夢よりも甘く(3)
肌で感じ取れるような空気の変化があった。沈黙の間、俺は雛子を注視していたし、雛子も俺を見つめていた。そうして視線を交わす、ただそれだけのことに喜びを覚える反面、一度気を抜けばたちまちどこまでも落ちていきそうな危うさも抱いていた。
俺はまだその危うさを自覚しているからいい。だが雛子がこの状況をどう捉えているのかは全く読めない。俺を見つめる瞳にはどこか切実そうな光が宿っており、その縋る眼差しが何を求めているのか、かえって読み取りにくくさせていた。
わからない時は聞いてくれと言われたが、だからと言って素直に聞いてしまったら、後戻りはできなくなりそうな気がする。
「……あまり、こっちを見るな」
結局、俺は彼女を忠告のつもりで咎めた。
咎められた方は不服そうだった。
「駄目ですか? きっと減るものじゃないですよ」
「いいや。そんなに見られては穴が開く」
俺を見つめる時の雛子の表情はいつも柔らかく、信頼や労わりや思いやりといった類の温かな感情で満ちている。だがその視線も俺に触れた途端、焼き切れそうなほどの熱量を生むのだから奇妙だ。
熱を持っているのは俺なのか、彼女なのか。未だに判然としないが、彼女のレンズ越しの眼差しに破壊力があることだけは確かだ。
「目で、伝えようかなって思ったんです」
雛子はまるで冗談めかした口調で言った。
「何をだ」
俺が問い返すと、彼女ははにかんで、
「言ったら目で伝えたことになりません。それは、先輩が読み取ってください」
と言い切ってから、意味ありげに口を閉ざす。
俺としても彼女の真意は知りたいところだった。こんなことを無自覚にやっているのなら憎らしくもなるし、わかった上でわざとやっているというなら釘を刺しておく必要がある。
それで俺は雛子の目を見つめ返してみたものの、普段と変わらぬ温かな眼差しから彼女の胸中を探るのは至難の業だった。彼女は相変わらず全幅の信頼でもって俺を見つめているし、その視線を受け止めただけで何かが煙を立てて燻り始める。おまけに彼女の顔は瞳以外も魅惑的なパーツが揃っており、形のいい眉や柔らかそうな頬、小さな耳、それに淡い色の唇といったものに視線が行きがちで、それらを眺めているだけという状態もまた堪えがたく、全く集中できなかった。
結果わかったのは彼女の、以前から変化のない無防備さくらいのものだ。
もっとも、それだけ気を許してくれているのだと思えば悪い気はしない。いくら雛子でも、よその男にこうして自分の瞳を覗き込ませはしないだろう。彼女が伝えたいこととはまさにそれなのかもしれない。
俺は両手を挙げて、彼女に降参のポーズを取った。
「わかった。わかったから、あまり見るな」
「本当にわかりましたか?」
雛子は少し疑わしげに聞き返してくる。小首を傾げたその可愛い仕種に、いよいよ焼き切れそうな予感がする。
「ああ、十分伝わっている。だからもう見なくていいぞ」
俺が自棄になって告げると、雛子は畳み掛けるように言った。
「私は先輩を見ていたいんです」
「本当に穴が開きそうだからやめてくれ」
「大丈夫ですよ。今まで開いたことなんかないですよね?」
「いや、ある」
正直な答えはいくらか彼女を驚かせたようだった。
虫眼鏡が太陽光を集めるように、彼女の視線はいともたやすく俺の理性を炙り、焦がし、焼き切っててしまう。穴が開くだけで済めばいいが、あいにくと俺の忍耐力は不燃物ではなく、非常に燃えやすい素材でできている。
大体、雛子もずっとここにいてくれるならともかく、もう少ししたら帰ってしまうくせに、なぜこういうことをするのだろう。
俺の忍耐力を試すだけ試して、いいところで俺の前から去ってしまって、そうしてこの部屋に静けさと物寂しさを置いていく。そんな未来が見えるようで俺は、今から既に切なくなった。
窓の外は刻一刻と暮れていく。二月はまだ日が短く、電灯の明かりが室内を照らしている。俺は残りの時間を唐突に意識した。
