Tiny garden

スロースターター------Lento

 ノックもなしに、部屋のドアが開いた。
「耕太、部屋入るから」
 部屋に入ってから声を掛けてくるのが雄太のいつもの癖だった。ノックをしろといちいち言うのも面倒で、俺は机に向かったまま手をひらひらさせて応じる。
「漫画借りていい?」
 尋ねた時にはもう本棚を物色し始めてるのも、そう。
 雄太は俺が断らないのを知ってる。俺が何を考え、どう答えるかを既に読んでいる。他人の顔色をさり気なく読むのが上手かった。
 今も、俺がそっちに目を向けた時にはもう、数冊の単行本を抜き出しているところだった。
「野球部の癖にサッカー漫画読むなよな」
 俺は意味のないことを毒づく。
 すると雄太は、真っ黒に日焼けした顔に笑みを浮かべて、
「そんな法律ないし。野球馬鹿は野球漫画だけ読んでなきゃ駄目かよ」
「自分で言うなよ野球馬鹿」
「じゃあ耕太は吹奏楽馬鹿じゃん」
 何が面白いのかげらげらと声を立てる。
 雄太は、だけど知らない。俺が吹奏楽を始めた理由。昔は一緒に『野球馬鹿』だったはずの俺たちが、いつの間にか熱中するものも、居場所さえ変わってしまった理由を知らない。
 複雑な思いはとっくに通り過ぎていた。時間は掛かったけど、何とか慣れた。だから俺は首を竦める。
「折り目つけんなよ。汚したら弁償だぞ」
「わかってるって」
 雄太はごろりと床に横になる。そしてうつ伏せの姿勢で漫画を読み始めた。
 俺が机に向かっててもお構いなし、ってな感じで読書に耽っている。時折、足をばたばたさせながら。
 どこへ行ってもすぐに馴染んでしまうのが雄太だった。ここが俺の部屋でも、まるで自分の部屋のように振る舞う。どこででも、自分の居場所を見つけることが出来ていた。
 夏の大会が近いせいで、野球部の練習が忙しい雄太が、俺の部屋にやってくるのも久々だった。なのにもう溶け込んでしまっている。

 雄太と俺のスピードはまるっきり違った。雄太がヴィヴァーチェなら俺はレント、ぐらいのものだ。俺はのろまで、何をするのでも時間が掛かり過ぎた。野球をやってた頃から、そうだった。
 何だって慣れるのに時間が要った。自分に雄太ほどの才能がないことに気付いて、野球を止めようと思った時も。その屈辱と苦しさを乗り越えるまでやたら時間が掛かってしまった。
 野球を続けている雄太がどんどん頭角を現していくのを横目で見ていた時も。そんな雄太が、屈託なく俺に接してくることにも、慣れるのに時間が掛かった。
 俺と雄太は双子だけど、全く違う人間だ。――その事実にようやく慣れ始めた頃、今度は環境の変化に気付いた。
 雄太の周りには常に人がいた。主に女の子だ。野球部の豪腕エース、しかも性格も社交的とあっては人気の出ないはずがなかった。皆が雄太に向ける視線は常に温かく見えた。
 それを羨む前に、俺のところにも女の子たちが近寄ってくるようになった。但し、こっちは魂胆がみえみえだ。俺を踏み台にして雄太に近付こうってハラが、態度からして見え透いていた。俺は雄太ほど社交的でも何でもなく、そう言った女の子連中を追い払うのが精一杯だった。まだ慣れるどころじゃない。
 けど、いつかはどうにかなるような気がしている。雄太との才能の違い、立場の違いを受け容れられたように、時間は掛かってしまってもそのうち慣れられるような気がしている。
 癪に障るけど、結局どうしようもないことだから、俺は諦めの気持ちでいた。

「吹奏楽って言えばさ」
 不意に、床の上で声がした。
 目を向けると、うつ伏せの姿勢でこっちに背を向けたままの雄太が、漫画のページを捲りながら尋ねてくる。
「耕太、彼女出来た?」
「は?」
 俺は即座に聞き返す。
 文脈が繋がってないし、何だそりゃ。そもそも突拍子もない質問だ。
「いや、こないだ見たから。練習中に」
 雄太は何気ない調子で続けた。
「耕太が体育館で女の子と話してるとこ。一緒にいたの、吹奏楽部の子だろ?」
 体育館、と言われて思い当たる節があった。
 それでも俺は知らないふりをする。あの時の一件、雄太には知られたくなかった。幸い雄太は、俺たちがどんな会話をしてたかは知らないらしい。
「練習終わった後かな。一緒に話してたの見かけた」
 言って雄太は、ちらっとだけこっちを振り返る。
 探るような視線と浮かんだ笑みが、何とも居心地悪かった。余計に本当のことを言い辛い。言わない方がいいに決まってる。
「結構仲良さげに見えたから、彼女かなーって思った」
「誰だよ。どの子だよ」
「ポニテの子」
 ああやっぱり。あいつのことだ。
 あれなら断じて彼女じゃない。あり得ない。だけど、詳しいことを雄太に話せるって訳でもない。
「そんなのいっぱいいるだろ。知らねえよ」
 俺はあくまで知らないふりを決め込んだ。
 なのに雄太は妙に食い付きよく、あいつの話題を続けてくる。
「割と可愛い子だよ。内気そうでさ」
 可愛い……かったっけ?
