夢よりも甘く(2)
二月十四日、俺は予定通りに大学へと出向いた。俺にとってバレンタインデーとは雛子がいなければ成り立たない日であり、一人でいるうちは全く関係のない行事でもある。大学構内も祝日でもない一行事くらいで目に見えた変化があるはずはなく、それらしい光景と言えばせいぜい、廊下で女子に囲まれてチョコレートを手渡されている大槻を見かけたくらいだった。
「ほら大槻、チョコだよ。嬉しいでしょ?」
「ちゃんと渡したからね。来月よろしくね」
「言っとくけど三倍返しが最低ラインだから!」
数名の女子たちが口々に冗談でもなさそうなことを言い、大槻にチョコレートを押しつける。どれもきれいにラッピングされた代物のようだが、受け取る側の大槻は浮かない顔をしていた。
「ありがとう。けど君たち、もうちょい俺が喜ぶような可愛い渡し方してくんない?」
大槻がぼやくと女子たちは途端に笑い合い、
「ないない! 貰えるだけいいでしょ、十分でしょ」
「ってか大槻こそもっと喜べばいいのに、何その微妙な顔」
「じゃ、また練習でね。あと来月、忘れたらキレるから」
そして笑い声を立てながらどこかへと立ち去った。一様に重そうな紙袋を提げているところを見るに、こうして親しい相手にチョコレートを配り歩いているのだろう。女子たちの顔には見覚えのある者もいたので、恐らく楽団の人間だろうと推測できた。
女子たちを見送った大槻は、偶然の目撃者となった俺に気づいたようだ。チョコレートを抱えたままこちらへ駆け寄ってきた。
「鳴海くん、今の見た? 何であの子らは揃いも揃って可愛くない渡し方するんだろうね!」
奴は聞こえよがしに愚痴を零したが、その表情は特に暗くもなく、むしろ楽しげに見えた。
「実は満更でもないんじゃないか」
俺がからかい半分で指摘すると、大槻はむっとしながらも目を逸らす。
「まあ……全く貰えないよりはいいけどさ。でもこれ、全部オトモダチ宛ての義理チョコだよ。見るからにそうだろ?」
義理だとは言うが、悪感情を持った相手の為にわざわざチョコレートを購入してきて手渡す義理などないだろう。これもある意味、大槻が築いた人間関係の産物というわけだ。
「今日のことを気にかけてくれる友人がいるというだけでも、誇りにしていいと俺は思う」
「そりゃそうかもしんないけどさ。俺はそろそろ女の子の友達より、彼女が欲しいよ」
俺の言葉に大槻は首を捻り、すぐにこちらを軽く睨んだ。
「ところで、鳴海くんは? もう貰った?」
「いや」
貰う予定はあるが、問いには正直にかぶりを振った。大槻とは違い、俺は雛子から貰う予定しかない。そしてそれだけで十分だと思っている。
「じゃあ、これから貰う?」
大槻が重ねて尋ねてくる。
その問いには、俺は答えなかった。言わなくてもわかると思ったからだ。
予想通り大槻も察したようで、盛大に溜息をつく。
「いいよなあ。幸せいっぱいの鳴海くんには、義理しか貰えない俺の辛さなんてわかるはずないよ」
しかし俺は去年まで――雛子曰く、厳密には一昨年までということになるそうだが――この行事には縁もゆかりもなかった。俺がバレンタインだの、クリスマスだのといった行事予定に楽しさを感じるようになったのもごく最近のことだ。それまでの人生を振り返ってみれば、俺には今の幸せを堪能する十分な権利があると思う。
「義理チョコが銀のエンゼルだったらいいのにな」
よくわからないことを大槻がぼやく。
俺が無言で目を瞠ると、少しおかしそうにされた。
「知らない? 銀のエンゼル。五枚集めるとおもちゃが貰えるやつ」
「知らない」
「そっか。金だと一枚で貰えるんだよ。だからさ、義理チョコ五個で本命一個と交換できたらいいのにって」
大槻の説明は要領を得なかったが、あれだけ貰っておいて文句ばかり言うものだと思う。
