
「お疲れ様」
ティンパニを全て準備室に運び込むと、残っていたパートリーダーが声を掛けてきた。練習の後に帰るのは、いつもパーカスが一番最後だ。片付けるのに時間の掛かる大物ばかりだったから。
音楽室にも他の部員たちがちらほら残っているだけだ。準備室にはうちのパートリーダーしかいない。練習前の賑やかさはどこへやら、辺りはしんとしていて、一仕事終えた楽器たちがゆっくり静かになっていく。ティンパニもその仲間に加わって、振動をだんだんと潜めて行った。
マレットを握り続けていた手がべたついた。俺は制服のポケットに手を突っ込みながら、ふと準備室に留まり続けているパートリーダーに尋ねた。
「お前、帰んないの?」
何をするでもなく準備室で突っ立っている。練習終わったんだから、さっさと帰ればいいのに。
こないだの一件を『なかったこと』にしていても、俺にはまだ少しばかり気まずい引っ掛かりが残っていた。切り替えが遅くてのろまなんだ。何事にも慣れるまで時間が要る。
開けっ放しのドアの向こう、音楽室には他の連中もいるけど、目に見える範囲にはポニーテールの彼女しかいない。俺がポケットを探りながら背を向けても、身動ぎする気配すらない。その空気が気まずかった。
「あの、耕太くんを待ってたの」
背後でそう声がして、思わず振り向く。
楽譜の収められたスチール棚を背にした彼女は、いつも通りの、控えめな笑い方をしていた。一歩こっちに踏み出して、白い手がおずおずと差し出してきたのは、見覚えのある柄のハンドタオルだ。
ちょうど、俺のポケットは空っぽだった。
彼女がすぐに帰らず、今まで残っていた用件に気付く。
「これ、耕太くんのだよね」
首を傾げるとそれだけでポニーテールが揺れた。
俺はしょうがなく顎を引く。
「まあな。どこに落ちてた?」
「廊下。ティンパニを片付ける時に落としたんじゃないかな」
そうかもしれない、と思う。夏場は暑くて、掌によく汗をかいた。拭く為にしょっちゅうタオルを出し入れしていたから、その時落としたんだろう。
「悪いな」
タオルを受け取り、俺は頭を下げた。
それから気まずさにかき立てられて、こう付け加えた。
「わざわざ待ってなくても、その辺に置いといてくれればよかったのに」
ティンパニの上にでも乗っけといてくれればきっと気付いた。こんなものの為に残ってて貰ったのは悪い気がした。
「だって」
控えめな笑顔が少し翳った。
「耕太くんが使うんじゃないかと思ったから、どうしてもすぐ渡したかったの」
「いや、使うけど。別にすぐじゃなくても」
「練習の後、いつも手を拭いてるじゃない」
と彼女は、言い訳のように早口で言った。
「マレット持ってたら手に汗かくよね。耕太くんがハンドタオルで手を拭いてるのいつも見てたから、きっと今日も使うだろうなと思って。それに、ティンパニを運んだ後は手も洗ってるでしょ? その時も必要だろうし。だからすぐ渡さなきゃって……」
一気に言われて、俺は思わず苦笑いした。
随分よく知ってやがる。さすがはパートリーダー、って言うべきか? だけどそんな細かいところまで見てなくてもいいのに。いちいちチェックされてるようで恥ずかしい。
「よく見てんだな、お前」
呆れ半分でそう言ってやった。
ちょっと笑いながら、タオルで手を拭く。
「そうかな」
戸惑うような声が返ってきた。
「そうだよ。観察してるみたいに詳しいし。細か過ぎ」
タオルをポケットに突っ込んで、ふと俺が顔を上げた時だ。
気付いた。
彼女の表情からいつの間にか笑みが消えている。
強張った気まずげな顔。視線は逸らされ、床に落ちていた。ポニーテールの髪が動きを止め、じっとしている。
奇妙な沈黙の中で、ぎくしゃくと唇を動かして、彼女は小声でようやく言った。
「そんなこと、ない」
たどたどしい言葉が何を否定したのか、一瞬わからなかった。
でもすぐに気付かされた。
今頃になってようやく。ようやく気付いた。どうして俺のことをそんなによく知っているのか。体育館で初めてまともに話した時、どうしてうれしいと言ったのか。言ってくれたのか。内気なパートリーダーの彼女が、どうしてあの写真を突っ返した時だけ、あんなに怒ってみせたのか。それから、ティンパニが好きだと言った理由も――全部、今浮かべている表情を見た時に、思い当たった。
今更過ぎる。
写真のことを謝った後もずっと、引っ掛かっていたものが、勢いよく解けて行く。そのスピードに俺は圧倒され、呆然としていた。訳がわからなかった。やっぱり、訳のわからない奴だと思った。お蔭でのろまの俺は、気が付くのにさえ時間が掛かり過ぎてしまった。受け止めるのにはもっと掛かりそうだ。
「お前」
発した声が、自分のものじゃないみたいにかすれた。
音楽準備室には窓がない。ここは蒸し暑かった。
「もしかして、俺のこと好きなのか」
質問じゃなかった。答えはもうわかっている。今更だけど。
雄太の言ったことは正しかった。
どうして俺は、ちょっとでも真剣に考えてみようとしなかったんだろう。そうしたらもう少し早く気付けたかもしれないのに。話せてうれしかったって言ってくれたのに。俺の振る舞いを怒ってくれたのに。俺のことを、恐らくずっと見ていてくれたのに。
ろくに口を利く機会もなかった、無愛想で卑屈過ぎる奴を、それでも好きになってくれる子がいたって言うのに。
今更だ、こんなのは。
目の前でポニーテールが揺れた。
「今、気付いたの?」
聞き返してくる声も小さくて、かすれていた。
きゅっと歪んだ表情。眉間に皺を寄せ、唇を噛んでいた。さっきみたいに笑うことはもうなくて、いつものような仕切り屋の口調もどこかに消えて、なくなっていた。
内気さだけを顕著に、彼女の声が震える。
「なかったことにしようって、言ったのに」
前に考えていたことはまるで非現実的だった。実際には、俺は何も出来なかった。知らないふりも、拒否することも出来ない。
彼女の、次の行動は素早かった。踵を返すや否や、ポニーテールがなびいて、その姿は準備室から消えていた。
足音が廊下に響く。速い。とても速い、ヴィヴァーチェのテンポで遠ざかっていく。
一瞬、迷った。
だけど俺は、
「おい、待て! まだ話途中だ!」
廊下に飛び出すと既に距離の開いた後ろ姿が見えた。ポニーテールの髪が向こうに揺れて、離れて行く。それを目掛けてスタートを切る。走り出す。
いつもみたいにのろまじゃいられなかった。今こそスピードを上げる必要があった。
なかったことには出来ない。気付いてしまった以上は、俺はそれを事実として受け止めなくちゃいけなかった。やっと、気付けた以上は。
時間を掛けてようやく見つけた居場所で、俺のことを見ていてくれた子がいたんだって、真剣に考えなくちゃいけないはずだった。
スピードが上がる。
知らないうちに、いつの間にか抑え込んでいた速さを、俺はずっと知らなかった。
距離が縮まって行く。あっと言う間に揺れるポニーテールと夏服の肩がすぐ傍まで来て、次の瞬間、躊躇わずに手を伸ばした。