 俺には訳のわからない、かりかりした子にしか見えねえけど。
「だから知らねえって」
「嘘だろ。耕太と同じ打楽器の子だよ。あの、太鼓叩いてる……」
「太鼓じゃねえよ。スネアドラムだ」
 と応じてから、しまった、と思った。
 俺が口を噤んだ時にはもう遅く、完全に漫画を読むのを止めてこっちを見た雄太が、にやにや笑いを浮かべていた。
「やっぱ知ってんじゃん」
 言われて、俺は渋々認める。
「まあ……な。知ってることは知ってる。けど、別に仲良くねえし」
「何で嘘つこうとしたのかなー、あんなに可愛い子とお近づきになっといて!」
「仲良くねえって言ってるだろ」
 内心では焦っていた。雄太があいつを『可愛い』と評したことについてだ。
 もしかして雄太はああいうのが好みなんだろうか。内気そうなのに変なとこ意地っ張りで勝気な女。妙な好みだけど、もしそうだとすると、まずい。
 他の子について言われたなら考えてやってもよかったけど、さすがにあいつは紹介出来ない。もしも野球馬鹿の雄太に好きな子が出来たんなら、協力してやったってよかった。そうすれば寄ってくるうざったい女連中が悔しがって、こっちの溜飲もちょっとは下がる。
 でも、あいつだけは無理だった。
 だからと言って雄太に、正直に言えるはずもないけど――あいつにはつい昨日、お前の写真を渡そうとして突っ返されたんだ、なんてことは。
 あの写真は誰にも気付かれないよう、さっさとアルバムに戻してしまった。
「今度紹介しろよな」
 気楽な口調で雄太に言われて、俺は返答に詰まった。
「いや……それは、あんまお薦めしないかな」
「は? 何で?」
「何でって、あいつはさすがに……」
 言いよどめば向けられる、雄太の怪訝そうな視線。
 上手いごまかしの台詞も浮かばずに、仕方なく正直に打ち明けた。
「あいつは、その、お前のことが好きな訳じゃないらしいから」
 出来るだけマイルドに告げたつもりだった。
 ところが、一瞬間を置いてから、雄太は目を真ん丸くして、
「え? 何で俺?」
 と尋ね返してきた。
 疑問に思ったのはこっちの方だ。
「お前の話だろ? 今のは」
「違えよ、耕太の話じゃん。耕太の彼女だろ、あの子」
「それこそ違うって。大体、仲良くねえって言ってるし」
「いや、仲良さそうに話してたのを見たぞ、って話なんだけど」
 そう言って雄太は、自分の坊主頭を手で撫でながら、難しい顔を作ってみせた。
「耕太さ、何か誤解してねえ?」
 野球馬鹿が何言ってんだ。俺も訳がわからなくなってきた。
「誤解してんのはそっちだろ? 何で俺が出てくんだよ」
「だって仲良かったのは耕太の方じゃん」
「仲良くねえって。だから、紹介しろって言われても無理なんだよ」
「いや、耕太の彼女じゃないんなら、別に紹介しなくていいんだけど」
 微妙に噛み合わない会話は、そこで一旦途切れた。
 外で虫の声がする、じめっと暑い夜だった。床の上に寝転がった雄太は、こっちを向いているのに俺を見ていない。難しい顔をして考え込んでいる。
 俺は机に頬杖をついて、その姿を見下ろしつつ、どうして噛み合わないのかを考えていた。どう考えても、雄太の奴が誤解してるってことになりそうだったけど。
 大体、あいつが俺の彼女なはずがない。そりゃあ珍しくも『雄太目当てで近付いてきた訳じゃない』女だったけど、だからと言って親しい訳でもないし。訳のわかんねえことばかり言うし、最近は何かと気まずいし、面倒臭そうなタイプだった。同じパーカスじゃなけりゃ、近付きたくもなかった。
 だから少し、ほっとしていた。雄太に是が非でも紹介しろって言われたら、どうしようかと思ってた。
「俺の勘違いかな」
 やがて、雄太が口を開いた。
 機敏な動作で身を起こし、床の上にあぐらをかいて、俺を見上げる視線が訝しげだ。
「ただ、うれしそうに見えたからさ」
「何が? 誰が?」
「あの、太鼓の女の子。体育館で耕太と話してるの見かけた時にさ、何かすっげーうれしそうな顔に見えた訳。きっと耕太と話せてうれしいんだろうなって思ってたんだけど」
「まさか」
 俺は鼻で笑った。だけど雄太は笑わなかった。
「だって耕太、女の子とかに愛想悪いじゃん。きっとまともに話せてうれしかったんだよ」
 言われて俺もふと思い出す。
 まともに会話したのは、あの時が初めてだったかもしれない。意外なほど気安く話せた。ほとんど雄太の話ばかりだったけど、会話も弾んでたような気が、しなくもない。
 そう言や、あいつにも言われてたっけ。話せてうれしかったとか、何とか、そんなことを。
 俺はその言葉を、やっぱり雄太がらみの意味なんだろうと受け取ってたんだ。だからむっとした。同じ吹奏楽部の、同じパーカスのパートリーダーにまでそんなこと言われると思わなくて。
 けど、吹奏楽部は俺の数少ない居場所だった。何としても失う訳にはいかなかった。雄太目当てで擦り寄ってくるような奴は癪に障る。でも、懐柔しとく必要があると思って、あの写真を。
 ――いや、でも結局、写真は突っ返されたんだよな。
 じゃあ、あの時の言葉は本当にそう思ってたってことか?