今度は俺が笑って、言ってやった。
「恋愛と友情の価値は全く別物だ。どちらがより優れているということもない。どうせなら片方だけではなく、どちらもある方がいい」
ぽかんとした顔の大槻が抱えたチョコレートを見下ろし、次に俺の顔を見上げる。
「意外だ……」
「何がだ」
「鳴海くんなら、雛子ちゃんと二人だけで生きていける、とか言いそうだと思ってたよ」
そう言われて、俺は首を竦めた。
「確かに、彼女がいてくれれば俺は生きていけると思っている」
「やっぱり」
「でも、他にも大勢いてくれた方がいい。俺はそう思うし、彼女も間違いなく、同じように考えている」
俺は別に、他の誰かから義理と呼ばれる類のチョコレートを貰いたいとは思わない。そういうのは雛子だけでいい。
だが雛子からチョコレートを貰ったか、貰えたかどうか気にかけてくれる相手がいるというのも、悪くないと思っている。
大槻はしばらくの間神妙に黙っていたが、やがてもっともらしい顔で頷いた。
「……そうだね」
それから何を思ったか、抱えていたチョコレートを大切そうに持ち直す。
「じゃあ俺も今年、真の勝ち組を目指そうかな」
「真の……何だって?」
「勝ち組。いや、鳴海くんの話を総合すりゃ、義理も本命も両方貰える奴が一番幸せってことじゃん」
急に息を吹き返したように声を弾ませた大槻が、俺に満面の笑みを向けてきた。
「ってことで俺はこれから、俺に本命チョコをくれそうな女の子を探しに行くよ!」
「当てはあるのか」
考えるより先に思わず尋ねてしまった。
すると大槻は元気よく答える。
「あったらわざわざ探しになんて行かないよ!」
そう、かもしれない。納得しかけた俺に対し、奴が手を振る。
「じゃあ行ってくるね! もし見つかったら報告すっから!」
「ああ……」
俺は奴の威勢のよさに圧倒されてしまい、頷き返すことしかできなかった。
だが、俺もまた同じように気にかけてはいる。頑張って欲しい、と柄にもなく思わなくもない――もう残り半日を切った二月十四日、どう頑張れば大槻の望むものが手に入るのか、俺には皆目見当もつかないが。
とは言え大槻のことだ。奴が築いている広い人間関係の一角には、俺どころか当人も知らないような可能性が眠っているのかもしれない。
補講を終えて部屋へ戻ったのは午後四時過ぎのことだった。
玄関の鍵穴に鍵を差し込むと、施錠してある時とは逆方向に回った。雛子は既に来ているようだ。俺は鍵を引き抜き、ドアを開ける。
玄関から真正面の位置にある居室に雛子はいた。少し薄暗く感じる部屋の中、俺の机の前に立っていた。俺がドアを開けるよりも早く振り返っていたのか、目が合った瞬間ににっこり微笑まれた。
「お帰りなさい、先輩」
久し振りに聞く言葉だった。
帰った先で誰かが俺を待っているということ自体、久し振りだった。
部屋の中はほんのりと暖かく、外の寒さに凍えた身体がゆっくり溶けていくようだ。俺は不思議なくらいに安堵を覚えながら、彼女に向かって声をかける。
「ああ。待たせたか? 遅くなって悪いな」
「いえ、そんなには……」
雛子は笑って否定したが、部屋が暖まっていること、その割に部屋の明かりが点いていないことから、彼女がいつからここにいたのか察しはついた。
俺は靴を脱いで上がり、まず部屋の明かりを点ける。それから突っ立っている雛子に目をやって、制服姿の彼女がその上から見覚えのあるカーディガンを羽織っていることに気づいた。袖も丈も長すぎてぶかぶかの黒いカーディガンは、俺が部屋着として使用していたものだ。
安普請のアパートが断熱性に優れているはずもなく、忍び寄る二月の寒さにストーブだけでは太刀打ちできなかったのだろう。俺は少し申し訳なくなって彼女に尋ねた。
「寒かったのか」
しかし雛子は妙に慌てた。