「こう見えても忍耐力は脆い方だ」
そう告げて、立ち上がった。
「先に皿を洗ってくる」
座卓の上に置きっ放しだった皿を重ね、フォークと共に持ち上げる。そのまま台所へ運んでいくと、
「あ、手伝います」
雛子が声をかけてきたので、それはすぐに制した。
「いい。大した量じゃない」
「じゃあお皿を拭くだけでも……」
いいと言っているのに雛子は食い下がり、わざわざ台所までついてきた。俺が振り返ると彼女は先程よりずっとわかりやすい上目遣いでこちらを見ている。
皿が二枚とフォーク二本、たったそれだけ洗うのに手伝いは必要ない。俺は呆れて顔を顰める。
「いいから。お前に手伝わせることなんて何もない」
「先輩の傍にいたいんです」
雛子は、そういう言い方をした。
彼女も同じように思っているのかもしれないと、その時、思った。
「何を……」
俺は言葉に詰まったが、少ない洗い物の為に押し問答をするのも時間の無駄だ。彼女を諭すことにした。
「駄々を捏ねるな、子供じゃあるまいし」
「先輩だって、私を離すつもりはないって言ってくれました」
彼女は彼女で、俺の言った言葉を持ち出しては拡大解釈しようとする。
そんなことを言って困るのは、雛子、お前の方だろうに――内心はおくびにも出さず、俺は駄々っ子に付き合う気分で反論した。
「それは長期的視野での話だ。少しの間くらい待っていられないのか」
まさに子供のように、雛子が唇を尖らせる。
「近くで待っているのは駄目ですか?」
「すぐ戻る、向こうでおとなしく待て」
皿洗い自体はすぐに済む。見ていて面白いものでもないだろうし、こちらとて別に見せたいようなものでもない。俺は雛子に言い聞かせたつもりだったが、食器洗い用のスポンジに手を伸ばしながら横目で窺うと、雛子はまだ台所にいた。
俺の傍らで、まだ言いたいことがあるという顔をして、黙ってじっと俺を見ていた。
彼女は東高校の、あの紺一色のセーラー服を着ていた。上には俺のカーディガンを羽織っていたが、足元は黒いタイツ一枚だ。そのせいで台所の床の上では冷たそうにしていた。
あまり長居をさせるわけにもいかない。そして貴重な残り時間を、俺としてもなるべく有意義なことに使いたい。
「聞き分けのない奴だ」
はっきりと聞こえるようにぼやいてから、俺はスポンジを掴みかけていた手を一旦引っ込めた。
代わりに愛用の腕時計を外し、梃子でも動きそうにない雛子に向かって突きつける。
「ほら」
雛子が怪訝そうに瞬きをする。
手伝いたいと言った割に、何をすればいいのかわかっていないようだった。
「手伝わせてやる。皿を洗い終えるまでこれを持て」
この年季の入った時計に満足のいく防水加工がされているはずもないから、水仕事の際にはいつも外すようにしていた。それ以外に、邪魔になる時にも。
雛子は腕時計をおっかなびっくり受け取った。両手で掲げるようにして持ち、その後で今更のように照れ笑いを浮かべた。
「ありがとうございます、先輩。それと、わがまま言ってすみません」
「全くだ」
俺は彼女の謝罪を受け止め、それから洗い物を始める。
皿を洗いながら、その腕時計の元々の持ち主について考える。
あれは本来、俺の祖父の持ち物だった。詳しい経緯は知らないが澄江さんの手元に長らく保管されていて、祖父が他界した後、形見として譲り受けた。俺はそういうものを欲しいと思っていなかったが、澄江さんが俺に譲りたがっていたので、黙って預かることにした。
俺は祖父のことを、未だにどう思っていいのかわからずにいる。俺にとっては数度口を利いたかどうかという程度の、影の薄い存在だった。だが澄江さんがかつて愛した人であり、あの家に古い本を溜め込んでくれた人であり、俺の不品行極まりない父を育てた人でもある。それらの情報だけでは祖父の人物像はかえって混沌としており、考えたところでわかるものでもなかった。
祖父の腕時計は祖父亡き後も規則正しく時を刻んでいる。そして今、雛子の手の中にある。