 まさか。雄太の話しかしてないのに、それでうれしかったなんて他の意味があるものか。そうじゃないなら、やっぱり訳のわかんねえ奴だとしか思えない。
 俺が考え込んでいる隙に、ぼそりと雄太が言った。
「あの子、耕太のことが好きなのかと思ってた」
 あまりに突拍子なくて少し笑えた。どこをどう見たらそういう発想になるのか。
「ないない。いくら何でも飛躍し過ぎだろ」
「他人事みたいに言うよなあ、耕太」
 呆れられたけど、実際他人事でしかないんだからしょうがない。
 俺と話したがる子ってのは大抵、俺じゃなくて雄太の方を見てる。だから俺にとっては何もかも、誰もかもが他人事だった。誰が雄太のことを好きでも、俺には直接関係がなかった。
 でも、あいつは違うんだっけ。雄太のことが好きな訳じゃないそうだ。だったら何なのか、それは俺の知ったことじゃない。
 どれにせよ他人事には違いなかった。
「どんな話した? あの子と」
 雄太に聞かれて、俺はかぶりを振る。
「別に大した話はしてねえよ。あいつ、言ってること意味わかんねえし」
「冷たい言い方するなよ、耕太、あの子嫌いなのかよ」
「嫌いじゃねえけど、苦手だ。ああいう、何考えてんのかはっきりしないのは」
 そこまで言って俺は、ふと、あいつに言われた言葉を思い出した。
 改めて考えてみても、やっぱ訳がわかんねえよな。あの台詞。何考えてんだろ。
「可愛い子だと思ったけどな」
 雄太が悔しそうな声を立てる。
 俺はそこで首を竦めて、
「実際、ああいうのと接してみろよ。相当困惑するぞ」
「そっかな……。何か言われたりとかした?」
「ああ。ティンパニの音が好きだって言ってた」
 教えるのが妙に気恥ずかしかった。そのくらいおかしなこと言われてるんだ。楽器の音が好きだって言われてもな。上手いって誉めてくれるならともかく、お前の好みは知ったことじゃねえよ、と思う。
 俺が正直に打ち明けると、雄太はまた目を丸くする。
「ティンパニって、耕太の楽器じゃん。で、何て答えたんだよ?」
「何言ってんだ、って」
 これも正直に言った。
 そうとしか言いようがなかった。向こうが何を伝えたかったのかまるでわからなかったし、その後で勝手に機嫌損ねられて、あれきり気まずいままだ。でもそこまでは言わないでおく。
 途端、雄太の表情が変わった。
「耕太」
 低い声で名前を呼ばれる。
 眉間に皺を寄せて、じっと俺を見上げる視線が強い。鋭い。
 咎めるようにも、憐れむようにも見える目つきだった。
「何だよ」
 俺が思わず尋ねると、雄太は素早くかぶりを振る。
「やっぱ耕太の方が馬鹿だ」
「お前に言われたかねえよ、野球馬鹿」
「いや、俺は野球馬鹿だけど、耕太は全体的に馬鹿。救いようねえし」
 何でそこまで言われなきゃならない。むっとした。
 けど、上手い切り返し方が見つからなかった。俺は口を噤み、雄太は不機嫌そうに再び漫画を読み始める。そのまま部屋に溶け込むまで、やっぱり時間は掛からなかった。
 雄太にはたくさん居場所がある。俺にはない。自分の部屋さえ、こうして時々いづらくなるくらいだ。
 吹奏楽部の存在は貴重だった。のろまの俺が、ようやく見つけた居場所だった。
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