「ち、違うんです、これは」
恥ずかしいところを見られた、というそぶりで何か考え込み始めたので、何が違うのかと俺は訝しく思う。
そして彼女は苦しげに、言いにくそうに語を継いだ。
「その、ご、ごめんなさい。何と言うかつい着てみたくなったんです」
「は?」
雛子が訳のわからないことを言い出すのも珍しくはないが、それにしてもよくわからない。俺は眉を顰め、雛子はいよいよ進退窮まったというようにまくし立て始めた。
「何か、先輩の服だと思ったら着てみたくなって、あの、実はこっそり椅子にも座ってたんですけど、私、ここに来たのも久々ですしそれにあまり寝てないせいか浮かれてしまって、それで気分が盛り上がっちゃったって言うか……」
俺は一応、彼女の弁明に最後まで耳を傾けた。そうすればもしかしたら彼女の言いたいことが理解できるのではないかと思ったからだ。
だが最後まで聞いてみても、さっぱり理解できなかった。
「意味がわからん」
浮かれたからといって俺の服を着てみたくなった、などと考えるものだろうか。別に、その辺にかけてあった服を勝手に着ようと、椅子に無断で座ろうと雛子なら構わないのだが、それにしても風変わりな浮かれ方をするものだ。
「で、ですよね……」
雛子が口元を引きつらせて笑う。その表情からは確かに寝不足の気配が窺えた。
電話で聞いていた通り、前期試験を終えたからといって受験の重圧から解放されたわけではないようだ。その彼女が済まなそうにカーディガンを脱ごうとしたので、俺は素早く押し留めた。
「寒いなら着ててもいいぞ」
寝不足のところに身体を冷やして、体調を崩しては大事だ。俺は動きを止めた彼女に続けた。
「制服だと冷えるだろう。部屋がちゃんと暖まるまで、そうしているといい」
本当は着せ直してやりたいところだが、帰ってきてまだ手も洗っていない状態で彼女に触れるわけにはいかない。
俺はその後無言で彼女を促し、雛子がおずおずとカーディガンを着直したところで部屋を離れた。まずは手洗いうがいが先だ。それからでなければ、彼女には触れられない。
冷たい水で念入りに手を洗いながら、俺は唐突に緊張を覚えていた。
久し振りだというなら、雛子がこの部屋へやってきたのもそうだろう。
去年の彼女の誕生日以来、久々に彼女とこの部屋で過ごす。
手洗いとうがいを済ませた俺が部屋へ戻ると、待ち構えていた彼女が得意顔で紙袋を差し出した。
「これ、チョコレートです。受け取ってください」
カーディガンの長すぎる袖から指先だけを出して紙袋を持っている。薄いピンク色の爪が、部屋の明かりの下で鈍い光沢を帯びている。
俺は黙って紙袋を受け取り、まず中を覗いた。口を細いリボンで閉じた透明な袋が三つほど入っているようだ。その袋の中身は予想通り、チョコレートの色をした菓子だった。俺はその袋を全て取り出し、座卓の上に並べた。
こうして並べてみる限りでは思った以上にいい出来栄えだった。透明な袋には白いレースの柄が描かれていて美しく、袋の口を閉じたリボンも一つ一つ色を変えていて鮮やかだ。肝心の菓子も紙製のカップにきれいに収められていて、袋越しに覗けばいい焼き色をした菓子の表面に、雪のような白さの粉糖が降り積もっている。
これは、何という名前の菓子だろう。どんな味がするのだろう。
「ありがとう。いい出来だな、店で売っているものみたいだ」
俺が誉めると、雛子はくすぐったそうに首を竦めた。
「皆で作ったからだと思います。わからないところは教えてもらったりして」
三人寄れば文殊の知恵と言うが、それにしてもよくできている。見た目にはチョコレート味のケーキという雰囲気だが、ここまで作るのも簡単なことではないだろう。俺が思わずしげしげと見入っていれば、雛子がくすっと笑った。
「味もすごく美味しいですよ。是非食べてみてください」