古い時計が新しい時を刻み、祖父が知ることもできなかった俺の未来まで計り続けている。今となっては腕時計もここにある時間も、既に俺のものだ。祖父がどんな人間であろうと、父と俺がそこからどんな血を受け継いでいようと、その事実が変わるものではない。
だから俺は、未来に希望を持っていいのだろう。
同じ轍は踏まない。必ず幸せになってやる。
考え事をしながら皿を洗っていると、不意に視線を感じた。気がつけば雛子が俺の一挙一動に、またしても穴が開くほど見入っており、何がそんなに面白いのかと俺は呆れた。
「だから、見るなと言っているのに」
そうこうしているうちに皿洗いは済み、俺は急いで食器を拭いてから棚に片づけた。
そして台所で寒そうにしている雛子を促す。
「ここは冷えるからな。ストーブの前へ行こう」
「はい」
雛子は頷き、思い出したように持っていた腕時計を俺に差し出してくる。
「腕時計、どうぞ」
だが俺はすぐには受け取る気になれず、かぶりを振った。
「それはもう少し、お前が持っていてくれ」
「構いませんけど、いいんですか?」
「ああ。今は時計を見たくない」
残り時間は窓の外の空の色からもおおよそ察することができた。既に夕暮れの色は消え、夜の色をした空が台所の小さな窓越しに見える。
憂鬱な気分を振り切るように、俺は台所を後にする。
それからストーブの前まで辿り着いたところで、雛子がまだ台所で窓を眺めているのに気づき、名前を呼んだ。
「雛子」
呼ばれた彼女は我に返り、急ぎ足でこちらへ舞い戻ってくる。
きっと同じ気持ちでいるのだろうと思う。
ストーブの前で、肩を並べて座った。
残りの時間を一分一秒も無駄にはしまいと、俺たちは自然と寄り添い、見つめ合っていた。
雛子は俺のカーディガンを羽織ったままだ。明らかに大きすぎる黒いカーディガンが、彼女の細い肩には重そうにさえ見える。その下に着ているセーラー服が、隙間からちらりと覗いていた。
「お前の制服姿も見納めか」
俺は呟き、彼女の姿をしげしげと眺める。
三年間眺めてきた雛子の制服姿も、もうじき見られなくなる。入試だ何だと言っているうちに卒業式まであと一ヶ月を切っていた。俺は雛子の着ているセーラー服を画一的で面白みのない、いかにも着せられているような服だと感じていたが、これで最後かと思うと妙に惜しいような気がしてくるのが複雑だった。
どうせならもっとよく見ておこう。そう思い、俺は尋ねた。
「寒くないか、雛子」
「いいえ。ストーブの傍だから、暖かいです」
雛子が控えめに微笑んで答える。
そこで俺は彼女の肩に手を置き、肩口を覆うカーディガンをゆっくりと脱がせにかかった。彼女はろくな抵抗もせずされるがままになっていて、俺が果物の薄皮を剥くようにカーディガンを剥がす間、ぼんやりした顔でこちらを見ていた。
微かな衣擦れの音と共にカーディガンが肩から滑り落ち、両腕を抜いた時、ようやく彼女が反応らしい反応を示した。
今頃になってびくりとして、吐く息を震わせながら言った。
「先輩、あの、急にそういうことされると……」
そう口にした雛子の顔は紅潮しており、目は泳ぎ、声も呼吸も震えている。両手を胸の前で、まるで隠すように握り合わせてみせたので、俺もようやく事態の深刻さがわかってうろたえる羽目になった。
「い、いや、俺はただ制服をよく見ておこうと! それだけだ!」
今はおかしな意図を持っていなかっただけに、雛子のこういう時だけ敏い反応が気まずい。
雛子の方も落ち着かない様子で応じた。
「そうじゃないかな、とは思ったんですけど、でも、私もびっくりして……」
「悪かった。本当に、他意はなかった。下心があって脱がせたわけじゃない」
ひとしきり弁明してから、俺は改めて彼女の制服姿を観察する。
相変わらず面白みのないデザインをしている。紺一色のセーラーに、スカーフの色も紺。胸元のポケットにはクラスと名字が書かれたネームプレートが取りつけてある。こうして見るとセーラー服は思いのほか硬く厚みのある生地でできており、身体の線を拾わないように作ってあるのかもしれないと思う。スカートのプリーツはきれいに整っていたが、座ると膝が堂々と覗く長さというのはどうなのだろう。二年前、一年生だった頃と比べると明らかに短くなっている。それでいて長い髪は生真面目に、普段と同じく二つに束ねている。大学生になったらこういう髪型もしなくなるのだろう。
「さすがにちょっと、恥ずかしいです」
俺の視線を受けて、雛子が恥じ入るように身じろぎをする。
先程あれだけ俺を見つめていた奴がよく言うものだ。俺はすかさず反論した。
「お前だって、さっきは俺をじろじろ見ていたじゃないか」
「見てましたけど……。先輩の目は、何だかくすぐったいんです」
「人のことが言えるのか。俺もあんな目で見られては気が散って仕方なかった」
俺には焼け焦げるような眼差しを向けておいて、文句を言うのがおかしい。いっそこちらも焼き尽くすような目を向けてやろうかと思っていれば、雛子は不思議そうに尋ねてきた。
「制服、好きなんですか」
おかしな質問だった。好きなのは制服ではない。
「ちっともだ。セーラー服なんてどこがいいのか、俺にはわからん」
世の中にはこの手の制服を好む輩もいるというが、俺からすれば東高校の制服、特に冬服は酷い。学生服の黒とセーラーの紺で埋め尽くされた教室はさながら澱んだ薄闇のようで、いつも陰鬱極まりない世界に見えていた。たとえ雛子が着ていても、紺一色のセーラー服が持つ独特の息苦しさは払拭のしようがなかった。雛子にはもっと明るい色が似合っていると思う。
「だが、これを着ているお前を三年間見てきたからな」
俺が制服に対して抱いている印象がどうであれ、これを着た彼女の姿は記憶の中に色濃く残っている。
雛子と出会ってから今日に至るまで、俺たちが過ごしてきた多くの局面において彼女はたびたびこの制服を着ていた。文芸部でほとんど口を利かなかった頃も、頻繁に話をするようになってからも、俺が卒業して、放課後に時々会うようになってからも。
そして陰鬱な色の制服を着ていても、雛子の控えめな微笑には陰りの気配もなかった。いつでも柔らかく、穏やかに俺へと向けられていた。そういう時、俺は彼女を好ましく思った。
思い出をいくつも重ねながら、それでも時は流れていく。
遂に、彼女が東高校を去る日がやってくる。
寂しいばかりではなく、雛子が高校生ではなくなることを嬉しいと思う気持ちも確かにある。だが、名残惜しさもないわけではなかった。
「今日で見納めかもしれないと思うと……複雑だな。お前にはもっと似合う格好がたくさんあるだろうが、これほど数々の思い出が詰まった服もなかなかあるまい」
俺は溜息混じりに呟いた。
「思い出はまだもう少し増えそうですけどね」
そう応じた雛子の声は思いのほか明るかった。彼女なら、卒業することをもう少し感傷的に捉えているのではないかと思ったのだが、まだ実感がないのだろうか。
感傷的になっているのは、俺の方か。
「そうだな。今日で見納めなのは俺だけだ」
言ってから、俺は口を閉ざした。
後に続く言葉が何も浮かばなかった、というのもある。
写真を撮っておこうかと、ふと思いついたせいでもある。
だが少し考えて、写真はやめておくことにした。記念に残しておいたところで、この先の未来で俺が『あの頃へ戻りたい』と思うことはないだろうからだ。俺にはその時その瞬間の雛子がいてくれればいい。写真を撮るならもっと楽しい気分で撮りたいものだと思う。後で振り返った時、二人で笑い合えるように。
雛子も何か思うところがあったのだろう。俺の顔を覗き込みながら言った。
「これからはもっと、似合う服の私を見ていてください。私もそういう服を着て、先輩と新しい思い出を、たくさん作っていきたいです」
「それもそうだ」
全くその通りだ。俺は深く納得し、そして未来を誓う彼女の言葉に幸福を噛み締めた。