確かに、眺めているだけで味がわかるはずもない。作り手の努力を無駄にしない為にも、俺は頷いた。
「そうするか」
「それと、温めてから食べるのがお勧めです」
「わかった」
袋を掴んで立ち上がる。
ついでに飲み物でも用意しようと思い、やかんに水を入れて火にかける。台所に立ってから、俺は彼女を振り返らずに尋ねた。
「お前は紅茶でいいか?」
聞かなくてもいいことをあえて聞いたのは、以前のことを思い出していたからだ。
「はい。お願いします」
雛子の返事はすぐにあった。特に俺の言葉に疑問や訝しさを覚えたそぶりはない。
湯が沸き始める静かな音を聞きながら、やかんの底を舐める青白い炎を眺めながら、俺は浮かび上がる記憶を味わうように繰り返す。
あの日の俺の醜態は今でも思い出す度に赤面してしまうほどだが、同じ日に生じた至上の幸福感や雛子に対する言い表しようのないいとおしさと共に、どうしても忘れがたい大切な記憶だった。あの日から始まったものがたくさんある。それらの全てが今日まで続き、そして日毎に募っては膨れ上がり、俺一人では抱えきれないほどになっている。
またこの部屋に彼女を迎え入れられたことが嬉しいような、気まずいような、余計なことばかり考えてしまって非常に困るような――浮かれていると言うなら、俺の方がよほど浮かれている。
一度、台所から部屋を振り返ってみた。雛子は床に座り、ぼんやりと辺りに視線を彷徨わせている。何か考えているようには見えたが、俺のように思い出しているようには見えない。彼女の方があまり意識していない様子なのが悔しいくらいだった。
いっそ、思い出させてやろうか。
そう思った瞬間、湯が沸いた。俺は火を止め、紅茶とコーヒーをそれぞれ入れる。チョコレート菓子は電子レンジで温め、まず飲み物を向こうの部屋へ運び出してから、二人分の小皿とフォークも用意する。最後に温めた菓子を二つ持っていくと、迎えてくれた雛子が表情を綻ばせた。嬉しそうな顔をしている。
俺はその顔を見つめながら座卓の傍に座り、呟いた。
「チョコレートを食べるのもいつ以来だろうな」
今年に入ってからは初めてだ。正月に会った時、バレンタインデーの話をされたから、しばらく控えるようにしていた。
二人でチョコレートを囲むのは、やはりあの日以来だ。
もっとも、彼女は俺がチョコレートを食べたことを知らない。俺が意味ありげに呟いたところで、その意味を考えもしないことだろう。それどころか俺が食べ始めるのを今か今かと待ちわびているようだったから、ひとまずフォークを手に取った。
彼女が作ったチョコレート菓子は思ったよりも硬く、どっしりとした感触をしていた。フォークを受け止めた生地がゆっくり分断されていくと、中からは溶けたチョコレートらしきものが溢れ、流れ出してくる。温めて食べろと言ったのはこのことだろうか。俺は小皿に広がり始めたなめらかなチョコレートをひとしきり眺めてから、生地を小さく切り、それをたっぷり絡めて口に運んだ。
味はほろ苦く、一口食べた時点でチョコレートの香りが広がった。中に入っていたのはチョコレートをクリーム状にしたもののようで、舌先に絡みつくような、濃厚で深い味わいだった。
俺が菓子を食べる間、雛子は紅茶にも自分の菓子にも手をつけず、穴が開くほど真剣にこちらを見ていた。感想を待っているらしいその表情が可愛らしく、俺は少し笑った。
「心配するな。味も悪くない」
しかし誉めてやればやったで、彼女は非常に驚いた様子だった。目を丸くしてみせたから、俺は少し不満そうな顔を装う。
「どうして驚く。俺の好みに合わせて作ってくれたんじゃないのか」