ちょうどあの、控えめな微笑がすぐ傍に、手の届くところにある。となれば俺は黙っていられず、彼女の頭に手を置いてそのまま強く抱き寄せた。不意を打たれて呆気なく倒れ込んできた雛子を身体で受け止めた後、俺は額をぶつけるようにして彼女の顔に近づいた。
眼前には雛子の顔がある。まだ事態を把握しきれていない、呆けたような面持ちだった。薄く開いた唇から何かの言葉が紡がれる前に、そっと塞いだ。
彼女の唇に触れたのも本当に久し振りだった。
チョコレートよりも遥かに甘く、心地よい感覚が胸中に広がる。
時期を思えばもう少し待つべきだったのかもしれない。だが、もう待ちきれなかった。彼女が欲しくて仕方がなかった。
唇を離した後、至近距離から目を合わせれば、雛子は未だ混乱の只中にあるのか表情を固まらせていた。その困惑しきった顔つきが可愛くてたまらず、俺は声を立てずに笑った。
それから、彼女を宥めるようにその髪を撫で、心からの思いを囁く。
「お前が欲しい」
そういう言い方をして彼女に通じるだろうか。一抹の不安は、しかしすぐ掻き消えた。雛子はますます困惑の色を深め、頬どころか小さな耳まで熱を持ったように赤くしながら俺を見ていた。その表情を見ているとどうしても、もっと、更に困らせたくなる。
俺は彼女の唇に、今度は指で触れた。指先でつついて感触を確かめた後、くすぐるつもりで指の腹で撫でた。彼女の唇は指先が沈み込むほど本当に柔らかく、彼女全体の柔らかさを想起させた。
雛子は抵抗一つせずに硬直している。もう少し反応してくれたら面白いのだが、これではただ意地悪をしているように思えてくる。彼女とて、あの日の記憶を忘れてしまったわけではないはずだが、何にも知らないそぶりにも見えてもどかしい。
罠を仕掛けるように、俺は彼女に告げた。
「今日も、チョコレートの味はしなかった」
たちまち彼女は肩を震わせ、形のいい眉を逆立て、俺に非難の視線を向けてきた。
「思い出させないでください!」
震えながらも全力で絞り出された抗議の声に、俺は内心少しだけ安堵する。
彼女もあの日の出来事は、かなり克明に記憶してくれているようだった。
「俺ばかり思い出しているのも悔しいからな。巻き添えにしてやりたかった」
まんまと彼女を罠にかけ、俺は内心快哉を叫んだ。
だが残念ながら、今日のところはせっかく捕まえた彼女を解放してやらなければならない。
「そろそろ時間じゃないのか。帰り支度をした方がいい」
そう告げると雛子は、預けていた俺の腕時計に目をやった。
文字盤が示した時刻を見て、残念そうに肩を落とす。
「帰らなくちゃ駄目ですか」
「何を言う、当たり前だ」
俺が帰さないと言ったところで、それを実行してしまえば困るのはお前の方だろう。
なのに、彼女は食い下がってくる。
「でもさっき、私を離さないって」
駄々っ子の口調でまた先の言葉を持ち出してきたから、俺は嘆息した。
「だからそれは長期的視野での話だ。それとも、俺に誘拐犯になって欲しいのか」
脅しが効いたのかどうか、雛子は落胆したそぶりながらも残っていた紅茶を飲み干し、カップを手に立ち上がった。
台所へ向かおうとする彼女を、ふと呼び止めた。
「合格発表はいつだ」
雛子が振り向く。心なしかその時、表情が強張った。
「二十四日です」
「そうか」
あと十日。彼女にとってそれはそれは長い十日間となるだろうが、俺にとっても同じことだ。
早く、結果が知りたいと思う。
どんな結果が出ようとも、彼女の気持ちに寄り添うつもりでいる。
「結果は知らせに来てくれるんだろう?」
俺は彼女に尋ねた。
合否についてはネット上で公開されるから、当日は調べようと思えばたやすく結果を知ることができる。
だが、どうせなら、雛子の口から聞きたい。
雛子はわずかに表情を解き、微笑んだ。
「はい。先輩は、二十四日はお暇ですか」
「空けておく。いざとなったら飛んでくるといい」
俺が告げると、彼女は一層柔らかい面持ちになって、しっかりと頷いた。