この苦味のあるチョコレートは、俺が甘い物が苦手であることを考慮した上で作ったものだろう。彼女が俺の為に頭を捻り、より美味い物を作ってくれようとしたことを嬉しく思う。俺もチョコレートは嫌いではなくなったから、こうして美味しく食べられるのが幸せだった。
「そうです、でも、一応チョコレートですからどうかなって」
雛子が恐る恐る答えたから、いい機会だと俺は教えておくことにする。
「別にそこまで嫌いなわけじゃない。甘ったるくなければな」
フォークで生地をもう一切れ拾い、クリームを絡めてまた口に運んだ。深い苦味とは裏腹な甘い香りが、いつぞやの記憶と共に俺を幸せな気分にさせた。
「このくらい苦い方が好みだ。香りだけでも十分甘いから、味は甘くなくていい」
「へえ……そうなんですか」
彼女は意外そうにしながらも、自らも菓子を食べた。甘い物が好きな彼女には少し苦かったのかもしれない。時々渋い顔をしていたが、紅茶と共に味わって食べていた。
「来年も作るつもりなら、こういう甘くないものにしてくれ」
一つ目を食べ終えた俺は雛子にそう告げてから、残り一個となった菓子を取り上げ、迷った。最後の一つはまだ温めていない。今の状態であれば取っておくこともできるだろう。
食べてしまいたい、深く味わいたいという気持ちと、食べてしまってなくなるのは惜しいという気持ちが交錯する。
だが雛子が来年もこういうものを作ってくれるというので、俺は最後の一つを取っておくことにした。そうと決まれば急いで冷蔵庫にしまわなくてはならない。
俺が菓子を庫内に収め、部屋へ舞い戻ると、雛子がふと口を開いた。
「先輩、先輩の欲しい物って何ですか?」
「欲しい物?」
急に何の話だろうと聞き返せば、雛子は好奇心に瞳を輝かせた。
「この間の電話で言ってた話です。バレンタインに欲しい物があるって」
「……ああ」
何を聞くかと思えば。
今、ここでそれを聞くのか。俺は内心が面に出ないよう唇を結び、何も知らない雛子が屈託なく言葉を続ける。
「来年はチョコレートの代わりにそれにしてもいいかなって、思ってたんです。もしよかったら、今のうちに教えてくれませんか。検討します」
俺の意思を最大限尊重してくれるつもりらしい彼女は、果たして優しいのか、それとも勘が鈍くて無防備なだけなのか。両方かもしれない。
俺としては彼女の鈍さにもいい加減慣れてきていたから、逆に困らせてやろうという気にもなる。
無理やり捻じ伏せるように語気を強めて、俺は告げた。
「いや、欲しいのは物じゃない。お前がいい」
効果は覿面だった。雛子が瞠目し、息を呑み、柔らかそうな頬に冬場では考えられないくらいの赤みが差す。心臓の動悸が身体ごと震わせているように身じろぎをした彼女が、たどたどしく声を発した。
「わ……私、ですか?」
うろたえるということは、意味くらいはわかっているということなのだろう。
それがわかっただけでもほっとした。俺は内心ほくそ笑みながら応じる。
「そうだ。来年の今日もお前が傍にいてくれたら、それだけでいい」
欲しい物も望む物も欲張り始めればきりがない。俺もできるなら多くの物が欲しいし、望みは全て叶えたい。だがそういう物を得られる幸せも、得たいと思う真っ当な心も、まずは雛子がいてくれなければ始まらない。
彼女がいてくれれば俺は、生きていけると思っている。
そして彼女がいるからこそ、俺は、欲しい物も望む物も大切な物もあると思えるようになれたのだ。
「私でよければ……」
雛子がためらいがちに口を開く。
一瞬だけ睫毛を伏せた後、真っ直ぐに俺を見て、
「ずっと傍にいます。むしろ私、絶対に離れませんから」
と言った。
その言葉はチョコレートの味よりも、香りよりも甘く俺の胸に溶けた。
「離すつもりもない」
俺も目を逸らさず、彼女の言葉に応えた。
雛子が大きな瞳で俺の視線を受け止める。
見つめ合う俺たちの間に、熱を伴うような沈黙がふと落ちた。